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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 背後に迫る人馬の姿は数にして四、互いの輪郭を捉えることの出来る距離にまで戻り、かいは馬を止めた。こちらの姿を認めた相手が、何かを叫ぶ。瞬時に集中を高め、灰は右手を前に翳した。灰が編み上げた力に乗って、背後から叉駆さくが駆ける。大地の奥から引き出された力の塊がうねるようにして地表に溢れ出した。強力な叉駆の力と同化し、まるで天へと落ちる滝のように追手の行く手に噴出する。それは淡い光りを帯びた壁となり、灰と男達の間を切り裂き、左右へと奔った。

 突然出現し行く手を阻んだ光の奔流に、男達が一斉に馬の手綱を引いた。膨大な力の波が地表を奔り、男達の周囲を包み込む。咄嗟に馬首を返した者の行く手をも阻み道を閉ざす。それは、人の背丈の三倍はあろうかという光の檻である。驚愕の眼が己の姿を捉えているのを見やり、灰は手をおろした。

 揺らめき立つ壁の向こう、狼狽した追手の中で一人の男が馬をおり、壁に近づく。背後で止める者達の声にも構わず、壁に手を伸ばした。力の渦に、男の手が激しく弾かれた。傷つけるわけではない。近づくもの全てを弾く、そのように造られているのだと、男は瞬時に理解したらしい。

「異端の者か」

 壁の向こうから聞こえた声は静かだった。問いかけか、それとも怪異を受け入れるための呟きか、灰は掴みかねる。灰へと向けられた男の眼差しは驚愕に染まっていたが恐怖はない。それを灰は意外に思った。

「我々をどうするつもりだ」

「殺しはしない。一人、その内から出す。話がしたい」

 灰の言葉に、男は僅かに目を瞠った。男の名だろう、清夜すがや様、と背後の一人が呼びかけるのに小さく頷くと灰に言った。

「私が行こう」

 灰の意思のままに、光の壁に一人だけが通り抜けることの叶う細い道が開いた。躊躇うこともなくそこを通り抜けた男の背後で、再び壁は閉ざされた。目深に被った頭巾のせいで灰の容貌が見えぬのだろう、男が目を細めた。揺らめき立つ光を背後に男の姿が浮かび上がる。淡い色彩の髪が、力の余波を受けてゆるやかに揺れていた。北限の民――灰は内心に呟く。それがまるで聞こえたかのように、不意に男が動いた。

 鞭のように撓った腕から、鋭い軌跡を描いて短剣が放たれる。次の瞬間、嘶いて大きく馬が跳ねた。灰の体が投げ出され地面に打ち付けられる。その痛みよりも、唐突に生を破壊された命の叫び、物理的な圧迫にまで感じられるそれに意識を貫かれ、視界が一瞬紅に染まった。額深くに剣を打ちこまれたような苦痛に呻く。

 痛みが遠ざかって漸く灰は目を見開いた。地面に倒れた己の上に、圧し掛かるようにして男の姿があった。首元に突き付けられた剣を見やり、灰は左手に視線を流した。倒れた馬の体が、末期の痙攣を繰り返していた。首に深く刺さった短剣の、その根元から流れ出す血が大地にしみ込むのを灰はただ見つめていた。ゆっくりと体を縁取る光が弱まり、消える。馬の骸からは、命の名残である光の粒子が、はらはらと崩れ落ちるように大地と大気との境目を曖昧にし、溶けるように同化していった。

