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最果てに天深く  作者: 高原 景
93/117

93

 須樹すぎを出迎えた宇麗うれいは、不審の念を隠そうともしなかった。須樹からその背後に立つ鬼逆きさかにゆっくりと視線を移し、腕を組んだ。おうなの屋敷、その門扉の内に踏み込ませようとしない。それがそのまま彼女の内心をあらわしていた。夕暮れの色彩が宇麗の切れ長の瞳に映りこんでいた。風が冷たい。

「突然飛び出し二昼夜、何の連絡も寄こさずに、戻って来ればここに災いを呼び込むか」

「災いとは聞き捨てならないな、お嬢さん」

「黙れ。須樹、何故この男とともにいる」

 須樹は一歩踏み出した。宇麗が眉を顰める。怒りの表情だ。だが、それだけではない。

「媼に、鬼逆殿と会っていただきたい」

「ふざけるんじゃないよ。耶來やらいの男を媼に会わせることなど出来ぬ! 多加羅若衆が何時から耶來の手先に成り下がったのだ!」

「鬼逆は蛇を捕え、俺の仲間を救い出してくれた。媼も、ことの経緯をお知りになりたい筈だ」

 宇麗が目を細めた。

「その仲間は何処だ」

「怪我を負っていので先に多加羅に帰した」

「報告だけならお前だけで十分だ。その男がいる必要はない」

「緩衝地帯の未来に関わる大事な話があるんだよ。お嬢さんの手に負えることじゃあない。早く通してもらいたいんだがね。ここは冷えてかなわん」

 苛烈な眼差しを受け流し、飄々と鬼逆が言った。須樹は思わず天を仰ぎたくなる。この男は、意図しているのかいないのか――おそらく意図しているのだろうが――人を挑発するのが上手い。多加羅若衆の伝手がなければ媼に会うことなど到底かなわぬだろう、その己の立場をわかっていながらの態度である。

「宇麗」

 背後から声がかかる。おうだった。戸惑いと懸念を滲ませた眼差しを対峙する者達に向けた。

「媼がその男に会うと言っておられる」

 宇麗が大きく息を吸った。



 媼が鬼逆と須樹を通したのは執務室ではなかった。長方形の長机と、それを取り囲むように椅子が置かれた部屋である。きれいに掃き清められ一見すると食堂のようだが、普段から使用されているような形跡はなかった。窓から差し込む夕刻の光ばかりが鮮やかに、空気は冷え切って部屋の広さを尚更に感じさせた。

 媼は扉の正面に立ち、二人を迎えた。引き結ばれた唇が容貌に硬質な趣を添えている。衣を纏うように雰囲気を変える、それを武器とする女性なのだと、幾度かの対面で須樹は知っていた。鼓動が跳ねる。それが聞き取られるのではないかと、愚にもつかぬ思いがわいた。

 ちらりと脳裏を灰の表情が掠めた。信じられぬのかと問うた彼に灰は答えなかった。落胆を感じなかった、と言えば嘘になる。そして、思い出すのは須樹の落胆に気付いた灰が見せた、己を責める表情だった。あのような顔をさせるつもりはなかった。この先も、させたくはない。多加羅若衆を信じた媼を謀る。そのことに抵抗を感じないわけではない。だが、灰が何を考えていたのか――いまだ自分に明かされていないことも含め――それを知って選んだのは彼自身だ。後には引けぬ。須樹は媼を正面から見つめた。

 宇麗と黄が閉ざされた扉の前に立つ。媼が言った。

「御無事で良かったわ」

「御迷惑をおかけしました」

「若衆の皆様には当方の屋敷にお留まりいただいています。とても心配しておられました。無事、お仲間を取り戻すことが出来たのですか?」

「はい」

 横目で見れば、鬼逆は飄然とした態度を崩していない。

「鬼逆殿が蛇の居場所を掴み、灰を救い出してくれました」

 媼の視線が鬼逆に移る。

「この屋敷に耶來の方を入れることになるとは思いませんでした。この年まで生きると色々なことがあるものね」

「だから人生は面白い」

 応じた鬼逆の声は深い。

「お話というのは何かしら」

「蛇は捕えた。西の元締めの孫は救い出し、祖父殿のところに送り届けた。既に感動の再会を果たしているだろう」

 媼がどれ程驚きを感じているにせよ、それは欠片もあらわれなかった。西の元締めの孫が蛇に捕われていたことを媼が知っていたのか、それは須樹にもわからなかった。だが、それは重大なことではないのだ。今、この時にあっては――

