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最果てに天深く  作者: 高原 景
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「惣領家に仕える影としての役目は、代々親から子へ引き継がれるものです。私の父は若くして影の筆頭の役目を負うていました。ですが私には父の記憶は殆どありません。私がまだ幼い頃に死んだからです」

 げんは言いながら床を見詰めた。父親が死んだのは弦が三歳かそこらの時分である。かろうじて記憶にあるのは、見上げる程に大きい男の、曖昧な輪郭だった。

「三十五年前の東方遠征の際、父は惣領につき従い東の地へと赴きました。激しい戦闘で影として生きる者達も多く命を落としたと言われていますが、父は戦場に出ることはありませんでした。父に与えられた任務はただ一つ、東の地で力ある怪魅師けみしを見つけ出し、捕えることだったからです」

 秋連しゅうれんが息をのむ気配がする。弦は顔を上げなかった。低く続ける。

「誰を捕え、多加羅たからへと連れ帰るか……リーシェン様の名は既に候補としてあがっていました。父はリーシェン様を探し出すため、風の民が住む草原地帯へ赴いたと聞いています。そこで父は風の民の戦士に西の民であることを見破られ、捕われました。そのままならば殺されていたでしょう。ですが、父の命を救ったのが、他ならぬリーシェン様だったそうです。リーシェン様は風の民の中でも特別に崇められる立場の方だったのでしょう」

 まだ十代の娘は、捕われた西の男の命を奪わぬよう仲間を説得し、解放した。無論、男の目的など知る筈もない。リーシェンが多加羅の手の者に捕えられたのは、その後のことである。

「まさか父君が捕えたのですか?」

 思わず、といった風に口を挟んだ秋連に、弦は小さくかぶりを振った。

「いえ、父はリーシェン様を捕える任から外されたようでした。風の民に捕えられた際深手を負っていましたので。リーシェン様を捕えたのは別の影です」

 僅かに躊躇い、弦は言った。

「リーシェン様は父の命の恩人、その相手を捕えることを父がどう考えたのかはわかりません。ですが、父はその後、多加羅に戻ってからも常にリーシェン様のことを気にかけていたと、そう聞いています。リーシェン様も、父にだけは自ら話しかけることがあったとか……」

 弦が生まれたのは父親が多加羅へ戻ってから三年後のことである。その時リーシェンは一児の母となっていた。娘の紫弥しやは母親と同じ銀の髪に紫の瞳、だが惣領が望む怪魅師ではなかった。母娘は屋敷の奥深くで密やかに暮らしていた。

「先代惣領が亡くなり、奥方様はリーシェン様に耶頭やずの毒を飲ませ、多加羅から追放しました。父はそのことを後になって知ったようです。事前に知っていたら、何とか阻止しようとしたでしょう」

 秋連が瞬いた。それに、弦は苦笑を返す。

「そのようなことは、影には許されぬことです。おそらく、父にとってリーシェン様はかけがえのない存在となっていたのでしょう」

「愛していた、と?」

「わかりません。そうなのかもしれません。あるいは、何か別の理由があるのか……何れにせよ、それは影にとって致命的なことです。主以上の存在を作ってしまうなど、許されることではありません」

 実際、影にとって求められるのはただ主の命に従うことだけなのだ。男女の契りさえ、影の任務を引き継ぐ子を成すためだけにある。弦は母親が誰かは知っているが、言葉を交わしたことさえない。父や弦と同じく影として生きる一人である。

 リーシェンと紫弥が多加羅を追放された後起こったことは、弦も詳しく知っているわけではない。人伝に聞いた話の断片を繋ぎ合せて、過去の出来事を弦は語る。

「奥方様はリーシェン様に毒を飲ませ追放しただけでは気がお済みにならなかったのです。來螺らいらにお二人が流れ着いたと知ると、その命を奪うよう父にお命じになられました。父は命令に従うことが出来ませんでした。奥方様に、リーシェン様のお命をお見逃しいただくよう、お願い申し上げたそうです」