「……蛇が連れて来た若者か……」

 灰は視線を戻した。見下ろす相手の面に驚きが浮かんでいた。

「多加羅若衆だと聞いていたが……一体何者だ」

「北限の民が緩衝地帯で何を企んでいる」

 逆に問いかけた灰に、男の眼差しが鋭さを帯びる。首筋に当てられた剣の、その柄を握る男の手に力が込められるのがわかった。

「北限の民は梓魏しぎで疎まれているようだな。いまだ過去の栄光にしがみつき、ことあるごとに惣領家を脅かし、あげく己が民の命も顧みぬと聞く」

「黙れ……」

沙羅久しゃらくに緩衝地帯を渡し、一体何を得るつもりだ」

「黙れと言っている」

 男の殺気が膨れ上がる。白熱するようなそれが己に向かって収束するのを捉え、灰は叉駆へと呼びかけた。応えて、空気が軋んだ。灰にのみ意識を集中していた男の反応は僅かに遅れた。横合いから疾風の速さで飛びかかった獣をかわすことが出来ず、強靭な前足に弾き飛ばされる。背中から地面に倒れ込んだ男の上に、叉駆が圧し掛かった。剣を掴む腕を、叉駆ががちりと地面に踏みつける。

 灰は身を起こすとゆっくりと男へと近付いた。男を四肢の下に捕えた叉駆が、灰を振り返り低く唸る。蒼白な男の顔が、叉駆を、次いで灰を捉えた。まるで人ならぬ者を見るような視線を、灰は受け止めた。

「私を殺すか? 異端の者よ」

 ひそりと問われる。それに灰は緩く首を振り、右手を虚空に伸ばした。

「言った筈だ。殺すつもりはない。話がしたいだけだ」

 目蓋に描いた像のままに、黒い矛が現れる。それを掴み、一気に振り下ろすと男の剣を根元から砕いた。腕を払うようにして矛を消し、灰はゆっくりと背後にさがった。十分に距離をとり叉駆、と呼びかける。しなやかに身を翻して男の上から退いた叉駆が、灰の傍らに寄り添った。

 驚愕さめやらぬ表情のまま立ち上がった男を見やる。

「この壁はいずれ消える。貴方達には俺を追わずこの地を去っていただきたい。北限の民が緩衝地帯で何を企もうと、そのことは誰も知らぬ。貴方達がこのまま去れば、後には何も残らない」

 男の目が僅かに細められた。内心を見透かそうとでもするように灰を見つめ、言った。

「つまり、お前達を追わねば我らのことを他言せぬと、そういうことか?」

 灰は一つ頷いた。ただし、と続ける声音は殊更に静かだった。

「この先、もしも蔡李さいりに貴方達が害なすことがあれば、俺は貴方達を生かしてはおかない」

 灰の傍らで、叉駆が威嚇するように牙を剥き出す。低い唸りを宥めるように、灰は叉駆の首筋に手を置いた。沈黙はそれ程長くはなかったが、灰には時が止まったように感じられた。遥か遠くで風が渡る。問う声音は、その風に紛れるようにして灰に届いた。

「その言葉を信じるよすががどこにある。異端の者よ、お前が我らの存在を秘するという証などどこにもなかろう。どの道、我らを脅したところで意味はない。この身など目指す未来の前には塵も同然、捨てるに惜しくはない」

 灰は答えぬまま男に背を向けた。一瞬、馬の骸に視線を向け、すぐに逸らす。

「敵にするも味方にするも己次第……始末屋とやらは蛇にそう言ったようだが、お前が始末屋を蛇のもとに送り込んだのか? 大したものだ。まんまと蛇を意のままに操り、我らの計画を阻んだ」

 揶揄するような声音に灰の足が止まる。

「それ程の力がありながら、何故蛇に捕われた。それともまさかそれとてお前の意思か? ……敢えて捕われたのか? 我らの正体を暴くために……いや、それともあの蔡李という青年を救うためか?」

「どう考えようとそれは貴方の自由だが、俺は貴方達の正体になど興味はない」

「では、何のためにこのようなことを」

 何のために――その問いを振り切るようにして、灰は叉駆に行こう、と語りかける。その意図を察して身を屈めた叉駆の背に跨った。力強く大地を蹴って叉駆が駆ける。背後で男の声が響いたが、意味なすものとして灰の耳に届くことはなかった。最早振り返ることをせず、疾駆する叉駆の背で灰は顔を伏せる。走る喜びに満ちた叉駆の気配に包まれて、灰は何時しか瞳を閉じていた。