「蛇は何処です。身柄をこちらに引き渡していただきたいわね」

「それは出来ない。奴は耶來の者だ。我らの法で俺が罰する。既に蛇達の身柄は來螺らいらに送った」

「この地で貴方にそのようなことを決める権利はない筈よ。蛇は緩衝地帯を揺るがした。それは許し難いこと。私は全てを明らかにしなければならない。大きなうねりを止めるためにも、真実を皆に知らせなければならない」

「先に言っておくが、蛇を動かしていた奴は知らない」

「蛇を捕えていながら、謀の首謀者を知らないと言うの? おかしな話ね」

「蛇の望みは金、そして俺の力を削ぐことだ。俺の弟と信じて灰を狙ったのもそのせいさ。蛇自身、誰からの依頼か知らず、動いていた。緩衝地帯の命運がどうなろうが、奴にはさして重大ではなかったろうな。奴はそういう男だ」

 壁を彩る夕暮れが、淡い夜の気配に呑みこまれていく。霞むように、部屋を闇が侵食する。須樹は息を詰める。鬼逆の言葉は偽りを感じさせない。毒を秘めた嘲弄の色を纏うかと思えば、無彩色の壁画を思わせる静けさに沈み込む。この男も、巧妙に空気を操る。

 譲らぬ無言の対峙から、先に退いたのは媼だった。

「このような場所まで来た、貴方の望みは何かしら」

「ちょっとした申し出のためだ。緩衝地帯で起こった一連の出来事、その幕を引く手伝いをしたい」

「貴方が?」

「ああ。蛇を渡すことは出来ないが、評議会で蛇の罪を明らかにし、多加羅若衆の潔白を証言しよう。そうすればうねりは止まり、全ては凪いで静まる」

「何故、と問うてもいいかしら。貴方が緩衝地帯のためにそこまでする理由を知りたいわ」

「全くの善意、と言いたいところだが、貴女も俺も、より信じるに値するものを知っている」

 言葉は多くを語り、多くを秘する。そのあわいに時が滑り落ちる。ふと、媼が小さく息をついた。笑ったようにも溜息をついたようにも聞こえた。

「耶來を一人の主が治めるなど、到底無理なことと思っていたけれど、どうやら私の間違いだったようね。もう一つ教えてほしいわ。貴方を突き動かすものは何かしら。耶來を変え、その手中におさめながら、なおも求めるのは何故? 人の欲が尽きることはないと言うけれど、私は欲以外に尊いものを知っています。信じるに値するものは一つではないのよ」

 鬼逆は右手を前に突き出した。何かを見極めるように目を細める。

「今生でどれ程のものをこの手で掴み取ることが出来るか、試してみたくなった……ただそれだけだ」

 消えかけた光を閉じ込めるように、鬼逆は手を握りしめた。拳の向こうの媼を見る。

「俺は誰よりも強欲だ、ということさ。生憎、俺は欲以外のものを持ち合わせていないのでね。答えになっているかな?」

 囁きは微笑みとともに落ちた。

「本当に、人生は面白いものね。何が起こるかわからない」

 夜が媼の姿を包み込んだ。



 媼と鬼逆の合意は速やかに取りつけられた。鬼逆が評議会で証言を行う、その具体的な日取りが決められる。須樹はそれを見届け、退室することとなった。宇麗が扉を開け、須樹の後に黄が続く。どうやら、この二人もまた場を外すらしいと須樹は察した。

