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最果てに天深く  作者: 高原 景
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96

 若衆の副頭ふくがしら四人が鍛練所で顔を合わせたのは、須樹すぎ達が多加羅に戻った翌日、早朝のことだった。若衆達が来るまではまだ間がある。広い会議室にまず須樹が、次いで設啓せっけい仁識にしきの順に集い、最後にかいが姿をあらわした。

 事前に仲間が多加羅に戻った知らせを受けていた仁識だったが、須樹と灰に最後に会ってからはかなりの日数が経っていた。

「それで、結局はどういうことだったんだ?」

 第一声に問うたのは仁識だった。椅子に座ることもせず腕を組んでいる。声は静かだったが、内心の何かを抑えつけているのがありありとわかる。須樹が無事戻ったとはいえ、仁識はいまだに何も知らされていない。

「俺は知らぬ。そこの二人に聞いてくれ」

 答えた設啓は素気ない。名指しされた二人、須樹と灰は僅かに目を見合わせた。多加羅へと戻ってからはじめて顔を合わせる二人である。

「結論を言えば、全ては耶來やらい内部の抗争に端を発していたようです。耶來で力を持ちだした鬼逆きさかに対抗するため、蛇と呼ばれる男が金目当てに緩衝地帯で騒動を起こしていました」

 灰の答えはごくあっさりとしたものだった。その内容は須樹が多加羅へ戻る道すがら設啓に語った内容と違わない。仁識の眉が寄る。表情が欠片も納得していないことをあらわしていた。

「金目当てとは、つまり蛇とやらが依頼を受けていた、ということですか。何者がそのようなことを蛇にさせたのかはわかったのですか?」

「いえ、それはわかりませんでした。ただ、目的は評議会で緩衝地帯の権利を沙羅久しゃらくへと渡すよう、意見をまとめさせることのようでした」

「須樹は、その蛇とやらに捕われていた、ということですか?」

 仁識は他の者には視線を向けようともしない。敢えて灰にだけ問うているのだろう。かやの外に置かれ、須樹は設啓をちらりと見やった。無表情だったが、二人の遣り取りに意識を集中していることは見て取れた。

「須樹さんを捕えていたのはおうなでした。媼の手の者も蛇達を監視していたようです」

 灰の説明は簡潔だった。そして巧妙である。それに、須樹は気付かずにはいられなかった。

 大筋はこうである。緩衝地帯で騒動を起こした蛇は、目的を阻もうとする媼の力を削ぐために、若衆、ひいては多加羅と媼の対立を引き起こそうとした。多加羅若衆が媼の元を訪れたことでそれは阻止され、追い詰められた蛇は笠盛りゅうせいから逃亡した。

「そして、逃げた蛇を鬼逆が捕えた、と? 何故それまで蛇を放っておいたんですか」

「鬼逆も媼の縄張りでは手を出すことが出来なかったんでしょう」

 そういう理由もあったか、と思わず須樹は納得する。鬼逆は媼の不興を買うようなことを決してせぬだろう。それが、今や須樹にもわかっていた。

 鬼逆が緩衝地帯との取引を目的としていたことは言わぬ――それは灰との間で暗黙の了解となっていた。緩衝地帯と耶來の交易が実現するとしても、それは公にされることはない。惣領家にとっては緩衝地帯が己の及ばぬ力を有する一事である。緩衝地帯としては公にしてはならぬ、というのが真実だろう。故に評議会での鬼逆の証言も秘される。

 その証言はまさに今日、緊急に開かれる評議会で行われる筈だ。既に終わっているかもしれぬ、と須樹はちらりと思った。鬼逆がどのような顔で評議会の面々に対するのか想像もつかなかったが、あの男ならばしくじりはしないだろう。

 うねりは静まり、全てが終わる。しかし不審の念をあらわにする仁識と、どこか難しい表情の設啓を見れば、二人が何か勘付いているのではないかと須樹は思わずにはいられない。片や涼しい顔の灰は淡々と言葉を紡いだ。

