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梓魏の地――万にとって、日々の流れは単調に、忍耐を要するものとなりつつあった。近衛隊への道が開かれたことは確実な一歩とは言えたが、状況が即座に変わるとは思えなかった。それは緩衝地帯へと発った清夜から、依然として何の音沙汰もないせいもあった。状況が不透明であることは、彼を苛立たせる。殊更に感情を殺すことで、万はそれに耐えた。
近衛隊への異動を命じられた翌日、万は指定の時間よりも僅かに早く近衛隊統括本部へと赴いた。その建物は壮麗な惣領家の屋敷の傍らに、まるで無骨な番犬さながらに蹲っている。黒味を帯びた石造りの壁が、まだ薄い朝の光のもと張り詰めた硬質さを醸し出していた。
手続きはごく簡単なものだった。万に関する詳細な情報は事前に届けられているのだろう。建物を入ってすぐの所にある詰所で名前を告げると、何やら分厚い書物を渡され、一人の案内役をあてがわれた。書物は近衛兵の心得を記したものらしかった。まだ年若い案内役について歩き、装束のための採寸や建物の内にある部署の説明など、大方の雑事を済ませる。一つの部屋で書類に半ば埋もれるようにして筆を走らせている帆群の姿もあったが、万に気付いた気配はなかった。
近衛の練兵場は建物の裏手にあるらしく、交替で惣領家の護衛につく以外はそこで鍛練を行う。そう説明した案内役は、声を潜めて続けた。
「近衛は名誉の職で憧れる者も多いんですが、精神的にも体力的にも厳しい任務なんですよ。昼夜を問わず長時間の単調な警護に当たって、尚且つ武術の腕も鍛えなければならない。戦争があるわけじゃなし、それ程人数を揃えてはいませんからね。入隊してもついていくことが出来ず脱落する者も少なからずいます。名前につられて入ったはいいが、普通の兵卒の方が結局は良かった、なんて言い出す者もいますからね」
適当に相槌を打って万は苦笑をかみ殺す。案内役の言は尤もなことではあるが、新たに近衛に加わる者に言うことでもあるまい。あるいは自分と同じ世代の相手に気が緩んだのかもしれなかった。
「椎良様を御覧になったことはありますか?」
万の問いに相手は僅かに得意そうな顔を見せた。
「ええ。実はこの建物は三階の端の窓から惣領家の庭園が見えるんですよ。運が良ければ散策をされている椎良様を見ることが出来るんです。私も何度かお見かけしましたが、お美しいお方です」
「それは是非お会いしたいものです」
「貴方は護衛の任で傍近く仕えることになるんですから、すぐにかないますよ。私なんか事務方なので間近に拝見することは出来ませんからねえ」
「それもそうですね」
他愛無く言葉を交わし、最後に案内役は練兵場の端に建てられた兵舎へと万を連れて行った。
「じゃあ、私はこれで。ああ、そうだ。装束が出来るまでは仮のものを兵舎の倉庫役から借りて使ってください。武器やら防具やらはそのまま使うことになるので、なるべく質のいいのを確保した方がいいですよ。今日の午後から貴方は正式に近衛隊の一員として任務を負うことになりますからそれまでに準備をしておいてください」
「わかりました」
案内役を見送り、万はあてがわれた一部屋へと向かった。四人共有の相部屋であるそこはさほど広くなかったが、それまでいた訓練場の部屋よりははるかに居心地が良かった。近衛兵の心得をぱらぱらと捲り、使われている気配のない寝台に軽い荷物を放った。そのうちに何となしに辟易として書物も寝台に放り投げ、万は倉庫役のもとへと向かった。
倉庫役から受け取った近衛の装束は赤を基調としていた。鎧一式は古びていたが丈夫である。それらを身につけ、黒い外套を纏う。念のため支給された剣の点検を行い、十分に砥がれていることを確認しているうちに時間は過ぎて行った。
「よお、お前が新入りか?」
背後から声がかけられたのは、万が剣の柄の握り具合を確かめている時だった。振り返ると、逞しい体つきの男が戸口に寄りかかるようにして立っている。万よりは年嵩に見えたが、それでもまだ三十の前半と言ったところだろう。赤と黒の鮮烈な色彩の対比に一瞬目を奪われ、己も同様の姿をしているのだと気付いて内心に苦笑した。
