9
その夏は乾いた日が続いた。たった一度の嵐が足早に上空を通り抜けた他は、連日眩しいほどの晴天である。山の木々は次第に色を深め、濃密な命の気配が大気を染めた。
星見の塔は惣領家の背後の山に半ば埋もれるようにしてある。星を見るために、街の人々が灯すささやかな明かりも届かない場所に建てられたのである。そのため、夜ともなれば屋敷はすっぽりと闇にくるまれる。かつては静寂の中、聞こえるのは木々のざわめきと虫の音ばかりだった小さな屋敷は、新しい住人を迎えて俄かにその表情を変えていた。
「兄様、見て!」
食堂に入ってくるなり稟は紙を灰に差し出した。灰が覗き込むと幼いながらも大らかな文字で何やら言葉が書き連ねてある。
「隠れ歌か」
灰の言葉に稟は頷く。隠れ歌は複数の意味を持つ言葉や同じ響きの言葉を巧みに組み合わせ、様々な意味を込めた文である。もとは暗号文としても使われたといういわくのある代物だが、子どもの学習の教材としてはうってつけのものでもあった。
「今日習ったの」
文字や書、計算術を習う小学院へ通い出した稟は、毎日その報告に余念がない。
「まあまあ、稟様は賢くていらっしゃるのですねえ」
作ったばかりの煮付けを運んできた娃菜が覗き込んで言うと、稟は嬉しそうに笑った。灰はその様子に思わず微笑して、娃菜の手から皿を受け取り、食卓に並べる。娃菜がちらりと批判するような視線を灰に向けた。灰が聞かないことを彼女はすでに理解していたが、それでも諦めきれずに言う。
「灰様、そのように召使がするようなことをなさってはいけません」
「娃菜姶、諦めたほうがいいね。この子は君と同じくらい頑固だから」
部屋の戸口にあらわれた秋連が苦笑交じりに言った。娃菜は小柄でふくよかな体をまっすぐに伸ばし、長身の男を見上げた。
「その呼び方はおやめ下さいと何度申し上げたことか。頑固などと秋連様に言われたくはございません」
親しみを込めた敬称を諌める娃菜の小言に、秋連は笑う。
「つまりは頑固者がまた一人増えたということかな」
言いながら秋連は背にかかる髪をゆるくまとめた。貴族や裕福な者は髪を背の中ほどまで伸ばし一つに括り、平民は概ね肩にかからぬくらいに短くするのが男の一般的な姿なのだが、秋連のそれはただ単に不精ゆえの姿だった。
四人は同じ食卓を囲む。娃菜ははじめこそ同席するのを渋ったが、結局これも秋連に押し切られる形となった。小さな部屋の壁には四人の影が気ままに踊る。しっかりとした造りの椅子にそれぞれが腰掛けると、娃菜がおもむろに両手を握り合わせた。
「万物の主よ、すべてのものに幸賜わらんことを。あなた様の吐息は風となりて大地を渡り、その涙は命育む雨となり泉となり海となる。その偉大なる一歩は山を築き、たわむれる裳裾に木が生まれ、やがて森となりて地を覆う。すべての魂は主の腕より放たれ、いずれその中へ還る。その時までどうか大いなる慈悲で我々をお守りください」
それは歌のように緩やかな旋律に彩られている。毎日繰り返される娃菜の祈りは、白沙那帝国が崇める一つ神への感謝を込めたものだった。稟が娃菜の真似をして手を握り合わせ瞳を閉じるのを見て、灰は複雑な思いになる。ちらりと秋連のほうを見ると、真正面から視線が合った。
「さ、食べましょう」
娃菜の明るい声に、灰はほっとしながら秋連から目を逸らした。
「そういえば、今日街で若衆の皆さんとご一緒の灰様を見かけましたわ」
娃菜は大皿から煮付けを取り分けながら言う。ほう、と秋連が声をあげた。
「それは勇ましいな」
「ただ街の見回りをしていただけです」