 無論、相手は激昂した。影など便利な道具としか思っていなかった先代惣領の妻は、命令に従わぬ男に迫った。

 ――それ程にあの女が大切ならば、お前がかわりに命を差し出すか――

「まさか父君はリーシェン様を助けるために……?」

 問いが夜気を震わせる。

「はい。父は奥方様の言葉に頷き、自ら死を選びました。奥方様は、おそらく本気で命を差し出せと仰られたのではありますまい。ですが、さすがに父の行動を無碍にしてまでリーシェン様の命を奪うことは出来なかったのでしょう。その後、リーシェン様のお命を奪うよう、影にお命じになることはありませんでした」

 秋連の息遣いが聞こえる。漸く、弦は顔を上げた。

「これは全て、父の死後私が預けられた影の男に聞いた話です。私は父のようにはなるまいと、幼い頃から考えていました。影達にとって、父の行動は嘲笑と軽蔑の対象でしかありませんでした。父は影に徹することが出来ず、己の感情に捕われて愚行に走ったのだと……私にもそのようにしか思えませんでした」

 影に心はいらぬ。感情も、思考すらもいらぬのだと――そう信じてただひたすらに技を磨いた。弦にとっては、そうするしか自分を守る術はなかった。父の息子であるという、それだけで影達は彼にも嘲りを向けた。やがて弦の実力を周囲が認めるようになっても、父親の存在は彼について回った。所詮あの男の息子だと――

「私が初めて影として命を受けたのは、十五年前、今の灰様と同じ十七の年でした。來螺に住む紫弥様の御様子を調べ、惣領に知らせるのが任務の内容でした」

 命じられた時の感覚を、弦は覚えている。リーシェンとその娘、紫弥の存在は否応もなく父親の愚行を思い出させる。何故、よりにもよって峰瀬みなせが己に命じたのか、弦にはわからなかった。

「峰瀬様は紫弥様のことをお知りになってから、常に気にかけておられたようです。一度などは自ら來螺に赴きさえしたのだと、そう仰せでした。その折には秋連様も御一緒だったようですが」

「ああ、半ば無理矢理に連れて行かれたが、てっきり遠乗りだとばかり思っていた」

 その折に、実際に紫弥の姿を二人は目にしていた。峰瀬にしてみれば、思わぬ偶然であり、幸運だったに違いない。まるで天から地へ舞い降りた天女のような――目を奪う程に美しい娘の姿を、彼はどのような思いで見たのだろうか。

「私が來螺に赴いた時、灰様は二歳におなりでした。私はお二人の姿をはじめて目にした時のことを、今でも忘れることが出来ません」

 言いながら、弦は僅かに目を細めた。

「街の外れ、人気の無い寂しい場所にお二人はおられました。木陰で紫弥様は膝に灰様を乗せ、子守唄なのでしょうか……私にはわかりませんが、小さな声で歌っておられ、そして灰様は光と戯れておられました」

 緑陰に、木漏れ日が柔らかく降り注いでいた。その気紛れな揺らめきの中に、光が舞っていた。生まれては消え、消えてはまた散りしぶく花びらのように――あるいは雪のように、二人の姿を包み込んでいた。幼子の無邪気な笑い声に、母親へと伸ばした指先に、煌めきが灯った。

「それは紛うことなく、怪魅けみの力でした。その時既に、灰様は怪魅の力を自在に操っておられたのです」

 弦は立ち尽くし、ただその光景を見詰めていた。

「私は多加羅へと戻り、惣領には紫弥様がお元気でおられること、そしてお子様がおられることだけをお伝えしました」

 秋連が瞠目した。

「灰が怪魅師であることは言わなかったのですか?」

 問われて弦は低く続ける。

「何故、惣領に全てをお伝えすることが出来なかったのか……。影としてはあるまじきこと、許されぬことです。私は混乱し、己自身に絶望さえしました。これではまるで父と同じではないか、と。それでも私は、どうしても真実を口にすることが出来なかった。その当時の私は、灰様が怪魅師であることを告げることが出来ぬ己を認められず、あの光景は目の錯覚に違いないのだと、そう考えさえしていました」

