表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

それはあまりに綺麗で儚くて

作者: 麻川要

 その少女は学校のアイドル的存在であった。容姿端麗。品行方正。更には人当たりも良かったため、常に周りには人だかりができていた。

 一方で彼女の在籍するクラスにはある少女がいた。彼女もまた容姿端麗であったが、前者の少女のように品行方正、人当たりの良さはなかった。遅刻・無断欠席はたまた他の生徒とのいざこざも日常茶飯事だ。

 さて、前者はともかく。後者の方にはクラス委員から眼を付けられるのは至極当然だろう。

 今日もまた、クラス委員が後者の少女――神尾渚にとやかく注意をする場面が展開されていた。……その光景を覗き見る。前者の少女――天塚由利の姿もまたあった。


 「何度言ったら分るんだ?神尾――」

 溜息と共にあきれたように……いや、実際あきれて小言をこぼす男子生徒がいた。

 彼の名前は江碕諒。2年4組のクラス委員長である。

 「うるさいよ江碕。私はすごく眠いんだよ」

 彼女は溜息では無く、あくびをしてそう返した。

 彼女の名前は神尾渚。2年4組の問題児だ。

 「いったいお前はいつまで寝てるんだよ……今は4時間目が終わったところ。つまり昼休みだ。社長出勤にも程があるんじゃないか?」

 「悪いね。昨日は夜遅くまで起きてたんだよ。気が付いたら3時近くてさ。とても8時には起きれなかったんだよ」

 「俺なら起きれるぞ?」

 「知らないよ……。じゃ、おやすみ……」

 そう言い残し、渚は机に突っ伏した。その姿を見るなり諒はなにか小さく言葉を漏らしてどこかへ去って行った。

 「うわー神尾さん、また遅刻?よくやるわ」

 「ちょっと引くよね……」

 先ほどの一連のやりとりを眺めていた女生徒のグループがそう呟きあっていた。

 「ね、天塚さんはどう思う?神尾さんのこと?」

 「えっ?」

 急に話を振られた少女……天塚由利は焦った。なにしろ話を聞いていなかったからだ。

 「ごめんね。もう一度言ってくれるかな?」

 ばつが悪そうな顔をして女生徒に再度話をしてくれるように頼んだ。

 「もーしょうがないなー!神尾さんのこと、どう思ってるのって言ったんだよー」

 そっか。ごめんね。そう由利は再度謝罪してから彼女……渚についての事を話し始めた。

 「そうだね……ちょっと近寄りづらい雰囲気があるよね」

 由利が言った途端。すぐさま周りの女生徒から分るー。そうだよねー。という同意の言葉が飛び交った。いつもこうなのだ。由利が何か言うと周りの生徒……囲いともいうべき集団がすぐさま彼女をおだてるような言葉を飛ばすのだ。

 「ははは……」

 由利は軽く苦笑いをした。まさかこんな早く同意の言葉が来るとは思っていなかったのだ。

 「あっ。もうすぐ授業始まるね。みんな戻ろう」

 そう囲いの一人が言い、グループは散って行った。そして一人になった由利は安堵の息を漏らした。

 実際のところ由利は囲いに囲まれる環境を息苦しく思っていた。由利は苦手なのだ。心を許していない人間と接するのが。しかし、いつの頃からだろうか。由利がこのような囲いを形成するようになったのは。

 入学式の時点から彼女は注目の的であった。まるでアイドルのような顔立ちをした彼女は周囲の目を引いた。それは男子はともかく、女子……はたまた教師まで目を奪われていた。

 後日、本格的に高校生活が始まるといなや彼女は多数の生徒に話しかけられた。彼らはその容姿に興味があるだけであった。しかしいざ話をしてみると、彼女は人当たりがよかったため、誰とでも打ちとけた。容姿も良くなおかつ誰とでも話ができる。こんな素晴らしい人間の周囲には誰かしらがいるものだ。そして月日が経つにつれて、彼女の周りにはだんだんと人が増えていった。……彼女の心中を知らずに。

 「……けど、神尾さんは悪くない人だと思うよ……たぶんね」

 ボソっと、誰にも気づかれない大きさで、そう呟いた。

 「……近寄り難い雰囲気か……」

 寝ているはずの問題児は誰にも気づかれない大きさで、そう呟いた。

● 

 放課後。教室にて2年4組のクラス委員長……江碕諒は担任から頼まれた仕事を淡々とこなしていた。

 その職務内容は……クラス内の問題児のリストアップである。渡されたクラス名簿に記載されている名前に印をつけ、別紙に日々の素行などを細かく書くのだ。

 彼はこの仕事を苦手だと感じている。彼が報告した生徒たちは漏れることなく担任に呼び出されて注意を受けるからだ。幸い、この仕事はクラスメイト達には知られていないので恨まれるようなことはないのだが……数人には気付かれているのではないのかと内心怯えている。