 灰の戻りを待っていたらしいげん須樹すぎの姿を捉えたのは暫く走った後だった。距離としてはさほど離れてはいない。叉駆の背から降りた灰は背後を振り返った。遠く揺れる光の襞が見えた。何が起こっているかまではわからなかっただろう。だが敢えて進まずにこの場で待っていた二人の意図を灰は察する。怪異はこの場でさえ明らかだった。

「先を急ぎましょう。このまま進めば、身を隠すに適した森があります。森の道を辿って笠盛りゅうせいへと向かえば、明朝には辿り着くことが出来ます」

 何も問わず、背後で弦が言う。叉駆がゆるりと大気に溶けた。

「灰、行こう」

 須樹の声音は穏やかなものだった。振り返り、灰は須樹と向き合った。言葉は何一つ浮かばず、ただ頷くことしか出来なかった。須樹と並んで御者台に座り、動き出した景色をぼんやりと灰は見つめた。揺れに、じわりと疲労がわき起こる。何故ここにいるのかと、問う言葉は胸につかえたように出てこなかった。

 沈黙の重さに、夜の冷気が混じる。やがて、柔らかく須樹が言った。

「灰、弦殿から話は聞いた。お前が何をしていたのか……」

 荷台の者達に聞かせぬためか、声は密やかに低い。答えぬ灰に、真直ぐに前を見詰めたまま須樹はそれまでの出来事を語った。



 灰の後を追った須樹と弦は、その夜を草原で過ごした。早く、と気の急く須樹に対し、弦は慌てるでもなく野営の支度を整え、それ以上先に進もうとはしなかった。進もうにも進めなかった、というのが実際のところかも知れぬ。先導していた獣は、夜になると足を止め、前触れもなく姿を消してしまったのだ。

「灰様が、これ以上近付くな、とそう伝えたのでしょう」

 当たり前のことのように弦が言った。既に灰が怪魅師であることは弦から聞いていた。俄かには信じ難いことではあったが、空気に溶ける獣を見れば、偽りない真実なのだと思うに十分だった。

 須樹が弦に問うたのは焚き火を挟み向き合った夜半のことである。渦巻くような疑問と混乱の中から、真実問いたいことを見つけ出すのはさほど困難ではなかった。

「まず、教えてください。俺がおうなの元から解放されたのは、灰の力によるものなのですね?」

「表向きにはそうではありません。ですが、灰様の意図の通りにことが運んだという意味では、そう言えましょう」

「一体灰は何を?」

「灰様は緩衝地帯での一連の出来事を起こしたのが耶來やらいの者であることをお知りになり、耶來の背後にいる者達の真の狙いを掴むために媼を見張るようお命じになられました」

「媼を?」

「はい。媼の手の者が蛇の手下を見張り捕えたならば、今回の一件を媼も少なからず掴んでいるのではないか、それもおそらくは陰謀を巡らせる者達と対立する立場にあるのではないか、と。媼を見張ることが、何が起こっているかを知る最も確実で簡単な方法でした。須樹殿もその対立に巻き込まれた可能性があると仰せでした。実際に捕われていると確認が取れるまで多少時間がかかりましたが」

 弦は西の方角にある森から集めた木の枝を折ると火に投じた。ぱっと光が散り、爆ぜる音が小気味良く響く。

「その後、媼の動きを見張っていたところ、彼女は西の元締めに接触しました」

 西の元締め、と須樹は反芻する。それが媼と並び立つ程に力を有する卸屋おろしやの元締めであることは彼も知っている。弦の話は淡々と続いた。灰はさらに、弦に対して西の元締めの身辺を探るように命じた、という。西の元締めが次の評議会で一つの意見を纏めるよう村や街の代表者に働きかけていることを掴むのはさほど難しいことではなかった。そして後継者と目されている孫の姿が見られなくなった、ということ――それらを繋ぎあわせれば、西の元締めが孫を人質に取られ、謀の首謀者の言いなりになっているだろうことは容易に想像がついた。

