第3話
凛太郎と央子は、なんとか暗くなるまでに豪の実家に着く事ができた。旧家と呼んでもなんら差し支えの無いその佇まいは、排他的な町そのもののようにも見えた。
「まあ。豪さんたら、今日戻って来るのなら、そう言ってくれれば駅まで迎えに行ったのに」
豪の母親は、慌てて玄関先まで飛び出してきた。
「本当は信乃が迎えに来てくれるはずだったんだけど」
「信乃ちゃんが?」
「うん。だけどいくら待っても来ないから。それにお客さんも連れてたからね。ちょうど来たバスで帰って来たんだよ」
「え? お友達なの?」
そう言って初めて豪の母親は凛太郎たちの存在に気づき、ふたりを見た。
「とつぜんお邪魔してすみません」
凛太郎は軽く会釈をした。央子もつられてぺこりと頭を下げる。
「なんにもないところだけど。ゆっくりしていってね。さあ、上がってちょうだい。急いで夕ご飯の支度をするからね」
嬉しそうに台所へと向かう。
夕餉までまだ間があるからと、凛太郎と央子は先に部屋へ通された。
「信乃がちょっと心配だから、様子を見てくるよ」
「そうですね。それがいいでしょう」
豪は急いで部屋を出た。かなり気になるのだろう。
それにしても……。
「なあ、凛太郎。豪さんは親に恋人との仲を裂かれようとしてるっつってたよな? でも、さっきの感じって。なんかそういう雰囲気感じなかったよな。なんでだろう」
「するどいところを突くな。俺もそう思ったんだ。だけど、迎えに来ているはずの信乃さんが来ていない。さっきの豪さんの心配ぶりからすると、ふたりの仲を裂こうとしているのは信乃さんのご両親ということだろう」
足を伸ばしてすっかりくつろいでいる央子は、淡々とそう語る凛太郎をみつめた。
「なに? 央子。ここに来てなにか感じるものでもあったかい?」
「いいや、べつに。――ところでさ。俺、夜はなに着て寝ればいいと思う?」
凛太郎は、ふう、と溜息を吐いた。
「俺の替えのものを使えばいい」
「よかったあ。だめって言われたら立花でも使って持ってこさせなきゃなんないかと思った」
央子は大の字になって寝っ転がった。和室特有の青畳の香りが鼻をくすぐる。家でも和室が大半を占めている央子には、心底くつろげる空間でもあった。その央子を見下ろしながら、凛太郎はちりちりと熱を帯びるような痛覚を、心臓の辺りに感じていた。それは息苦しさも伴って凛太郎を苦しめる。
「凛太郎? どした? どっか具合悪いのか? おばさんに言ってなにか薬でももらって来ようか?」
央子が顔色を変えて凛太郎の傍へ寄ってきた。
「そんなに心配するほどの事でもないよ」
「だって凛太郎の顔。すっげえ苦しそうなんだぞ? 心配するほどの事じゃないって言われたって、信用できるかい!」
「そんなに……俺が心配か?」
「当たり前だろ! 凛太郎がいなきゃ、このテの人助けなんかが俺にできるかよ。凛太郎なら大丈夫って信じてるから、やれるんだ」
「そうか……そうだな」
不思議と央子の声を聞いていると気分が落ち着いてくる。ちりちりとした痛みも無くなっていた。
「もう大丈夫だ」
「本当か?」
訝しげに央子は凛太郎の顔を覗きこみ、
「やっぱ、疲れてんだよ。ご飯できたら起こしてやるから、それまで寝てろよ。な?」
珍しく、央子の方が甲斐甲斐しかった。押入れから布団を取り出し、敷いてやる。シーツをわざわざ取りに行ったりもした。凛太郎は笑うしかなかった。
「凛太郎! 見て見て! これ蚊帳だぜ。蚊帳。これ掛けて寝るんだって! すげえ」
せっかく横になっても、枕元を央子がうろちょろしては凛太郎もうかうか休めない。だが瞼を閉じると、央子の声が邪魔するも睡魔は容赦なく凛太郎を襲った。
眠るつもりが無かった凛太郎は、眼鏡を掛けたまま眠り込んでしまうと、それに気づいた央子がそっと外してやる。
「ごめんな。本当は今頃、アメリカでおばさんたちと一緒のはずだったのに……」
見慣れた凛太郎の寝顔をしばらく眺めていた。
央子のジーパンのポケットから戦隊物番組のテーマ曲が流れてきた。携帯電話だ。