 「っと……次は河西か」

 慣れたように印をつけ、紙に日々の素行を書く。そして次の氏名へと目を移す……

 「神尾渚」

 ぼそっと昼に社長出勤をしては机に突っ伏した女生徒の名前を呟く。

 彼はその名前を見るなり動かしていたペンの動きを止め、教室の窓を眺めた。空は赤い茜色だ。

 「さて、どうしたものか」

 彼は悩んだ。『どこから』書けばいいのか。

 「遅刻に居眠り、あと無断欠席、あとクラスメイトとの関係に……」

 彼は逡巡した後、彼女の日々の行いを記していった。

 「許してくれよな」

 そう言う彼の表情はどこか笑っていた。

 「けどこれで少し変わってくれればいんだけど……」

 彼は彼女について書き終わった後に一つ、大きなあくびをした。そして席を立ち窓へと歩み寄った。

 鍵を外して外の空気を吸おう。そして眠気を覚まそう……

 「寒っ」

 季節は秋だ。秋と言っても吹く風は冷たく、身体に突き刺さる。しかしそのおかげで彼は淀んでいた頭をクリアにすることができた。

 窓の外には色んな人間がいた。部活にいそしむ生徒やら友人と話をする女生徒……

 「よし、出しにいくか」

 彼は窓を閉めて自分の席へを戻り、先ほどのリストを鞄に入れた。

 テローン

 彼のポケットからそんな気の抜けた電子音が鳴った。携帯の着信音らしい。

 彼は携帯を取り出し、画面を見る。そこには彼の大事な人の名前と共に一通のメッセージがあった。

 『待ってる』

 彼はその素っ気ない文面に苦笑しながら返信のメッセージを書いた。

 『待ってろ』

 彼もまた、素っ気ないメッセージを返した。

 天塚由利は図書室で本を読んでいた。ここなら誰にも会うことないし、おちつくことができるからだ。

 由利はそもそもゆっくりとしているほうが好きなのだ。決して放課後に誰かと一緒に食事やら買い物に行くということは無い。日中は囲いに囲まれているためこの時間がひどく好きだった。

 「ふぅ」

 彼女は読んでいた本を閉じ天井を見上げた。

 私には好きな人がいる。けれど、その人は私を見てくれてはいない。

 ……さっきまで読んでいた本の登場人物が言っていた台詞だ。柄にもなく恋愛小説を読んでいた。

 なぜか彼女にはその文章が心に刺さった。まるで今の自分を表しているようで――。

 「そろそろ行こっかな」

 彼女は椅子から腰をあげ、本を鞄に入れた。そして出口まで向かう。

 「寒いなあ」

 彼女はそう呟く。周りには誰もいないから、聞こえていない。

 図書室を出て、彼女は迷いなく下駄箱へと向かう。上履きがリノリウムの床を鳴り響かせる。

 図書室から昇降口までの距離はそう長くない。彼女は一日の終わりを噛みしめながらその距離を歩く。

 「もう秋、か……」

 果たして彼と出会ってからもう何日経っただろうか。彼女はそう思った。

 彼女が『彼』と出会ったのは今年の春の頃だ。

 彼女はあの春の出来ごとを回想しながら昇降口へと向かった。

 時は半年ほど遡る。朝の通学途中に彼女は怪我をした。乗っていた自転車の車輪が道路の大きな溝にハマってしまいバランスを崩し、彼女は地面に転倒した。幸いにも大けがという程では無く。足を少し擦りむいた程度だった。

 「痛たたた……」

 彼女は突然の出来事に未だ頭の整理がついていなかった。分っていることは自分が自転車から落ちたことだけだった。身体のあちこちに痛みがあるが、その詳細を確かめるまでには頭が追い付いていない。

 時間は早朝ということもあって周りには人影がなかった。彼女は委員会の仕事があったため朝早くに学校に来なければならなかったのだ。

 ……誰かいないかな?

 いつもなら囲いがすぐさま傍に来て、色々としてくれるのだが今はいない。

 「……って、なんであの子達を期待してるんだろう……」

 あの囲いが苦手なはずなのに。無意識に囲いの存在を望んでいる。

 そんな自分が少し、嫌になった。

 キキーッ!

