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第5話

 三人が廊下へ出てみると、すっかり夕刻になっていた。

「豪さん。少しいいですか?」

 凛太郎がくそ真面目な顔で訊いた。

「昨日、聞いていた話だと、藤乃さんが病床の惣太郎さんを虐待して死なせたはずでしたよね。だけど、真実は違うんじゃありませんか? 先程の座敷牢では、仲睦まじい二人の姿が視えましたから。どうなんです?」

 豪は目尻の辺りを掻きながら話し始めた。

「確かに、藤乃と惣太郎は愛し合っていたんだ。惣太郎が亡くなる間際まで藤乃は看病を続けていて、虐待なんて、でまかせもいいところなんだよ」

「誤解……なんですか? こんな長い間、田辺家の人は誰もそれを否定しなかったというんですか」

「ああ、そうだ。田辺家から伝染病患者を出したなんて言おうものなら、それだけで酷い目に合わされるから。結果的に村八分にはされたけど、ここから追い出されるわけじゃない。

 同じ頃、別の村でも同じ伝染病患者が出たらしくて、それが元でその一家は焼き討ちにあったんだ。なんとか家族は逃げ出したらしいけど、その人は……見殺しにされた。生きたまま焼かれた。一家は自分たちを守るために見殺しにしたんだ。その村はここからさして遠くないから、その話はこの町にも伝わってきていて。だから、田辺家は焼き討ちを怖れて惣太郎を座敷牢へと隠したのさ。

 挙句、伝染病で惣太郎が死んだのを、藤乃が虐待して死なせたことにしたんだ。田辺を守るために藤乃は冤罪であることに甘んじた。惣太郎が死んだ三ヵ月後に彼女もまた同じ病気で亡くなったけどね」

「だけど。惣太郎さんは焼き殺されなかったんだろ? 看病してもらえたんだろ? それだけで十分じゃん」

「うん、そうだね。実際、この町は焼き討ちのあった村に比べて病院の設備が整っていたから、病気自体は治せないものじゃなかったんだよ。もっとも、都会の方だったらきちんとした設備の病院で治療して、完治して、幸せな人生を送っただろうと思う。だけどね。ここは病院があるというだけで、いや、あっただけマシなんだけど。ここは閉鎖的な世界だ。他所にも行けない中で伝染病なんか出したらどうなるか。わかるよね? 病気が治るか治らないかが重要なんじゃなくて、そんな病気を出したこと自体が問題なんだ。だから─治療とは名ばかりの行為で惣太郎は死んだんだよ」