 その後、灰は弦に媼とは関わりのない卸屋の中で、特に情報の扱いに長けた者を探すように命じた。蛇が、逃した紺を探し出すために必ずや接触するだろうと見込んでのことである。灰の思惑通り、蛇の手下は弦が目星をつけた卸屋に接触し、その男から蛇の在所をつきとめたという。

「そして灰様は蛇の元に始末屋を装い近付くように指示を出されました。私はそれに従い、蛇のもとへ赴き、奴を動かしました。若衆が媼の屋敷に捕われていることを告げ、それを奪うよう命じ、そして若衆には媼のもとに須樹殿が捕われていることを知らせる文を送らせました」

 それで全てだとでも言うように弦は口を噤む。話を飾るということをせぬ弦の言葉はあまりに簡潔に過ぎる。それまで黙って聞いていた須樹は思わず問う。

「何故、そのようなことを?」

「おそらく須樹殿のためでございましょう」

「俺のため……?」

「はい。私には灰様が真実どのようにお考えであったかはわかりません。また、主の思惑を探るような立場でもございません。ですが、全ては須樹殿のため、そうではないかと思います」

 須樹は辛抱強く弦の言葉を待つ。

「須樹殿を助け出すだけならば、私にお命じになればよかった。ですが、ただ助けただけでは媼と多加羅との間に軋轢が生じましょう。須樹殿の正体が多加羅若衆であると、何らかの拍子に媼の側に知られれば、須樹殿のお立場とてこれまでのようにはいきますまい。何より惣領が須樹殿に対しどのような処分をなさるか、それを灰様は危惧されたのでしょう」

 それは尤もなことだった。仮に逃げていれば、須樹の存在は更なる疑念を宇麗うれい達に残しただろう。ことの重大さを思えば、多加羅若衆をこの先名乗ることはおろか、社会的な立場が奪われる危険すらあったのだと、須樹は気付く。

「確実に須樹殿の身を守るため……加羅若衆である須樹殿の立場を守り、なおかつこの先咎められることなく多加羅にお戻りいただくためには、媼を多加羅の側に引き入れる必要がある、と灰様はお考えになった。それも、媼自らが多加羅若衆を信じるという選択をすることに意味があるのだと、そう仰せでした」

「灰が俺に多加羅若衆であることを明かすなと言ったのは媼自身に選択をさせるため、ですか?」

「はい」

 そのために蛇を動かし敢えて媼との対立を煽り、そして一方で若衆には多加羅と媼の対立を蛇が深めようとしているのだと思わせる。その先は聞かずとも須樹にもわかった。設啓せっけい達が媼のもとを訪れ蛇から届けられた文を渡す。結果として、媼は蛇に対抗するため若衆を信じ須樹を解放した。まるで螺旋を描くように混迷を深める事象は、実際にはただ一つの帰結へと導くためのものであり、その中央に灰がいたのだと須樹は知った。

 ――仲間を救うため――だが、と須樹は考える。その思いを口に出した。

「……俺のためだけにこれ程のことをするでしょうか。それよりも灰は謀を阻もうとしているのではないのですか? 多加羅をも守ろうとしているのでは?」

「確かに灰様は謀を阻むおつもりであられますが……それはどうでしょう。あのお方は場所というものに執着をお持ちにはならない。むしろ灰様を繋ぎとめ、動かすものがあるとするならば、それは人との絆です。守りたいもの、守るべきものが眼前に在れば、見過ごしには出来なかったということなのでしょう。今回の一件は、あの紺という少女を守るためでもあったのかもしれませんが、何れにせよ、緩衝地帯で起こっている謀の全貌を掴むことも、それを阻むことも灰様にとっては単なる手段でしかないように、私には思えます」

 人としての気配すら希薄な、ともすれば精緻な武器を思わせる男の、その言葉は深い余韻を須樹に残した。そして何故かそれ以上聞くことを躊躇う。無色の平原に思いがけず見出した鮮やかな色彩を、己の不用意な動作で壊すことを恐れるように、須樹は口を噤んだ。

