92
陽が移ろうのを須樹は感じた。誘われるように顔を上げる。木々を透かして空を見上げれば、太陽は中天に近い。吹きすぎる風に髪が揺れた。不思議なことだ、と思う。静けさの中に座していると、まるで身にしみこむように刻々変化する時の流れを感じることが出来る。まるで柔らかな森の気配に同化し、すっぽりと包みこまれているかのようだった。無音の太陽の動きさえ感じるほどに――そこまで考え、須樹は苦笑する。いつの間にか木に凭れた体の右半分が光に照らされていた。何のことはない、顔に落ちていた枝の影が、空を渡る太陽の軌道に従い動いただけのことだった。眩しさに気付かずに呑気に物思いをしている自分は、むしろ余程鈍い部類だろう。
碧空には雲一つなかった。須樹は麗かな陽射しに照らし出された空間を見つめる。木々に囲まれた広場は、冬の最中とは思えぬ、眠気を誘うような暖かさである。須樹は同じく木に凭れて座る灰を見やった。深く顔を伏せた姿は、まるで眠っているように見えた。傍らには寄り添うように叉駆が蹲っている。視線を転じて馬車を見る。中にいる男達は静かだった。時折、蛇の足掻くような叫びが聞こえたが、灰はそれにも顔を上げようとはしなかった。
実際にはのほほんと考えに耽っていられるような状況ではないのだ。正午まであと一刻程、耶來の男はまだ姿を見せない。須樹は灰が何を考えているのか測りかねていた。鬼逆はただでさえ物騒な相手である。これまでの経緯を考えれば、蛇達の身柄は媼に引き渡すのが最もふさわしいのではないか――だが、須樹はその思いを口に出すことはなかった。そのようなことを灰が考えぬ筈がないと思ったが故である。
須樹は再び上空を見やった。何とは知れぬ鳥が緩やかに弧を描いて飛んでいた。その滑らかな動きが不意に乱れる。大きく翼を打ちふるい、さらに天高く吸い込まれるようにして青へと溶けた。
「来た」
須樹は囁くような声に眼差しを転じた。灰が顔を上げていた。その傍らで、叉駆が立ち上がり、灰の体を包み込むようにして消える。何度見ても驚きを禁じえない。有から無へ、柔らかに揺れた灰の髪の動きだけが、その名残だった。
「鬼逆か?」
灰は小さく頷くと、眼差しを真直ぐに木立の奥へと据えた。須樹はその視線の先を追う。次第に近付く複数の気配は、まずざわめきとして捉えられた。下草を踏みしめる蹄の音、馬が嘶く気配――そして陽炎が伸びあがるように、不意に人影が視界に映った。
木立の合間から姿をあらわした鬼逆は、数日前に笠盛で対した時のような奇態な姿ではなかった。飾り気のない暗色の外套に、左目を覆うのは黒い眼帯である。その背後に控えるのは十人程――何れも鬼逆の信を得る者達なのか、凄味と落ち着きを感じさせる男達だった。
鬼逆は身軽に馬の背からおり、広場へと踏み出した。耶來の男達は馬をおりる気配もなく、木々に紛れるようにして広場を取り囲んでいる。沈黙は、威嚇だ。
灰は目を凝らし、鬼逆を取り巻く渦を見詰めた。何度見てもひきつけられる。生きるものが発する命の光は淡く、柔らかな繭のように映る。だが、鬼逆のそれは違う。うねり、時に絡み合い、それ自体が意思あるもののように蠢いている。凍るような男の瞳とは対照をなす。鬼逆という存在自体が、炎に抱かれながら決して溶けぬ氷を思わせた。
灰の視線に何を思ったのか、鬼逆が悠然と笑みを浮かべた。鬼逆自身がそう意図したように、体を縁取る炎が大きく膨らんだ。
「灰、案じていたぞ。無事で良かった」
あまりに白々しい言葉に、須樹が身じろぐ気配がする。蛇のもとに配下の者を潜り込ませていたのだから、鬼逆は蛇が灰を狙っていることを知っていた筈だ。それにも関わらず、蛇を止めようとはしなかった。無論、それは緩衝地帯で起こった一連の騒動についても同じである。
灰は鬼逆の視線を真向から受け止めた。そうすべきなのだと、考える前にわかっていた。
