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多加羅若衆が媼の屋敷を辞したのは、須樹が戻った翌日のことだった。若衆が緩衝地帯に留まる理由は既にない。
宇麗が媼の部屋を訪れたのは、その日の夜だった。媼は穏やかな表情で彼女を迎えた。宇麗が媼のもとをおとなうと、既にわかっていたかのようなそれである。向かい合って座り、宇麗は卓に出された香茶を手に取る。媼が自ら淹れた茶は温かく、その名のままに香ばしい。
ことりと茶器を卓に置く。宇麗は媼を見た。
「多加羅若衆が去ると、何だか静かに感じるわね。以前に戻っただけなのに、おかしいわね」
「騒々しい連中ですから」
「あら、とても行儀の良い子達だったけど」
「媼、あいつらはもう子供ではありません」
宇麗は僅かに苦笑する。無論、媼から見れば多加羅若衆も単なる子供に見えるのだろう。
「須樹さんとは最後にお話ししたの?」
「はい」
何を話したのか、媼は問わなかった。宇麗にしても言うべきことは何もない。ありきたりの挨拶しか交わさなかった。これまでの経緯を考えれば、呆気ない程に平凡な別れである。互いに言葉にせぬ思いがあるのはわかっている。言葉にすればたちどころに色を失い、陳腐にしかならない部類のものだ。だからこその沈黙、そう思っておこう――宇麗は須樹の面影を振り払う。
「今回の一件は全て片がついた……そう思うべきなんでしょうね」
「そうね。鬼逆が評議会で証言をすれば、全て終わるわ」
「媼、あたしはどうしても腑に落ちないことがあります。気になっていることを放置するのはどうも性にあいません」
「それは悪いことではないわね。むしろ望ましいことよ。何が気になっているのかしら」
「鬼逆の話で、全てはっきりとしました。蛇を動かしていた者が誰か、ということ以外は。でも、あたしにはどうしても違和感があるんです」
言葉を切り、宇麗は思いをまとめる。媼も急かしはしなかった。
「蛇は汚い愚かな男です。鬼逆の話でそれがわかりました。金のためならばどのようなことでもやるかと思えば、己の立場も自覚せず軽薄な行動に出る。孤児院の襲撃や紺の件もそうです。そして若衆の一人を鬼逆の弟と信じ狙ったということも。ですが、あたしは蛇がそのように迂闊な相手だとはどうしても思えませんでした」
「取引を持ちかけてきた一件を言っているのね?」
「はい。思えばあの取引は何もかもがおかしい。取引場所に指定されていた廃屋を見張っていた者達を拘束したのが誰なのか、蛇ならば殺していた筈です。それに、いくら蛇でも、取引の前に街であのような騒動を起こすでしょうか」
何よりも、と宇麗は言葉を続ける。
「あたしは直接蛇と対しました。あの時のあいつは……蛇の印象とはあわない。もっと狡猾で、隙のない奴でした。それに蛇の刺青は赤いと鬼逆は言っていましたが、あたしにはそうは見えませんでした」
「でも、貴女はその刺青を見たから、相手を蛇と信じたのね」
「はい」
「蛇でありながら蛇ではない。あの取引に関しては、蛇ではなく別の誰かが背後にいたかのよう、そう言いたいのかしら」
宇麗は目を見張る。媼の言葉を内心に繰り返し、その意味を捉える。それまで不明瞭だった己の中の燻りが、不意に明確な形を纏ったかのような感覚だった。宇麗は大きく頷いた。
「そう、そうなんです」
「あの一件で、ことは大きく変わったわね。貴女は須樹さんを信じるという決断を下した。結果的にそれが最も大きかったのかもしれないわ。無論、文に惑わされなかった多加羅若衆のおかげでもあるけれど。他に、何か気になることはある?」
宇麗はまるで課題を出されているかのような心地に陥る。媼の眼差しが、宇麗が何を考えているのか知っているのだと告げていた。
「もう一つ、あります。何時だったか、あたしと黄に、蛇の存在と須樹が若衆だと告げて来た男、あの男が何者なのかいまだにわかっていません。鬼逆かとも思いましたが、あいつははっきりと否定しました」
「嘘を言ったのかもしれないわね」
