第7話
凛太郎は、豪を座敷牢へと呼び出した。今日も信乃には会わせてもらえなかったと、肩を落として豪は現れた。
薄暗い座敷牢の中央に、ぽつんと央子が正座していた。豪は何事かと凛太郎に顔を向ける。
「誰がじゃまをしていたかがわかったんです」
「ええと。確か、央子くんには藤乃が……」
藤乃がじゃまをしていたのかと思ったのか、豪はとまどいながら央子へと視線を移した。央子は、しくしくと泣いていた。
「確かに。央子の中には藤乃さんがいますが、じゃまをしていたのは別人だったんですよ。彼は俺の中にいます」
「彼? え? 君の中?」
「元々、俺と央子とでは役割が違うんですよ。身体を入れ物として利用するのは央子の役目で、俺はその原因を探り、あるべき場所に還ってもらうよう手を尽くすのが、本来の俺たちのスタイルなんですよ。それが今回は俺までも入れ物として使われてしまった」
「はあ……」
豪は気の抜けた返事を返す。
「彼は見逃さなかったんですよ。俺の中の小さな気持ちを。彼はそれを拠り所として俺の心の奥底に潜んでしまった。あの時……。駅であなたと出会わなければ、もしかすると俺はこの気持ちに気付かずにいたかもしれない。豪さんも、親に反対された恋人と駆け落ちでもして、どこか別の町に行ってたかもしれない。だけど違った。央子は、豪さんの話に耳を傾けた。いいえ。豪さんと一緒にいた藤乃さんの願いに応えたんです。
藤乃さんは彼を救ってくれるだろう人物が現れるまで、ずっと豪さんの傍で探し続けていたに違いありません。惣太郎さんを絶望の淵から救い出してくれる人をね」
「じゃあ、あの時からもう?」
凛太郎は微笑み、
「そういうことです」
視線を央子へと移動させ、
「互いの思いが、必ずしも同じ高さで、同じ強さで交錯するとは限らないということなんでしょう。惣太郎さんは今も尚、俺の中でその想いを燻らせているんです。知られたくない愚かで浅はかな自分を誤魔化すために、診療所に残った篠さんの後悔の念を使い、俺たちの目晦ましとした。浅ましいくらいに藤乃さんを愛していたんですよ」
すすり泣いていた央子が顔を上げた。じっと凛太郎を見つめている。薄暗い中から、央子のか細い声が聞こえてきた。
「浅ましいだなんて、惣さん」
豪の表情が一変した。
央子の口から聞こえてくるのは紛う事なき女の声だったからだ。泣いて鼻にかかった女の声だ。
「いいや、浅ましいのさ。どれほどお前が尽くしてくれても、俺は満足することはなかったんだ。俺に向けてくれる笑顔だって、一言二言篠と言葉を交わしているのを見ただけですべて帳消しになる。俺はいったい、お前に何をどれくらい求めているのか、それすらもわからなくなってしまった。そのくせ、体裁を繕うようにお前の前では良い夫を演じていたのさ。俺の中はどろどろのヘドロのような澱みが病気と一緒に巣食っていてどうしようもなかった。死んで楽になれるかとも思ったが、それも違った。ただただお前が欲しくて、恋しくて……どうにもならなかった」
惣太郎の胸の内を代弁する凛太郎は、意外にも淡々としていた。自分の口をついて出てくるのは果たして本当に惣太郎の思いだけなのか。確かめているようにも見えた。
「惣さん。あなたは早く逝ってしまったから知りようがないのでしょうけれど。私。あなたとおんなじ病気で死んだのよ? 篠さんは必死で治療してくれていたけれど、だめね。だって私。惣さんとおんなじ病気って知った時から生きる気持ちがなくなっていたんだもの」
央子は、すんっ、と鼻を鳴らし、
「嬉しかったの」
背筋をぴんと伸ばし、央子はそう言って笑った。
「篠はお前を好いていた。お前だって憎からず思っていただろう?」
「当たり前です。親が決めたとはいえ、許婚でしたもの。憎くは思いません。でもそれは惣さんに対するものとは違いますよ? 篠さんはいつも親身に話を聞いてくれましたから。いい相談相手でした。それだけです」