「貴方と取引をしたい」
感情を削いだ素っ気ない物言いに、鬼逆が大仰に腕を広げた。それは些か芝居じみて見えた。
「感動の再会だというのに味気ないな。蛇に捕われたと知ってどれ程心配したか」
「今は無事だとわかったのだからそのようなことはもういいでしょう」
「つまらん奴だな。前から思っていたが、お前少し真面目過ぎるんじゃないか?」
「貴方には言われたくありません。貴方は戯言が過ぎる」
言って、灰が小さく溜息をついた。沈黙が落ちる。会話が噛み合っていない。そう思ったのは彼だけではないらしい。鬼逆の背後で一人の男が呆れ声で言った。
「確かに戯言が過ぎますな」
五十は過ぎているだろう、頬のこけた顔立ちは内面を透かしたように険しく鋭い。射抜くような眼光を灰に向けた。
「お前達、我らの頭と取引などと一体どういうつもりだ。場合によっては容赦せぬぞ」
「どいつもこいつも余裕のない……つまらんなあ」
溜息混じりに鬼逆は呟き、不意ににやりと笑った。
「だが確かに俺もこの茶番には少々厭いた。ここらで幕引きもいいだろう」
「こちらの要求に応えるならば、そちらが望むものを渡します」
「俺が望むものだと?」
灰は小さく頷く。鬼逆が笑みを深めた。
「お前の要求とは何だ」
「評議会で、一連の出来事が蛇の仕業であること、そして多加羅若衆が潔白であることを証言していただきたい」
ほう、と鬼逆が呟く。息をのむ気配は誰のものだったか、灰は周囲の視線が自分に向けられるのを痛い程に感じていた。もちろん、耶來の男達からのそれは好意的とは言い難い。張り詰めた須樹の気配は単純な驚きをあらわしているようだった。
「多加羅若衆のために、この俺に評議会で頭を下げろとぬかすか」
「蛇を捕えただけでは今回の一件は片がつきません。多加羅若衆の嫌疑が晴れなければ、依然として多加羅そのものへの疑念は残る。それを払拭しなければ、評議会が緩衝地帯の権利をいずれ沙羅久に渡すという結論を出すのを防ぐことが出来ません」
「緩衝地帯を動かすのは卸屋だと俺は思うがな。本当にことを終息させたいなら訴える先が違う。媼と若衆はどうやら手を結んだようじゃないか。お前が蛇を媼に渡せばすむ話だろう」
ぼやくような鬼逆の声音だった。
「確かに評議会は単なる飾りですが、緩衝地帯の体面を担うだけに御し難い。おそらく西の元締めは孫を人質に取られ正体もわからぬ者達の言いなりだったなどと、そのようなことを明らかにはしないでしょう。緩衝地帯の権利を沙羅久に渡すのが最善の道だと、評議会の代表者達には信じさせている筈です」
「評議会の連中は、どいつも善意の愚者というわけか」
辛辣な鬼逆の皮肉を聞き流し、灰は言葉を続けた。
「ことがここまで進んでしまっては、西の元締めであっても評議会の意向を止めるのは容易ではない。今更意見を覆そうとしても、かえって信頼を失うだけです。それに、例え媼が蛇を黒幕として評議会に突き出したところで、蛇が素直に罪を認めるとは思えません。あるいは媼のでっちあげだと思われる危険すらある」
「そうかもしれん。だが、俺が証言すれば奴らは多加羅若衆の無実を信じるか? 評議会の連中が耶來のごろつきの言葉に耳を貸すと本気で思っているのか?」
「単なるごろつきではない。貴方は名実ともに耶來の主だ」
称賛とも取れる言葉だったが、それは吹き過ぎる風と同じくらいさりげなく響いた。実際、灰にとっては単なる事実の指摘だった。鬼逆の表情は変わらなかったが、僅かに面白がるような気配が掠める。
「評議会を動かす根拠は不確かな事実と疑念……媼が何をしようとも、利害が絡む者の意見は更なる迷いと懐疑を生み出してしまう。ですが、多加羅若衆が潔白であると信じるに足るものが出てくれば事情は変わる。貴方の証言で耶來の一部による狼藉だとわかれば、緩衝地帯が自治を捨てるなどあってはならないと、評議会はそう結論付けるでしょう」
