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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 目指す森の影が仄かな月明かりのもとに浮かび上がったのは、一刻程進んだ後のことだった。折り重なる木々が一つの大きな輪郭を作り出し、横たわる静寂の確かな具現と見えた。だが踏み込めばそこは密やかな気配に満ちている。突然の侵入者に束の間息を潜め、相入れることもなく彼らを包み込んだ。

 冬枯れした木立をすかして星月の光は届くが、見通しのきかぬ視界は方向感覚を失わせる。げんは携帯していた硝子筒に、火打ち石で手際よく火を灯した。炎の明るさに、周囲の暗がりが俄かに凝る。頑なに身構える野生の獣を思わせて、影は深く見えた。

「明かりなど灯して大丈夫ですか?」

「もう誰も我々を追っては来ぬでしょう」

 確信した響きに、須樹すぎは続く問いを呑み込んだ。ちらりと傍らを見ると、かいは森の奥を透かし見るように目を細めている。何かに耳を澄ましているようにも見えた。

「この先に幾分開けた場所があります。少し休憩致しましょう」

 弦の言葉の通り、暫く進むとぽかりと開けた空間が見えた。木々や茂みに囲まれ、真中には人が火を焚いた後が残っていた。旅人が一夜のよすがとする場所なのだろう。馬を木立に繋いだ弦が手早く火を焚く。近くにあるという水場から水を汲んで来た様子から、以前にもこの場所を訪れたことがあるのだろう。木立に繋いだ一頭と馬車を引いていた二頭にも水を飲ませて、三人は焚き火の周りに腰を下ろした。弦が水を入れた鉄製の器を傍らに置いた。何を、と見つめる須樹の疑問はすぐに解けた。灰様、と弦が懐から取り出したのは干した植物の葉である。水に投じた後言った。

「音切草です。まずは傷の手当てをなさってください。化膿しているのではないですか」

 灰は答えなかった。それに須樹は意外の念を抱く。普段は年上の者に対して常に礼儀を忘れぬ灰が、己に仕える者とはいえ返事すらしないのは珍しい。だが、薬師くすしの技術を有する彼が反論せぬということは、弦の言葉が当たっている、ということなのだろう。

「わかるのですか?」

 思わず弦に尋ねれば答えは簡潔だった。

「出血の仕方で治療を要する傷であることはわかります。それに傷を庇う動きをされておられます故」

 へえ、と感心して呟きながら、須樹は苦笑をかみ殺した。傍らの灰の顔が僅かに苦々しい。常に穏やかな表情を浮かべている灰にしては珍しく――有体に言えば、ひどく人間臭い表情である。この主従は面白い。まるで牽制し合うように一定の距離を保ちながら、言葉に出さずとも互いのことをわかっているふしがある。そしてそのことを当人達はあまり自覚していないらしい、というのが須樹の印象である。

 暫く薬草を漬け置いた器を、弦は火の上にかけた。次第に温められる水の中で、薬草がゆらゆらと揺れた。

「須樹さん、皆の様子はどうでしたか?」

 不意に問われ、須樹はああ、と呟いた。後に残してきた若衆のことを思い出す。

「それが宇麗うれいに託けただけで弦殿と笠盛りゅうせいを出たからどんな様子だったかはわからないんだ。お前が蛇に追われたとあのこんという少女が知らせにきた時は、さすがに皆青褪めていたな」

「紺が知らせに?」

 驚きの籠った灰の声音に遮られる。

「ああ、そうだ。お前が助けた……紺、というのだろう? 必死に駆けて来たのだろうな、お前を助けてくれと言っていた」

 紺が、と灰は呟いた。炎に照らし出された横顔にゆっくりと、柔らかな笑みが浮かぶ。それに須樹は目を瞬いた。

「どうかしたのか?」

 いえ、と灰は小さくかぶりを振って話の続きを促した。

「その後は皆別々にお前を捜すことになったからなあ。宇麗から話を聞いて驚いているだろうな」

 設啓せっけいにどやされそうだ、と須樹はぼやく。その顔が不意に真剣なものとなる。

「灰、一つ不可解なことがあった。宇麗とともに街を捜していた時に、鬼逆きさかが接触してきたんだ。鬼逆は何故蛇がお前を狙ったか知っていたぞ。おまけにお前が街外れの廃屋にいることまで知らせて来た。どう思う?」