灰の無愛想な物言いは、どこか照れがあるせいだろうか。秋連は微笑ましく少年を見やった。灰が多加羅に来てすでに半月ほどがたとうとしていた。どうなるかと思っていた若衆への入隊も果たし、今では親しく口を聞く仲間もできたようだ。もっとも灰は若衆での出来事を滅多に言おうとはしない。稟がその日のことを話して聞かせるのをただ笑って聞いているだけだった。
食事が終わる頃には夜のしじまはさらに深まっていた。稟が眠りについてから、灰は日課となっている秋連の講義を受けるため、部屋を出た。等間隔に灯が掛けられた廊下を歩くと、灯と灯の挟間には裂け目のように闇が凝っていた。繰り返す光と闇の帳をくぐり、やがて一つの部屋の前にたどりつく。
灰は静かに扉を開けた。部屋の内は何もかもが雑然としていた。天井まである書棚には、変色した巻物や崩れそうな古書が詰め込まれている。床にもあちこちに書がうず高く積まれ、足の踏み場もない有様だった。
「やあ、来たね」
秋連が書棚の間から何やら大きな紙を抱えて出てきた。その髪に蜘蛛の巣が引っ掛かっている。慣れた足取りで器用に本の山の間を通り抜け、部屋の中央にある机に抱えているものをおろす。机の上に置かれた硝子筒の灯が、気まぐれに揺れた。
「この部屋は先代星見役も匙を投げたらしい。でも探ってみれば面白いものがたくさんある」
秋連は無造作に紙を広げた。それは広大な範囲を描いた地図だった。わずかに黄ばんでいる。
「これほど広い地域をこれほど詳細に描いた地図は珍しい」
楽しげに言いながら秋連はもう一つの硝子筒にも明かりを灯した。俄かに光の範囲が広がり、地図の全体が照らし出される。灰は身を乗り出してその広大な図を眺めた。
「これがどこの地図かわかるかい?」
「……白沙那帝国の全土ですね。でも東方もかなり描かれている……」
さらに詳細に図を見つめて灰は顔をあげた。
「東方遠征の時の記録ですか?」
「その通りだ」
秋連はとん、と指で机を叩いた。
「君が言うとおりこれは白沙那の全土図だ。しかし描かれている東方は帝国の領土ではない。それがここまで細かく地名や地形が入れられているのは、実際にそこに行った者が描いたと考えるのが妥当だな。しかも普通なら地図には入れないような小さな砦の名前まで入っているから、戦闘が行われた場所なのだろう」
転々と散らばる名称の中には変わったものも多い。
「この『夜襲にて落とせし砦』というのなどは正式な名称すらない急ごしらえの砦だったのだろうな」
図の左を占める部分を秋連は指し示す。
「おそらく既存の地図を左側に描き、遠征の際に白紙の右側に描き足していったんだろう。これは清書したものだろうから、戦から帰還した者が完成させたのだろうが」
灰は地図の右へとまわる。白沙那帝国から見れば東の果てに位置するそこに、小さな字が記されていた。しかし東方を描いた図とその文字の間には空白の部分が大きい。
「この空白の部分は帝国が制圧できなかった部分でしょうか」
「そうだね」
「では、白沙那の最終的な目標はこの国だったのですか?」
秋連は教え子の言葉に満足したように頷いた。
「この国の話は聞いたことがあるかい?」
灰は指で空白に囲まれた国名をなぞる。
「柳角師匠に聞いたことがあります。シェンジェン国……仙寿が住む都だとか」
「そうだ。奇跡の人、仙寿が住む都が東方遠征の目的だったというのはあまり知られていないことだ。東方遠征の目的は領土拡張だとされているが、実際は死に怯えた白沙那の皇帝が仙寿の奇跡を得んがために狂気のうちに遠征を決定した、という話もある。この話は人前では言わないほうがいいだろうね」