「あ。立花だ。べつにメールでもいいのによ。マメな男だな、こいつときたら」
電話に出ると、いつもの調子で捲し立てた。ヘンタイ野郎になにもされていないかとか、いざとなったら助けに行くぞなんて事を大声で叫んでいる。
「ああ、うるせえ」
面倒臭くなった央子が携帯を切ろうとすると、横からそれをもぎ取られた。
「立花くんかい?」
携帯電話を奪ったのは、眠っているはずの凛太郎だった。確かについさっきまで寝息を立てていたはずなのだが。
「君はもうここにはいないんだ。役に立てやしないんだから、せめて邪魔だけはしてくれるなよ」
そう言って凛太郎は通話を一方的に切ると、携帯電話を放り投げた。
「り、凛太郎?」
携帯電話を放り投げられたこともショックだったが、いつになく立花に対してきつい言葉を投げつけたことが一番傷ついた。
「そんな言い方はないだろ? 立花は俺の友達だぞ? なんでそんな言われ方されなきゃなんねえんだよ」
携帯電話を拾い上げると、布団の上で胡坐をかいている凛太郎に食って掛かった。凛太郎は俯いたまま顔を上げない。小さな呻き声を上げ、布団の上に突っ伏した。央子が慌てて背中をさすってやる。
「だから凛太郎。言ったじゃねえかよ。薬をもらって来てやるって。そんなに苦しいなら我慢すんなよお」
苦しんでいるのは凛太郎なのに、なぜか央子が半ベソをかいている。
「違う。これは病気じゃない。これはどちらかというと、央子。おまえの分野のはずなんだ。それがどういうわけか、俺のところにきた。だけど安心していい。もう、これの正体はわかっているから」
額には脂汗をかいているのに、凛太郎は笑顔を見せた。
「俺の分野って事は、なに? なんかに憑かれたって事か?」
凛太郎は苦しそうだったが、大きく頷いた。
そう。これは激しい嫉妬心。 一番単純で理解りやすい感情だ。しかし、その感情がない交ぜになっている事に合点がいかなかった。
なぜ、嫉妬の対象が立花なのか。そして嫉妬せずにはいられないほどの愛しさを、央子に感じなければならないのか。
「なんで俺じゃないんだよ。俺じゃ凛太郎を楽にしてやれない。俺に憑いたヤツを凛太郎が取り除く。それでいいじゃないか。なのになんで凛太郎なんだよ。俺に取り憑けよ。バカ!」
霊感があってもなにもできない央子は、途方に暮れて大粒の涙を零した。
「大丈夫だって言っただろう? 正体はわかったんだから。そんなに泣かなくてもいい。央子……」
しがみついて、おいおいと泣きじゃくる央子を抱き締めてやる。ない交ぜのその感情は、央子の体温を感じると急激に萎んでいった。
夕餉の支度が整ったと、いつのまにか戻っていた豪がふたりを呼びに来た。泣いて目を腫らしている央子を見て、ずいぶんと気にしていたが、凛太郎の大丈夫だという一言で落ち着いた。
食卓には取れたての野菜で作られた料理が並んでいた。仕事から戻ったばかりだという豪の父親に、凛太郎と央子はしばらく滞在する事を告げた。
豪の父親は物腰の柔らかな人物で、村八分などという不遇の日々の疲れなどを感じさせない。それも町の外で働いているからなのだろう。
豪の両親の、久しぶりに戻った我が子と囲む夕餉は実に楽しげで、央子は殊更自分のした事を後悔した。
凛太郎の様子は少しも変わらず、いつものどこかスカした感じの笑顔も同じだった。
「央子。いつまでもそんな顔をするもんじゃない。豪さんが心配するだろう」
「だって。本当なら凛太郎がこうして晩ご飯を一緒に食ってんのはおばさん達だったわけだろ? それを俺が」
「まだ言うか。いいんだよ、俺は。おまえがよければいいんだ」
凛太郎は汁をぐいと飲み干し、先に席を立った。
「俺がよければいいって……そういう問題じゃねえと思うんだけどな。俺は……」
庭を散歩してくると豪に告げている凛太郎を横目で見ながら、央子はぼそりと呟いた。
りんりんと虫がそこら中で鳴いていた。
あまり手入れが行き届いていないのか、雑草が所狭しと生えている。叢の中で、か細い茎を精一杯天に向けて伸ばした薄ピンクの花がそこここで咲いている。名も知らないその花を一輪、凛太郎は手折った。