「そうかもしれません。ですが、あたしは男ともう一度会っているように思うんです」
宇麗は僅かに躊躇った。確証のないことだ。
「鬼逆の部下だという、廃屋で須樹に蛇の行先を告げた男です。あたしは、もしかするとあの二人は同一人物ではないかと、思います」
「何を根拠にそう思うの?」
「勘です。顔すらはっきりとは見ていません。夜道で対した時には姿すら見えませんでした。でも、あの雰囲気……闇に溶け込むような、周囲に同化するような奇妙な感じが似ているんです。あの男が同一人物で、蛇や須樹のことを告げてはいないという鬼逆の言葉が正しければ、鬼逆の部下である筈がありません」
「根拠は何もない、ということね」
媼が結論付ける。それに宇麗も頷かざるを得なかった。責める口調ではなかったが、宇麗は思わず顔を伏せた。
「宇麗、今回の一件は片がついたのよ」
「わかっています」
「でも、一つだけ欠けているものがあるわ」
え、と宇麗は顔を上げた。媼が一口茶を飲む。手元でゆっくりと茶器を回しながら、視線を落としている。液体が作り出す波紋を見ているようだった。
「鬼逆、蛇、多加羅若衆、そして私達卸屋……渦の中心は何処かしら」
「中心……ですか?」
「そう、中心よ。欠けているのは全ての中心。私達が対していない人物が一人だけいるわね」
媼は顔を上げると、茶器を卓に置いた。
「灰、という人物、貴女はどう思うかしら」
「多加羅若衆の……ですか? どうと言われても、知らない相手です」
「本当にそうかしら。設啓さんの話では、今回の出来事が何者かの謀略ではないかとはじめから考え、そして須樹さんを探すために緩衝地帯での調査を提唱した若衆も、彼らとともに来ているということだったわ。あの時の話しぶりと他の皆さんの様子を考え合わせれば、おそらくそれが灰なのでしょう。灰は蛇に連れ去られそうになった紺を助け、匿った。設啓さんははっきりとは言わなかったけれど、蛇の文ではなく私達の方を信じ、須樹さんの解放を求めるべきだという意見を出したのも、おそらく灰という人物なのではないかしら。蛇が灰を狙ったのは鬼逆の弟だと思い込んだから、ということだけど、つまり彼は鬼逆とも繋がりがあったということだわ。それも顔を知っているという程度ではなさそうね」
たたみかけるように言う。個別の事象、その全てに灰という人物が関わっている。だが、それが何を意味するのか、宇麗にはわからない。
「そして、鬼逆がこの屋敷に入ることが出来たのは、須樹さんがともにいたから……多加羅若衆を助けたという名目があったからよ。結果として、今回の一件が無事解決するのも、灰という人が蛇に捕われてくれたおかげ、ということになるのかしら」
「媼は渦の中心にいたのが、その灰だと考えているのですか?」
「少なくとも、彼が全ての契機になっているわね」
「でも、決断し選んだのは媼であり、鬼逆です」
「全ての決断、全ての変化が、導かれたものではないと言い切れるかしら」
宇麗は絶句する。
「灰という人物の望みはおそらく須樹さんを無事多加羅に取り戻すことだった。そのためには卸屋との軋轢は避けなければならない。間違っても禍根を残せば、須樹さんは帰る場所さえなくしていたかもしれない。それを防ぐためには、何としても卸屋と多加羅若衆の間に信頼を結ぶ必要があった」
「それは、そうかもしれませんが……」
「文が届けられ、若衆は私達に須樹さんの解放を求めることを決した。そして私達は蛇との取引に応じるか否か、須樹さんを信じるべきかどうか決断を迫られていた。貴女ははじめから須樹さんを信じると決めていたけれど、あの時、若衆が私達のもとを訪れたのは、偶然と考えるにはあまりに出来過ぎているわね」
媼が首を傾げた。呟くように続けた。
「例えば、こう考えてみてはどうかしら。蛇は真実二人いたのだ、と」
「どういうことですか?」
「灰という人物の腕には、もしかすると赤くはない蛇が描かれているのかもしれないわね」
宇麗は息を呑む。喘ぐように言った。
「灰とやらが蛇のふりをしていた、ということですか?」