「はい。万といいます」
「おいおい、敬語はよしてくれ。むず痒くなっちまう。俺は同室の柳だ」
差し出された手を万は握る。力強く腕を振って男は快活に続けた。
「他の二人も紹介したいところだが、今日は屋敷詰めだから戻らん。二人ともお前が来るのを楽しみにしていたぜ。この時期に新入りとは珍しいからな」
「そうか」
「今日の午後からだろう? とりあえず飯でも食いに行こうぜ。夜の警備と昼の警備があるからな、空き時間に食べられるよう食堂は何時行っても大概開いている。ここの食堂は、味はいまいちだが量は多い。腹は十分に膨れるぜ」
頷いて万は柳の後に続いた。柳は多分に面倒見の良い性格であるらしい。身ごなしはさすがに鍛えられた者のそれだったが威圧感を与えるわけでもなく、まるで周囲を巻き込むかのような明るい男の気質に万は好感を持った。
「近衛なんてのはな、要は番犬と一緒だ。いりゃあそれだけで周囲への牽制になる。無論、腕がたたなければ番犬にもならんがな」
柳の言は屈託がない。話を聞けば、柳が近衛隊に入ったのは一年程前、近衛隊の中では新参である。だが、食堂で方々から声をかけられる様を見れば、それを感じさせはしなかった。
とかく閉鎖的で威圧的な印象を人に与える近衛隊ではあるが、食堂のあちこちで寛ぐ男達の姿を見れば、普通の兵士と何ら変わらなかった。万はおかしく思う。十年以上前に先代由洛公に付き従い初めてこの街を訪れた時、惣領家の屋敷を守る近衛兵の姿はまだ少年だった彼に重苦しい威圧を感じさせるものだった。彼にとっては、惣領家そのものよりも、近衛兵の揺るぎない立ち姿そのものが、梓魏の権威の象徴として映ったのだ。
窓際の空いた席に座り、柳の言葉通り味はともかく、山盛りの食事を口に運びながら万は問う。
「新しい入隊者が惣領家の警備につくのは何時頃からなんだ?」
「そうさなあ。普通は近衛隊に入ってから暫く経ってからだが、どうだろうな。最近は警備の数が増えているからもっと早くになるかもしれんな。なんせ玄士の馬鹿息子がやたらと姫を連れ出すからな。母君も神経質になっていて、もっと警備の人数を増やせとうるさい」
ふむ、と唸った万に柳はにやりと笑った。
「玄士の息子は椎良様の婿の座を狙っているのさ。だがしょうもない男でな、自分を世界の中心と思っている部類の若造さ。姫に相手にもされていないというのに、しつこく付き纏っている」
「椎良様はどのような方だ?」
柳はにやにやと笑った。
「何だ? 興味があるのか? 雲の上のお方だぞ」
「そういうわけじゃないさ。ただ自分が護衛する相手がどのような人物か知りたいだけだ」
「ふうん。まあ、いい心がけだな。おそらく非常に芯の強い方だと思うぞ。目がお見えにならないが、誰にでもお優しい。母君がどうにも過保護であまり人の前には姿をお見せにならないが、皆に慕われている」
「立派なお方だな」
言いながら万は口一杯に飯を頬張った。
「ああ。十年前の暗殺未遂以来どうなることかと思ったが、椎良様が次の惣領におなりになれば梓魏の未来も明るいだろうよ」
柳は満面の笑みで言うと、飯をもう一杯などと呟いて椀を片手に厨房へと向かって行った。その背を見るともなしに見ながら、万は飯を無理矢理飲み下した。何となしにそれ以上食べる気にもなれず、熱気に曇る窓硝子を見やった。その向こうに広がる光景は不透明に霞んでいる。窓を拭おうとして伸ばしかけた手を、万は引っ込めた。
結露は柔らかい絹を思わせる。万は、柳が戻るまでそれを見つめ続けていた。
柳の言葉通り、万が屋敷の警護についたのはさほど日数も経たぬ頃だった。椎良の母親が極度に過保護で神経質なのは事実のようで、屋敷の内にまで近衛兵が配され、監視の目が届かぬ場所などないのではないかと思わせる有様である。
万がまず配されたのは、庭園の一角だった。外部からの侵入者を見張るためか、到底人が通らぬと思われる木立の中である。