「最終的には媼も若衆の潔白を信じたようです。評議会で蛇の思惑通りの意見がまとめられることはないでしょう」

「黒幕は不明、肝心の蛇は耶來に捕えられ、緩衝地帯に変化は起こらない……つまり、何も起こらなかったのと同じ、とそういうわけですか」

 仁識の声音はどこか皮肉気だった。言葉をそのまま信じてはいないだろう。だが、納得出来るだけの話だとは認めたのかもしれない。

「はい。惣領と透軌とうき様には俺から報告をしておきます」

「いえ、報告は私がします」

 え、と思わず須樹は声を出す。それに目をやることもせず、仁識は言った。

「透軌様は今後、全ての報告と連絡を私がするよう仰せです」

 ふと落ちた沈黙は軽くもあり、重くもあった。戸惑い、須樹は灰を見やる。これまで若衆頭への報告は全て灰が行っていた筈である。灰の表情から内心の思いは読めない。答えもまた同様だった。

「わかりました」

 仁識は何事かを問いたそうな気配を見せたが、それを振り切るように、さて、と言った。そろそろ若衆達が鍛練所に集まり出す刻限である。

「皆にも副頭の無事の帰還を告げねばなりません。若衆にはどう伝えたらいいですか」

 灰は僅かに首を傾げた。この問いは意外だったらしい。その視線が窓へと流れ、無人の広場を見詰める。懐かしむような色がその表情を掠める。あたかも戻ることの出来ぬ過去を見るような、一瞬のそれに須樹は気付く。仁識も気付いたのか、訝しげな顔を灰に向けていた。

「もう何も案ずることはない、と」

 静かに灰が言った。



 鍛練はいつにも増して熱心に行われた。久々に四人の副頭が集ったことが、若衆達に活気を与えていた。

「一人で皆を纏めるのは大変だっただろう」

 須樹は若衆達の鍛練を見守る仁識の横に立つと言った。仁識はちらりと須樹を見やり、小さく肩を竦めた。

「副頭が戻って来た時に、副頭の恥となるような姿を見せぬよう鍛練に集中しろと言っただけだ。つまりは、お前達の人徳によるものだな」

 須樹は苦笑する。如何にも仁識らしい物言いだった。実際にはそう容易いことではあるまい。三範を与る副頭と若者達の繋がりは強く、それだけ副頭が欠ける影響は大きい。若衆が混乱を来すことなく、まとまりを失わなかったのは偏に仁識の手腕によるものだった。

 二人は広場へと目をやる。錬徒れんとと何やら話をする灰の姿が見えた。しきりに話しかける錬徒に、灰が幾度か頷くのが見えた。合間に仄かな笑みも見える。仁識は小さく溜息をついた。珍しい。須樹は思わず仁識を見た。

「相変わらず食えないな」

 何を指しているのか――おそらくは何もかも、だろう。この状況と、それを作り出した人物に対して。

「心配をかけてすまなかった」

 漸く須樹は言った。本来ならば一番はじめに言うべきことだった。例え表情には出さずとも、仁識は須樹の身を案じていただろう。仁識の答えは素気ない程の響きだった。無論、それに欺かれはしない程度に須樹は仁識を知っている。

「無事ならそれでいい。これで冶都やとも少しはおとなしくなるだろう。お前がいなくてはあいつがうるさくてかなわぬ」

「ああ。あいつにも心配をかけてしまった」

 冶都とは多加羅へと戻った昨日のうちに再会を果たしていた。どうやら冶都は、須樹の両親のもとに毎日通っていたらしい。両親の不安を少しでも和らげたかったのだろう、彼の気遣いに、須樹は言い様のない感謝を覚えていた。涙と開けっ広げな笑顔、如何にも冶都らしい再会を思い出し、須樹は小さく笑んだ。

 だが、その笑みもすぐに曇る。仁識の横顔に視線を据えて問うた。

「仁識、俺達がいない間に何があった?」

「何、とは?」

「さっき透軌様への報告は全て仁識が行うと言っていただろう。灰が不在の間はいいとして、何故、これまでのように灰が報告をしない。仮にも灰は惣領家の一員だ。灰を差し置いて仁識が報告をするのは不自然だろう。まるで透軌様が灰を遠ざけようとしているような印象を周囲に与えることになるぞ」