少し怒った風に口を尖らせた後、安堵の溜息を吐き、
「けれど。ようやく惣さんと言葉を交わせました。いくら惣さんの目の前に立ってみても、ちっとも気づいてはくれなくて。惣さんはずうっとどこか遠くを見ているようでしたから」
央子は、くすりと小さく笑い、上目遣いに凛太郎を見た。
「その方だから私が見えましたの?」
凛太郎は右手を胸に宛がい、瞼を閉じた。
「そうだ。彼には俺の気持ちが理解できた。彼の中にもまた、俺と同じような嫉妬心が芽生えていたからな」
央子はゆっくりと立ち上がり、流れるように歩いてきた。凛太郎の目の前で立ち止まり、
「同じ場所に居ながら出会えなかったけれど、この二人のおかげでようやく逢えました。その手助けをしてくれたのが、私たちのひ孫なのですよ?」
央子はそう語りかけながら、視線を豪へと向ける。凛太郎もそれに習うように視線を豪へと移した。二人の視線を受け、豪は身体を強張らせた。
確かに目の前に立っているのは凛太郎と央子であるのに、ぼんやりとした朧げな何かが二人を包んでいて、会ったこともない先祖の姿がそこにあるような錯覚が起きて薄気味悪いのだ。
よく耳にする成仏というものは、死者の未練を断ち切ってやるものではなかったか。そうであるならば、この二人の未練というものは何だというのだろうか?
惣太郎の嫉妬の相手はそうに死んでいないのだし、二人はちゃんとした夫婦なのだし。この上、何が未練だというのか。
「僕はそれどころじゃないんだけどな」
ぼそりと呟く。凛太郎がそれを聞き逃さなかった。
「そうでしたね」
眼鏡を掛け直し、
「豪さんも、会いたいのに会えないんでしたね」
「え?」
「すぐ傍にいるのがわかっているのに会えない。そうでしたよね?」
「それは当然、信乃とのことを言ってるんだよね」
「そうです。惣太郎さんを救えるのは藤乃さんしかいないのに、その藤乃さんの存在に惣太郎さんは気づかない。嫉妬と自らの浅ましいと蔑んだ想いを呪う気持ちから、一切を遮断してしまった惣太郎さんには、藤乃さんの言葉は届かなかった。藤乃さんは、自分と同じ場所に立ってくれる人を探していたんでしょうが、思うようには見つからない。ようやく見つけた豪さんたちには思いもよらない弊害があってその思惑は外れてしまう。それでも豪さんと一緒にいたおかげで出会えたんです。僕と央子に……」
豪は恐る恐る手を上げた。
「ということは……。じゃまをしていたのは惣太郎というわけなんだ。僕と信乃が町に戻ってから会えなくなったのは、これが影響しているってこと?」
「環境が似ているから多少は影響を受けたかもしれませんが、あくまで豪さんと信乃さんの問題ですから。全部が全部、彼らのせいとばかりは言えませんよ」
「そうなの?」
「そうなんです」
凛太郎は少し語尾を強めに言った。
「縛られて、止まったままの二人の時間がこれから動き出すわけです。藤乃さんの願いが叶い、惣太郎さんも救われる」
柔らかな笑みを湛え、央子の方へと向き直った。
央子はその笑顔に応えるように、満面の笑みを浮かべた。
「惣さんと同じ病で死ねたこと。とても幸せだった」
央子の言葉は凛太郎の中にいる惣太郎の胸を打った。溢れ出す涙を拭うために凛太郎は眼鏡を外した。胸を締め付ける惣太郎の想いが自身のそれと交錯する。変わらずそれは狂おしいほどの想いであるのに、同時に安堵感も押し寄せる。
「あい……アイ……し……ている」
凛太郎は堪えきれずに央子を抱き寄せた。央子は凛太郎の胸に頬を寄せ、はい、と答えた。凛太郎は泣きながら、もう一度、愛してると呟いた。
その言葉に敢えて自分の気持ちも乗せてみる。腕の中で脱力していく央子を強く抱き締めながら、もう二度と口にはしないけど。照れ臭そうに呟いた。