目論見通り近衛隊に入ったとはいえ、これでは椎良の傍近くで目を光らせることは出来ない。清夜の話では、はじめに働きぶりを見て、問題がなければより身近な警護に移されることになるだろうという見込みだった。それが何時になるのか。
焦りは禁物だ――己に言い聞かせ、万は日々の任務をこなした。
その後続いた近衛隊の日常は概ね単調なものだった。見た目の華やかさとは裏腹に、内実は実直さと忍耐が求められる。警護の合間をぬっての鍛練は厳しいものだったが、男達は黙々と己の技を磨いていた。男達が抱くのが精鋭として認められたことに対する自負だけではなく、無私にまで高められた梓魏への忠誠心であることに、万はやがて気付いた。
「私はこの命を出来るならば梓魏のために捧げたい」
言ったのは万と同室の一人、名のある貴族の三男だという優理である。年の頃は万と同じくらいか、おそらくは下だろう。
「大袈裟だな。お前、まさか警護している間中そんなことを考えているのではないだろうな」
何につけ真面目な優理に対して呆れたように言ったのは万の正面に座った柳である。傍らではもう一人、普段から物静かな矢束が苦笑している。四人の中では最年長だろう。剣を持たなければ学士で通りそうな知的な男だった。珍しくも同室の四人が食堂に集っての他愛のない会話である。
「知っているか? 春先に椎良様が中央に赴くという話があるらしい」
矢束の落ち着いた声音が響いた。万はちらりと物静かな男の顔を見やった。柳がへえ、と驚いたような声を上げる。
「それはまた大事だな。何故だ」
「まだ確たることは言えないらしいが、中央は今不穏な情勢のようだな。皇帝のお体が以前からすぐれぬという噂はあったが、どうやら次の帝位を狙っての権力争いが本格化してきているらしい」
「おいおい、そんな話聞いたこともないぞ」
「そういうことは極力伏せられるからな。だが、最近では病に伏せる皇帝に憚りもなくあからさまな争いに発展しているというから、皇帝の命はもうながくはないと考えられているのだろう」
「何故、それで椎良様が中央に赴くということになるんだ」
「帝位継承の際は往々にして全土を巻き込んでの権力争いに発展する。惣領家が中央に召集されるのもそれと関係がある」
「そういえば父上が言っていました。皇位継承の際には、覇を争う手段として所領の扱いを巡る策謀が行われることが多い、と。惣領を一堂に集めて、彼らが皇位を争うどの陣営に属するかでそれぞれの優位を示そうとすることもあるとか。それに伴い所領の線引きが大きく変えられることもあって、惣領家にとっても力を伸ばすまたとない機会だそうですよ」
優理が言えば、柳が渋面で首を振った。
「何だそれは。死にかけている皇帝の横でそんなことをするのか」
「まさに腐肉を漁る獣の如し、見るに堪えぬ有様と言うからな。実際、所領の図が大きく変わるのは皇位継承の時が多い」
万はまじまじと矢束を見る。
「詳しいんだな」
「書を覗けばすぐにわかることだ。隣りの沙羅久が力を伸ばしたのも、今の皇帝の代になる時に中央でうまく立ち回ったせいだと言われている」
空き時間があれば書物を読みふけっている男である。歴史にも造詣が深いのだろう。
「それにしても、今の東の所領はどこも不安定ですね。後継ぎの椎良様がおられるとはいえ梓魏はここ一年惣領の座が空いていますし、沙羅久も多加羅も代がかわればどうなることか。中央に各惣領家が集えば、また一波瀾あるかもしれませんよ」
「そうなのか?」
思わず問うた万に、優理が苦笑した。
「なんだ、知らないんですか? 旅をしてきたのなら各所領の事情にも明るいんじゃないですか?」
「まあな。だが東の地を踏んだのは暫くぶりだからなあ」
万は肩を竦めた。実際には少し違う。沙羅久の惣領が心臓を病み、長男に近々位を譲るだろうということは知っていた。己でも意外な程に知らなかったのが多加羅についてである。嘗てより何かと諍いの絶えない沙羅久と多加羅――次第に弱体化する多加羅の現在の惣領が傑物であることは知っているが、代がかわるとは初耳だった。
清夜ならば無論、詳しく周囲の所領の事情は知っているのだろう。彼が多加羅について特に何も言わなかったこともまた、さほど興味を抱かなかった一因かもしれなかった。