 問われて灰は考え込むように眼差しを伏せた。煎じる薬草の微かな匂いが広がる頃、漸く灰は口を開いた。なるほど、と小さく呟かれた声音には、僅かに呆れたような響きがあった。

「何だ? 何か思い当たることがあるのか?」

「ええ、まあ。……あの人らしい……」

 言いながら灰は様子を見るためか、器を覗き込んだ。葉から溶けだした色彩が、炎の散る様を映しだしてとろりと艶めかしい。準備の良い弦が木の箆を灰に渡した。ゆっくりと掻き混ぜる動作を見ながら須樹は言う。

「鬼逆らしいってことはつまり……相当に物騒なことなんだろうな。あいつは何を企んでいるんだ」

「すぐにわかります」

 謎めいた答えだったが須樹はそれ以上問うのをやめる。灰が言うからには、真実その通りなのだろう。良くも悪くも、灰は率直である。率直であるが故に度し難い。秘めることが何かあるのだと思いながらも問うことが出来なかったのは、その率直さを――明らかにはせぬと灰が決めたならば、偽りを述べることすらせずにただ沈黙を守るだけだと知っていたからだと、今更ながらに気付く。それは柔らかくも厳とした拒絶である。仁識にしきなどはとうに理解していたことだろう、と須樹は思った。

 薬草を煎じた液を十分に冷ました後、灰は薬液に浸した布を傷口に当てた。脇腹と右腕、膿んだ傷口に須樹は思わず顔を顰める。命に関わらぬとはいえ、刀傷が油断のならぬものであることくらいは知っている。彼自身が腕に負った傷もいまだ完全には癒えていなかった。布の上からきっちりと包帯を巻き付けたのを見届け、弦は煎じた薬草を捨てるために場を外した。その背を見送り、須樹は灰に言う。

「休憩を取ったのは結局お前の治療のためだったんだな」

「そう……でしょうか」

「そうだろう。お前の身を心から案じている様子だったからな。蛇に対して相当に腹を立てていたように見えたぞ」

 その言葉に、灰は何とも言い難い表情になる。これもまた彼にしては珍しいものだった。呆れて須樹は笑った。

「気付いていないようだが、お前と弦殿は見事な連携だぞ。他人行儀なのに、まるで言葉などなくとも互いがわかっているようだ。傍から見ていてどうにもおかしい」

「彼は……惣領の命令で俺に仕えているだけです」

「そうなのか? 俺は彼自身が望んでお前に仕えているのかと思っていた」

 灰はまじまじと須樹を見つめる。惣領家の影である弦が、自らの望みで灰に仕えるなど到底信じられぬことである。

「それ程に意外なことかな。いずれにせよ、お前のことを彼はよく知っているようだな」

 灰の口元を笑みが掠める。僅かに皮肉を帯びたそれである。

「知ってはいるでしょうね。俺が多加羅に来る以前、森林地帯にいた頃から彼は俺のことを知っています。もしかするとそれよりも前から知っていたかもしれない」

「どういうことだ?」

「惣領は彼に俺を監視するよう命じておられたそうです」

 監視――冷たい響きに、須樹は返す言葉を失った。その時、木々の間から姿をあらわした弦に、話はそれきりとなる。だが、重い心持で須樹は目の前の二人を見やった。弦が須樹に語らなかったこと――あるいは灰が何れ彼に語るかもしれぬことの、その片鱗を垣間見た思いだった。

 それまでの会話など欠片も感じさせず、灰が弦に言った。

「おそらくもう少しで蔡李さいりが目を覚ますと思います。彼を西の元締めの元に送り届けてください。蛇のことは俺が何とかします」

「それはなりません。はじめの計画では、まずは笠盛近くまで戻り、蛇を引き渡す筈だったではありませんか。蛇のことは私にお命じください。あの青年はその後に送り届けましょう」

「いえ、出来れば蔡李にはこれ以上のことを知らせたくはありません。彼が知る必要のないことです」

「ですが……」

「頼みます。それに、蛇のことはどの道俺が話をした方がいいでしょう」

 弦の反論を封じた灰に、須樹は問うた。

「蛇をどうするつもりだ? おうなに引き渡すのか?」

「いえ、蛇は鬼逆さんに引き渡します」

 淡々としたその答えに、須樹は目を瞠った。振り返った灰の静かな面、そこにある研ぎ澄まされた意思を見て、出かけた言葉を呑み込む。問いはおろか単純な驚きをあらわすことさえ躊躇う、透徹とした気配があった。