 ふと、どこからか自転車のブレーキをする音がした。そして間もなく靴でアルファルトを踏む音が聞こえる。

 「大丈夫か!?」

 呆然としている彼女の後ろから今度は声が聞こえた。その声は男性のものだ。

 「立てるか……って天塚じゃないか」 

 その男性は彼女の傍に来るなりそう言った。

 「……江碕くん?」

 彼女は自分の傍にいる男性の正体を理解した。

 江碕諒。彼女と同じ2年4組のクラス委員だ。

 「どう、立てる?」

 彼は彼女にそう訊いた。彼に応えるように彼女はゆっくりと腰をあげた。

 「……っ!」

 しかし思うようにはいかなかった。痛みが走ったのだ。彼女はその原因を確かめるべくその痛みはどこかと探る。見ると、脚に擦り傷ができていた。

 「結構擦りむいてるな……ちょっと待ってろ」

 彼はそう言うなり鞄から消毒液と絆創膏を取りだした。

 「へっ?」

 まるでマジックのような光景に彼女は呆気をとられた。何故、消毒液と絆創膏を持ち歩いているのだろう……。

 「なんで、そんなの持ってるの?」

 思わず彼女はそう訊いてしまった。

 「なんでって……ほら、なにかあった時のためにさ。いつも持ち歩いているんだ。っと……沁みるぞ」

 彼はそう答えた後に、彼女の傷跡に消毒液を一滴垂らした。

 「っ……」

 痛みが走って顔をしかめそうになったが、ギリギリの所でそれは表情にはでなかった。

 「痛くないか?」

 「だ、大丈夫だよ」

 彼女は強がってそう答えた。

 子供じゃないんだから、消毒液ぐらいで痛そうな顔はしないんだから……

 彼女は心の中で、そう呟く。

 「強いんだな。天塚は」

 彼は傷跡に絆創膏を貼りながらそう言った。

 瞬間。彼女は心に何か温かいものを感じた。

 そう、例えるなら……恋心だろうか。

 「あ、ありがとう……」

 果たしてこの気持ちは本当に恋なのか。彼女は自分に芽生えたこの気持ちに戸惑う。

 「どういたしまして。ほら、行こうぜ」

 彼は彼女に手を差し伸べた。

 今度は立てるはず。

 彼女はそう思い、彼の手を握った。すると容易に彼女はまたアスファルトの上に立つことができた。

 「自転車にのるのは……無理そうだな」

 彼は彼女の負っている傷と彼女の自転車の様子からそう判断した。

 「うわ~。結構ヒドいね……」

 彼女は自分の自転車を見るなりそう漏らした。

 まずタイヤがパンクをしていた。結構な衝撃だったので、それは当然とも言えた。

 「車輪が上手く回らないよ」

 彼女は車輪を空転させてみると、それはまっすぐに回るのではなく、左右に大きく振れていた。衝撃でスポークのバランスが歪になったのだろう。これではとてもではないが、上手く走ることは困難だ。

 「ひとまず歩いて行った方がいいな」 

 そう言い、彼は自分の自転車を取りに戻るため後方へと向かった。

 「……ありがとう」

 彼女は彼には聞こえない程度の声で、ボソっと呟いた。

 「おまたせ」

 程なくして彼は自転車を押して戻ってきた。 

 「さあ、行こう」

 そんな彼の姿に彼女は疑問をもった。

 なんで先に行かないのだろう。

 「先に行っていいんだよ?江碕くん、クラス委員の仕事があるんでしょ?」

 「だからってけが人を放ってはいけないよ」

 彼はニコりとそう言い放った。

 ……無意識に言ってるのだろうか。だとしたらそれは相当な天然だ。

 彼女はそう思い、彼のその天然とも言える言動にクスりときた。

 「どうしたんだよ?」

 「ううん、なんでも」

 そっか。と言い、彼は歩き始めた。彼の隣に寄るべく彼女は近づく。

 「クラスには慣れたか?」

 彼は彼女にそう訊いた。

 「う~ん、まだちょっと慣れていないかな。クラスの人ともまだ仲良くなってないし……」

 「けど、天塚の周りには誰かしらいるじゃないか」

 「あれは……仲がいいかどうか分らない人達というか……」

 彼女は囲いについて訊かれて、囲いに対して思っていることを漏らしてしまった。

 「そっか」

 彼は短くそう言った。

 ザザザ……

 辺りは桜並木だ。風に揺られて桜の花びらが雨のように流れていく。

 「春だね」

 彼女はその光景を見て思ったことを言った。

 「天塚はさ。好きな人とかいるのか?」

 彼は視線を桜から彼女に向けるなりそう訊いた。

 「なっ……」

 あまりに唐突な流れに彼女は面喰った。

 それはすごく彼女にとってはタイムリーな話題だった。

 なぜなら、その好きな人はついさっき、出来た。……というより出来かけであった。

 「……顔、真っ赤だぞ?」

 「えっ……?」

 彼女は途端に両手で顔を覆った。それは恥ずかしさゆえにだった。

 「な、なんかごめんな」

 彼はバツが悪そうにそう謝った。

 「いいよ、別に。それより好きな人……か。うん。いるかな」

 彼女は目の前にいる、その好きな人にそう言った。

 「そっか。いるんだ……。」

 彼はどこか悲しげであった。しかし、彼女はその表情を見ることは無かった。

 どうにも彼の顔を直視できないからだ。見たらまた、顔がゆでダコになってしまうような気がして――。

 「ね、ねえ!江碕君にはいないの?」

 彼から振ってきて私だけ恥ずかしい思いをするのは癪だと思い、そのまま彼に返した。

 「お、俺……?」

 途端に彼は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をした。まさか自分に返ってくるとは思わなかったのだろう。