さらりと語られた言葉に灰が目を見開いた。秋連は再び地図の左側を指さした。
「帝国の領土の中に黒丸が打たれているのは何だと思う?」
灰は再び帝国の図を眺めた。確かに全土に等間隔に散るようにして黒い小さな丸が打たれている。帝国の東の端に位置する多加羅の地名の上にもそれはあった。
「神殿……ですか?」
「そうだ。こう見るといかに帝国が信仰の普及に徹底しているかがわかる。私には蜘蛛の巣のように見えるよ」
「蜘蛛の巣?」
「ああ、試しにこの黒点を線で繋いでみるといい」
確かに黒点を結べば帝国全土を網羅するだろうことが灰にもわかった。
「帝国がここまで盤石の体制をしけたのも、神殿の役割が大きい。なぜだかわかるかい?」
「……神殿が帝国の直轄だからです。所領の街にも必ず神殿を置くことが義務付けられていますが、司祭の任命権は皇帝のものであり、惣領家や郷氏にも並ぶ権威があります」
「そうだ。神殿は信仰の砦だけでなく帝国の目であり耳でもある。その土地の情勢を一つ洩らさず中央に知らせるのも神殿の役目だ。全土に神殿を建てることで帝国は均一な支配の網を張り巡らせているのだね。一方で帝国は神殿の動きにも目を光らせている」
秋連が言葉の先を促すように灰を見やると、灰は注意深く言葉を選んだ。
「神殿が結束すれば帝国にとっても脅威だからです」
「そうだ。そのために、帝国は軍と神殿が結びつかぬよう細心の注意をはらっている。帝国軍と神殿の不和は有名な話だが、これも帝国中枢部が裏で謀ってのことだと考えられている。帝国はその内に鷹閃と牙蒙を飼っている巨大な猛獣使いといったところかな」
いずれも古くからその獰猛さと狡猾さで人に恐れられる生き物である。千里を見通すと言われる猛禽の瞳が神殿による徹底した管理と支配であり、何者をも引き裂く獣の爪と牙が絶大な軍事力とでもいおうか。
「だが、もちろん支配にも限りがある。ここに、綻びがある」
秋連はおもむろに一点を指さした。多加羅である。火影に浮かび上がり、闇と光とに染まる二人の姿はどこか凝然としている。
「多加羅は帝国の東の国境を守る要だ」
多加羅より北東へ向けて広がる広大な地域には、梓魏と呼ばれる所領がある。その所領の半ばは荒涼とした大地と広大な森に覆われ、さらにその外側をぐるりと囲む山脈が外界と帝国とを隔てている。厳しい自然と気候が、外側からだけでなく内側からも人の侵入を拒んでいた。山脈の守護から離れ、直接に東方と接する多加羅が、実質白沙那帝国の東限だった。
多加羅より東は、漠然と国境地帯と呼ばれる。この地の人々は、独自の文化と生活を築き、神殿もない。それはつまり帝国の支配の糸が及ばないことを意味する。張り巡らされた蜘蛛の糸が途切れたその先、無数の小さな街を挟んで広漠と広がる東の地と対峙する多加羅は、帝国の東の要であると同時にその支配の空白域へと続く綻びでもあるのだ。
灰はふと疑問を覚えた。
「何故白沙那は多加羅を残しているのでしょうか」
「何故、とは?」
「多加羅の軍はかつて周囲の脅威だったと聞きましたが、今では条斎士もほとんどいないし軍士の数だけで言ってもさほど頼りになるとは思えません。しかも異端の神を奉じていた存在を、支配して後も所領を与え残したのは何故でしょうか」
理路整然とした少年の言葉だった。それは秋連も不思議に思っていたことである。絶対的な信仰を持ち、東方の地への並はずれた警戒と執着を持つ白沙那が、要の地に多加羅惣領家を残す理由である。灰が言うとおり、かつては恐れられた南軍も、沙羅久の北軍と併せてこその脅威だったのだ。今では南軍も武術を生業とする軍士ばかりで構成されており、純粋に戦力で言えば、はるかに沙羅久に劣る。