「灰様、どのように蛇を鬼逆に引き渡すおつもりですか?」

「彼をこの場に呼び出します」

 硬質な声音には、それ以上の問いを阻む強さがあった。灰は外套の頭巾を目深に被り、馬車へと近付いた。同様に顔を隠して須樹は灰の後に続く。ばさりと、灰が大きく幌を開いた。低く地を這うような男達の囁きの名残と、不自然に落ちた沈黙が漏れ出る。身動きかなわぬように縛められた男達が、暗がりから灰を注視する。蔡李を、と低く命じられて弦が縛られた男達の手前に横たえられていた青年を運び出す。顔を歪めて弦をねめつける蛇を一顧だにせぬ。

 灰は敵か味方か判じかねるように己を見つめる男達を見渡した。尤も、縛られている状態で味方とも思えぬに違いないが、僅かながらも期待を覗かせる男達の表情である。

「この中に鬼逆と通じる者がいる筈だ」

 その声音は感情を削いで冷徹を感じさせる静けさだった。須樹は呆然と灰の背を見やる。戸惑い、次いで驚きの囁きを漏らす男達の中で、蛇が叫んだ。

「何言ってやがる。ふざけたことを抜かしてねえでこの縄を解きやがれ。こいつらは俺に従っている。鬼逆など関係ねえ! 始末屋! 聞こえてんだろうが! よくも騙しやがったな!」

 何の応えもないとわかるや、蛇の血走った眼が灰に向けられた。己が二日前に捕えた相手とわからぬのか、森閑とした闇を背負う姿を気味悪げに見やり、吐き捨てる。

「鬼逆云々などとくだらねえこと言ってねえで、俺と取引しようぜ。あいつらの元から救い出したってことは、俺に用があるんだろうが。何が望みだ?」

 灰の沈黙に蛇がさらにまくしたてる。

「それともあの蔡李とかいう若造が狙いか? 奴が誰か知らねえだろ。そいつを教えてやる。あいつは金になるぜ。見返りに俺達を自由にしてくれ。ただし、もう一人の若造は俺の獲物だ。一緒に連れて来たんだろうな?」

「お前と話をする気はない。俺が話したいのは、鬼逆の配下の者だ」

 言いながら灰は頭巾を取り払う。意図していたのか、それとも蛇の態度に埒があかぬと思ったのか、そのどちらであるか須樹は判じかねる。あらわになった容貌に男達が示した表情はなかなかの見ものだった。蛇が唖然と口を開ける。そして荒事ばかりに身を浸し明敏さを欠く男達の虚ろな表情の中で、ただ一人がはっと息を呑むような気配を見せた。状況の不可解さへの驚きだけではない、それは背後で見ていた須樹にも明瞭に捉えられた。

