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鬼の瞳  作者: 市
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些細な夜に

「どなた……で御座いますか」


近付いて来た気配に、少女は俯いていた頭を起こして訊ねた。

鈴の音に似た儚く綺麗な声は落ち着いており、不思議と警戒が含まれていない。恐怖と脅威を知らない赤子の様に、わからないから訊ねたと云うだけの屈託の無い言葉。

それを自分の前で止まった、つい今しがた現れた見知らぬ気配に向かって、怪訝無く放った。


木の根元に腰を落ち着かせて眠っていたのか、丁寧な口調は少々微睡んでいる。まだ夢心地から完全には醒めきっていないようだ。

夜中なので睡眠を取っていたのは変わった事ではない。だが一人で、しかも真っ暗な森の中で、不用心に無防備にそうしていたのは些か妙な光景だった。



見れば、彼女の着物は捨てられていたの様に汚れきっていた。元は白一色だったのだろうがその面影は僅かにしか残っておらず、大半が泥の茶色と何かの黒色で覆われ、更には所々が破けて無惨な有り様だった。乞食に似た雰囲気が感じ取れる。

わらじも履いておらず、肌の色が見えない程に素足は土まみれ。よくよく気が付いてみれば臭いも酷い。一体何日ものあいだ体を洗っていないのか、獣の死骸と遜色ないまでに。


しかし、そんな風貌をしていても、正座している姿はどこぞの家柄が良い生娘を思わせた。

曲げた足を揃え、ぴんと伸ばした両手の指を太腿の上に慎ましく重ね、背筋は木に沿って真っ直ぐ。

睡眠が取りづらいであろうそれを、少女は当たり前の様に行ってた。


服装と仕草の矛盾が、異様な雰囲気を発している。

何か訳ありの事情でもあるのかと想像しようにも、困惑する彼はそんな思考が出来ないでいた。


「――へっ――あ、えっ、と……」


少女の目の前に佇む青年は、ばつが悪そうにしどろもどろ。力尽きた死人と思っていた女性に話し掛けられたので、落ち着けという方が無理な話である。

しかしそれでも、突然の出来事に逃げ出さずに、そればかりか紅潮なんてして目を泳がせているのは、少女の行動に喫驚する以前に――その声の美しさに無意識に聞き惚れていたからだ。


その姿の異様さを思案する事も忘れ、見つけた時の憐れみはこの瞬間に高揚へと変わる。たった一声で気恥ずかしさに溺れた童心は、次の言葉を思うように出せずにいた。


青年は近くの集落に住んでいる、ごく普通の村人だ。決まった時刻に起き、畑を耕し、家畜に餌を与え、偶に近隣と会話を楽しみ、夕食を取って眠りに就いては、翌日もまた同じ行動を繰り返すただの農民。

今日はある目的で森の中を歩いていたのだが、思いも寄らないものと遭遇してしまったようだ。


「あのっ……ひ、久野(ひさの)と言います、ボクは」


「久野様、ですか。良いお名前で御座いますね」


にこり、といつしか目を醒ました少女は、笑みを浮かべたような気がした。長く垂れたぼさぼさの黒い髪で、表情はよく見えない。

でもそれより、少女は何故か未だに顔を前に向けたまま、立っている青年の太腿の辺りを垂直に見つめ続けていた。

目を合わせる事を恥ずかしがっている様には見えない。と言うより、目を合わせる気が元から無い様に思えた。


「いや、様だなんてそんな……。……あの、聞いてもいいですか?言いたく無かったら言わなくても結構なのですが。一体あなたは、何故この様な所に…?」


青年はやっとまともな言葉を問うた。こんな状況でも何とも思わないといった、少女の妙に落ち着いた雰囲気が気になりだしたのだ。それでも気遣いを忘れないのは彼の人柄なのだろう。


「はい。別段変わった理由ではありませんので、どうぞお気になさらずに。足が少々疲れましたので、こうして休息を取っているだけなのです」


こんな所で?焚き火もせずに?

青年が本当に聞きたい内容より言葉足らずだったが、深く問いただすのも悪い気がして、それ以上は聞かなかった。けれど本題が解消されなくとも、この場に座っている理由とおよその見当はついた。


彼女はこの辺りに住んでいる者ではない。身なりは一日で変貌したようには見えず、何日もかけて積み重なった印象を受けたからだ。こんな姿で外を歩いたなら、あやかしの類などと噂の一つでも入ってくるもの。そこも考えると、最近になってこの一帯に訪れた事にもなる。


「……見た所、随分と長旅をしてきたようですが、一体どれほど?」


「はい。そうですね……、正確にはわかりませんが、感覚で申しますなら、恐らく二千里ほどかと」


「にせ…っ!そんな遠くから!?」


あまりにも長い距離を告げられ、青年は大人しい顔立ちに似合わない大声を上げた。

二千里(約八千キロメートル)、国一つか二つ、荷物も何も持たずに跨いだと言うのだろうか、この少女は。


「それは何と……。もしやとは思いますが、ずっと歩いて?」


「いえいえ、歩き続けるのも退屈でしたので、何度かは風の如く走りました」


はぁ、と他人事ではあるが、青年は安堵のため息を吐く。彼女の身なりを見てもしかしたらと連想した疑問だったが、それほど本気にしていた訳でもない為、一人納得して解決した。


また言葉足らずだが、恐らく走ったとは馬を使ったという事だろう。何が目的か知らないが、それほどまでの距離だ、自分の足を使うのを投げ出したくなっても仕方がない。そしてまた、適度な休息を取っていたとしても、歩きのみでそんな距離は体の負担が大きい。久野は始め、それに関しての心配もしていた。