 束の間の静寂の後、再び須樹は問う。

「蛇が紺と俺の交換を持ち出した、というあれも灰が考えたことですか?」

 その問いに、弦はすぐには答えなかった。内心を読むことの出来ぬ男の顔を須樹は注意深く見つめる。

「此度の一件は緩衝地帯の権利を沙羅久に渡すという、その意見を評議会に出させることを目的としています。それを阻むためには、西の元締めの孫を見つけ出す必要がありました。その場所を知る者は蛇のみ……だが、蛇は評議会の後に報酬を受け取ると言っていました。おそらく評議会で思惑通りの意見が纏められるのを見届けるまで、首謀者の元には向かわぬ取り決めだったのでしょう。それまで待っていては手遅れになる。不審を抱かせることなく、その場に蛇を向かわせる必要がありました。蛇を追い詰めるための布石として、敢えて偽の取引を媼の側に持ちかけることにしました」

 媼達が若衆の話を聞き、蛇の持ちかけた取引が偽のものであると気付けば、蛇を捕えるために動くだろう。始末屋の存在に報酬を受け取ることがかなうのか不安を募らせていた蛇の、その心理さえ計算に入れての計画だった、と弦は語る。

「私の役目は追い詰められた蛇が、媼の手から逃れ必ず依頼主の元へと向かうよう仕向けることでした」

 須樹は宇麗の言葉を思い出した。蛇との取引の場を見張らせていた者達が何者かの襲撃を受け縛められていた、というそれである。最早問う必要すらなく、それを成したのが弦であろうことがわかった。

「私は蛇とその手下を街外れの廃屋に集め、偽の取引に気付いた媼の手の者が姿をあらわした時には、確実に逃げられるよう手配を整えました。計画では、蛇の後を灰様と私で追う筈だったのです」

 灰ならばそれが可能なのだと、須樹は既に知っていた。蛇に気付かせることなくその後を追う、それが灰にならば出来る。

「ですが誤算が生じました。蛇が灰様を鬼逆きさかの弟であると信じ込み、灰様を捕えようと姿をあらわしたのです。笠盛で蛇が騒動を起こせば、媼の手の者に奴が捕えられる危険が高まる。蛇が容易には諦めぬと思われたのでしょう。騒動を大きくせぬために、灰様は蛇達の隠れ家に近い場所まで逃げ、敢えて捕えられたのです」

「わざと……?」

「はい。灰様が怪魅師けみしであることは既にお話し申し上げた通りです。もとより、力を晒すことを極度に嫌っておいでだが、真に逃げようとお考えになれば、あのお方にはさほど難しいことではありません」

 何かを思い出しているのか、僅かに弦の眼差しが硬質なものとなった。それは怒りのように見えた。だが、それも一瞬の内に無の下に消える。

「灰様を捕えた蛇は廃屋へと戻りましたが、最早猶予はありませんでした。灰様が人目につかぬ場所を選んだとはいえ、蛇の姿を目撃した街衆は多い。いずれ居場所を掴まれれば、蛇を逃がすことは困難となります。私は始末屋として蛇達に媼の手の者が迫っていると伝え、すぐに笠盛を離れるよう命じました」

 そうすることが灰の意に添うものであるから、と男の言葉に迷いはない。

 始末屋として立つ弦とすれ違った一瞬、灰が囁いたと言う。

 ――叉駆を追え――

 たったその一言をよすがに、弦は灰が蛇に連れ去られるままにしたのか。廃屋に残る血痕が灰のものであれば、彼は無傷ではなかろう。一瞬過った弦の怒りはおそらく主を傷つけた者に対するものだったのか、口に出さぬ男の葛藤を須樹は垣間見たのだと気付く。