 なるほど、意図的に容貌を晒したのか、と須樹は思う。灰はその一人の男へと眼差しを向けた。蛇の手下の中でも影が薄い、痩身の男だった。

「鬼逆に情報を渡していたのはお前か」

 驚き、疑念、逡巡――そして男は鋭く抜け目のない視線を灰に据えた。

「……ああ、そうだ。何故鬼逆に通じている者がいるとわかった?」

「明かす必要もないことだ。お前が要求に応えるならば自由にしよう」

「要求だと?」

「俺は鬼逆と取引がしたい。その伝手をするならば、今すぐに縄を解こう。ただし、明日の正午までに鬼逆をこの場所に連れて来てもらいたい」

「取引などとどういうつもりだ。お前はあの方の弟なのだろう」

 灰がうっすらと笑んだ。

「是か非か、どちらだ」

「否と言えばどうなる」

「どうもならない。お前は蛇の仲間として裁きを受ける。それだけのことだ」

 男は灰を凝視する。やがて諦めたように溜息をつくと言った。

「わかった。我らの頭をこの場所にお連れしよう。縄を解いてくれ」

 頷き、灰は男の縄を解いた。立ち上がった男の背に、蛇の声が響く。

「待て! てめえ、何時から鬼逆の野郎に寝返った!?」

「寝返ったわけではないさ。俺ははじめからあの方の命に従ってお前の下にいただけだ。お前の動きなど、頭ははじめから全て知っていた」

「そんな……そんなわけがあるか! 知っていたなら邪魔をしようとした筈だ!」

「俺には頭が何を考えているかなどわからん。恐ろしい人だ。もとよりお前が張り合えるような人物ではないのさ」

 男の口調には蛇への哀れみが籠っていた。呆然と座り込む蛇を僅かに見下ろし、荷台を降りる。弦が馬を引いて男の前に立つと、その手に手綱を預けた。素早く馬に跨り、男は複雑な眼差しを弦に向けた。

「始末屋が偽だったとはな。この俺もまんまと騙された。はじめからこういうつもりだったのか?」

 無言の弦に肩を竦め、お前もだ、と眼差しは灰へと流れた。

「頭に弟とは半信半疑だったが、測り知れぬという意味ではお前はあの方によく似ている。真実弟であるならば、確かに弱みともなろうが……秘していたのはそのためだったのかわからぬものだな……」

「何が言いたい」

「我らは耶來やらいだ。時に肉親と言えども敵となる。それも張り合うに足る力を有する存在ならばむしろ邪魔なだけだ」

「どちらであろうと、さほど違いはない。もしも俺が真実鬼逆の弟だとしても、あの人は俺が殺されようと何かを手放すことはしない筈だ。そして仮に、俺の存在が邪魔であるならば、俺はとうに鬼逆自身の手で殺されている」

 どちらにせよ命はない――淡々と紡がれた言葉に男は束の間灰を凝視し、そうかもしれぬな、と呟いた。

「明日の正午までに必ず頭を連れて来よう」

 一声残し、男の姿は木々の間に蹲る闇の中へと消えた。

 男が消えた方角を見やり、灰は荷馬車の幌をおろす。蛇の呪詛の声が、濁って夜気を震わせた。

「なるほどな、内通者がいれば鬼逆にも蛇の居場所は筒抜けだったわけだ。蛇達を鬼逆に渡しどうするつもりだ?」

 須樹の問いに灰は答えなかった。何かを見極めるように俯く。

「……それも、すぐにわかる、か」

 須樹は小さく呟いた。

「俺は、見届ければいいんだな?」

 ふと灰の視線が須樹に注がれる。まるで夢から醒めたばかりのように、空虚なまでに清廉な眼差しである。首肯し、灰は傍らに控える弦に言った。

「俺は蔡李がこの場を離れるまで森にいます。彼を頼みます。無理矢理連れて来るような形になってしまったので、なかなかこちらを信じてはもらえないと思いますが……出来ればこちらが敵ではないことを伝えてほしい」

「森にって……なんで……」

「蔡李には俺の姿を見せぬ方がいい」

 背後で蔡李が微かに呻く。それに意識を取られた須樹は、お願いします、と呟く灰の声を聞いた。振り返り息を呑む。木立を抜けて森の中へと踏み込む灰の姿があった。その向こう、木々を透かして、巨大な獣の輪郭が暗闇よりなお黒い。星のように、冷え冷えとした鋭い眼が光っている。獣に向かって歩み去る灰の背もまた、滲むような森の暗さに溶けていった。やがて灰の輪郭が獣の内に呑まれるようにして消える。瞬いた時には、既に獣の気配も、灰の姿もどこにもなかった。

「須樹殿、灰様の仰る通りになさってください」

「でも……追わずともいいのですか? このような森で、一人で過ごすなど」

「灰様には獣がついております。それに、これ以上灰様の身を緩衝地帯の者達の目に晒すわけには参りません。あの方のお立場をお考えください」

 須樹は反論を呑み込み、弦の言葉を反芻する。もとより多加羅惣領家に連なる者が緩衝地帯で動くこと自体知られてはならぬことである。惣領家に仕える男の言葉は尤もなものなのだ。

