第4話
央子は、凛太郎でもこんなに驚くものなのだと感心していた。
驚いているのはもちろん央子もだったが、とりわけ驚いている凛太郎を見ると、自身の驚きなど取るに足らないものじゃないかと錯覚してしまいそうだ。
それぐらい凛太郎を驚かせているのは、信乃を訪ねて行った一ノ宮家での出来事だった。
「水を掛けられるなんて、生まれて初めてだ」
凛太郎は濡れたままぼそりと呟いた。頭を振って髪の毛の水気を飛ばしている央子とは対照的だった。
「凛太郎くん。央子くん。ごめんよ。なんとなくこうなるような予感はしていたんだけど……まさか本当にするとは思ってもみなくて」
豪は蹲ったままふたりに謝った。一番ひどく濡れているのは当然豪だった。
「いつまで人ん家の前に居座ってんだい!」
止めとばかりにバケツ一杯の水を更に喰らったからだ。
「あれ? 豪さん。こっちにもう一本道があるけど」
央子が小道をみつけ、指差しながら言った。豪はそれを確認しなくともわかるのか、項垂れたまま、
「ああ……。そっちに行くと信乃の家の離れに出るんだ。きっと信乃はそこにいると思うんだけどね」
「じゃあ、こっちに行こうよ。信乃さんに会う為に来たんだろ? こっちに行った方が早いじゃん」
央子は強引に豪の腕を掴み、立たせようとするが、豪にはそんな気力もないのか。一向に動こうとはしなかった。
それまで小道の奥をみつめていた凛太郎が突然口を開いた。
「いや。今日はこのまま帰った方が得策だと思う。仮に信乃さんと会えたところで、信乃さんのご両親がそれに気づかないはずもないし。もしそれが知れたら……信乃さんにも豪さんにも良い結果をもたらさないと思うよ」
「信乃さんが親に酷い目に合わされるって事なのか?」
豪は央子の言葉に大きく反応し、凛太郎が央子を窘めた。
「言葉は選べよ、央子。信乃さんを一番心配して気に掛けているのは豪さんなんだから。―─とりあえず、今日はもう帰りましょう。俺も央子も着替えをあまり持ってきていないんで、濡れたままなのは非常に困るんですよ」
豪がようやく顔を上げ、情けない顔で、
「ごめんな。俺、どうも押しが弱くてさ」
「いいえ。強引に事を推し進めればいいってもんじゃありませんからね。さっきのはあれで良かったんです。さあ、帰りましょう。―─行くぞ、央子」
一ノ宮家から戻ってきた凛太郎たちは、濡れた洋服を洗濯し、自分たちも軽くシャワーを浴びた。
三人は洗濯物を干す為に庭に出ていた。昨夜の涼しさが嘘のようなきつい日差しが降り注いでいる。凛太郎が手馴れた手つきでそれぞれの服を干していた。
「あれ? 凛太郎くん。目の色が……」
シャワーを浴びるのにカラーコンタクトを一時外していた凛太郎は、装着するのをうっかり忘れていた。眼鏡と一緒に洗面台に置いたままだ。
「ええ。俺、クォーターなんですよ。普段はカラコン付けているんですけど、最近よく装着するの忘れるんですよね。央子と一緒の時は外しているから、たぶんその癖のせいかな。変……ですか?」
変ですかと笑顔で訊かれても、妙な威圧感を感じた豪は「変じゃないよ、ちっとも」と瞳の色に触れた事を少しだけ後悔しながら答えた。
「俺、座敷牢が見たい」
突然央子が口を開いた。
唐突に飛び出してきた座敷牢という言葉に、凛太郎と豪は即座に反応できなかった。幾許かの間を置いて、豪が訊き返した。
「座敷牢?」
「うん、そう。なんでか知らねえけど、すげえ見たいんだ。見たいというか、見に行かなくちゃいけない気がする」
央子は視線をうろつかせ、落ち着きの無い様子で言った。
固く握り締めている両手は小刻みに震え、まるで凍えているように身体を前後に揺り動かし始めた。
「央子。なにか感じるのかい?」
央子の変化に顔を強張らせている豪を少し後ろに下がらせ、凛太郎は央子の前にしゃがみ込んだ。
「んん。よくわかんねえ。とにかく座敷牢なんだ。座敷牢に行かねえと」
央子は唸りながら拳を額に何度も打ちつけ始めた。それを止めさせるために凛太郎は央子の両手を掴んだ。
央子の手首から凛太郎の体内へと得体の知れないものが流れ込んでくる。映像とも音とも違うなにか。
誰かの記憶か? いや、それとも違う。
流れ込んできた何かは凛太郎の中で膨らみ始め、更に速さを増していく。凛太郎の中がそれでそれで満たされ、増幅してゆく。溢れ出しそうなそれが、凛太郎の声になって表に表れた。
「好きで好きで堪らない。気が狂いそうだ」
凛太郎は意識してそれを吐き出したのだ。そうしなければ、本当に気が狂いそうだったからだ。気が狂いそうなほど愛していた。
愛していたのだ。
凛太郎は深呼吸を一つほどして豪へと視線を向けた。凛太郎の手は央子の両手を掴んだままだった。
「藤乃さんを愛していた人がもう一人いますね?」
豪は顔を引きつらせた。それは自分と信乃しか知らない事だったからだ。
凛太郎は、まだ震えが治まらない央子を抱き寄せた。央子は凛太郎の腕の中で歯を鳴らしながら震えている。
「あの場所から早く離れたつもりだったが、ついてきてしまっていたか。豪さんの家に着いて触発されたんだな。気がつかなくてすまなかった、央子。だけどもう大丈夫だ。安心していい」
凛太郎の言葉を聞いて安心したのか、央子の震えは少しずつ治まり始めた。
「凛太郎がそう言うんなら大丈夫だ。俺、信じてるから」
央子はそう言って凛太郎にしがみついた。
央子が落ち着くのを待ってから、三人は座敷牢へと向かった。廊下の一角にその入り口はあり、廊下の床板を外すと、ぽっかりと暗闇が口を開けた。
階段を数段下りると、豪が明かりを点けた。裸電球には未だに電気が通り、すでに使われなくなって久しい階段と奥に続く廊下をぼんやりと照らした。
階段を下りきると、長いのか短いのか分からない廊下があった。
「この突き当りを左に曲がった一番奥の座敷牢が、惣太郎さんの居た座敷牢なんだ」
豪の顔がまた強張った。その顔は恐れすら浮かんでいるようにも見える。央子が突き当たりの壁をぴたりと指差し、明言したからだ。
「央子くん。わかるんだ」
恐る恐る声を掛ける豪を無視し、央子は先頭を切って歩いていく。それはまるで足しげく通い、慣れ親しんだ者のそれのようだった。
惣太郎が非業の死を遂げた場所だと言っても、一見しただけではわからない。そうだと知っているから気味が悪いだけで、とりたてて血飛沫の痕があるわけでもなし、ただの座敷牢に過ぎなかった。
しかし、豪にはなにも視えなくても凛太郎と央子には視えていた。
凛太郎が央子に視線を送ると、それに答えるように央子もまた視線を凛太郎へと走らせる。央子は唇を噛んでいた。