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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 星見ほしみの塔に帰り、かいは真直ぐに部屋へ向かった。倒れ込むようにして寝台に横になる。天井を見上げると、息詰まるような感覚があった。左腕を掲げ、傷跡を見る。条斎士じょうさいしの法術に刻まれた傷は、今もなお言霊の残滓を纏っている。冷たく、暗い。それを見るたびに聡達そうたつの姿を思い出す。向けられたのは、内部までもを見通そうとするような眼差しだった。

 灰は腕で目を覆う。無性に眠りたかった。だが、思考は止めようもなく、先程の須樹すぎとの遣り取りに引き戻される。

 多加羅たからを出る――そう伝えた時の表情、そこにあったのは驚きだけではなかった。おそらくは灰が抱く迷いさえも気付いていたのかもしれない。多加羅を出ると心を決めながら、今もなお凝る思いである。多加羅を出て生きることを望む一方で、それを阻むものがある。この地に留まるのだと、どのような感情を抱こうとも、この地で生きていくのだという、それは己でも掴むことの出来ない不可解な執着だった。

 憎しみを抱くことなら容易い。復讐を誓えば、如何様にもそれを果たすこととて出来よう。その暗い衝動を忌避したのは、己の感情すらも惣領家に縛られることを厭うたが故だった。人の生さえも歪める存在への、それが灰の抵抗であり矜持だった。

 だが、結局は同じことだ。灰は皮肉に思う。どう足掻こうと、灰は惣領家に縛られている。憎むことを止めようとする己の意志さえ、結局は惣領家に与えられたものでしかない。多加羅への執着さえも。滑稽な逆転。

 敢えて多加羅を出ると須樹に伝えた、それは思い惑う自身に一つの決着をつけるためでもあった。異端の力のことも、多加羅へと来た理由も、須樹ならば受け止めてくれるだろうことは知っていた。決して拒絶せず全てを受け止める、その須樹に己の決意を伝えることで、先に進むことが出来るのではないかと――だが、実際には悔いと惑いばかりが残っていた。

 引き止められるとは思っていなかった。

(それとも、引き止められることを期待していたのか――?)

 苦く思う。それを、望んでいたのだろうか。

 ――俺を信じればいい――

 決然と、響いた言葉を思い出す。戸惑い、躊躇う。それは微かに恐怖に似ていた。受け止めきれない言葉ばかりが積もり積もっていく。まるで雪のように掴みどころもなく、だが、いざ動こうとすれば桎梏となり己を繋ぎ止める。

 思いは靄のように胸中に広がる。広がりながら、静かな想念の中に溶ける。その感覚を上手く言い表すことが出来れば、と思いながら、一方でそのまま自身の内にとどめておきたいとも思う。

 灰は瞳を閉じた。答えは出ない。何もかもが、見通せぬ闇に沈んでいた。



 暫く眠っていたらしい。灰は目を覚ました。夢も見ない眠りだったのか、眠ったという自覚さえ湧かなかった。部屋に落ちる薄闇が、時間の経過だけを伝えている。灰は身を起こした。眠りを破ったのは密やかな人の気配である。それが、部屋の前で止まり、次いで扉を叩く音が響いた。

「灰様、よろしいでしょうか」

 灰は素早く立ち上がると、扉へと近付いた。開けるのを僅かに躊躇う。声の主が、このような訪ね方をしたのは初めてである。扉を開けると、げんの姿が浮かび上がった。廊下には既に硝子筒の明かりが灯されている。

「どうしたんですか?」

「御報告申し上げたいことがあります」

 頷くと灰は弦を招じ入れた。常に人目につかぬ影で対峙していた相手である。この様子では玄関から訪ねて来たのかもしれなかったが、あまりにも弦にはそぐわない行為に思えた。そう感じること自体異常なことだが、そもそもこの相手は尋常ではない。

 緩衝地帯で別れてから相対したのは今がはじめてだった。

「まずは惣領のお言葉です。緩衝地帯での一件、若衆の尽力に感謝する、と」

 仁識にしきの若衆頭への報告が、早速惣領にも伝えられたらしい。峰瀬みなせの言葉からは、真実彼が何を思うかは読み取れなかった。

「他には、何か言っておられましたか?」

「いえ、特には何も聞いておりません。もう一点、お伝えすることがございます。私はこの度、灰様直属の部下としての任を解かれました」

 灰は目を見張る。息を吸う音がやけに鋭く響いた。裏腹に、問う声音は遠い。まるで己の声ではないかのようだった。

「何故ですか?」

「惣領の御命令です」

 それで全ての説明がつくと言わんばかりの返答だった。灰は続く問いを呑み込んだ。問うてどうする。弦が灰に仕えたことと同様、あるのは峰瀬の意思、ただそれだけだ。この三年間灰と弦の間にあったものと何一つとして変わらない。