「須樹殿、鬼逆が灰様に害なさぬよう用心なさってください」

 咄嗟に答えることが出来ず須樹は男を見やった。言葉に出さずとも、弦自身が鬼逆との対面の場にいて灰を守りたいと考えている筈だ。

「灰は何故蛇を鬼逆に渡すのですか?」

「私にはわかりかねます」

「やはり……弦殿が立ち会った方がいいのではないですか? 鬼逆は危険な男です」

「主の命令には逆らえません。私はあの青年を西の元締めの元に送り届けます」

 弦はあっさりと答え、蔡李の元へと踵を返した。須樹はその背を見やる。出かけた言葉は、苦い思いとともに胸中に沈んだ。灰が弦へと向ける頑なな態度を思い出す。灰が惣領家の一員であることを是としていないことは知っている。弦という存在は、彼にとっては逃れようにも逃れられぬ、惣領家という存在を象徴するものなのかもしれない、と今更ながらに気付いていた。

 身じろぐ蔡李の姿を見やり、須樹は重く息をついた。灰にしろ弦にしろ、どうも自分を過大に評価しているのではないかと思う。己が何を見届けようとしているのか、見通すことなど到底出来そうにはなかった。

 ――全てを見届けてなお、俺の話を聞いてもらえるなら、その時は話します――

 灰が振り返ることもせずに去った木立の奥を見つめる。昼間ならば何の変哲もない木々の群れが、今は底知れぬ暗がりに何を秘めるのか、未知の存在になったようだった。それまで確かに見えていると思っていたものが、まるで異なる形を纏って現れ出でる不思議である。無論、同じものなのだ、と須樹は己に言い聞かせる。森は幾つもの姿を象り、時に安らぎを、時に恐怖を抱かせるものなのだ。だが、それはどのような姿であろうともたった一つの存在でしかない。

 見届ける――須樹は己に刻み付けるように思う。せめてそれくらいならば己にも出来よう。

 その夜、灰が森の奥から戻ることはなかった。



 空と地平の境目に、一線の紅がくっきりと刻まれた。夜の裂け目であるそこから、曙光が漏れ出でる。陽が昇る程に、朝靄は幾重にも異なる白色の帯となって地表を覆い、その下に在る草地を思わせなかった。彼方へと去る弦と蔡李の姿は幻想的な光の渦に溶け込み、幼い頃に聞いた異国の物語を思わせる。

 ――純白の海原を渡る双頭の竜だ。

 遠い思考が意識の中枢にゆっくりと沈む。覚醒と眠りの狭間、上空の遥か高みから見下ろす二人の姿が夢でないことはわかっていた。浮き上がり拡散していた意識が一点を目指して収束する。目覚めはさながら落下である。遠い記憶のように、現に接する感覚が熱を持って蘇る。柔らかな下草の感触と叉駆の温もり、そして大地に確かな重みをあずける己の体だ。瞳を開ける。瞬く。見上げれば巨木の枝を透かして、絹のような朝の光が差し込んでいる。凛冽と澄んだ大気の中に、潤いざわめく命の喧噪がある。

 灰は己の呼気を追うように手を伸ばした。それが漆黒の毛並みに触れた。狼よりも鋭く優美な、叉駆さくの顔が間近に在った。眠っていた灰に叉駆が添うように寝そべり、その柔らかな気配が体を包み込んでいた。まるで卵を温める親鳥のようである。寒さを感じなかったのはどうやら叉駆のお陰らしい。眠るつもりはなかったが、ここ数日睡眠らしい睡眠を取っていなかったためか、やはり疲れていたのだろうと灰は他人事のように思った。

 身を起こし叉駆の耳の付け根を掻くようにして撫でる。目を細めた叉駆を見やり、灰は立ち上がる。途端に体のそこかしこが軋むように痛んだ。叉駆が灰の腕の下に頭を潜り込ませるようにして鼻を鳴らした。行こう、と言っているように聞こえた。山の奥深くに踏み込む時以外で、灰が叉駆の背に乗ることは滅多にない。だが、灰の疲労をわかっているのか叉駆は自ら身を屈めた。ゆっくりと灰はその背に跨る。叉駆は静かに森の中を駆けた。

 広場に辿り着くと、須樹が丁度大きく伸びをしたところだった。獣の背に乗って姿をあらわした灰に、須樹は一瞬目を瞠った。

「古いお伽噺のように、森の神の使いが姿をあらわしたのかと思ったぞ」

 言いながら苦笑する。灰が背から降りると、叉駆はゆったりと地面に蹲った。

「蔡李は発ちましたか?」

 灰は問う。二人が去る姿を見たことを言う気にはなれなかった。言いようがない、というのが正直なところである。無自覚に意識を体から飛ばしているなどと言えば、心配させてしまうだけのようにも思えた。