 「そう。……いるの?」

 「……。」

 彼は目線を前方に保ったまま、無言で歩く。そしてしばらくして口を開いた。

 「いるな」

 「~~~っ」

 彼女は途端に頭が真っ暗になったかのような感覚に襲われた。

 まさか好きな人……と言っても先ほどできたばかりだが。その人に好きな人がいるとは。

 「へ、へえ~~。いるんだ」

 彼女は何もないかのように繕ったが、心の内はそうにはできなかった。

 「誰…なのかは教えてくれないかな?」

 彼女はゆでダコになるのを覚悟して彼の顔を見てそう訊いた。

 ……この事は顔を見て訊いたほうがいい。そんな気がしたからだ。

 しかし彼はそんな彼女の事は知らず、ずっと前方を見つめている。

 「流石に言えないよ」

 そして彼はそう返した。 

 「そっかあ……そうだよね。なんかごめんね。変なこと訊いちゃって……」

 「いいよ別に」

 その後はゆったりと通学路を二人は肩を並べて歩いた。辺りには学生たちの姿もチラホラ見える。時間は思っているより早く経っているようだ。

 「サボっちゃったね。お仕事」

 彼女はボソリと呟く。

 「あぁ……そういえばそうだったな。けど、いいよ。たまにはこういうのも悪くないからさ」

 彼はニコリと笑う。彼女はそんな彼の表情にドキリとした。

 「ほら着いたぞ」

 彼は前を指差した。そこは見慣れた校門があった。

 二人きりの時間が終わる――。

 彼女はその事を思うと心に得体のしれない気持ちがわきあがった。

 ううん。違う。これは……やっぱり恋心だ。

 訊かないと……誰なのかは教えてくれないけど、ヒントくらいなら……

 「あっそうだ自転車どうする?駐輪場に置いとこう……」

 「江碕君!」

 間髪いれずに彼女は彼の名字を叫んだ。

 周りの数人の生徒も彼女たちの方に注目する。

 「ど、どうした?」

 彼は面喰ったようで何が何だかといったような表情をしている。

 「あ、あのさ。」

 彼女の表情はゆでダコみたいに赤かった。 

 「な、なに?」

 それに対して彼は困惑一色といった表情だ。

 「ヒント…ヒントだけでいいからさ。教えてよ。その……好きな人のこと……」

 あまりに唐突過ぎる彼女の言動に彼は動揺した。

 「ヒ、ヒント?」

 彼は動揺を落ち着かせる為に彼女の言ったことを整理した。

 「そう。ヒント。ヒントくらいなら教えてくれたっていいでしょ?」

 彼は自分を見つめる彼女の瞳を見た。そこから真剣さがひどく伝わってきた。

 なんで俺の意中の相手の……ヒントを欲しているんだろう。彼はひどく疑問に感じた。

 しかし彼女の真剣そのものと言った瞳の前ではごまかすことも、嘘をつくこともできないと感じた。

 真剣には真剣な姿勢で返そう。彼はそう、思った。

 「そう、だな……その娘は手の届かない所にいるんだ」

 「どう……して?」

 「壁みたいなものがあってさ。それが俺の手を阻むんだ」

 「壁……?」

 「そう。壁。その壁を乗り越えないとな。……じゃ。俺は自転車を置いてくるよ」

 「あっ……うん。ごめんね。急に」

 いいよ。と言い残して彼は二台分の自転車を押して校門の方へと向かった。

 正直。彼女には彼の出したヒントの意味がよく分らなかった。

 いったい誰なのだろうか。壁に囲まれたまるでお姫様みたいな女の子は……

 彼女はそのお姫様を羨ましく思いつつ彼を追った。

 

 そんな。春の日の出来事であった。

 その少女は寒空の下で突っ立っていた。

 吐く吐息は大気に触れるなり白く染まる。

 「もう秋なんだな。……意外と早いな。時間の流れって」

 彼女は手元の携帯の画面に表示されている日付を見た。

 10月12日

 一年もあと二カ月ほどで終わる。

 彼女は流れゆく月日の早さに驚いた。

 以前はこんな風に早く感じることができただろうか。

 『彼』と親しくなってからそう感じるようになったのだろう。彼女はそう思った。

 「って……寒すぎだろ。早く暖まりたいよ」

 その少女……神尾渚は恨めしくそう呟いた。

 その表情はどこか嬉しげであった。

 由利は下駄箱で靴を取り出そうとした時に、下駄箱に紙のようなものが入っていることに気付いた。

 またか。

 由利はそう思った。一度だけじゃない。ほとんど毎日と言っていいだろう。

 由利はその紙を取り出だしの文章を読む。

 「僕は以前からあなたのことが――」

 この時点で由利は読むのを止め鞄に押し込んだ。

 他の女の子は貰って嬉しいのだろうけど、由利にとっては面識のない人間からの好意が恐いのだ。

 心を許していない人間と接するのが苦手なのに、許すどころか全く知らない人間に向けられる好意がいかに恐いか。改めてそう思うと由利は背筋が凍るような感覚にとらわれた。

 「無理……。」

 彼女は得体の知れない好意に向けてそう呟く。そして上履きと靴を履き替えて寒気が支配する屋外へと向かった。

 「うわ……寒い」

 昇降口の扉を開けるなり寒風が彼女に突き刺さった。季節は秋とは言えその風は冬の冷たさを孕んでいる。

 「さっさと帰ろう」

 彼女はそう呟き校門へと向かう途中で一つの人影を見かけた。

 「あれは……」

 肩にかかる程度の髪の毛にどこかご機嫌ななめといったような表情。

 由利がよく知るクラスメイト。神尾渚だった。

 由利は以前から渚の事が気になっていた。周りからは問題児だの言われているが実はそうじゃないんじゃないか……と思うのだ。

 ふと由利は家路へと向けられていた両足を渚の方へと向けていた。そしてその両足は歩みを始めていた。

 最初は単なる興味だった。

 どんな娘なんだろう。何が好きなんだろう。……友達はいるんだろうか。

 そう思ったのだ。

 渚には何故か惹かれるものがあるのだ。その気持ちは恋心とは違うが全く見当がつかないものだった。

 仲良くなりたい。そんな興味だ。

 そして渚に近づくにつれて違う事を考えた。

 それは……渚によく小言なり注意をするまるで教師みたいな男子生徒の事だ。

 彼の事をどう思っているのだろう。

 由利は何度も渚と男子生徒……諒が会話をしているのを見てきた。

 時には口論になることもあったし、一目見ただけで両者の間に険悪な雰囲気を醸し出していることもあった。けれど中には親しげに会話をする場面もあった。

 由利は囲いに囲まれながらもそんな彼らの姿を見てきた。その時の由利の心中は穏やかではなかった。諒が女子と仲良く話をしているからだ。あの中に混ざりたいと幾度と思ったが結局は囲いの中から出れなかった。