 これは媼と鬼逆、二人の取引の場だ。緩衝地帯と耶來が接触を持つ、その場面なのだと、須樹は悟る。大方が闇に沈んだ部屋の内を振り返ると、二人の姿は影を纏い定かではない。明かりを灯さぬのは、その方が双方にとって都合が良いからだろうか。例えば、己の表情を読まれないように――そこまで考え、須樹は苦笑した。鬼逆と媼が、みすみす相手に己を読み取らせるようなことをする筈がない。

「鬼逆、聞きたいことがある」

 廊下へと踏み出した須樹の背後で、宇麗が低く言った。思わず須樹は足を止める。

「蛇の刺青は、左右どちらの腕にある」

 問われた男は僅かに首を傾げたようだった。

「さて、どうだったかな。奴の性格からすれば両腕だろう。誇示するのが好きな男だ」

「そうか……」

 躊躇うような宇麗の声音だった。さらに何かを問いかけ、しかし宇麗は口を噤んだ。そのまま廊下へと踵を返した宇麗に、鬼逆がぞんざいに声を投げた。

「あいつの蛇は赤い」

 宇麗の足が止まった。薄暗がりに、彼女が大きく目を見開いたのを、須樹は見た。暫し凝然と立ち尽くした宇麗は、鬼逆を振り返らず扉を閉ざした。

「おい、蛇の刺青がどうしたんだ」

 黄の問う声には答えず、宇麗は須樹を見詰める。須樹は正面からその視線を受け止めた。廊下の空気の冷たさを、不意に感じていた。吸えば、体の中までもを冷やす。やがて宇麗は硬い表情のまま視線を逸らせると、無言で須樹を促した。先に立って歩くその背を、須樹は追う。訝しげな表情の黄も、宇麗の様子に問いかねるらしい。廊下に、三人分の密やかな足音が響いた。

 硝子筒の光を通り抜けて階段を昇り、客間らしい部屋の前で宇麗は須樹を振り返った。

「ここに若衆がいる。お前も、今晩はここで眠れ。後で食事を持って来させる」

 事務的な声音だった。

「ありがとう」

「礼はいらない。どうやら、こちらがお前に礼を言わねばならないようだからね。まさかあの男がこの一件に片をつけるとは思ってもみなかったが……お前はあの男をよく知っているのか」

 白々とした硝子筒の灯に、宇麗の顔が浮かび上がる。

「よくは知らない。数回会ったことがある程度だ」

「噂では鬼逆は血も涙もない男だと言われている。お前の仲間を助けるような奴とは思えないな」

 鬼逆の部下が、鬼逆の足元を掬うために蛇へと灰の情報を渡していたという、その説明を宇麗は信じかねているらしい。その根底にあるのが鬼逆その人に対する不信の念であることは明らかだった。

「俺にもよくわからない。ただ……鬼逆は灰に借りがあるようなことを言っていた。放ってはおけなかったんだろう」

「あるいは、お前の仲間を助けたのも全て他の目的のためなのかもしれんぞ。この機会を利用して媼と関係を結ぶことを狙っていたのかもな」

 その通りだ――だが、須樹は僅かに顔を顰めるだけに留めた。不愉快そうに見えただろう。実際彼自身が、鬼逆には嫌悪の思いすら抱いている。灰を利用した手口といい、内心では鬼逆を許す思いにはなれない。全てが鬼逆の思惑通りだということが、今になれば須樹にもよくわかっていた。そして、灰もそれをわかったうえで、敢えて鬼逆を利用したのだという、目を逸らしようのない事実がもう一つある。