「ああ、ついさっきだ。蔡李がなかなか納得してくれなくて参った。それに相当に体力が落ちていたから、少し休ませた方がいいと弦殿が出発を遅らせたんだ。捕われていたという点では俺も同じだが、あの扱いはひどいな」

 須樹は憤然と言う。一月も陽の光とて射さぬ地下で鎖に繋がれていたという、それは最早人として扱ってすらいない。

「朝飯の残りがある。食べろよ」

 差し出された椀を受け取る。弦が用意していたものなのだろう、雑穀を炊いたごく簡単なものだったが、温かく体に沁み渡った。食べ終わった灰の前に須樹が胡坐をかいた。

「蔡李がお前のことを案じていた」

「俺を? 何故?」

 灰の反応に須樹は思わず溜息をついた。

「無理もないと思うぞ。お前のことを言わぬためでもあるんだろうが、弦殿は言葉が少ない。蔡李がお前の姿がないが無事か、と頻りに聞いてきた」

「……怒っていると思っていました」

「まあ、怒ってもいたな。いきなり当身をくらわされて気を失わされたら、誰しも嫌なものだろう。まあ、最後には何とか納得してもらえたようだが……」

 実際には少し違う。

 緩衝地帯で狼藉を働く者を追っている中で蛇に辿り着き、蛇が笠盛から逃げ出した後をつけて襲撃をかけた、というのが、弦が蔡李に告げた内容である。その言葉自体に偽りはないが、蔡李の疑念を払拭することは出来なかっただろうと須樹は思う。何のためにそのようなことをしたのか弦自身が語らぬせいもあり、納得したというよりもこれ以上聞いたところで意味がないのだと諦めたというのに近い。

「とにかく、西の元締めのところに送り届ければ、この一件も無事終わるな。多加羅へ帰れる」

 須樹の言葉に灰は答えなかった。見やると、灰は胸元を押さえながら俯いている。灰、と呼びかける。はっと顔を上げて、灰は胸を押さえていた手を握り締めた。まるでその拳をどうすべきか迷うように彷徨わせ、地面に落とした。一瞬、灰の顔を過った表情――翳りを帯びて鋭いそれを、須樹は見逃さなかった。

「……大丈夫か?」

「はい。ですが鬼逆さんと話をしないと……あの人は油断がならない」

 今後の首尾を聞いたつもりではなかった須樹だが、敢えてそれ以上問うことはしなかった。問うても灰が答えるようには思えず、例え答えがあったとしても今の自分はそれを受け止めかねる、という予感があった。鈍い後味を残して胸中に沈んだ思いから目を逸らすように、須樹は殊更朗らかに言った。

「無事終わることを祈っているよ。俺が出来ることといえば、お前の後ろに突っ立っていることくらいだからな。まあ、鬼逆といえども、あの獣がいればお前に手出しすることは出来ないだろう」

 叉駆がぱたりと長い尾を振った。それに須樹が呆れたように言った。

「なんだ、お前、言葉がわかるのか?」

「須樹さんなら触らせてくれるかもしれませんよ」

「本当か? お前、咬まないだろうな。そんな牙に咬まれたら腕なんかあっという間にもげちまう」

 おっかなびっくり須樹は叉駆に近付いた。恐る恐る手を伸ばし叉駆の頭に触れる。実物の獣と寸分違わぬ感触に須樹が驚きの声をあげた。頭から首筋へと、優しく撫でられて叉駆が目を細めた。まんざらでもないらしい。その光景に、灰は柔らかく笑む。笑みながらも握り締めた拳を解くことはしなかった。どくどくと、体を巡る血の音が耳元に響く。

 ――鎮まれ――刻みつけるように囁く。

 灰の想念に抗い、胸にかけた黒玉が鳴動する。満ち溢れる命の気配に、ぞろりと揺れて触手を伸ばそうと足掻く。固く冷たい黒玉の中に蠢く膨大な力を抑え込み、灰は小さく息をつく。ゆるりと頭を振り、何やら叉駆に話しかける須樹を見やった。

 ちらちらと舞う光が眩しかった。

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