「そのことをどうやって? 町の人たちは藤乃さんの虐待を信じているわけでしょう」

 今まで押し黙っていた凛太郎が、一つの疑問を投げかけた。豪は一旦、凛太郎の顔を見たが、すぐに俯いた。

「この町唯一の病院だったのが一ノ宮だったんだ」

 凛太郎は、小さく、ああと呟いた。納得したようだ。



 央子は蚊帳の入り口を少し持ち上げ、寝転がったまま月を眺めていた。

「蚊が入ってくるだろう。閉めてくれないか?」

「やだ。お月さんがすっげえキレイなのにもったいないじゃんか。凛太郎もこっちに来て見てみれば? 本当、すっげえキレイだから」

 すっすっと、畳の上を歩く音が聞こえてくる。凛太郎は央子の傍らには座らず、蚊帳の外へ出ると縁側に腰掛けた。

 凛太郎は蚊取り線香を自分の横に置き、

「同じ月見をするなら蚊帳から出て、こうして眺める方がよほど情緒があるというものだ。ついでに花一輪手折ってこようか?」

 央子もごそごそと起き出し蚊帳から縁側に出ると、足を庭に伸ばして寛ぐ凛太郎の太腿に頭を乗せた。

「なあ、凛太郎? もう一人の藤乃さんを愛してるって人って、やっぱり一ノ宮の人なのか? 愛し合ってる二人を見ていて嫉妬したってことなのかな……」

「そうだな。惣太郎さんの病気の治療をしなけりゃならないのに、それが想い人の旦那ときたら、そりゃあ辛いだろうな」

「気が狂いそうなほど?」

 凛太郎は央子の言葉にどきりとした。

 確かに、あの瞬間央子から流れ込んできた感情を吐き出した時、口からついて出たのは、気が狂いそうなほど愛してるという言葉だった。

「凛太郎は気が狂いそうなほど誰かを好きになったこととかあんのか?」

「俺に訊くなよ。そういう央子はどうなんだ。わかるのか?」

「俺?」

 央子がちらりと凛太郎を見た。ごそりと寝返りを打ち、凛太郎の腿に顔を埋めて押し黙った。

 凛太郎のこめかみを一筋の汗がつつっと流れ落ちた。

「……た……立花……?」

「なんでそこで立花の名前が出てくるかなあ。あいつは友達。ずーっと昔からの友達なんだよ。なんか凛太郎、ヘンだぞ」

 ああ。俺もそう思う。

 りりり。

 虫が鳴き始めた。凛太郎が沈黙すると一斉に虫が鳴き始める。

「明日。豪さんが診療所の跡に連れて行ってくれる事になっているから、囚われないよう気をつけなくてはね」

「ああ、それなら俺は大丈夫。凛太郎が一緒だからな」

 央子はむくりと起き上がり、自信満々に答えた。

「それより凛太郎の方は大丈夫なのか? 体の具合はいいのかよ。今も汗かいてるし……」

 手を伸ばし、凛太郎の額の辺りを伝っている汗を拭ってやる。

 虫がまた鳴き出した。凛太郎が黙り込んでいるからだ。なぜだか央子は緊張で体が強張った。ぴんと張り詰めた空気が凛太郎を取り巻いているからだ。

「もう寝よう」

 凛太郎の言葉で央子の緊張が解けた。いつのまにか正座していた央子は、その痺れた足を引きずりながら蚊帳の中へと戻る。見かねた凛太郎が途中から手を貸した。

 心なしか凛太郎の手が震えているように感じた央子が、凛太郎の顔を覗きこんでみる。平静を装っているが、いつもの凛太郎と違うことは火を見るより明らかだった。

 凛太郎の唇は、震えながら何かを紡ぎ出そうとしている。

「ア……アイ……アイシテ……愛シテル」

 そう呟くと凛太郎は膝から崩れ落ちた。

「倒れたのが布団の上でラッキー。って、そういう場合じゃねえって! 凛太郎! おい。おいっ」

 意識を失っている凛太郎に央子の声が届くはずもなく、凛太郎が目覚めるのは翌朝のことだった。

 心配のあまり傍らから離れがたかった央子は閨を共にした。

 昨夜について何一つ覚えの無い凛太郎は、すでに鳴き始めている蝉の大合唱をバックミュージックに、

「なにがどうなってこんな暑苦しい事になっているんだ?」

 口が少し開いている央子の頬をつまみ上げた。だらしないその口の端から涎がつーっと垂れた。



「俺が悪いのかよ!」

 央子は豪に案内されて、凛太郎と一緒に診療所に向かっているところだった。

 俺が悪いのか、の件は当然、今朝方の一件を指している。

「とつぜん倒れたくせに。それを放っておいて一人でなんて寝られるかよ。心配してくれてありがとう、だろ?」

「だからって同じ布団で寝る必要がどこにあるんだ。どうせ同じ蚊帳の中に央子の布団も敷いてあるんだから、そっちで寝ればいいじゃないか。暑苦しい」

「暑苦しいってのは、聞き捨てならねえなあ。おい。ああいう時ってのは誰かが傍についててくれると安心するんだぞ? くっついてたらちょっとの変化だってわかるし。そういう俺の思いやりをだな。言うに事欠いて暑苦しいとはひでぇ言い草じゃねえ?」