 媼は鬼逆を受け入れた。どれほど疑念を持とうと、宇麗とて媼の決定には従わざるを得ない。全体的に見れば、むしろ緩衝地帯にとっては良い方向にことは進んでいるのだ。

 数度呼吸を繰り返し、漸く宇麗は言った。

「蛇はあたしに直接、取引を持ちかけて来た。多加羅若衆がこの屋敷を訪れる一日前のことだ。その時奴は左腕を掲げてあたしに蛇の刺青を見せた」

 どくりと、須樹の耳奥で鼓動が鳴った。

「奴の刺青は赤くはなかった」

 須臾の沈黙は、幾重にも広がる波紋に似ていた。それまで確かに見えていると思っていたものの形を崩し、欺き、やがて何事もなかったかのように現の影を映し出す。

「あの日はひどく雪が降っていた。まるで一面、白い薄絹に覆われているようだった。目の錯覚かもしれない。刺青は赤かったのかもしれない。だけど、何かが……あたしには何かが腑に落ちない。全ては、たった一つの違和感でしかないものだ。あたしが、あの時対したのは本当に蛇だったのか」

 独白のような言葉だった。宇麗はどこか沈んだ面持ちで須樹を見詰めた。

「そしてお前とともに蛇を追って行ったあの男、あれは本当に鬼逆の部下だったのか?」

「ああ、そうだ。鬼逆は灰の身を案じていた。俺とも少しではあるが面識があったから気にかけてくれたんだろう」

 須樹は自分の声が平静に聞こえるように祈る。

 笠盛を去った時、須樹とともにいた男――げんである。彼が鬼逆の手下であり、ともに蛇を追うために須樹のもとに遣わされたのだと――それが、灰と鬼逆が申し合わせた内容だった。

「ああ、お前が言うならばそうなんだろう。鬼逆など到底信じることは出来んが、お前が偽りを言い張るような奴じゃないとあたしは思っている。だが、あたしはこうも思う。あの男……廃屋でお前を待ち構えていたあの男に、あたしは会ったことがある、とね」

 須樹は今度こそ表情を消すことが出来なかった。宇麗は彼の驚きを見詰め、ふと口元を緩めた。

「……あたしの勘違いかもしれないね」

 宇麗はさっと身を翻すと足早に須樹から離れて行った。振り返らずにひらりと手を振る。

「ゆっくり休みな」

 黄が慌てて宇麗の後を追う。二人の姿が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、須樹は立ち尽くしていた。ひたひたと押し寄せる夜の気配を感じていた。それだけではない、静けさの底に、何かが近付いてくるような不思議な感触がある。

 ――灰ならばこの感覚の理由がわかるだろうか。

 思考は、不穏に揺れる己の心音を誤魔化すかのようにとりとめがなかった。須樹は何時の間にか両手を握りしめていた。意識して手を開く。指先が冷たい。

 須樹は顔を上げると、若衆が待つ部屋へと、扉を開いた。




 灰が多加羅の街が見える丘へと辿り着いたのは、宵の空に一つ星明りが点る頃だった。街の外延部の灯りが温かく、そして儚く見えた。馬からおり、灰は振り返る。背後には馬に跨った男が一人いた。手綱を預けると、男は一言もなく背を向けた。鬼逆の部下である。別段話すなと命じられているわけではなさそうだったが、道中一度として口を開かなかった。

 振り返りもせず去る男を暫し見詰め、灰は街へと向かって歩き出した。

 漸く壁の内に入った時には、どの家からも灯が漏れ出で、道に古代の文字を思わせる連続的な模様を描き出していた。人通りは少ない。通り過ぎた家の中から、弾けるような笑い声が響いて来た。

 足早に大通りを進んでいた灰は立ち止った。何故、立ち止ったのかもわからぬまま、通り過ぎる人々を見詰めていた。誰もが家路を急いでいるのか、俯きがちだった。目の前に淡い白が広がる。呼吸をするたびに、それは幾度も繰り返された。不意に、灰は息苦しさを覚えた。大きく息を吸って、空を見上げる。寂々と、星が在った。そして、あまりに広く、他には何もなかった。

 虚脱したように立ち尽くしたまま、灰は途方にくれる。世界の奥底に取り残されたような、奇妙な感覚があった。どこに進むつもりだったのかわからなくなる。

「帰る……か」

 ぽつりと呟き、灰は眉を顰めた。道の先を見詰める。何かに呼ばれたような気がした。考える前に歩き出す。街並みは焦れる程にゆっくりと流れる。それにふと疎ましさを覚え、灰は足を速めた。