時折、自分の心を襲うざわめきをゆっくりと手繰り寄せ、その正体を掴もうと精神を統一する。激しい嫉妬。それに伴って沸き起こる憎悪。手に入らないもどかしさと苛立ち。
そしてそれらの集大成のように心を征服しようとする、他者を否定する気持ち。
「油断すると取り込まれるな」
凛太郎は呻くように呟いた。
「凛太郎! 豪さんがお風呂どうですか、だってー」
ふいに背後から央子の声がした。一瞬、虫の声が止み、辺りは静まり返った。凛太郎が振り返ると、パジャマ姿の央子がこちらへ向かって大きく手を振っている。
もうそんな時間なのか……。凛太郎は庭から直接縁側に上がった。
「凛太郎。それで浴衣とか着てたら、すっげえカッコいいと思う」
央子がしきりに感心している。
「どういう意味だ?」
「いやあ。実はもう十分くらい前からここにいたんだよね、俺。声をかけようって思ったんだけど、なんかドえらい凛太郎がかっこよく見えてさ。月明かりの下で花なんか持っててさ。様になり過ぎだっつーの」
そう茶化してくる央子の顔を凛太郎がみつめていると、
「なんだよう。カッコいいって言ってんだから、そんなに睨む事ねえだろ?」
「べつに睨んだわけじゃない。ちょっとな……」
そう言って凛太郎は着替えを取りに部屋へと向かった。
「あ、おい! ちょっとってなんだよ。気になるじゃん!」
央子が大声で訊いたが、凛太郎は手をひらひらと振るだけでなにも答えずに、廊下の向こうに消えた。
「明日、信乃さんの家に行ってみる事になったから」
凛太郎は、蚊帳に入ってくるなり言った。
「豪さんについて行くんだ?」
わかってはいたが、浴衣姿ではない凛太郎を見て央子は落胆した顔で言った。
「ああ。会えないだろうけどもう一度行くって、豪さんが言うからね。俺も気にはなっていたし」
「それって、凛太郎に憑いてるってヤツの事か?」
「おおまかな話は豪さんから聞いているから、ほとんどわかってはいるが……。あとはどうやって解決させるかって事だからな。その為に行くようなものだ」
「おおまかな話って? 俺、なんにも聞いてねえよ」
央子は横になっていたのをわざわざ起き上がり、畏まった。その顔には不満がありありと浮かんでいる。
「俺だけ、のけもん?」
「そうじゃない。たまたま話の流れがそうなっただけだ。なんで俺がおまえをのけものにしなきゃならない。央子が聞きたいって言うんなら、俺はちゃんと話してやるよ? 聞きたいかい?」
央子は何度も頷いた。自分だけなにも知らないというのはごめんだった。凛太郎の支えになりたいのに、それでは意味がない。
「本当に俺はおまえに弱いな」
凛太郎は風呂上りで濡れた髪をかき上げながら、少し困ったような顔で笑った。
あまり見たことのない顔なものだから、央子の胸がとくん、と鳴った。
「豪さんから聞いたのは、この家が村八分にされる原因だ。百十年程前、豪さんの曾祖母にあたる“藤乃”という人が、病床の夫を虐待して死なせたことが発端らしい。夫の死後、まもなく藤乃さんは気が触れて死んでしまった。夫だった“惣太郎”さんの祟りだという噂が広まり、それ以降、田辺家とは皆が疎遠になったというんだ。
とりわけなにもしてこないのは祟りを恐れているからで、とにかく関わりを持たない事で自分達を庇護したんだ。これが事の顛末らしい」
「えーと。凛太郎はもう正体がわかってるって言ってたけど。誰だよ、それ」
「ん? それはまだ秘密だよ」
凛太郎は指を口元にあて、笑った。
央子が顔を真っ赤にして怒り出すのを見ると、楽しそうに小さく笑いながら床に就いた。央子は少しだけ安堵する。先程の困ったような表情はついぞ見た事がなくて、そんな顔をさせたのは自分のせいではないかと思ったからだ。
央子をからかって笑う今の顔はいつもと変わらず、腹も立つが嬉しくもあった。
開けっ放しの障子からは庭からの虫の声がよく聞こえた。
月明かりで伸びた央子の影がゆらりと大きく揺れたが、それもすぐさま床に消えた。
盆を過ぎたばかりだというのに、いやに虫の声が耳につく夜だった。