 『ごめん。ちょっといいかな。江碕君たちとお話したいから、また今度でいいかな』

 このような感じで囲いに向けて一言言えばよかったのだが、言えなかった。

 もし言ってしまえば囲いからどう思われるか……。

 由利はそう考えてしまったのだ。

 けど今はその囲いもいない。

 渚……あわよくば諒に近づくチャンスなのだ。

 「……神尾さん」

 由利はいつしか渚の近くへと来ていた。

 そして自分の元へと来る由利の存在もまた、渚は気付いていた。

 「……何?」

 渚はいつものような不機嫌そうな顔で由利を見る。

 「な、何してるのかなあと思ってさ」

 由利はあまり知らない人間と会話するのも正直苦手だ。それに加えて渚のどこか威圧的な態度もあって上手く話ができなかった。

 「何って……人を待っているんだけど。それで、私に何の用なの?」

 渚は手に持っていた携帯をポケットに入れ、腕を組んだ。由利を見つめるその目は鋭いものだった。

 「えっとね……その。なんだか神尾さんと話をしたくみたくなってさ」

 由利はそう思っていることを告げた。その途端に渚は驚いたような表情をした。

 「……まさかクラスの人気者が私と話をしたいだなんて……ちょっと変わってるね」

 フフッと渚は笑みをこぼした。その表情を見た由利も彼女同様驚いた表情を作った。

 「えっ?……えっ?」

 「だってさ、クラスのアイドルだの言われてる天塚が私に話しかけるなんてさ。あまりに意外すぎて笑っちゃったよ。ごめんね」

 いつもの話しかけづらい雰囲気はどこへやらと言ったように未だにクスクスと笑う渚に由利は驚くばかりだった。

 ……やっぱり良い人じゃない。ちょっと人と接するのが苦手なだけじゃ……?

 「私、なんか初めて神尾さんの笑っているところを見た気がするよ」

 「確かに……私、いつも険しい表情してるって言われてるもんなぁ」

 その後も他愛のない会話をしているうちに由利の緊張は解けていた。それに比例するように渚の表情も穏和になっていった。

 そして由利は何故渚に惹かれていたのかが分った気がした。

 由利は渚のどこか不器用な所に惹かれていたのかもしれない。由利は普段はその表情や素行故に誰とも……いや、ひとりの男子生徒を除いて他人と接していないのを見てきた。

 けれど今目の前にいる渚は笑いながら話をしている。

 ……普段からこんなふうに皆と接すればいいのにと由利は思ってしまう。

 ……いや、それは私も同じだ。由利はそう思った。

 周りの囲いにも本心から接してはいない。いつも一歩置いた所から接している。

 「そうだ、天塚。江碕を見なかった?」

 「えっ?」 

 物思いに耽っていた由利は渚のその急ともいえる質問に驚く。

 「江碕……くん?」

 「そう。ウチのクラスの委員長様。ちょっと用事があってね」

 まったく面倒だと溜息と共にそう渚は小言を漏らした。

 ……用事とは何だろうか。

 「多分、江碕君ならどこかであのリストを作っているんじゃないかな」

 由利は諒がクラスメイトに内密で作っているあのリストのことを知っていた。とはいえ、リストのことはもうクラス内では有名であった。諒は多分そのことに気付いていないだろう。 

 「そうか……あれか。余計な事を書いてなきゃいいんだけど」

 まいったといった表情で渚は斜め上の空を見上げた。

 「ねえ、神尾さん」

 「ん。何?」

 渚は視点を由利に戻した。

 「江碕君に用事って……何かな」

 つい、由利は訊いてしまった。

 気になってしまうじゃないか。意中の相手が他の女の子と会うだなんて。

 「何って……ほら、この前の古典の課題あっただろ。各クラスの委員長がクラス全員分集めて提出ってやつだよ。私まだ出してなくてさ。確か期限は今日までだったでしょ?」

 「ああ……あれね」

 由利は内心ホッとした。まさかこの後デートに行くとかだったら心中は荒れ模様だっただろう。

 ……もっと深く訊いてみたい。いつしか由利の中でそんな考えが浮かんだ。

 「神尾さんはさ、江碕君の事どう思っているの?」 

 そう言った数秒後にさすがに訊きすぎたと我ながらに由利は思った。同じクラスとはいえほぼ初対面みたいなものなのに。

 「……おいおい急だな。まさか天塚がこんなキャラとは思わなかったぞ」

 「そう?私、意外とこういう強引なキャラなのかも……で、どうなの?」

 「……そうだな。やっぱり口うるさいって印象しかないな。ほら、いつも何かにつけて私に何か言ってくるだろ?」

 「それは神尾さんに少し問題があるような……」

 ボソっと由利はそう呟いた。

 「なんだって?」

 「ごめーん」

 えへへとバツが悪そうに由利は謝る。その表情を見た渚は溜息をついた。

 「……なんだか私の中で天塚のクラスのアイドル的キャラのイメージが崩壊しているよ」

 「……私、あんな華やかなキャラじゃないんだよ。本当はちょっと性格が悪くて……」

 「それに関しては現在進行形で思い知らされているよ」

 「ははは……ねえ、もっと江碕くんのことどう思っているか教えてよ」

 「そんなにアイツの事が知りたいの?天塚も結構物好きなんだね……」

 そう言った渚の言葉に由利はどこか引っかかった。そして、その引っかかりの原因は程なくして分った。

 「(……天塚『も』?)」

 これはどういうことだろう。『も』ってことはやっぱり神尾さんも彼のことが……?