「やはりお前は馬鹿ではないな」

 返って来たのはどこか皮肉な笑みであり、苦い声音だった。

「私こそ問いたい。緩衝地帯では真実何があった」

「灰の言葉を信じていないのか?」

「確かに辻褄が合う、よく出来た話だ。だが、私が容易く言葉のままに信じると思うのか? お前は何を知っている。まだ言っていないことがあるんじゃないのか?」

「それは俺も是非知りたい」

 横合いから割り込んできた声に、二人は振り返った。設啓が何気ない様子で近付いて来る。一体何時から聞いていたのだろう、と須樹は思った。仁識はあからさまに顔を顰めると、設啓を睨みつけた。

「盗み聞きとは恐れ入る。最早本性を隠す気もないようだな」

 須樹は訝しく二人を見やった。仁識が何を言わんとしているのかがわからない。だが薄く笑んだ設啓は、正確に込められた意味を察しているらしい。仁識には答えず、須樹に視線を向けた。

「須樹、緩衝地帯で起こったことは先程の灰の話で全てではないだろう」

「何を言っている。あれで全てだ」

「信じると思うか? 俺が笠盛で見ていた限りでは、真実はあんなに単純ではなさそうだったんだがな。しかも灰の言葉には、多くの場合裏があるようだ。お前を捜すために、緩衝地帯での調査を言い出したのだってそうだろう」

 事実であるだけに、須樹は咄嗟に答えかねる。その様子に設啓は目を細めた。

「例え知っていたとしても、お前は言わないだろうな」

 揶揄する響きだった。設啓が仁識をちらりと見る。

「俺の忠告通り、透軌様には真実を御報告申し上げたのか?」

「お知らせすべきと思ったことは全て報告した。私が何を言ったか気になるならば、直接透軌様にお聞きすることだな。それとも絡玄らくげん様にお聞きするか?」

 須樹は知らず息を詰めた。剣の立ち合いにも似た、張り詰めた遣り取りだった。設啓が小さく鼻を鳴らした。

「それにしても、何故先程、透軌様への報告の件を灰に伝えた? あのように言えば、灰が真実を話す筈がないとわかっていただろう。あるいはそれが狙いか?」

「いつになく饒舌なことだな。どうとってもらっても構わぬが。それ程に気になるならば若様に直接聞けばいいだろう」

「俺に真実を話すとは思えんのでね。どうやら俺は灰に信頼されていないらしい」

 設啓が放り出すように言った。自嘲と皮肉が入り混じった笑みを浮かべ、踵を返す。その背に、仁識が言った。

「私も忠告した筈だ。若様を甘く見るな、とな。傍近くで若様を見ていながら真実がどこにあるかわからぬならば、それはお前自身の問題でもある」

 設啓が険しい視線を仁識に向けた。一体何が二人の間にあるのか須樹にはわからない。決して打ち解けた間柄ではなかったが、このように険のある遣り取りをする仲でもなかった筈だ。

 設啓は束の間あらわとなった感情を隠すように、広場に目をやった。

「確かに俺は見誤っていたようだな。だが、俺からも一つ言っておく。灰を信じすぎない方がいい。信を置くには危険な相手だ」

「設啓、いい加減にしろ」

 思わず須樹は言う。設啓はなおも広場を見やったままだ。視線の先には灰の姿があった。

 錬徒に頼まれたのか、木剣での立ち合いが始まっていた。矢継ぎ早に打ちこまれる木剣をかわし、灰が滑らかに動く。錬徒の動きは鍛えられたものだったが、灰に比べれば重く、鈍ささえ感じさせた。勝負は一瞬でついた。木剣を一閃した灰が、相手の得物を弾き飛ばす。鋭い音が響き、周囲で見守っていた若衆から歓声が上がった。