鬼逆が鼻を鳴らす。
「つまりお前は俺に道化を演じろ、というわけだな」
「道筋をつけてほしいだけです。明白な道理が示されて評議会が公式に多加羅若衆の潔白を認めれば、それでいい」
「要は愚かな爺どもが納得するような聞こえの良い話をでっち上げろということだろう。確かに奴らが納得出来る材料さえ揃えば、あとは卸屋どもが都合良く幕を引くだろうな」
それこそ何事もなかったかのように――
「俺が引き受けると思うのか?」
せせら笑う口調だった。
「蛇のことも謀略とやらも、俺にとってはどうでもいいことだ。ましてや多加羅若衆の行く末など、知ったことではない」
まるで灰の瞳に映りこむ己の姿を見るように、鬼逆は視線を逸らさない。灰は僅かに息苦しさを覚えた。
「まあいい。最後まで聞こう。お前は俺に望むものを渡すと言ったな。それは何だ」
灰は束の間黙り込んだ。陽光は、己を象る粒子さえ解けそうに柔らかい。森は生と死を内包している。朽ちればやがて全てが一つに混じり合う。佇む男達の鼓動さえ、大地の鳴動と呼応している。空虚な思考はいまだに形を纏わない。不意に、背を向けて立ち去りたくなる。全てに目を閉ざして。だが、そうするかわりに灰は思考の底から言葉を拾い出していた。
「俺は何故、貴方が俺に蛇のことを伝えたのか、わかりませんでした。その意図はどこにあるのか……。だが、貴方が何を望むかを考えれば、少しは推測もつく」
「興味深いな。是非ともそいつを聞かせてくれ」
「蛇のことがどうでもいいというのは嘘だ。耶來はこれまで主を持たなかった。一人が耶來を支配すれば、それに対抗しようとする者は必ず出てくる。蛇を見逃せば、そのような者達を増長させることになりかねない。貴方がそれを見過ごしにする筈がない。貴方は蛇の勝手を許すつもりも、謀略を成功させるつもりもなかった。だが、蛇の動きを掴みながら、敢えて放っておいた。貴方にとっては蛇の謀略はむしろ都合の良いものだったから……そうなのではないですか?」
鬼逆は答えなかった。無言で先を促す様子である。
「謀略の目的は緩衝地帯の権利を沙羅久に引き渡すことだった。多加羅の力が弱まっているこの時期であれば、蛇の計画は上手くいってもおかしくはなかった。緩衝地帯の人々にとっては自治を失う恐れがあることを知らしめる一事でもあったでしょう」
「ああ、そうだろうな。卸屋どもは今まで自治に安穏としすぎた。ここにきてはじめて己に与えられたものが絶対でも永劫続くものでもないと気付いただろうさ。だがな、お前が謀略とやらを阻んだところで、緩衝地帯が今まで通り安泰とは思えん。特に多加羅がここまで弱体化したとあっては、この先の自治を過信するのは愚かなことだ」
「蛇の謀略がなくとも、いずれ緩衝地帯の権利は沙羅久に渡るでしょう。まだ先のことですが、今回の一件で卸屋はそれをいやでも考えざるをえなくなった。この地が財をなしたのは独自の販路と市場を形成しているからだが、その力も所詮惣領家からあずけられたものでしかありません。正式に何れかの所領に組み込まれてしまえば、全て惣領家の支配下に置かれる。そうなれば、既に惣領家の庇護を受けている卸屋に伍していくのは難しいでしょう。その時に備えるためにも、更なる力を卸屋は求める筈です。自治を守るにせよ、何れかの所領の支配下に入るにせよ、今まで以上の結束と力が必要となります。しかも残された時はさほど多くはない」
「確かにそうだろうな。だが、そいつが俺とどう関わりがある」
「緩衝地帯がより大きな力を早急に持つには、現実的な問題がいくつかあります。帝国内で更なる市場の開拓をしようにも限りがある。惣領家の規制もある。それをかいくぐれば、かえって自分の首を絞めることになりかねない。そうであれば、目を外に向けざるを得ない。国境地帯との交易の拡大なくして新たな力を蓄えることは難しいでしょう。そして、国境地帯で最大の販路と市場を有するのは耶來です」