「今の多加羅惣領がかわったら、俄然沙羅久に力が傾くだろうという話ですよ」
「多加羅の後継ぎはそれ程に頼りないのか?」
柳が問う。
「さあ……どういう方かはよく知られてないんですよ。沙羅久次期惣領と考えられている若国はなかなかの人物だと評判ですがね」
柳が片眉を上げる。
「なるほどな。知られる程の人物ではない、という時点で、多加羅よりも沙羅久に分があるようだな」
柳はあっさりと結論付けると、美味そうに肉団子を頬張った。目の前の皿に山と積まれたそれは、彼が厨房から持ち出してきたものである。もっぱら一人で食べ続けて、既に半分以上がなくなっていた。
「梓魏からは椎良様が行かれるとして、沙羅久と多加羅からも惣領家後継ぎが都に向かうかもしれませんね。もしそうなれば、まさに、未来の力関係を測ることが出来ます」
優理が興奮した口調になる。どうやら見かけによらず物見高い性格らしい。
「そんなことは俺達にゃ関係ない。椎良様を無事お守り出来たらそれでいいんだ」
「そりゃあそうですけど……」
「お前も、そんな下世話なことを言っているくらいなら団子でも食え」
「下世話……! 失礼なことを言わないでください! こういうことに興味を抱くのも貴族として最低限必要な資質なんです!」
「ああ、悪いねえ。俺はしがない農民の息子だからそんなことはわからん。ほれ、美味いぞ、この団子」
「あなたは、食い気しかないんですか!?」
「お、今更気付いたか? 何せ近衛に入ったのはこの食堂の飯が多いからだからな」
何やら子供のような言い争いになる柳と優理の遣り取りに、万は矢束と顔を見合せて苦笑した。笑みを浮かべながらも万は考える。椎良が中央に赴くことの意味は大きい。そして、その時が彼女の暗殺を狙う者にとっても好機である。異常なまでに厳しい惣領家の守りを見れば、暗殺が容易くないことは誰の目にも明らか、そうであれば椎良に暗殺者が差し向けられるのは中央に向かうその道中、あるいは都に着いた後だろう。守りが薄くなる、その時を狙って――
「おい、何を考えている?」
はっと万は我に返った。柳がこちらを見つめていた。片頬が団子で膨らんでいるのが愛嬌だが、眼差しは存外に真剣なものだった。何も、と万は笑んで答えた。どこか憮然とした表情で柳が返す。
「嘘つけ。俺の目は節穴じゃねえぜ。お前、顔で笑って腹ん中じゃ何を考えているかわからん部類の人間だな」
ひやりと、万の背筋を冷たいものが這う。鼓動が一つ大きく鳴った。呪縛にも似たその一瞬は、しかし横合いからの優理の言葉に破られた。
「あなたは腹と言えば食欲しかないでしょうね。人間はね、食べるだけじゃなく考える必要もあるんですよ。万殿はあなたとは違うんです」
柳の視線が万から逸れる。何を、と優理に食ってかかるのを万は見つめた。
「そろそろ鍛練に向かった方がいいぞ」
呆れたように言った矢束が立ち上がる。それに続いて席を立った万に、矢束はひそりと言った。
「まあ、柳くらい裏表のない人間も珍しいだろうな。腹に何かしらため込むのが人間って奴だ。あまり気にするな」
「気にしているように見えるか?」
思わず万は問い返す。矢束は肩を竦めると、さてなあ、と呟く。そのまま踵を返しかけて、ふと思いついたように万に問うた。
「私にはわからんが……今、何を考えている?」
咄嗟に答えかねた万に、矢束は先に行くぞと告げるとひらりと手を振って遠ざかる。
(何を考えている……か)
万は周囲には聞こえぬよう小さく溜息をついた。柳は快活で大らかだが、時に鋭い一面を垣間見せる。驚く程正確に人の心情を読んでみせることがあるのだ。柳の言葉を聞いたあの瞬間、考えたのはたった一つ――不審の目を向ける者は消す、ただそのことだけだった。脳裏に浮かんでいたのは、幾通りもの柳の息の根を止める方法である。
万は立ち尽くす。一呼吸にも満たぬ間に、万は柳を幾度となく殺したのだ。無論、想像上のことであれ、それは生々しい感覚となって血が巡るようにゆっくりと万の全身を浸していた。
(……勘が戻ってきたようだな)
皮肉な内心の呟きは、ざらついた感触を残した。
