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第6話

 がたがたと、滑りの悪い開き戸を開け、薄暗い廊下の先に視線をのばす。

 凛太郎は、昨日訪れた診療所にやって来ていた。なにか具体的な目的があって来たわけではない。何十年と経っているここに確たる物証があると思ってもいなかった。ただ─昨夜の豪から聞かされた、田辺と一ノ宮の関係からどうにも一ノ宮が気になるのだ。

 そもそもの原因は一ノ宮にあるのではないか。

 惣太郎は診療所を営む一ノ宮家の嫡男だったが、いわゆる放蕩息子というヤツで、ふいと町を出てから音信普通となった。跡取りのいない一ノ宮だったが、甥の篠が医師免許を取得したこともあり、診療所は篠に継がせることになった。

 金銭的な援助を田辺家から受けたい一ノ宮は、医療を一事業として田辺に売り込み、そして田辺はそれをより強い繋がり─婚姻という形として受け入れた。これが篠と藤乃の婚約だった。

 だが、それも突然舞い戻った惣太郎の出現で大きく変わる。藤乃と惣太郎が互いを愛し始めたからだ。一大事と思われたそれも、惣太郎を婿養子とすることで一様の決着をみた。

 篠には一ノ宮家の正式な跡取りとすることで破談を納得させ、惣太郎の母方の親類から嫁、玲子をもらい受けた。その嫁も医術に覚えがあり、篠の右手となってその後の一ノ宮を支えたという。

 診療所を支えたのだから、この場所にいたとして不自然なわけがない。だとすれば、昨日の女性は玲子ということになる。いくら利害関係で成り立っていた婚約であったとしても、いきなり横からかっさらわれて、いい気がするはずもない。篠が惣太郎にそれ相応の感情を抱くのも無理からぬ話だ。

 例え、一ノ宮の正式な跡取りと定められても、人間の負の感情がおいそれと相殺されるはずがない。

「もしも……」

 もしも篠が藤乃を心から愛していたとしたら? そしてそんな夫を身近に感じながら、添い遂げなければならない玲子の胸中は如何ばかりか。凛太郎は目を閉じた。

 凛太郎がいる、書庫と思われるこの部屋は幾分整理されていた。閉じた瞼の向こうに、先程まで瞳に映り込んでいた部屋の様子が浮かび上がった。木製の机と椅子。差し込む陽光。その光りの中で篠はたくさんの書類を整理し、医学書に読みふけったりもしたのだろう。頭を抱え、悩んだ日々もここで過ごしたのではないだろうか。

 篠は自殺した。

 藤乃が惣太郎と同じ病気に罹り、一時は回復したものの風邪をこじらせ慢性腎炎の急性増悪で死亡したからだ。懸命な治療にも関わらず、藤乃を死なせてしまった。

「解せない」

 凛太郎の眉間には深い皺が寄せられていた。

「解せないのは玲子の方だ」

 凛太郎は目を開け、真昼の強烈な日光を和らげてくれている庭の木々を眺めながら呟いた。思い浮かべるのは、大黒柱を失った一ノ宮家のその後だった。

 篠を失った一ノ宮が没落していくのに、さしたる時間はかからなかった。一女を儲けていた玲子は、必死で働いたのだという。

 プライドだけは高い一ノ宮の両親と幼い我が子の暮らしを、女手一つで支えたのだ。並々ならぬ苦労がそこにあっただろうことは想像に難くない。

 凛太郎がしきりに呟く、解せないということ。

「苦労はしたが長命だった人間が、果たして今更囚われるものだろうか?」

 玲子は八十余年生きたというのだ。

「その苦労の積み重ねが囚われるきっかけになったというのか?」

 凛太郎は、はたと気づく。先程から自分の口をついて出てくる、囚われるという表現。なぜ、玲子を囚われの身のように感じたのだろうか。

 篠を想うあまり、篠に取り込まれたのか。それでも凛太郎の心は杳として晴れない。やはり、なにかが覆っていてよく見えない。

「元凶を一ノ宮だと言及するには、藤乃の出現は意味を成さない。なぜ、藤乃は央子に影響を与えるんだ。座敷牢へ目を向かせたのにも意味があるのか? いや、待てよ。そもそも……そうだ。なんで気づかなかった!」

 凛太郎の頬が一気に紅潮した。溢れ出すように凛太郎の頭の中を、ひとつに繋がった真実が形を現していく。

「立花もだ。あいつの存在がヒントだったんだ。ああ、ちくしょう。気づきたくもないのに気づいてしまった」

 凛太郎は苦笑した。

「どうして俺が引き込まれたのか。そうか……。悔しいな。こんな形で気づくなんて。あれは俺の気持ちでもあったんだな」

 縁側で上半身裸のままくつろぐ央子を、凛太郎は診療所から戻るなり諌めた。

「湯上りで暑いんだよ。いいじゃんか、女じゃあるまいし」

 ごろりと寝返りを打ち、大の字になる。まだまだ続くと思っていた凛太郎の小言が止まり、薄目を開けてその様子を窺った。なにやら自分の身体を凝視している。どうせならなにか言ってくれと心の中で叫ぶ。