 「口うるさいだなんて言ったけどアイツ、あれはあれで面倒見がいいし、それに話していると意外と楽しい。正直悪い印象はあまりないんだ」

 そう語る渚の表情はどこか楽しげだった。

 「へえ……そうなんだ。私もちょっと江碕君と話してみたいな」

 「提出物忘れたり遅刻すると話しかけてくるぞ?やってみたら?」

 ふふふと笑いながら由利にそう言った。

 「……いじわるだなあ」

 「さっきのお返しだよ」

 そう渚が言うなり由利もまたつられて笑った。

 「天塚はさ、そうやってニコニコ笑っている方が似合っているよ」

 渚は由利の笑う表情を見て思ったことを言った。

 「え?」

 由利は渚のその言葉に困惑した。

 「なんかさ、普段の天塚がクラスの奴と話している所を見てるとなんだか心から楽しそうな表情をしていないなって前から思ってたんだ。けど今の天塚は違うような気がする。……って私個人の感想だからアレなんだけど」

 由利は渚の言葉に驚きを隠せなかった。由利は渚のことも見ていたけど、まさか渚も由利のことをみていたことにだ。

 「そ、そうかな……でも確かに今、神尾さんと話していてすごく楽しいよ」

 その気持ちは本当だった。

 「実は私も神尾さんはいつも冷たそうな雰囲気を持っているなと思ってたんだ。けど、今の神尾さんは違う。……私個人の感想だけど」

 由利は渚の言葉を受けて自分も渚に思っていたことを言った。

 「そうだな。今はなんかさ、あったかいだろ?…ってなんだか恥ずかしいな」

 そう渚が言うなり二人の顔から笑いがこぼれた。

 「私たち、なんでもっと早くお話しなかったんだろうね」

 「本当にな。天塚がこんなに馬鹿な娘とは思わなかったよ」

 「ひっどーい!」

 「ごめんごめん」

 秋の夕暮れに二人の笑い声が響く。その姿は友人同士と言うべきものだった。

 「……私たち、いい友達になれそうだな」

 渚は由利にそう言った。

 「そうだね」

 由利もまたそう返した。

 「それにしても暗くなってきたな。今は何時なんだ……」

 渚はポケットの携帯を取り出して時刻を確認した。

 「5時45分か……そろそろ帰った方がいいんじゃないか」

 「もうそんな時間なんだね……もっとこうしていたいけど、お母さんたちが心配するからそろそろ帰らなきゃ」

 「明日また話せばいいだろ?私たち、もう友達なんだからさ」

 そうだろといった表情で渚は見つめる。

 「……うん!そうだよね!また明日話せばいいんだよね!」

 由利は嬉しかった。この学校に来てから初めて心から笑えたような気がしたからだ。なにより友達と言える存在ができたから――。

 「さてと、じゃあね。渚!」

 由利はそう、友達の名前を言い家路へと向かう方へと足を揃えた。

 「ばいばい、由利。」

 渚も目の前の友達の名前を言い別れのあいさつをした。

 「ふふふ」

 由利は満足な表情をして家路へと向かっていった。

 「帰りに夕食の材料買わなくちゃ。たまには商店街のスーパーでいいかな」

 由利はそう呟いた。

 「失礼しました」

 諒は作成したリストを担任に提出し、職員室から出た。諒はこのクラスメイトを売ったような後味の悪さが嫌だった。

 「そろそろ行かないと怒るだろうなぁ」

 歩きながら左腕にある腕時計を見る。時刻は5時40分を表示していた。

 「やっばいな。もう二時間近く待たせてるよ。こりゃうるさいぞ……」

 諒は駆け足で昇降口へと向かった。ここからの距離はそう遠くは無いが仕方ない。

 程なくして昇降口へと辿り着き、下駄箱から靴を取り出し履きかえる。そして屋外へと出た。

 「……暗い」

 諒はすっかり暗くなった空を見るなり呟く。秋とは言え日の入りが早くなったことを感じた。

 「さてと、どこかな……っと」

 諒は辺りを見渡した。部活が終了して帰宅の途に就く生徒が溢れる中、その姿をすぐ見つけることが出来た。そしてその人影に向かって駆け寄った。

 「悪い。遅くなった」

 「……遅いよ。もう二時間近く経ったんじゃないか?」

 その人影……神尾渚は悪態をついた。予想していたとはいえ、やはりご機嫌な斜めだ。

 「ごめんごめん。仕事が溜まっててさ。早く帰ろうぜ?」

 「そうする。」

 そして二人は肩を並べて歩き始める。

 「寒くなかったか?」

 「寒いに決まってるでしょ。二時間近く外にいたんだからさ」

 「……中に居ても良かったんだ。」

 「中にいたら諒のことを見つけられないだろ」

 「……お前って本当に不器用だよな」

 「……うるさい」

 「悪かったよ。商店街の肉屋のコロッケで手を打つからさ」

 「許す」

 そんな会話をしながら二人は校門を抜け、商店街へと歩みを進めた。

 校門を出るとそこは街路樹が並ぶ道になっている。もうすっかり辺りは暗いため街灯が灯りを灯している。

 「なんかいいことあったのか?ずっと笑顔だけど」

 諒は渚が先ほどからずっと満足げな表情をしているのが気になった。いつもは険しい表情ばかりしているから珍しかったのだ。