そして白沙那帝国と多加羅には看過できない問題がある。それは信頼関係の欠如だった。信仰を巡る弾圧はもちろんのこと、長い時の中で幾度となく繰り返された戦は、白沙那と多加羅の間に深い軋轢を残しはしたものの、決して友好関係を築きはしなかったのだ。
「それは私にもわからないな」
答えながらも秋連は思う。おそらく何か理由があるのだ。多加羅がこの地に在る理由――多加羅が秘める何か。
多加羅惣領家に異端である怪魅師を誕生させようとした先代惣領。そして今、怪魅師である灰を多加羅へ呼び寄せた峰瀬の思惑――それを知ればお前は引き返しようもなく多加羅惣領家が秘める闇に入り込むことになる――峰瀬のその言葉は一体何を意味しているのだろうか。
(それを知ってどうする。単なる星見役が、知ってどうするというのだ)
心の中で呟き、秋連は思考を塞いだ。地図を見詰めている灰を物憂く見やった。
「君は娃菜姶の祈りの言葉に反感を感じているだろう」
地図に集中していた灰は表情を繕うことができなかったらしい。狼狽を露わにした。不意打ちでもしなければこの少年は容易に感情を見せない。ともに暮らすうち、秋連はそれに気付いていた。
「反感というわけではないです」
灰は俄かに不安そうな顔をした。
「俺はそんなにわかりやすい顔をしていますか?」
「いや、そういうわけではないよ。君はむしろその年にしては感心するほどに感情を隠すことに長けている」
灰はわずかに俯いた。娃菜の唱える祈祷が不快なわけではなかった。むしろ信心深い彼女の穏やかな声は心地よくさえある。それでも灰がその旋律を聞くたびに覚えるのは、ゆったりとした薄膜に知らず包まれ、いずれ身動きがかなわなくなるような閉塞感だった。
「俺は確かに白沙那一神教の信仰は持っていません。柳角師匠も神殿の教えには疑問を持っておられました。あの村に住んでおられたのも死んだ後に神殿の墓所に入りたくなかったからだと思います。多加羅では否応なく納骨されるでしょうから」
「確かに多加羅惣領家の者が神殿に納骨されるのを拒めば大問題だね」
飄々とした雰囲気の老人を思い出し、秋連は微笑んだ。死んで後、人々は誰もが神殿の墓所へと骨を納められる。例外のないそれをもし拒めば、ただちに異端の烙印を押されることになるのだ。徹底した白沙那の支配の方法である。もっとも灰が言うように辺境の地ではその規範もだいぶ緩いのだろう。それは人々の意識の根底に、自然への畏敬の念がいまだ色濃く残っているせいだろうか。
「村では俺と稟は余所者で、異質でした。皆が信じる神の恩寵の中に俺達の魂は含まれていなかった。……娃菜さんの祈りが嫌なわけじゃないです。でもあの教えは神の腕に包まれたものとそうでないものを厳然と隔ているように思えます」
そしてその基準は、神を信じるか否か、その一点に尽きる。硝子筒の中で灯が揺れた。灰の瞳はその小さな炎を映して複雑な色に染まる。珍しく心の内を語る少年に、秋連は注意深くさらに一歩踏み込む。
「紫弥様はまるで一身に自然の恩寵を受けておられるような方だった」
はっと灰が秋連の顔を見た。
「昔、まだ私が二十歳ほどのころ紫弥様に一度だけお会いしたことがあるんだよ。峰瀬様も一緒だった」
秋連は僅かに目を細めた。追憶の中の乙女は今も色褪せない。
「乗馬が苦手な私を、峰瀬様が遠乗りに連れだしてね。多加羅よりさらに東、來螺の街のほとりまで行った」