「わかりました」

 ふと弦が黙り込んだ。沈黙に気付く程の長さ、それに灰は眼差しを上げる。正面から己を見詰める弦の姿があった。

「灰様、どうか、慈悲に捕われ過ぎませぬよう、時には冷徹であることが必要なこともございます」

 灰は訝しく弦を見やった。

「その胸に下げておられる黒玉は、いずれ灰様を呑み込むことになるやもしれません。闇は既に死した者達の墓場に過ぎません。例え、灰様のお力をもってしても決して救うことがかなうものではありません。それをお忘れなきよう」

 鼓動が一つ大きく鳴った。

「……何故、知っているのですか」

 弦は小さく息をついた。

「それでは、やはり闇を身に帯びておられるのですね」

 灰は言葉を呑み込み、弦を睨みつけた。どうやらかまをかけられたらしい。衣の上から黒玉に触る。まどろむ力は、微かに揺れただけだった。

「はじめは灰様が闇を完全に滅しているのだと思っておりましたが、あまりに迷いなく闇に対しておられるお姿に、何時からか違和感を覚えました。貴方様は躊躇い無く漂う魂を滅することが出来るお方であるのか、と。あとは常にお傍に仕えさせていいただいたが故、とだけ申し上げましょう」

 全て見通されていた、ということか。

 闇を滅することを命じられながら、灰は闇の内に捕われた魂を消すことが出来なかった。闇を怪魅の力で包み込み実体化させた黒玉は、数多の魂を内に抱いている。今も指先に感じるのは、黒玉の中に秘められた魂が放つ波である。紐に連ねた黒玉は全てで六つ。闇と対峙する度に、首にかける重みは増した。極力人目につかぬよう気をつけていたが、どうやら弦には通用しなかったらしい。だが、峰瀬は灰が闇を真実滅していると信じている筈だ。その思いを読んだように弦が言った。

「惣領にこのことはお伝えしておりません」

「何故ですか」

 警戒もあらわな灰の問いに、弦は答えた。

「惣領にお伝えするようお命じいただきませんでしたので。私の独断でそのような大事をお伝えするわけには参りません」

 飄然とした響きに、灰は咄嗟に言葉が思い浮かばなかった。唖然として弦を見る。闇を滅さないというのは、峰瀬の命に背く行為である。その重大さを弦がわからぬ筈がない。灰が命じなかったと言うが、そもそも灰は弦が黒玉の存在に気付いていることすら知らなかったのだ。漸く灰は言った。

「ですが……惣領から俺を監視するよう命令を受けていたいのではないのですか?」

「確かに灰様が森林地帯におられた折にはそのような御命令を受けていました。ですが三年前よりお仕えいたしましたのは、私が希望したが故でございます。惣領からは灰様の命に従うよう言われましたが、別段監視せよと仰せではございませんでした」

 何一つとして形を成さぬまま、幾つもの言葉が渦巻き、ぶつかり合う。立ち尽くす灰に弦が言った。

「どうか闇に捕われることのないよう、くれぐれもお気をつけください」

 普段と変わらぬ無表情でありながら、弦が真実灰を案じているらしいことに気付く。その意外さに、灰は瞬く。小さく頷き、呟くように言っていた。

「わかりました」

 弦の眼差しが和らぐ。そのまま踵を返しかけて、弦は動きを止めた。

「灰様、とうとう最後までおなおしいただけませんでしたね」

 穏やかな響きに、灰は顔を上げた。そこに、柔らかな笑みを見る。

「私に敬語などお使いくださいませぬよう、はじめにお願い申し上げましたが、とうとうおなおしいただけなかった」

 まるで独白のような呟きだった。その僅かな余韻の間、弦は灰を見やり、そして次の瞬間には全てを消した。硬質な表情で膝をつくと深く頭を下げる。決然と、何ものにも動じない岩を思わせる背中が、扉の向こうに消えた。

 灰はゆっくりと寝台に近付き、浅く腰かける。何も感情が湧かなかった。意味を成さない単語ばかりが頭の中で渦巻く。胸の奥に食い込むような痛みは、物理的な圧迫だった。

 何故、痛みを感じる。感じる必要などない。灰は眼差しを落とした。力なくたれた指先が、押し迫る夜に浸食されていた。

 灰は、ただの一度も弦の名を呼んだことが無いのに気付いた。



 灰の部屋を後にして、弦は階段を下りる。厨房と食堂を兼ねた部屋からは、黄色を帯びた明るい光が漏れていた。少女と女性の笑い声が柔らかく響く。それに暫し足を止め、弦はさらに廊下を進んだ。突き当りの部屋の扉を叩く。穏やかな応えがあり、弦は扉を開けた。