「あの獣の名が叉駆、ですか? あれは一体何なのですか」

「私は知りません。それは直接に灰様にお聞きください」

 言われて須樹は戸惑う。話の中のどこにも、灰が須樹にも後を追うよう望んだという言葉が出ていない。まるで須樹の思考を読んだように、弦が言った。

「須樹殿をともにお連れしたのは全て私の独断です」

「何故? 貴方は灰に仕えているのでしょう。灰は俺が追うことを望みはしないでしょう。ましてや怪魅師であることを知られることも」

 弦がふと遠くに視線を投げた。その横顔に過ったものが何か、須樹にはわからなかった。

「私が何時まで灰様にお仕えし、お守り出来るかわかりませぬ故」

 それはあまりにも静かに響いた。



「怪魅師であることも含め、お前の真の姿を知る者がこの先必要であると……お前の傍近くにあって支える存在が必ず必要になる筈だと、彼は最後にそう言った」

 黙って須樹の話を聞いていた灰は、そこではじめて顔を上げた。その視線に、須樹は振り返り苦笑した。

「それがどうやら俺らしい。彼の基準が何かはわからんが、これは喜ぶべきことかな」

 灰の顔が僅かに歪む。そこに浮かぶのが戸惑いと、おそらくはそれだけではない、痛みにも似たものであることが須樹にはわかった。

「後はお前も知る通りだ。昼頃に再びあの獣が姿を現し、あの家へと導いてくれた。少し離れた森の中に身を潜め、夜になって救出作戦を実行した。倉庫を見張っていた男は弦殿が一撃で倒した。俺も前あの人に押さえ込まれたが、凄まじい使い手だな。その後弦殿がお前を助け出す間に、蛇の手下達を馬車に乗せて待っていた、というわけだ」

 その蛇と手下達は、今は縛られた状態で荷馬車に乗せられている。蔡李さいりは当分目覚めそうにはなかった。

 睡覚煙の効果が十分ではなかったことを思えば、薄氷を踏むような計画だった。出来るならば怪魅の力を使うようなことはしたくなかった、と灰は苦く思う。その物思いを、須樹の声が破った。

「なあ、灰、お前が俺や仁識にしき冶都やとには秘することがあるだろうことはわかっていた。……何となくだがな。それが何であるか、正直に言うと知りたくなかったわけじゃない。おそらく弦殿が語ったことが全てではないんだろう。それを俺に話すかどうかはお前の自由だと思う」

 慣れた手つきで手綱を操りながら須樹は言う。

「ただこれは知っておいてほしい。お前を思う者は確実にいるんだ。お前にとっては疎ましいかもしれない。言ったところで、俺達には到底理解出来ないかもしれない。だが、俺はお前の真実が知りたいと思う」

 灰は僅かに俯く。

「時間をください。せめて、今回の一件が終わるまで……」

「今回の一件?」

 灰は頷く。

「この一件はまだ終わってはいません。須樹さんには最後まで見届けてほしい。俺の行動の是非を問いたいわけではありません。ですが、全てを見届けてなお、俺の話を聞いてもらえるなら……」

 その時は話します、と灰の言葉は囁きに近かった。

「ああ、わかった」

 それきり須樹は口を閉ざした。何故、蔡李だけでなく蛇とその手下をも連れて来たのか、それをまだ須樹は知らない。聡い彼が疑問に思わぬ筈もなく、敢えて問わぬのだと灰には察することが出来た。

 ――まだ終わってはいない。

 晴れ渡った夜空の裾野に広がる星々の光を灰は目で追う。光は淡く優しかった。まるで呼びかけるように瞬く。その微かな揺らめきが、言葉を出せばたちどころに消えてしまうのではないかと灰にはそう思えた。無論、それが沈黙に対する言い訳であることは、彼自身がよくわかっていた。

 書いていて「結構灰は怖い人かもしれん」と思っていましたが、どうでしょう。灰の行動は書き手的には色々矛盾が感じられます。いや、敢えてそういう風にしたんですが。

 灰は決して清いだけの人間じゃない。これが第二部の途中から書き手が認識したことです。その点に関しては若干迷いもありました。でも、全てにおいてクリーンな人間よりも複雑な内面を抱える人間の方が書きごたえもあるかと思い、物語を作っていった感じです。清濁あわせもつ人間として、彼の心理をうまく書ければいいのですが、これがなかなか難しい。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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