秋連の話に聞き入りながらも灰の瞳が次第に硬い色彩に覆われていく。秋連は落胆を感じる。まだこの少年は秋連に心を開いているわけではないのだ。それ以前に秋連には少年が抱える傷がどれほどのものかわからない。
「來螺の近くに見事な滝があるというので見に行ったんだが、そこで君の母上と出会った。滝のほとりに立つ姿がまるで天女のようだと思った」
秋連は笑んだ。
「君に言うのも変な話だが、紫弥様は本当にお美しかった。二人して見惚れているうちに、何も仰られずに行ってしまわれたが」
「そうですか」
秋連はぽつりと零された言葉に、やはり言うのではなかったと後悔する。開きかけた扉が再び閉じるように、少年の心が内に閉ざされるのを感じる。秋連はそれ以上のことを言うことはできなかった。
その後はどちらもどこか上の空に時間が過ぎた。さほどの深まりを見せないお互いの言葉にとうとう秋連は講義を締めくくった。
静かに扉から出て行く少年を見送り、秋連は複雑な溜息をつく。星見役としての知識を授けるという、その役割をこえた言葉なのはわかっていた。秋連は少年の瞳を覆った闇を思い出す。灰と周囲の間には、常に見えない障壁がある。少年が何を抱えているのかはわからないが、それを守る壁は痛々しいまでに脆い。どれほど強固に見えようとも、秋連にはそれがいつ壊れてもおかしくないように思えた。自己を守るために張り巡らされた壁が崩れた時、彼はそれに耐えることができるのだろうか。
敢えて辛い記憶に繋がる紫弥の話をしたのは拙速にすぎたのかもしれない、と秋連は硝子筒の滑らかな曲線を見ながら思う。それでも灰が人との関わりの中で頑なな壁で己を守る姿は、秋連にとっては懸念を抱かせるものだった。特に惣領家という複雑な力関係の中枢にあって、己の信条を守りながら生きていくには強さが――真の強さが必要なのだ。例えば峰瀬のような、と考え秋連はゆるく頭を振った。昔から知っているはずの男の面影がどこか掴み所のない靄に沈むような奇妙な感覚に、ふと不安が湧き上がる。しかしその不安もまた見極めようとすればするほど、とりとめもなく散逸してしまう。
(どうかしている……)
内心の呟きは苦く響いた。何を不安に思うことがあるのか――秋連はもう一度、今度は強くかぶりを振ると、灯を消し、闇に包まれた部屋を後にした。
灰は明かりもつけずに窓の桟に座って外を眺めていた。彼にあてがわれた部屋は多加羅の背後を囲む山に面していた。湿った土の匂いと木々のざわめきに心が誘われる。かつては毎日のように山や森の奥深くまで分け入っていたが、この街に来てからは日々の忙しさに流され、そのような余裕もなくしていた。もっとも、灰が目の前の山に入らないのには、他の理由もあった。
山は多加羅の北東にある森林地帯をすっぽりと包む連山へと続いている。地図で見れば、その連なりはうねる蛇を思わせる。多加羅の背後にある山はいわば蛇の尾の先に位置するのだ。それとも蛇のあぎとだろうか。灰はこの小さな山がどことなく不気味だった。少し前まで住んでいた森ほどの圧倒的な力は感じられないが、この山にも自然が持つ特有の流れがある。しかしその力は静かでありながら奇妙にねじれ、うねり、まるで解放されずに蠢いているように灰には思える。半月ほどを過ごしてなお山に踏み入る気になれないのは、その独特の雰囲気のせいだった。
灰はぼんやりと木々に切り取られた空を眺めながら、先程の秋連との遣り取りを思い出していた。感じたのは奇妙に掴みどころのない焦燥だった。それが、秋連に投げかけられた言葉のせいであることは灰にもわかっている。