 硝子筒の光の元、分厚い書を呼んでいたらしい秋連しゅうれんが顔を上げる。弦の姿を認め、笑みを浮かべた。

「灰との話は終わったのですか?」

 弦は頷いた。

 秋連は弦を迎え入れると身振りで椅子をすすめた。弦は床の上にまで積まれた書簡の山を避け、木造りの椅子に腰かけた。古い椅子がぎしぎしと軋む。秋連もまた椅子をがたごとと言わせながら弦に向き合った。

「それで、私に話しがあるというのはどういうことですか? 惣領から何か御伝言でもあるんでしょうか」

「いえ、秋連様には少し私の話にお付き合いいただきたい」

「それはまた……どういう話でしょう」

 秋連は言いながら、目の前の男を興味深く見やった。弦と言葉を交わすのは、三年前、森林地帯に住んでいた灰へと峰瀬の言葉を伝えに行った折以来のことである。突然に星見の塔を訪れた男が、灰と秋連に話しがあるのだと言った時、峰瀬の言葉を伝えに来たのだろうと思ったのだが、違ったらしい。

「おそらく秋連様は惣領の思惑を少なからず御存じでしょう。灰様が多加羅へと来られたのは、ただ単に惣領家の一員であるが故ではありません」

「ああ、そのようですね。だが、私は詳しいことを知っているわけではありません」

「私はこの度、灰様の直属の部下としての任を解かれました。今後、灰様をお守りすることは出来ません。ですから、秋連様にお願い申し上げたきことがございます」

 秋連は僅かに目を見張った。

「私に出来ることでしょうか」

「秋連様にしか出来ぬことと思います」

 秋連は無言で話の続きを促した。弦は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

「この先、多加羅は大きく動くこととなります。これまでと違い、灰様が惣領家の者として表に出るよう求められることも生じましょう。時には果断であることを求められ、人を切り捨てなければならないこともあるでしょう」

「……まさか惣領家の代替わりのことを言っているのですか?」

「一般的な情勢のことを申し上げているだけです」

「深読みをしたくなる言い方をなさる」

 秋連の呟きに、弦は詫びるように浅く頭を下げた。

「私の立場では、これだけしか申し上げられぬことをお察しください」

「ええ、わかっています。どうぞ、先を続けてください。私に頼みたいこととは何でしょうか」

「どのような事態が生じようと、この場所を、守っていただきたいのです。私のような立場の者が差し出がましいことを申し上げますが、灰様には帰る場所が必要なのです」

「それが、ここだと?」

「はい。あの方を繋ぎ止め、支えとなる場所です」

 唐突に弦は黙した。なおも言葉を待っていた秋連だったが、一つ溜息をつく。どうやら、言いたいことは言った、ということらしい。確かに影である男の常からすれば饒舌であり、思いがけない言葉の連続ではあったが、それにしても簡潔に過ぎる。

「弦殿、何故私にそのようなことを仰られるのですか。私は何の力も持たぬ星見役です。この先多加羅の情勢が不安定となれば、この地位とて何時まで保証されるかわかりません」

「地位の問題ではございません。この三年、灰様を導いて来られた秋連様であるからこそ、申し上げているのです。秋連様は常に灰様をより良き方向に誘おうとなされていました。今日の灰様があるのも、秋連様のお力によるところが大きいのでしょう」

「買い被りが過ぎるようですね。彼は既に柳角りゅうかく様のもとで育むべき多くのものを得ていた。私がしたことは農夫が水を撒くのと同じことです。もとより豊かな土壌があり、種が播かれていれば、植物は育ちます」

「ただ水を撒いただけでは植物も野放図に育つだけでしょう。どれ程に優れた資質があろうと、それは導く者の存在で大きく形を変えます。灰様が己の資質を育て、己が力とする術を教えたのは秋連様です」

 秋連はまじまじと弦を見る。まるで父親が息子を、兄が弟を見守るような、弦の言葉である。思うままに、秋連は問うていた。

「何故、弦殿はそれほどまでに灰のことを気にかけるのですか? 惣領家の血筋であるという、それだけではないように見受けますが」

 弦の視線が落ちた。部屋は次第に暗さを増す。それにつれて、硝子筒の明かりに浮かび上がる弦の顔は、影をますます深めていた。踏み込み過ぎた問いだったか、と秋連が思ったその時、弦が言った。

「少し、昔語りを聞いていただけますでしょうか」

 それは、静けさに滲む声音だった。炎が柔らかく揺れた。

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