しかし、腑に落ちない。


何度も走ったと言うなら、何度も馬を買った事になる。貴重な馬を貸すなんて酔狂な事をする人間はいる筈も無く、手に入れるには買うしかない。金は持っていたようだが、何故一頭で済まなかったのか。


青年は考える。彼女の証言がよく理解出来ない。噛み合わない事実が思考を悩ます。

それでも、相手を疑う事を知らない無垢な青年は、わからないままでは相手に悪いと思い、必死に考えた仮定で取り敢えず収めた。

“全ての馬は何かの不運で死んだか盗まれた”“金は底をついて仕方なく徒歩となった”ひとまずはこれで置き、真実は追々聞いていこうと片付けた。


そして、


「大変な道のりだったのですね……。二月、いや三月はかかるでしょうか。ボクにはとても、そんな長旅は怖くて出来ません」


「ふふ、左様で御座いますか。そう悪いものでも無いのですが。それと、久野様。そこまで日は経っておりません。この地には九日ほどで到着いたしました」


それは見事に打ち消された。


「――――へ……、きゅ、え、え……?」


「はい。寝ずに走った日もありましたので。流石に次の日は、足が重たかったものです」


くすくす、と少女は口元を指で隠して笑う。我ながら豪快な事をしたものだ、と。

対して、それを見つめる青年の額に冷や汗が流れた。


馬など使っていなかった。

少女は自分の足を動かして、ここまで来たと言う。二千里を、九日で走り抜いたと言う。

全く持って不条理であり、万に一つの可能性さえも無い言葉だった。


流石の青年も疑いの念に駆られる。だが、嘘が感じられない飄々とした鈴の音、何より気になっていたその身なりが、あまりにも合致していた。

不意に――あるモノが思い浮かんで、独り言に呟く。


「……鬼……」


「はい。呼びましたか?」


それに少女が、返事をした。


「……久野様、如何なされました?」


静かになった事を不思議に感じた少女。小首を傾げるが、やはり顔は真っ直ぐにしか向けない。

少女の何気ない返事に、久野はただただ黙り込むばかり。


彼が口にした“鬼”それは太古より人間と同じくして生きてきた、人と同じ姿をした人でない者。

外見も内面も、肉体も精神も、構造も存在も、人と同じ在り様であり、全く異なった生物。

人が定めた常識も理もこの者達は意に介さず、持って生まれた天性の力で全てを超越する。


肉体の質が違うという話。少女の言がまたその一つでもある。

足のみ使い二千里を八日で越えるなど、まず人間には到底成せる事ではない。嵐で巻き起こる暴風の様に、またはそれ以上の速力と暴力で駆け抜けても成功するかどうか。

いや、それ以前に、彼女は毎日昼夜問わず走り続けていた訳ではないようだ。歩く時もあれば眠る時もあり、もしかすると一日の大半を何もせずに過ごした日もあるかも知れない。

それで九日ならば、もし真剣に突き進む事のみを考えたならば、その半分で到達するのも無くはない仮定であった。


鬼とはそういう者だ。おとぎ話で語られるような、文字通りの人外である。何故このような生物として生まれ落ちたのかは誰にも知り得ない。

だがそれは人間も同じ故、俯瞰して見るならどちらも似たり寄ったりなのかも知れない。考えるだけ無駄ではある。けれど、人間よりも数が少ない彼らの存在は、人間側からすればやはり希少なものだった。


そんな人型が今、呆然とする久野の目の前に座っている。恐怖で足が竦むというよりも、奇跡を前にして言葉を失う感覚。

無闇に山奥から姿を現そうとしない鬼と遭遇する事は困難であり、そしてまだその暴力をその目で見た事の無い彼には、彼女がそう映った。


「凄い……話でしか聞いた事なかったけど、まさかこんな形で……」


「?」


まだ確定したとは言えない。まだ上辺だけしか確認出来ていない。しかし疑いを知らない無垢な心は、素直に事の成り行きを困惑ではあるが受け止める。

自分で自分を落ち着かせようとする言葉は、当然少女には理解出来ない。この人はどうしてしまったのだろう、と黒ずんだ唇を閉じたまま彼に対して思考する。


「…………あっ」


けれども。暫しの静寂は、思っていたよりも早く終わりを告げた。片が付いたのか頭が整ったのかはわからない、ただ久野は、思い出した様に声を出した。次に木霊した言葉は、今この状況に相応しくもなく思い付きもしない、彼らしい言葉だった。


「そうだ、それよりもその姿をどうにかしないと。……あの、迷惑でなければ村に来ませんか?汚れたままでは何かと心地悪いのでは」


と。

まるで先程までの経緯を忘れてしまったかの如く、久野は躊躇いもなく提案した。不可思議な人外を前にして、最終的に彼は心配する事を優先したのだ。


「はい。確かにむず痒くはありますが……宜しいのですか?」


「気にしないで下さい。僕は困ってる人を見過ごせない変わった性分なので、どうぞ甘えて頂いて結構です」


「……ふふ、ワタクシは人ではありませんのに。真にお優しい方なのですね、久野様は」


くすくす。黒色の指で微笑みを隠す少女。

ははは。やはり笑われたかと苦笑う青年。


――二人、彼と彼女は、こうして出逢った。何でもない、いつもの真夜中の森の中で呆気なく。何かの運命か、誰かの悪戯か、ただの偶然か。

捨てられた人形の様な鬼と、

通りがかったただの人は、

ここから始まった。



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