 「ちょっとね。友達ができたんだ」

 そう言い、渚は数十分前の出来事を諒に話した。

 「へえ、天塚と渚がねえ」

 「意外だった?」

 「そりゃそうだろ。なんか気が合わない感じがするからさ」

 「私もそう思ったよ。けど話してみると意外と楽しかったんだ」

 「……良かったな」

 「なにがだよ」

 「いやほら、話せる相手が俺だけじゃなくてもう一人増えてさ」

 「……なんか諒が言うと嫌味に聞こえる」

 「それは知ら。」

 街路樹の通りを抜け、少しばかり道を左折すると商店街に通じる。二人は学校帰りにここに寄るのが普通になっていた。

 「そういえばさ、諒は由利の事が好きだったんだろ?」 

 「そういえば……そうだったな」

 諒は渚に言われ、改めてそうだったと思った。確かに諒は由利のことが好きだった。

 「けどなんで私と付き合ったんだ?今日話してみて思ったけど、由利は良い娘だったぞ。すこし意地悪だけど」

 「それはアレだ。お前がなんだか放っておけなくなったんだよ」

 「なんだそりゃ」

 「そういうことなの」

 そう言うなり諒は少し前のことを思った。

 諒は入学式当日に彼女に一目ぼれした。その相手は天塚由利だ。

 彼女の華やかな顔立ち、雰囲気が彼を射止めたのだ。

 最初の一年はクラスが違うこともあって話すことは無かったが、学校にいるときは常に彼女のことを見ていた。

 そして二年の春。

 あの出来事があった。

 あの時もっと深く踏み込んでいたらと思うこともあったが、やはり気恥ずかしい気持ちがあってそれはできなかった。

 そうして時は過ぎ、彼の世界の中にある一人の女の子が現れた。

 渚だ。

 春にクラス委員長になった彼に与えられた仕事の一つにクラス内の問題児を注意・指導するものがあった。

 渚は遅刻の常習犯だったので彼の目に着くのは時間の問題だった。

 最初はお互いにいい印象はなかった。

 しかし彼は注意を繰り返していくうちに彼女が放っておけなくなった。

 そして二年の夏。

 彼は渚に告白した。放っておけないという気持ちもあったが、いつしか恋心が芽生えていた。

 渚も同じだった。ずっと一人でいた彼女にとって彼の存在はいつしか大きくなっていたのだ。

 こうして諒たちは付き合うようになった。

 「いろいろあったな」

 諒は渚の手を握った。

 「そうだな。まさか付き合うだなんてな」

 渚は強く握り返した。

 「いっぱい買っちゃったよ~」

 由利はスーパーから出てくるなりそう呟いた。彼女の右手にはいかにも重そうなポリ袋が吊るされていた。

 「今晩はカレーだよっと」

 由利は今晩の献立をカレーと決めていた。そしてその材料を買うためにスーパーに寄ったのだ。

 「じゃがいもでしょ、にんじんにルーに……あれ?」

 程なくして彼女はポリ袋にあるべきはずのものの存在が無い事に気付いた。

 「お肉買い忘れちゃった」

 由利はうっかりしていたのか肉を買うのを忘れていた。

 「スーパーは混んでるし、向こうのお肉屋さん行こうかな。確かあそこのコロッケ美味しいんだよね。ついでに買っちゃおうっと」

 彼女は肉屋に向けて歩き始めた。

 「いやあやっぱりここのコロッケは美味しいな」

 渚はコロッケを頬張るなりそう言った。その表情は幸せそうだ。

 「許してくれるか?」

 「許す」

 「よかった。さて、行くか」

 「どこへ?」

 渚はそう訊いた。

 「どこへって……昨夜のまだ見てない映画だよ。途中でお前が眠いって言いだして最後まで見れなかったやつ」

 「そりゃ深夜三時になれば眠いに決まってるだろ。今日寝坊して遅刻するのも当たり前だ」

 「俺は起きたぞ?」

 「諒は変なんだ。ていうか起きたなら起こしてよ」

 「起こしたんだけどお前が起きなかったんだろ?」

 「……そうだったか?」

 「そうなの。まったく……」

 そして二人は諒の家へと足を向けた。

 諒の両親はちょうど今、二人して仕事で出張しているため誰もいないのだ。なのでこうして二人でいるには最適な場所なのだ。

 「そういえばお前、親に何て言っているんだよ。その……俺の家に来ることを」

 「ああ、友達の家に泊まっているって言ってるよ」

 「友達って……。」

 「そりゃ彼氏だなんて言ったらその……アレだろ?」

 二人は歩みを進めた。

 「なあ、諒。」

 「どうした?」

 「その……キスしたい」 

 突然の申し出に諒は焦った。

 「じゃあ、そこの路地で……」

 諒が指差した路地は街灯が無く人通りが少ない所であった。

 「……渚と江碕君?」

 由利は肉屋で揃ってコロッケを食べる二人の姿を見つけた。

 「なんで二人でいるの……?」

 由利の心は徐々に穏やかでなくなっていくのが分った。

 そして二人は肩を並べて暗い路地へと歩いて行くのが見えた。

 「……!」

 由利はじっとしていられなかった。二人してどこへ行くのか。何を話しているのか……

 そして由利は歩く速度を速めた。持っているポリ袋が悲鳴をあげているけど気にもしない。