 暗闇にその建物の輪郭が浮かび上がるまで、灰は自分がどこに向かっているのか殆ど自覚していなかった。門を通り過ぎ、壁を伝う冬蔦の葉が夜風に揺れる音で、漸く灰は慈恵院じけいいんの前に立っていることに気付いた。扉は既に閉ざされている。だが、普段通り、何時でも患者を受け入れられるように鍵はかけられていない。

 扉を開くと、錆びついた音が響いた。遠くの風のように、数多の命の気配が感じられた。既に食事の時間も過ぎているのだろう、建物の内は静かだった。見慣れた柱の形を目でなぞりながら、灰は目指す場所へと真直ぐに進んだ。厚手の外套に冷気が纏いつく。

 辿り着いた小さな部屋には、明かりすら灯っていなかった。細長い窓からは、半月がくっきりと見えていた。灰は寝台に近付く。そこに横たわる人影が、浮かび上がる。その姿は、緩衝地帯に向かう前に見た時よりも、一回り小さくなったようだった。物音をたてたつもりはなかったが、枕辺に膝をついた灰に、少女は瞳を開けた。

「灰様」

 囁くような声が夜気に落ちた。

静星せいせい……」

 名を呼ぶ。何故か、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

「帰って来たんだね。灰様」

「遅くなった。すまない」

「いいの。帰って来てくれたから、それでもういいの」

 それだけで嬉しい、と静星が呟いた。

 静星は触れれば壊れそうに、青白く、華奢に見えた。まるで雪の結晶のようだ、と灰は思う。何か言わねば、と思いながらも、言葉はつかえたように出て来ない。部屋の静けさに浸されていると、緩衝地帯での出来事が全て遠い夢の中の出来事に思える。まるで、緩衝地帯に赴いたことなど嘘のように――まるで多加羅を出ることもなく、ずっとこの場にいたかのように――

 灰は緩く頭を振った。子供が無造作に折り畳んだ紙のように、記憶が奇妙に捩れる。思いがけぬ断片が脈絡なく浮かんでは消えた。小さな混乱が渦巻く。周囲の静けさがそれに拍車をかけた。

 灰は目の前の少女を見詰めた。静か過ぎる。何か、おかしい。それは小さな違和感だった。現実にきりきりと牙を立てるように、確かにそれは在った。体内に緊張が広がる。反射的に意識の網を広げて、灰は体を強張らせた。

 何かに取り巻かれている。揺れ動く大気の波さえなく、まるで氷の中に閉じ込められたかのように全てが止まっていた。思わず灰は己の手に目を落とした。そこに在る。だが、まるで作り物のように現実味がなかった。己の体さえ、魂をどこかに置き忘れた空虚な器に感じる。

 顔をあげた灰は、こちらに伸びる二つの掌を見た。まるで闇に浮かび上がる白い蝶のように、少女の手が視界を埋め尽くす。触れられた頬から、凍るような冷たさと、燃えるような熱さが広がる。間近に静星の顔が在った。灰は細く息を吐いた。闇に、小さく白い渦を巻く。息吹の証――それを、鈍い衝撃とともに灰は見詰めていた。少女の瞳を覗き込む。先刻見上げた夜空のように、底がなかった。

「……すまない……静星」

 囁くような声に、静星はゆっくりと首を振った。

「灰様、謝らないで。こうしてもう一度灰様に会えたんだから、私は不幸じゃない」

 触れそうに近く、口元が言葉を象る。そう見えているだけかもしれない。空気は震えない。静星が微笑んだ。まるで花が綻ぶように、柔らかく、それはあどけなく見えた。

 それが、最後だった。

 少女を象るものが淡く光を帯び、解けるように虚空へと溶けた。僅かな煌めきは、瞬く間に消えた。それを追うように虚空に伸ばしかけた指先が、力なく落ちる。静星が、その存在を象るものが、もうどこにもないことを、灰は知っていた。周囲を満たしていた凍るような気配もまた、消えていた。