「まさに疾剣はやつるぎだな」

 設啓が呟いた。感情を込めぬ声音にも関わらず――あるいはそうであるが故に、言葉は硬質な余韻を残した。

「それは違う」

 須樹は答え、うろたえた。一拍の遅れ、意図せずに生じたその間隙が、己の答えが心からのものではないことを、彼自身に知らせた。設啓も気付いたか、ちらりと須樹を見た。

「お前もわかっているだろう。切れすぎる剣は時に害にしかならない」

「切れもしない剣を飾り立てて己の威とする方がいいというわけか」

 仁識の言葉は冷笑を含んでいた。

「少なくとも己のみならず周囲にまで禍をもたらす疾剣よりはましだ。威を以て他を制するのはむしろ無用の争いをなくすうえでも望ましい」

「実利を漁る卸屋に相応しい考え方だが、今の多加羅には玉で飾り立てただけの剣など、さして役にも立たぬぞ。卸屋ならばそこらを見極めるべきだな」

 設啓が目を細めた。

「それが、答えか。お前こそ時宜を見極める目があるかと思っていたが、買い被っていたようだ。だが、何時までそのような態度を取ることができるだろうな」

「私は若衆として必要だと思ったことをしているだけだ。第一義に卸屋であるお前とは違う」

 設啓は表情も変えず、正面から仁識に対した。

「ああ、そうだろう。だが、お前は何時までも若衆でいられるわけではない。せいぜい透軌様の御不興を買わぬよう、気をつけることだな」

 言うと踵を返す。遠ざかる設啓を見やり、二人は暫し無言だった。

「設啓と何があった?」

「お前が気にすることではない」

 仁識の声音から、須樹はそれ以上問うても無駄だとわかった。

 以前とは何かが少しずつ違う。その些細な一つ一つが繋がり合い、重なり合って、違和感が次第に大きくなっていく。一時的なものではあるまい。何かが、決定的に変わったのだ。

(だが、それは何だ……?)

 例えば、仁識の立ち位置――ほんの一月程前、相対した時に感じた距離はこのようなものだっただろうか。そして、灰を疾剣と評する設啓の言葉だ。以前の彼ならば決してそのようなことは言わなかっただろう。何よりも、その言葉を即座に否定出来ぬ己自身もまた以前とは違う。

 疾剣――別名を無頼剣とも言う。並外れた使い手をあらわすその言葉は、必ずしも肯定的な意味ばかりを含んでいるわけではない。凶に属する使い手をも指すのだ。転じて若衆の剣舞つるぎまいでは、和を乱し、時にその鋭さにおいて自他を危険に晒す舞い手を意味する。どれ程に華麗であろうとも、剣舞においては禁忌とされる存在だった。

 ――灰が疾剣だと言うのか――

 再び灰を見やる。次の若衆と立ち合いをしている姿は、まるで磁力があるかのように人目を引きつける。

「疾剣……か」

 呟くと、仁識がちらりと須樹を見たようだった。

 剣舞の群舞の中では灰は他よりも抜きん出ているようには見えない。あくまでも基本に忠実に動く。灰が真に人の目を引きつけるのは、むしろ立ち合いや試合の時だった。独特の華があるのだ。時に相手が怖気づく程のその雰囲気が、果たして武の気迫によるものだけなのか。否、と須樹は即座に思う。剣を手に、灰と相対したことが何度もある須樹にはわかっている。

 灰が醸し出す華やかさは烈しさでもある。鍛練では得ることの出来ぬ何か――天与のものなのか、誰もが持ち得るものではないだろうことは容易に察しがついた。極力無駄を排した灰の動きは、あまりに静かであるが故に、常には感じさせぬ何ものかを時にあらわにする。言うなれば、自律と抑制の底にある峻烈――普段自己の主張を殆どせぬ灰だからこそ、尚更に人に与える印象が強い。副頭として一目置かれる理由は、そこにもあるのだろう。

 あるいは、剣にあらわれる烈しさは、灰の人となりそのものに端を発するものであるのか。おそらくはそうなのだろう、と須樹は考える。どれ程灰が己を抑え込もうと、人は無意識であれそれに気付く。決して目に捉えることの出来ない空気として――灰を包み込む牙蒙がもうの咆哮として。それが灰を周囲から浮き立たせ、溶け込むことをさせない。