 「はあ……はあ」

 吐く吐息が白く染め上がった。街灯がスポットライトみたいに由利を照らす。

 そして程なくしてその路地へと辿り着いた――。

 「じゃ、じゃあ……」

 「ちょっと待って!」

 渚は鞄からミネラルウォーターのペットボトルを取りだした。

 「コロッケ食べたばかりだからさ、その……」

 「分ったよ。……俺は別にいいんだけど」

 「私が駄目なの!」

 そして渚は蓋を開け、勢いよく水を流し込んだ。

 「……いいよ」

 渚はペットボトルに蓋を閉め、また鞄に入れるなりそう呟く。

 「じゃあ改めて」

 二人は寄り添い合い、唇と唇を重ねた。辺りは街灯がないため、二人を照らすのは月明かりだけだ。

 「ぷはぁ……」

 二人は唇を離した。

 「まさかクラスの問題児と委員長がこんなことしてるなんて誰も思わないだろうな」

 「本当にな……。実は俺もびっくりだ」

 「学校では付き合っているなんてばれたら大騒ぎだから茶番みたいな演技しているけどね……」

 「俺は別に良いんだけどさ」

 「馬鹿……。それはそうと、見られてないかな?」

 「見ているとしたらお月さまくらいだろ?」

 そういうなり諒は再び渚の唇を奪った。

 月だけでなく、かつて好きだった人に見られながら――。

● 

 二人がキスをした瞬間。由利は悟った。

 ああ、やっぱりな。

 そんなことしか浮かばなかった。

 ここは暗い路地だしキスするにはもってこいだもんね。

 由利はさっきまで話をしていた友人が好きな相手とキスをしている光景を見るなり呆然としてしまった。

 二人は夢中で気が付いていないが、由利はその姿を見つめる。

 私、もっと早く動けばよかったのかなあ……。

 もっと心から話したいって思って周りの人たちから離れて彼に近づけばよかったのかなあ……。

 「ぷはあ……」

 目の前の二人を繋いでいた唇が離れた。そして渚はそれまで閉じていた目を開ける。

 「!!」

 そこには諒の顔があった。しかしその向こう。街灯に照らされる由利の姿が目に入った。

 由利もまた渚がこちらのことを視界に収めたことが分った。

 ここで声を挙げるべきじゃない。

 由利はそう思い、静かに手を振った。そして声に出さないようにして口を動かし何かを言い残し、来た道を戻った。

 由利の姿は数歩歩くと家の塀に隠れて見えなくなった。

 「……続きは家でしよう?」

 諒はそう言い、向かい合った視線を二人揃って前に戻すべく渚の肩を掴んで体勢を回れ右の要領で変えた。

 「……どうした?」

 諒は渚の驚いたような表情を見るなりそう呟く。

 「なんでもないよ、ただ優しさが痛いなって」

 「なんだよそれ」

 「いいから、ほら行くよ」

 渚は諒の手を取って彼の家へと通じる道へと走り出す。

 「おい。いきなりどうしたんだよ!」

 何が何だか分からないと言った表情で諒は声を挙げる。

 「いいからさ!ほら早く!」

 「分った分った」

 「……ありがとう」 

 渚は誰にも聞こえない程度の声の大きさで、友にそう感謝した。

 「おめでとう。か」

 由利は先ほど渚に送った言葉……といっても声には出さなかった言葉を思い返す。

 「なんだかなあ」

 由利はとぼとぼと来た道を進む。手に持っていたはずのポリ袋がいつのまにか無くなっていた。夢中で走るあまりどこかに置いてきたんだろうか。

 「でもね、なんだか渚でよかったなあ」

 先ほどの光景を思うなりそうポツリと呟く。

 「けどね、全く後悔してないわけじゃないよ。ううん。後悔しかないよ」

 その言葉達は誰にも向けられることなく、白い吐息と共に虚空へ消える。

 「いつから、付き合っていたのかな」

 由利は二人が初めて出会った春のあの出来事を思った。

 「私の方が最初だと思うんだけどなあ」

 その言葉も虚空へ消える。

 「私、明日になったら普通に渚とお話しできるかな」

 由利は友人の顔を浮かべる。けれどその表情は赤く染まった幸せそうな表情で、その対面には好きだった人がいて……。

 「ううん。できるよ。ね、天塚由利?」

 由利はそう自分に言い聞かせた。……が。

 「できる……よね?…っぐ」

 由利は自分の目から涙があふれていることに気付いた。止めないと、と思ってもその涙は溢れてしまう。

 「っぐ…!!…」

 涙はいつまでも止みそうになかった。けれど歩みは止めない。

 いつしか街灯の数が増え、辺りは光で溢れていた。涙がそれらを反射してとてもまぶしい。

 月明かりに照らされる彼女は一人だった。いつもは誰かが彼女の周りにいるが今はいない。

 見ているのは遥か空に浮かぶ月だけだ。

 その月はそんな彼女を、彼女の涙をずっと照らしつづける――。




 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 





読んでくれてありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