 少女に触れられた箇所だけが、脈打つようだった。だが、それはおそらく肉体の感覚ではない。魂に触れることが出来るのは、魂だけだ。瞳を閉ざす。瞼の裏が熱かった。体の奥から込み上げるものが、胸に留まって息を詰まらせた。

 灰は敷布をなでた。まるで存在を確かめるように――その手を追うようにして眼差しを上げた。

 空の寝台には、ただ月の光ばかりが降り注いでいた。


 どれ程その場に座り込んでいたのか、灰にはわからなかった。漸く顔を上げたのは、月の移ろいのせいではなかった。背後の物音のせいである。軽い足音、それが部屋の前で止まる。声をかけられるより先に、その視線が誰のものであるかわかっていた。

「帰って来たんだね」

 せんの声。灰は立ち上がると振り返った。

「静星は死んだよ。二日前だった。明け方、誰にも気付かれずに、眠るようにして死んでいたんだ」

 言いながら泉は硝子筒を傍らの机に置く。ことりと、無機質な音が響いた。揺らめく炎は、闇を切り開くように眩しい。暫く見ぬうちに泉は身長が伸びたようだった。濃い影の落ちる顔は、大人びている。そこにあるのが紛れもない悲しみであることに、灰は気付いた。そして、悲しみだけではない。灰へと振り向けられた眼差しは強かった。

「……もう少し早く戻って来てくれてたら……」

 喘ぐように言葉を切る。

「そしたら静星は灰様に会うことが出来たのに……最後まで、静星は待ってたんだ!」

「知っている」

 灰は呟いた。思い、思い続け、思いそのものが形を纏う程に。だが、静星はもうここにはいない。

「……知ってるって……何だよ、それ! だったら何で早く戻って来なかったんだよ! 静星がもう助からないって、灰様だってわかってたんだろ!?」

 答えぬ灰に、泉の顔が歪む。泣く寸前のように。灰は泉に近付くと、床に膝をついた。頑なに視線を逸らす少年の顔を覗き込む。引き結ばれた口元が、泉の思いをあらわしているようだった。

「何でもっと早く帰って来なかったんだよ。待ってる人がいるのに……」

「泉、すまない」

「俺に謝るなよ。静星に謝れよ」

「ああ。わかっている」

「わかってないよ。灰様は何もわかってない。自分がどれだけ大切に思われてるか、全然気付いてない。静星、俺には一度も笑わなかった。笑っても、無理してるみたいで、目はずっと悲しそうだった。俺は何も出来なかった」

 泉はぽつりと呟いた。

「静星の命だって……灰様なら、何とか出来たかもしれない。俺、知ってるんだ。灰様には不思議な力があるって。誰にも出来ないことが出来るって」

 否定すべきだとわかっていた。だが、灰にはそれが出来なかった。沈黙を破ったのは、泉でも灰でもなかった。泉、と静かな声が響いた。視線を転じて、灰は歩み寄ってくる老師を見詰めた。

「まだ全ての患者の見回りは終わっていない。行きなさい」

「……はい」

 泉は硝子筒を掴み灰に背を向けた。廊下を行きかけて立ち止る。

「俺、わかってるんだ。灰様が、静星の死を悲しんでいるのは……。でも、今日はだめだ。なんか嫌なことばかり言ってしまう。折角灰様が帰って来たのに……本当は話したいことが一杯あった筈なんだ」