万が椎良の姿を目にしたのはその翌日だった。空は厚い雲に覆われ、ところどころから薄刃を思わせる光が降り注ぐ。足元から凍りつくように、寒さの厳しい日だった。
屋敷から温かな外套に包まり十数人の人影が歩み出して来たのは、万が敷地内の警護について二刻程が経った昼の頃合いである。散策でもしようと言うのか、大勢が漫ろ歩く気配を、万はまず音として捉えた。次いで女性ばかりゆっくりと歩いて来るのが見えた。
「まあ、寒い日ですこと」
「椎良様、こんな日に外に出るものではございませんわ。お戻りになってください」
甲高い声に続いて言ったのは初老の侍女だった。その言葉に、万は思わず一行を見つめた。かしましい侍女たちに囲まれるようにして、ほっそりとした人影が見えた。まだ少女のような年頃の侍女に手を引かれて歩くその姿に、万の目が惹きつけられる。柔らかな毛皮の外套を纏い、頭から被る純白の薄紗のせいで顔は見えなかった。それでも、万にはそれが椎良であることがわかった。
しきりに寒い寒いと騒ぐ侍女達に、椎良は何かを言ったらしい。その声は万のもとまで届かなかった。再びゆっくりと、まるでふわふわと漂うように一団が進み出す。屋敷の角を曲がりその姿が見えなくなるまで、万は微動だにしなかった。
彼は自分でも意外な程に、落ち着いた心持で華やかな一団が通り過ぎるのを見つめていた。それは浮世離れした光景のせいであったかもしれず、あるいは己と相手との間の厳然たる距離、あまりに明確に隔てられた空間のせいだったかもしれぬ。
万は椎良がどこに向かったかもわかっていた。屋敷の裏手には先代惣領が椎良のために造らせた庭園がある。冬でも葉を落とさぬ木々が生茂り、凛とした大輪の花々が咲き乱れる。そこへ椎良は向かっているのだろう。嘗ては空さえも借景にまるで小さな楽園のようだったそこは、十年前より高い石壁に囲まれていると聞く。椎良はそれを知っているだろうか。彼女は美しく設えられた庭園の様よりも、そこから見える、遥か彼方まで広がる空の有様を最も愛していたのだ。
ここに来れば自由になれる気がする――そう言った少女は、惣領家の将来を担う者として皆に傅かれ、期待を一身に背負っていた。たった一人、負うにはあまりに過酷な重圧だっただろう。
万は木々の間から見える屋敷を眺める。それは記憶にあるよりも古びて見えた。
先代惣領は温厚な人柄と広い視野に基づく公平な施策で知られていた。だが、その眼差しを北東の地に生きる北限の民へと向けることはなかった。代々の惣領がそうであったように、彼が北限の民の困窮に救いの手を差し伸べることはなかったのだ。貧しい土壌に作物は育たず、冷夏ともなれば来る冬は餓死者が後を絶たない――北限の民の惨状を顧みぬ、それが果たして迫害とどう違うのか、と万は思う。
歴史に封じられた惣領家と北限の民の確執は、いまだ両者を見えぬ鎖で縛めるようである。北限の民はいわば意図的に忘れ去られた一族だった。惣領家は決して北限の民を救わず、北限の民は決して惣領家を許さない。
思えば、己もはじめは惣領家への憎しみばかりを胸に抱いてこの地を踏んだのだと、万は思った。まだ彼が十七になったばかりの頃、季節は眩しいばかりの夏だった。
まだ幼く、しかし暗殺者として育てられた、その意味を理解しているつもりではあった。だが、既に由洛公の絶対的な信頼を勝ち得ていた清夜は弟に暗殺者としての任を負わすことを嫌った。その兄に時に反発を感じ、いつか北限の民のために何事かをなすのだと、そのように漠然と考えていた。
――守られていたのだ。万は苦く考える。どれ程兄に守られていたか、万がそれを知ったのは故郷を捨てた後だった。
あの日も、兄へ抗いたいがために言いつけに背いて上総家の敷地から出た。風に誘われるようにして木立の中を歩き、気付けば見知らぬ庭園に迷い込んでいた。惣領がたった一人の娘のために築いた庭であると知ったのは後のことである。すぐに引き返していれば、あるいは人生は全く違うものになっていたのかもしれなかった。
――誰か、いるの?
あの時彼を呼び止めた声は、十年以上を経た今でもなお鮮やかであり、そしてあまりに遠かった。