「そういう可能性もある、ということよ」
歌うように、媼が言った。
「これはとても単純なことよ、宇麗。貴女は蛇に違和感があると言った。まるで蛇ではないかのようだったと。それが真実だとしたら、どうなるかしら。そして、私達はただ一人、まだ対してはいない人物がいる。それも、おそらくは全てを把握し、明確な目的を持つ相手だわ。この二人が同じではない、と貴女には言い切れる?」
「……言い切れません。ですが、媼が仰られていることには根拠がありません」
「そうね。だから私はこの話をこの場以外でするつもりはありません。灰という人物を探し出すつもりもありません」
驚きに浸されながらも、宇麗は冷静に媼の言葉を反芻した。考えてもみなかったことである。だが、鬼逆や蛇、そして卸屋以外の何者かが動いている、という思いは常に付き纏っていた。それが件の灰という人物ではない、と言い切ることは出来ない。全てが緩衝地帯にとって、そして多加羅若衆にとって望ましい方向に進んだ今となっては尚更である。
「媼、あたしはその灰という奴に会ってみたいと思います」
「その必要はありません。この一件はもう全て終わったのよ」
「ですが、媼が仰られる通りだとしたら、裏でその灰とやらが動いていたということではないですか。奴が知っていて、あたし達が知らないことがあるかもしれません」
「ええ、そうね。彼が真実裏で動いていたとしたら、おそらく私達が考えている以上のことをしていた可能性があるわね。でもそれは知る必要のないことです」
きっぱりとした口調に、宇麗は反論を封じられる。だが承服しがたい思いを読み取ったのか、媼は静かに言った。
「堪えなさい。今は動くべき時ではありません。それに、遠からず私達は灰という人物に会うことが出来るかもしれませんよ」
最後は笑みを含んだ声音だった。訝しく見やった宇麗に、媼は秘密を明かすように言った。
「ねえ宇麗、三年前、多加羅惣領が親戚の少年を引き取ったことを覚えている?」
「そういえば……そんなこともありましたね」
「ああ、あの時は黄に調べてもらったのだったわね。貴女はあまり知らないわね。引き取られたのは現惣領の異母兄妹に当たる方の御子息だということだったわ。家督を継ぐのは現惣領の長男ということだけれども、当時は新たに後を継ぐ可能性がある人物の出現として卸屋の間でも話題になったものよ。すぐにそのような関心もなくなってしまったけれど」
宇麗は話しの先を読めず、思わず顔を顰める。
「媼、何が言いたいんですか」
「その引き取られた人物の名前が灰、というのよ。私も今回のことがあるまではすっかり忘れていたわ。その人物が、この先緩衝地帯に如何なる形でも関わることはないと思っていたせいね」
媼は宇麗の反応を面白そうに見やった。
「まさか……」
「当初のような関心がなくなったのも無理はなかったのよ。惣領はその少年を家臣の一人にあずけ、かえりみようともなさらなかったと言うから。その少年が多加羅若衆に入ったことも一因ね。将来惣領家を継ぐ可能性のある人物が、市井の者達に混ざって若衆に入るなんて、考えられないことだったわ。今では彼の名前を覚えている人がどれ程いるかしらね」
「でも、灰などどこにでもある名です。同名の者だという可能性もあります」
「無論そうね。でも引き取られた少年は、生まれが來螺だったそうよ。母親は來螺で歌い手として名を馳せていたようね。設啓さんは、灰が來螺の生まれだと、そう言っていたのでしょう?」
宇麗は驚きとともに、疼くような興奮を感じていた。媼の瞳にも同じものがある。より抑制されたものではあったが、考えていることは同じだとわかった。
「それならば、探す必要もありませんね。何時か会うことになるでしょう」
「ええ。蛇のように狡猾で、もしかすると鬼逆のように残酷で、若衆のように潔く、そして心に傷を負った少女を癒し強さを与える、そんな若者よ。会うのが楽しみね」
宇麗は口を噤んだ。媼は気付いていたのだ。