「わかっている」

「静星が死んだんだ……」

「ああ」

「死んじゃったんだ……」

 呟くと泉は乱暴に目元を拭った。振り向かずに立ち去る泉の背を、灰はやるせなく見詰めていた。

「何時戻って来たのだ?」

 はっとして灰は老師を振り返った。硝子筒の明かりに、老師の厳めしい顔が浮かび上がっている。

「つい先程です。静星は……」

「埋葬は昨日行われた。最期まで、よく耐えていた」

 胸の奥の塊が広がる。灰は気付かれないように唇を噛みしめた。

「俺は……何も出来ませんでした」

 出来たかもしれないのに――その思いが滲むのを止めることが出来なかった。老師の眼差しは厳しく、そして僅かに温かかった。

「以前にも言ったが、お前に出来ることは何もなかった。静星が死ぬのは、最早避けられぬことだったのだからな」

 灰は言葉に詰まる。

「大切な者の死の瞬間に立ち会う時、人に出来るのはその者の生きた証を心に刻むことだけだ。それとも、何か出来ることがあると、そう思っているのかね?」

「俺には……わかりません。ただ、何もせず見ていることは、辛すぎる」

 それが単なる我儘だとしても――決して許されないことだとしても――。その言葉が聞こえたかのように、老師が言った。そこには微かに疲れたような響きがあった。

「儂は、お前が静星の最期に居合わせなかったのはむしろ幸いであったかもしれぬと思っている。儂自身、安堵すら感じている」

 灰は目を伏せた。全てが現実味を欠いている。緩衝地帯での出来事でさえ、既に記憶という形を纏い、緩やかに呼吸を繰り返すたびに曖昧に剥落していく。灰が感じたのは、どうしようもない虚しさだった。

「老師、俺は……導きがほしい」

「あまり老いた身を試してくれるなよ、灰。お前に何が出来るか、儂にはわからぬ。それを知ったところで最早儂の心は石となり果てている。縛めが欲しければ言葉を与えよう。だが、お前はそれを望むまい。答えは自分で見つけなさい」

 内心を見透かすような眼差しで灰を見詰め、老師は静かに去って行った。灰は一人闇の中に残される。立ち尽くす。老師が言う通りだった。静星に一体何がしてやれたというのだろう。己に何が出来るのか知りもせず、何をしようというのか。

 ――お前自身が、力だからだ。

 鬼逆の言葉が、まるで耳元で囁かれたかのように響いた。力。所詮壊すだけの力だ。命を前にして何か出来ることがあると考えること自体、傲慢な思い上がり、自己満足、それだけのことかもしれぬ。

 ――答えは己で見つけるしかない。だが、そもそも答えなどあるのだろうか。

 灰は慈恵院を後にした。

 星見の塔がある方角を見上げる。道を進めば、足跡を追うようにゆっくりと地場が崩れていくような心許なさがあった。止まれば、落ちる。馬鹿げた妄想だ。

(今まで通りにすればいいだけだ。何も、変わりはしない)

 思いながら、灰は決定的に変わってしまったものがあるのだと、気付いていた。緩衝地帯に赴く前からおそらくどこかで既にわかっていたことだろう。鬼逆の言葉がなければ気付かぬふりを続けることさえ出来たかもしれなかった。

 鬼逆には灰の迷いも、混乱もわかっていたのだろう。灰自身、自覚すらしていなかった奥深くまで。今は灰にもわかる。

 それでも、ここに留まるしかないのだ。それは、奇妙なことに執着にも似た思いだった。灰は自嘲の笑みを浮かべた。滑稽な道化だ。不安定な小枝の上に止まる小鳥のように、必死に均衡を保っている。留まり続けるためには不様にあがくしかない。飛び立てば、向かう先がわからない。

 ――それ以前に、飛び方を知らない。


 星見の塔の前で灰は束の間佇む。呼び紐を引けば、足音が近付いてくるまで暫く時間がかかる。軽い足音は、駆けているらしい。勢いよく扉が開いた。柔らかな光が最初に視界を埋め尽くした。

「兄様!」

 飛びついて来たりんを、灰は受け止めた。稟は灰の外套にしっかりとしがみつく。まるで灰の存在を確かめるように。そして漸く顔を上げた。言葉はいらなかった。その笑顔だけで、灰は強張っていた体から――あるいは心から――力が抜けるのを感じた。

「帰って来たね」

 穏やかな声音に顔を上げる。秋連しゅうれんが立っていた。その後ろで娃菜えながにこにこと笑みを浮かべている。

「お帰りなさい」

 温かい声に包まれる。稟の手に引かれて建物の中に入る。扉が閉ざされると、夜の匂いが遠ざかった。

「ただいま」

 灰は、漸く言った。

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