 豪が堪えきれずに声を上げて笑い出した。

「あはは。やっぱりこうしてみると、君ら、ちゃんと高校生なんだねえ。可愛いケンカだ」

「ええっ。これってケンカなんかじゃねえよ。凛太郎が一方的に言いがかりをつけてきてんだ。俺は悪くねえもん」

 央子が口を尖らせ、これみよがしに凛太郎から顔を背けた。

「着いたよ。ここがそうだ」

 豪の言葉につられるように、二人は前方を見やった。

 雑草が生い茂る中、その建物は梢から洩れる僅かな陽光を浴びて建っていた。

 腰の丈ほどに伸びた雑草を分け入り、診療所の玄関の前に立つ。診療所には鍵もかかっていないようで、豪は簡単にその開き戸を開け、二人を中へと案内した。

 凛太郎が足を踏み入れると、足元でがしゃがしゃとガラスが割れる音がした。

 木造特有のかび臭さと、散らかったままの書類の埃臭さで凛太郎と央子は顔を顰めた。

「ところで豪さん。惣太郎さんが患ったという伝染病がなにか知っているんですか?」

 凛太郎は、落ちているカルテと思しき書類を拾い上げ、半ば呆れたように頭を振りながら訊いた。

「しょう紅熱だよ。僕もだけど、君らにもあまりポピュラーとは言えない病気だよね」

 凛太郎は眉間に皺を寄せ、聞き覚えのあるその病名を記憶の中から検索しているようだった。

 央子に至っては、知らない国の言葉でも聞かされたような顔で首を傾げている。

「法定伝染病でね。ほかにはコレラやチフスがある」

 央子が小さく、うえっ、と呟いた。

「ああ。でも、今はそう位置づけられているってだけで、たいして死亡率は高くないよ。安静にしてペニシリンを投与すれば問題ない。……今はね」

「当時にすれば問題ありなわけですね」

「うん、まあね。結局は伝染病なわけだし、それが原因で惣太郎は亡くなったんだから」

 凛太郎は、淡々と語る豪を見据えた。

「知識がないんで見当もつかないんですけど、惣太郎さんの死亡原因はいったい何だったんですか?」

「急性腎炎による腎不全」

 そうですかと相づちを打った後、凛太郎は黙り込む。診療所の中は水を打ったように静まり返った。聞こえてくるのは、屋外の蝉時雨だった。

 窓から入ってくる明かりだけが頼りのこの古めかしい建物の中で、その静けさは次第に重苦しいものへと変わっていく。堪りかねた豪が口を開いた。

「僕。なにかマズイことでも言ったかな」

 凛太郎は豪に一瞥をくれ、

「いいえ? それどころか、かなり詳しいんだなって、正直驚いているくらいですよ。確かにここら辺りに散らばっているのはカルテも含めた診療所の書類です。ですが、惣太郎さんに関してはそう頓着な扱いはしないと思うんですよ。伝染病であることを隠しておきたい田辺家の人は、それを隠蔽するよう一ノ宮に依頼したでしょうからね。となると、豪さんのそれはいったいどこから得た情報なのかな、と」

 豪は、それは、と一旦は口ごもりながら、小さく深呼吸した。

「日記がみつかったんだ」

「日記?」

「ああ。惣太郎の主治医だった一ノ宮篠さんの日記が、惣太郎のカルテと一緒にみつかったんだ。見つけたのは……信乃だ。それは本当に偶然で、あの離れでみつかったんだよ。それを持ってきた信乃は、これで誤解が解ければ結婚できるって喜んでた」

 その時、凛太郎の瞳がなにかを捉えた。ゆっくりと視線を右から左へと移動させる。その先には央子が突っ立っている。

 凛太郎の表情が一層険しくなった。

 しかし、凛太郎が目で追うそれは央子を素通りし、凛太郎の背後へと回りこんだ。背中に緊張が走った。

 狙いは俺か?

 凛太郎はとっさに身を翻した。しかしそこには何もない。こめかみを汗が伝い落ちていく。

「凛太郎? どうした? なんかいんのか?」

凛太郎は央子の呼びかけに答えないまま、部屋中に隈なく視線を走らせていた。困惑が隠せない表情だ。

「出よう」

 凛太郎は早口で告げた。先に豪が診療所を出て、央子は残る凛太郎を気にしながらゆっくりと出た。

 凛太郎は室内に背中を向けるのをひどく嫌がりながら、後ろ向きで診療所を後にした。その後の凛太郎は終始無言だった。

 尋常ではないことを感じ取った央子は、凛太郎に寄り添うように並んで歩いた。豪は二人を心配そうにはすかいに見ながら、それでも声を掛けるのを憚った。

 凛太郎はシャツの胸辺りを鷲掴みにするように握り締め、一点を見つめたまま、考えを巡らせていた。

 誰だ? さっきの女性はいったい誰だ。胸を焦がすあの想いはさっきの女性のものだったのか?

 ようやく豪の家に辿り着くと、凛太郎の重い口が開いた。

「豪さん。当時の田辺家と一ノ宮家の関係図みたいなのが書けますか?」

「ああ、そりゃあ。書けることは書けるけど」

「どうも俺が初めに思っていた人と違う気がしてならなくて。あんなにはっきりしていたものが、今はもう靄の向こうでよく見えなくなってしまった」

 凛太郎は、ちょっとやっかいかもしれないと言葉を結んだ。


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