 疾剣――「異」、という存在をそう言うならば、灰は紛うことなき疾剣だ。

「設啓が言ったことは気にするな。私達は若様を設啓よりは知っている筈だろう」

 須樹の考えを読んだように、仁識が言った。だが、知らないこともまた多いのだ、と須樹は思う。同じ思いを、仁識の眼差しにも見る。

「むしろ真に疾剣ならば、若様ももう少し楽かもしれないな」

 ぽつりと仁識が呟いた。その意味を須樹は何故か問うことが出来なかった。

 灰がまたも一人の木剣を弾き飛ばす。歓声に、須樹の物思いは呑み込まれた。



 灰が須樹を呼びとめたのは、彼が鍛練所の門を出た時だった。待っていたのだろう、軽く壁に凭れた姿勢から須樹に向き直る。連動して外套の裾が揺れた。少し日が長くなったとはいえ、いまだ冬である。鍛練は他の季節よりも短い。若衆は既に大方帰路についている。仁識も報告のため既に惣領家の屋敷に向かっていた。

「話を、聞いていただけますか?」

「ああ」

 殆ど反射的に須樹は答えていた。そして思わず苦笑する。灰がそれに瞬く。灰らしく直截、と言えばいいのか、話すと決めたからには躊躇いは微塵も感じさせない。

「約束だったな。全てが終わった時に話しをする、と」

「はい。それ程時間はかかりませんが……ついて来てください」

 歩き出した灰の後に須樹は続いた。この場では話せぬ、ということなのだろう。須樹が滅多に行くことのない、貴族の屋敷が建ち並ぶ界隈を通り抜け、さらに向かった先は山へと続いていた。道幅が次第に狭まり、木々の覆いの下に入り込んだ時には大人二人が辛うじて並び歩くことが出来る細さにまでなっていた。

 そのまま星見の塔に向かうのかと思っていた須樹だったが、灰が不意に道を折れた。茂みに隠れて見えなかったが、山肌を這う曲がりくねった道がある。獣道だろうか。灰は通い慣れているようだった。巨木の傍らを通り過ぎる際、節にそっと手を触れた様子は半ば習慣化した動きに見えた。木々の間を漂う空気は清澄でありながら、水の中を思わせて見通しが効かない。視野を覆い、体に纏わりつく。

 斜面を四半刻程進んだ時だった。須樹は灰の後に続いて茂みを押し分け、息を呑んだ。唐突に視界が開け、空が見えた。青い、と思った。山肌の一隅、小さく開けた場所に須樹は立っていた。視線を下に転ずると、多加羅の街が広がっていた。左手の斜め下には星見の塔の屋根が木々の合間から見えた。須樹は立ち尽くし、眼前に広がる空間を眺めた。

「いい眺めだな」

 凡庸な言葉だった。だが、他に言い様が見つからない。多加羅の街をこれ程の高さから見たことは嘗てなかった。街の全てが一望出来る。己が生まれ育った街でありながら、見たこともない場所に感じられた。

「よくここには来るのか?」

 灰は頷いた。

「一人で考えたい時に」

 抑揚もなく刻むような言葉が、歌を口ずさむように響いた。

 それならばここは灰の領域だ、と須樹は思う。敢えてこの場所を選んだ、そこに幾許かの意味を見出すのは考え過ぎだろうか。長くはかからないと言った灰だったが、何を話すか考えあぐねているようだった。小さく息をつくと、言った。

「俺は、多加羅を出ようと思っています」

 須樹の反応は一拍遅れた。灰が須樹を振り返った。

「今すぐ、というわけではありません。ですがなるべく早く、やるべきことをやってから」

 まるで己に言い聞かせるように、言葉の重みを己の心に刻みつけるように、繰り返す。

「多加羅を出ます」

「……何故?」

 乾いた声音であることが己でもわかった。灰の背後、遠く西南の空に透き通るような雲が在った。淵が暗い。淡い緑と紫の中間、その色彩が目についた。曖昧なそれに比べ、灰の瞳は深い藍だ。天に近い。あるいは遠さを感じさせる。

「はじめから、話します。俺が多加羅に来た理由から」

 灰は言った。

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