「今は、惣領に伝えなかった理由がわかっているのですか?」

 弦は浅く頷いた。

「私はお二人の姿を見た時、美しいと、感じたのです」

 風に惑う緑陰も、空気を震わせる柔らかな歌声も、まるで命を宿したかのような光の乱舞も――そして光に抱かれた二人の姿も――全てが圧倒的に美しかった。

「影として生きる者に心など邪魔なだけだと、私はひたすらに考えて生きていました。心は感情を生み出し、人を狂わせる。私はそれまで喜びを感じたり、何かを美しいと感じることなど一度としてなかったのです。十五年前、私はお二人の姿に魅了されながら、同時に打ちのめされてもいたのでしょう。あの時、初めて自分の内部に生まれたもの……私の中にも何かを感じる部分があるのだと、気付かされたのですから」

 そしてそれは彼だけのものだった。誰にも侵すことの出来ない、誰にも奪うことの出来ないもの――あの光景そのものが、弦の心が生まれた場所、心の在り処だった。誰にも触れられず汚されることのない領域、例え相手が惣領であろうとも、弦はその領域を明け渡すことが出来なかった。

 美しいと感じたその一瞬が、弦の全てを変えたのだ。世界は色の無い事象の連続ではなくなった。何も感じずにいることは最早不可能だった。だが、それは言葉に出来るものではなかった。弦は言葉を探すことすらせず、秋連の眼差しを受け止める。秋連もまた、それ以上問おうとはしなかった。

「惣領はその後も私に紫弥様と灰様の御様子を随時報告するようお求めになりました。紫弥様が亡くなられ、灰様が森林地帯の柳角様のもとに引き取られてからも、それは変わりませんでした」

 弦は秋連を見詰める。静かな琥珀の瞳が、ひたりと向けられていた。そこにはどのような己の姿が映されているのだろうか。弦にはわからない。

「つまり、弦殿はこの十五年間、灰をずっと見守り続けてきた、ということですね」

「そうなります」

「例え惣領からの御命令がなくとも、それは今後も変わらぬでしょう。何故、今私に話をなさったのですか? 貴方にとっては、何にもかえ難い記憶を、何故私に?」

「秋連様、私はこれから遠く隔たれた場所へ参ります」

 答えにならぬ答え。だが、弦にはそう言うことしか出来なかった。秋連が訝しげな表情になる。

「多加羅の外へ赴く、ということですか?」

「はい」

「灰はそのことを知っているのですか?」

「いえ。灰様がお知りになる必要はありません」

「何故です。この三年、灰の最も傍近くにいたのは貴方でしょう。せめて何処に向かうのか伝えた方がよいのではないですか? 何より、灰が弦殿を案じずにはいられないでしょう。灰はおそらく弦殿のことを心の底では信頼し、大切な存在として認めている筈です」

「秋連様、私は今ならば父の気持がわかります。しかし、父のように影であることを捨てることは出来ません。灰様も、私のことなど気にかけるべきではありません」

「それでよいのですか?」

 短い問いに、それ以上の意味が込められている。秋連の瞳に凝る懐疑と懸念に、弦は小さく笑んだ。

「はい。私は惣領家の影、それ以上でもそれ以下でもないのですから」

 まだ何か言いたそうな様子の秋連だったが、諦めたように溜息をつくと、頷いた。

「わかりました。これ以上問うて貴方を煩わせることはやめましょう。この先多加羅で何が起こるにせよ、私が出来る限り灰を見守ると約束します」

 弦は思いのたけを込めて頭を下げた。短く、強く目を閉ざす。瞼で、濃密な闇が爆ぜる。

 父親が死んだのは、三十二の時だった。弦も今、三十二である。その因縁の不思議を思う。全ては定められていたかのように、弦は戻ることの出来ない道を進んでいる。

 迷いはなかった。

 今回の内容、98話に入れようかとも思いましたが、弦を主体に書くのは滅多にないので、敢えてわけてみました。そのせいで少し短めです。

 第二部はもう少し続きますが、どうかお付き合いください。

 ではでは今後ともよろしくお願いいたします!

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