 じりじりとした視線を受けながら、体温が上昇していくのを感じていた。我慢の限界とばかりに飛び起きると、

「黙ってねえで、なんか言えよ」

「その発疹はなんだ!」

 央子が叫ぶのと同時に凛太郎も声を荒げて叫んでいた。

「発疹?」

 凛太郎の剣幕に気圧されるように、自分の上半身を見た。

「なんだ? こりゃ!」

 見れば赤い点がぽつぽつと現れている。

「どこか行ったのか?」

「えと。座敷牢……に」

「ひとりでか?」

「え? ごめん。ひとりで行った。だけど、凛太郎だって黙ってどっか行ったじゃんか! 俺だって役に立ちたいから。それで座敷牢に行ったんだよ」

 央子は涙目になりながらも訴えた。

「熱は?」

「ん? さっきから暑いとは思うけど、それが熱かどうかまではわかんねえ」

 央子の額に手を宛がってみる。湯上りのせいとばかりには言えないほどに熱っぽい。体温が少し低めの凛太郎の掌が殊更に気持ちいい。央子は目を閉じて、ふうっと深呼吸した。

 この現象が現実のものとは思えなかった。

「もう、待てないということか」

 凛太郎はぼそりと呟く。

「凛太郎。ほんっと、ゴメン」

 央子は、ごめんともう一度繰り返し、凛太郎に凭れかかった。

 とん、と肩口に央子の重みを感じると、そこから熱い息がかかる。辛そうに、央子の呼吸のリズムは次第に早くなっていった。

「これって霊障になんの?」

 苦しげに央子が訊いてくる。

「ああ」

「じゃあ、凛太郎は苦しくないんだな」

「ああ。どこも辛いところはないよ」

「へへ。そんならイイや。やっと役に立てた。凛太郎の辛そうな顔を見るのはいやだもん。俺」

 首筋にかかっていた央子の息がふいに離れた。凛太郎は腕の中の央子を見やる。央子は凛太郎の顔を見上げ、充血した双眸にうっすらと涙を滲ませていた。

「代われるものなら代わりたかった。日々、衰えてゆくあなたを見るのが辛くて、何度も涙を見せてしまった。やさしいあなたはそれでも笑って私の頬を撫でてくれた」

 凛太郎の心臓が大きく跳ね上がるように脈打った。

「央子?」

 呼ばれた央子は、宙を彷徨っていた視線を凛太郎に向け、

「ん? なに。凛太郎」

 凛太郎は堪らず央子を抱え込むように抱きすくめた。


 愛しくてたまらない。


 腕の中の央子が小さく笑った。

「ヘンな凛太郎。なあなあ。俺、今度は役に立った?」

「ああ。役に立っているさ。もう充分過ぎるくらいにな」

 凛太郎は、沸きあがるその感情を否定することはなかった。取り込まれた原因はそこにあったのだ。そして、否定する必要もなくなった。

 立花への嫉妬心も央子への恋慕もすべて幻想ではなく、凛太郎のものなのだ。

 見定めなければならないものは、身の内にあったということなのだ。

「央子。まだ正気か?」

「ひでえ言い草だな。俺ぁ、ずっと正気だよ」

「それなら話が早い。豪さんたちに影響を与えているのが誰なのかがわかったんだ。だから、少しの間で構わないから、央子の身体を藤乃さんに貸してやってくれないか?」

「それで豪さんたちは幸せになれんのか?」

「ああ。たぶん」

「たぶんで、俺ぁ、この身体を人に貸すのかよ。って、まあいいや。凛太郎んこと信じてるからさ」

 央子はそう呟き、コトリと凛太郎の胸に顔を埋めた。

「気が狂いそうなほどに愛してる、か」

 央子の腕がだらりと力なく垂れ下がった。意識が混濁していく証だ。

 体の重みをずしりと感じながら、凛太郎は自分に全幅の信頼を寄せ、身を預ける央子を見つめた。

「いつも傍に置いておきたいと切望しながら、プライドがそれを許さなかった。俺は理解ある夫であることを演じていたに過ぎないんだ。理解るよ。惣太郎さん。あなたは篠さんが妬ましかったんだ。俺が立花を羨むようにね」

 眉根を寄せ、切なそうに央子を眺めているのは凛太郎なのか、その身の内に潜む惣太郎なのか。

 腕の中の央子は目覚めない。藤乃との交替がうまくいっていないようだ。凛太郎は、これ幸いとほくそ笑む。

「意外と嫉妬深いんだ。俺は」

 伏せられたままの央子の睫毛を指でなぞりながら、

「幼馴染みというだけで、ときどき見せるしたり顔が腹立たしくて、いつぞやは絶好の機会とばかりに仕返しをしてやった。あの時は傑作だった」

 思い出し、小さな笑い声を出した。すると、とつぜん央子の瞳が見開き、

「惣さん」

 央子は両手を凛太郎の首に回し、会いたかったと呟いた。


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