來螺の富は帝国内の所領にも匹敵すると言われている。それが、來螺の表の顔である歓楽と興行だけで築かれたのではないことは明らかだ。來螺の裏側こそが潤沢な富の源であり、国境地帯の交易を裏から支配しているのが耶來であることは暗黙の了解だった。だが、主を戴かず明確な法すらない無法者との取引を忌避する者もまた多い。少なくともこれまでは、耶來との取引は常に危険と隣り合わせだと考えられていた。禁じ手である所以だ。
「緩衝地帯は国境に程近く流通の要衝であるうえに、所領のような規制もない。結果、帝国内で唯一、人と物が自由に出入り出来る場所となっています。耶來にとっても、大きな魅力があるのではないですか?」
「否定はせん。だが、緩衝地帯の卸屋どもにとって耶來は無法者の巣窟でしかない。お前が言うように新たな力を得るにも、俺達を相手に選ぶことはないだろうよ」
「確かに嘗ての耶來ならばそうでしょう。だが、耶來が単なる無法者の巣窟ではなく、統率のとれた集団であると示すことが出来れば事情も変わる。耶來の主が取引に見合うだけの信の置ける人物であれば……あるいは信じるに値する明確な利害の一致があれば、緩衝地帯の卸屋が躊躇うことはない」
おそらくは、と心の中で付け加える。
「蛇は緩衝地帯に混乱を引き起こし、結果、今までにはなかった綻びが出来た。緩衝地帯に近付きたい者にとっては絶好の機会です。蛇を泳がせていたのも、緩衝地帯の動揺が、貴方にとって利のあるものだったからではないのですか?」
灰は鬼逆の表情を見つめる。そこに肯定も否定も見出すことは出来なかったが、沈黙は灰の言葉を阻むものではない。
「貴方にとって蛇の謀略は望ましいものだった。無論、謀略が成功して緩衝地帯の権利が沙羅久に渡ってしまっては元も子もない。最後まで蛇を放っておいて謀略を成功させるようなことはしなかったでしょう」
部下を蛇の下に潜り込ませることで、鬼逆は蛇の動きを逐一把握していた。蛇の行動を阻むことは、鬼逆にはしごく簡単なことだったのだ。
「途中までは確かに貴方の思惑通りにことは進んだ。だが、蛇は迂闊過ぎた。媼に勘付かれ、綻びは出来ても耶來への警戒は益々高まってしまった。これは貴方にとっても誤算だったのではないですか? 緩衝地帯は、依然として耶來には決して開けることの出来ない扉に守られています。貴方は蛇を、扉を破る槌としたかったのに、扉は益々頑なになり、槌は壊れてしまった」
「面白い比喩だが、正確に言った方がいい。槌は壊れたんじゃない。お前が壊したんだ」
「貴方には槌ではなく、鍵が必要だ」
鬼逆の口元がおかしげに歪む。灰の胸の内を見透かすように、それは冷やかな揶揄を宿していた。
「評議会で証言をしていただけるなら、俺は貴方を媼と引き合わせます」
「お前にそれが出来るのか? 耶來と聞いただけで奴らは俺を門前払いするだろうよ」
「そうさせないためにも、蛇とその手下を貴方に引き渡します。媼は俺が蛇に捕われたことを知っています」
鬼逆は器用に眉をあげてみせた。灰が意図するところを正確に察したらしい。
「豪気だな。媼を謀るつもりか」
「媼に評議会での証言を申し出てください。耶來の主として蛇の罪を明らかにし、若衆の潔白を皆に知らせると。謀略を阻みたい媼にとっても悪い話ではない」
不意に鬼逆が笑い声をあげた。それは広場に響き静寂を突き破る。
「そして俺が得るのは媼への貸し一つ、というわけか! お堅い淑女を落とすには持って回ったやり方だが、悪くはない。だがいいのか? 惣領家は緩衝地帯が耶來とつるむのは望まないだろう。それに、蛇を追い詰め捕えたのはお前だ」