紺が嘗て來螺の裏側でどのような目に遭っていたのか、そしてどのようにしてそこから逃げ出してきたのか、宇麗は知らない。それは容易くは触れることの出来ぬ、少女を内側から蝕む深い傷だった。それから逃げ、目を逸らして震えているような少女だった。だが、屋敷に戻って来た紺は変わっていた。張り詰めた糸のような危うさが消え、どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。今の紺は己の傷と真直ぐに向き合っているのだと、そう思わせるものがあった。決して消えぬ刻印として、紺は傷を抱きながら生きていく。生きていけるだろう、と宇麗は思う。
「宇麗、緩衝地帯は転換点を迎えているわ。私達が変えていくことになる。そして、所領もまた、大きく変わる節目に来ているのかもしれないわね」
静かに媼が言った。
「そのような時に人は何を信じるべきなのかしら」
「その答えならば、もう知っています。須樹が教えてくれました」
「そうね。最も愚かしくて、最も崇高な答えだったわね」
「はい。信じるべきは人であり、その心です」
媼は微笑んだ。
「でも人の心は弱いものでもある。容易く流されるのもまた人の心よ。私達卸屋は、誰よりもそれを肝に銘じていなければならない」
言葉以上の意味が秘められているのを宇麗は感じた。
「沙羅久も、多加羅も、遠からず代替わりするでしょうね。多加羅がかろうじて沙羅久に伍しているのは今の惣領の手腕によるもの、後継ぎの透軌様は遠くお父上には及ばないと聞いているわ。次の代となればおそらく沙羅久の力は増し、多加羅の力は弱まる。そうなれば、緩衝地帯の自治は長くは続かない」
「媼?」
「そう、誰もが考えていたわね。でも状況は変わるかもしれない。あるいは、変えることが出来るかもしれない」
姿勢を崩さずに座る媼の背後で、硝子筒の明かりがゆらゆらと揺れた。壁に、複雑な影が踊る。
「まだうねりは終わっていない。いえ、むしろこれからさらに大きな波に緩衝地帯は呑みこまれることになる。ただ呑みこまれるか、それともその波を乗りこなすか、私達にもその選択が出来る」
媼の面差に張り詰めた激しさがあった。それに、宇麗は知らず背筋を伸ばす。宇麗に向けられた眼差しもまた厳しい。媼の後を継ぐ存在として己が認められているのだと、自覚せずにはいられないそれである。
「……何をなさるおつもりですか?」
「出来るだけのことを。どのような形にせよ、灰という名前を人々は知ることになるわ」
軋むような静寂に、決然と媼の声が響いた。
弦楽の音色が響く。確かな技巧を思わせる弾き方でありながら、気だるく、睦言を繰るような甘く秘めやかな調べは、余韻に凋落を感じさせる。
「お前が弾くと、名器も形無しだな」
辛辣な批評に、聡達は顔を上げた。張り出し窓に斜めに座ったまま、戸口に立つ兄を見やる。うんざりする程己と似通った顔は、今は不機嫌をあらわにしていた。尤も、この兄が彼に対する時は大抵機嫌が悪い。
「音色は人の性を映し出すと言うらしい。大方、兄貴が弾けば司祭の聖句なみに黴臭いんだろうよ」
若国は弟の物言いにも眉一つ動かさず、腕を組んだ。
「お前、まだ母上に挨拶を申し上げていないだろう。都から沙羅久に戻って既に三日以上経っているのだぞ。早く顔を出して差し上げろ」
聡達は引っ掻くように弦をかき鳴らした。不協和音――耳障りなそれに目を細めると、小さく笑んだ。
「あの女が俺に会いたがっているのか?」
「父上の病状が思わしくないせいで、最近では母上も気弱になっておられる。一声かけて差し上げれば少しは気が紛れるだろう」
都から戻って数日、聡達は殆どの時を自室で過ごしていた。帰郷の目的は既に果たしている。中央から惣領家へと下された命令、それを伝える特使としての役目である。尤もその内容を伝えた相手は父親ではなく若国である。若国は病床にある父親にかわり事実上惣領家を動かしていた。
「気弱どころかむしろ喜んでいるんじゃないのか? あの女は兄貴が後を継ぐのを何よりも望んでいただろう」
「口を慎め」
「事実だろうが。それより兄貴は伝えたのか? 皇帝の命で中央に赴くってことを」