「俺は評議会が多加羅若衆の潔白を認めればそれでいい」
素気ない物言いだった。鬼逆は笑みの名残を口元に残したまま、束の間灰を見詰める。面白がっているようにも見える。だが、真実鬼逆が何を思うのか灰には読み取ることが出来ない。一年半前に相対した時もそれは同じだった。無論、読み取りたいとも思わない。鬼逆は、縁取る命の力そのままに、鮮やかで危険な相手だ。
「わかった。お前の言うとおりにしよう」
背後から頭、と呼びかける声に、鬼逆は片手を上げることだけで応えた。
「蛇はあの中か」
灰は小さく頷いた。鬼逆は周囲に視線を投げる。それだけで主の意図を察したらしい男達が荷台に近付く。それを目で追いながら、灰は問うていた。
「蛇にあのような出鱈目を吹きこんだのは貴方ですか?」
「何のことだ」
「俺が貴方の弟だと蛇は考えていた。誰かが意図的にそう思い込ませたとしか思えません」
「誤解があるようだな。蛇に伝えたのは俺ではない」
「貴方ではなく、他にいると?」
「ああ。俺の部下の一人だ。蛇に伝わるよう情報屋に流していた。お前と俺が兄弟だと思い込んだらしい。俺の足元を掬おうとしている奴は何も蛇だけではなかった、ということだ」
あっさりと、悪びれもせずに言う。やはり、と灰は内心に思う。
「その部下をどうしたんですか?」
「聞きたいか?」
鬼逆が裏切り者にどのように対するか――考えるまでもない。知る必要もないだろう。だが、灰の顔を過ったものを、鬼逆は見逃さなかった。
「お前はこう考えているんだろう。お前が俺の弟だと、敢えてそう思わせて俺が部下を試したのだ、と」
知らず、灰は顔を背ける。これ以上聞きたくはなかった。
「その通りだ。お前が言ったように、蛇の行動は俺に反感を持つ者達を焚きつける。今まで主がいなかった耶來を俺が牛耳るのを、誰もが歓迎するわけじゃないからな。この機会に二心ある者を見極めようとお前を餌にした。呆気なく引っかかって少々拍子抜けではあった。俺を裏切るにしても、もう少しうまくやるだけの脳みそのある男だと思っていたからな」
灰は黙り込む。鬼逆の漆黒の髪が揺れる。
疑念はあった。何故、鬼逆が蛇のことを知らせたのか。何故、灰の元にまで出向いて直接言葉を交わそうと思ったのか。おそらくそれらは全て灰の存在を周囲に知らしめるためだったのだろう。特定の個人を気にかけるような態度は、鬼逆を知る者ならば意外に感じるに違いない。そして一年半前の出来事を少しでも知っている者がいれば、灰が鬼逆の弟だという考えが出てもおかしくはない。全ては意図的なものだったのだ。
喉元までこみあげる言葉は――あるいは怒りは、曖昧に揺れるだけで形にはならなかった。奇妙に遠い思考を灰は閉ざす。
「許せないと感じるか? 俺がどんな人間かお前も知っていると思っていたが……潔癖なところは相変わらずだな」
荷台の中を確認した男が鬼逆に頷きかけると幌を閉ざした。
「聞きたくもないってか? 知りたがったのははお前だぜ?」
「聞くべきじゃなかった。俺には関係のないことです」
「そうやって知りたくないことから目を逸らし続けて、これからずっと生きていけると思っているのか?」
灰は鬼逆を睨みつけた。鬼逆はいまだ荷台に顔を向けたまま、眼だけで灰を捉える。笑みが斜めに傾ぐ。
「灰、俺とともに来る気はないか?」
地面に落ちるように響く。灰は目を見開いた。意味を捉えかねて、問い返すことも出来ない。戸惑いを隠すことも――
「俺はお前が気に入っている。言葉を交わすだけの価値があると思える相手にはそう出会えるものじゃない。俺にとってそのような相手がどれ程貴重か、お前にはわからないだろうな」
「貴方と行くことなど出来ない」
「出来る出来ないの話ならば、そいつは違う。可能だ。お前は蛇に捕われたからな。耶來に連れ去られた者が無事に戻る方が珍しいのはよくわかっているだろう。今ならば、何の後腐れもなく姿を消すことが出来る。多加羅を去ることが出来る」