「いや、まだだ。それ以前に私が赴くと決まったわけではない。命令は惣領に出されたもので、私にはまだその権利はないからな」
「よく言うぜ。親父はもう兄貴に家督を譲った気でいるぜ。あの体ではどちらにせよ代行が必要だ。旅の途中で死なれちゃ堪らんからな」
親子としての情愛を微塵も感じさせぬ物言いに、若国は僅かに顔を顰めた。聡達は父親に対しては帰郷の挨拶をしたが、それさえも父親の病状を見極めるためではなかったかと勘繰りたくなる。父親は単純に喜んでいたようだったが、息子である若国から見ても、父親は茫洋として人が良い。ひきかえ、母親と聡達の不仲は誰もが知っていることだった。
無駄と思いつつも若国は言い募った。
「とにかく、一度は母上に会っておくことだな」
「何のために。互いに不愉快になるだけだ」
「礼儀を失するなと言っているのだ。息子としての義務を果たすことくらいは出来るだろう」
「そいつは兄貴の専売特許だ。どうせ俺はすぐに中央に戻る。今会えば、また別れの挨拶をせねばならんだろう。面倒だ」
若国は暫し弟の様子を見守っていたが、小さく溜息をつくと踵を返した。その背に、まるで今しがた思い出したかのように、聡達が無造作に言葉を投げた。
「そういえば、緩衝地帯はどうなっている?」
「まだ知らせは来ぬ。どうやら、順調ではなさそうだな」
「上手くいくと思っていたのか?」
「もとより期待もしていないさ。北限の民が成功しようが失敗しようが、私にはさして違いはない」
「奴らの計画が成功したとして、兄貴は要求に応えるつもりなのか?」
「愚問だな。私が緩衝地帯欲しさにあの者達の申し出を受けたと思っているのか? むしろ緩衝地帯は付随的なものでしかない。あの地は何れ沙羅久のものとなる。北限の民の力を借りずともな」
聡達は小さく鼻を鳴らす。
「つまりははじめから梓魏の美姫に目をつけていたというわけか。北限の民も可哀想に。苦労のし損だな」
「全て無駄だったわけではない。少なくとも、北限の民との繋がりは無益ではない。今後の沙羅久にとってはな」
「他ならぬ北限の民が梓魏の姫君の命を奪うかもしれないんだろう」
「彼らもそこまで愚かではないさ。既に手を打っている筈だ」
「どうだかな」
懐疑すら込めぬ、放り出すような声音だった。実際どうでもよいと思っているのかもしれぬ。聡達の横顔を、若国は見詰めた。
「お前はどうなのだ。多加羅の姫君にいらぬちょっかいを出してはいないだろうな。問題になるようなことをするなよ」
「そうしたくとも暇がない。俺の働きは兄貴にとっても無駄じゃないだろう。感謝してくれよ」
「お前が真実沙羅久のために動いているというなら感謝もしよう。だが、そうではなかろう」
素気なく言うと若国は薄く笑った。
「聖遣使という立場はどうやらお前にとって程良い枷となっているようだな。だが、所詮は神殿に飼われている身分だ。調子に乗って王宮の奥深くにまで首を突っ込むなよ。食い千切られるぞ」
聡達は嫌そうな顔を若国に向けた。都での彼の所業が、逐一兄に報告されていることを聡達も知っている。尤も、知ったところで行状を改める聡達ではない。若国は、口調を変えることなく続けた。
「とにかく、もう一度くらいは父上に顔を見せて差し上げろ。中央に赴けば、この先は会うことも出来ぬやもしれぬからな」
「仰せの通りに」
聡達は言うと、皮肉に笑みながら恭しく頭を下げてみせた。
兄が去るのを見届け、聡達は楽器を傍らに置いた。既に弾く気は失せていた。聡達にとっては兄の動向も、北限の民の策謀も、さして興味を引くことではなかった。若国が梓魏に対して秘める思惑も察しがついていたが、だからと言って感興は覚えぬ。
壁に凭れたまま窓外へと視線を移す。沙羅久の街並みは岩の連なりを思わせた。部屋からの眺めは三年前に都へと発った時から全く変わっていないように見える。停滞――全てはその中で朽ちている。
さらにその先は、遥か梓魏の所領にまで続いている。聡達はまだ見ぬ地を思うことはせず、窓から離れた。