多加羅を去ることが出来る。多加羅を、捨てる。反芻する。それは、冷たい感触を伴う。
「今まで一度も考えなかったか? 多加羅がお前の居場所だと、心の底から思えたことがあったか? 多加羅を出れば、憎しみを秘めて生きるより、もっと自由になれる」
「憎んでなどいない」
咄嗟に灰は答える。強い口調だった。灰は鋭く息を吸って自制した。静かに続ける。
「憎んでなどはいない。俺は、多加羅でやらなければならないことがある」
「そうやって己で己に枷を付けるのをそろそろやめたらどうだ。お前が望めば誰よりも多くを得ることが出来る。誰よりも自由になることも出来る」
「貴方と行けば、それがかなうのですか?」
皮肉に笑んで問う。
「それはお前次第だな。俺が出来るのはより広い世界を見せることだ。お前はもっと多くを知るべきだ」
意識して息をしなければ、呼吸さえ忘れそうだった。鬼逆の声は容赦なく届く。
「多加羅だけじゃない。お前は力をも憎んでいる。何故、憎んでいるか自覚しているか? 力が、お前にとっては容易く手に入れることが出来るものだからだ。お前自身が、力だからだ。それさえ認めれば楽になれる。自分自身への憎しみから解放される。一つ所で蹲って目を閉ざしているよりもましだとは思わないか?」
「善意で俺を導くつもりですか? 似合わないことをする」
「では言い方を変えよう。お前を得る者は力を得る。俺は富と力には貪欲だからな」
「俺は貴方の力などにはならない。意のままにならない相手は嫌いでしょう」
「そうでもないさ。それもまた面白い」
「俺が姿を消すとなると、媼への伝手はなくなる。それでもいいと?」
「それぐらい自分で何とかしてみるさ。多少時間はかかったとしてもな」
灰は顔を背け、相手の言葉を断ち切った。
「話は終わりです。すぐに媼の元に向かいたい。馬を貸してください」
鬼逆の顔を、透明な笑みが掠めた。一瞬で消える。
「いいだろう」
鬼逆の指示に男達は無言で従った。灰と須樹にも視線を向けない。引き出されて来た馬の手綱を受け取り、灰は無意識のうちにその首筋をなでた。馬の瞳が、灰と、周囲を取り巻く空気を捉える。低い嘶きは穏やかだった。波立つ気持ちが僅かに静まったが、鬼逆の言葉を聞き続けずにすんだことへの苦い安堵は、消えずにこびりついていた。
「淑女を籠絡しにいこうか」
言うと、鬼逆は身軽に馬の背に跨った。それに続こうとして灰は動きを止めた。背後から須樹が歩み寄り、灰の隣りに立った。
「待ってください。媼には、俺が引き合わせます」
答えも待たず、須樹は灰に顔を向けた。
「灰は先に多加羅へ戻っていてくれ」
「須樹さん?」
「媼と引き合わせるだけならば俺でも出来る。お前は媼とは面識もなかっただろう。その点、俺の方が話が通りやすい」
「ですが……」
「お前が何を考えているかはわかった。俺に任せてほしい」
灰は口を噤んだ。
「灰、お前は笠盛には行かない方がいい。宇麗は勘付いている。お前と顔を合わせれば、何かを察するかもしれない」
囁くような声だった。灰の鼓動が揺れる。――全てを話していない。須樹はそれを知っている。
「俺が信じられないか?」
信じていないわけではない。そう言おうして言葉が喉につかえた。その沈黙が、須樹を傷つけたのがわかった。
――信じていないわけではない。恐れているだけだ。失うことを――
「わかりました」
思いを押し込めることは簡単だった。己の内を埋める。深く、光さえ通さぬ漆黒の水底に沈めればいい。慣れた手順だ。
「聞いた通りです。俺が貴方を媼のもとに案内します」
「俺は誰が鍵だろうがいいぜ。扉さえ開けばな」
鬼逆は肩を竦める。
「俺は多加羅へ戻ります。あとは、お願いします」
灰は言った。