腕にすり寄る温もりに気づき、灰は苦笑とともに獣を引きよせる。包み込むように頭をなでると、叉駆は目を細めた。
「励ましに出てきてくれたのか?」
答えはないとわかっていても灰は問いかける。
「大丈夫だ。俺はあの人のことは嫌いじゃないんだ。ただ、時たまどうしようもなく不安になるだけだ」
己に言い聞かせるようにして灰は呟く。嫌いではないのだ。むしろ秋連と娃菜の存在は彼にとって思わぬ安らぎになっていた。多加羅に行くと決心したときに、どのような扱いを受けようとも耐える覚悟はしていた。決して心を揺さぶられはしまい、と。そうであるからこそなおさらに、思いがけず穏やかな生活に戸惑いを覚えるのだ。ただそれだけのことだ、と灰は考えた。
閉鎖的な村にあって人よりはむしろ自然に共鳴した灰にとって、もとより一定の距離を置いてしか接しない村人は、己と周囲との間にある障壁を破る存在にはなりえなかった。だが、決して強引ではない穏やかな秋連の言葉が、灰の頑なに閉ざした感情を揺らしている。それは灰にとって不思議な感覚だった。
叉駆が不意に鋭くとがった耳をぴくりと動かした。灰の横から窓の外に身を乗り出すようにして夜の大気を嗅ぐ。次いで鋭い牙をむき出しにした。叉駆が警戒するものと対峙したときの癖だ。灰はつられて窓から外を見やる。敢えて閉ざしていた意識を広く開くと、途端にまとわりつくように重い山の力が流れ込んでくる。叉駆が俄かに毛を逆立てた。灰もまたびくりとする。
山が膨れ上がったように感じた。まるでとぐろを巻く大蛇がのっそりと鎌首を持ちあげるように、地下深くから何かが大気に溢れ出ている。それは夜の底に凝る暗がりを長い時の中で圧縮し撓めたかのような、膨大な闇の塊だった。呼応するように木々がざわりと揺れる。
灰はさらに見極めようと目を細める。闇は様々なものが無理矢理に縒り合わされたような、奇怪な存在だった。見ようとすればするほど、反転しては浮き上がり、沈み、めまぐるしくのたうつ。雑多であり複雑な歪んだ力だ。自然の大らかで繊細なそれとは明らかに違う。
「叉駆、静かに」
灰は獣を抑える。気付かれてはならない。何故かそう思った。まどろむように揺れる存在、その内に籠る感情――感情と言うのが適当であれば――それは憎悪であり憤怒と呼ばれるものに最も近い。否、感情ではありえない。そこにあるのは無慈悲なまでに徹底した衝動だ。すべてを呑み込まんとする――
(このようなものが何故ここに……)
人智を超えた自然の力を見る灰の目には、歪なそれは厭わしく映る。そして恐ろしい。灰は唇を噛みしめると、拳に知らず力を込めた。もしもあの存在がこちらに向かってきたら一体どうしたらいいのか。怪魅師の力を使ったところであまりに膨大なそれに敵うとは思えなかった。
流動する自然の力が結合し、離散して形作るものとは違い、目の前の存在は否応もなくまわりのすべてを呑みこむ貪欲なまでの凶暴さしか感じられない。灰は不意に恐怖に全身を縛られる。浮かんだのは星見の塔に住む人々の顔だった。もしもこれが牙を向いたら彼らは抗いようがないだろう。幼い稟も、まるで母親のようにあたたかい娃菜も、偏見なく受け入れてくれる秋連も、すべてが呑みこまれる。それだけはだめだ、と灰は強く思う。敵わなくとも、対抗できるのは自分しかいないのだ。叉駆が灰の意識の変化に気付いたのか、ざわりと毛を逆立てて、力をためるように低く身構えた。
不意にねじくれる塊がびくりと揺れ、破れた。そこから清浄な青い光が射す。圧倒的な質量の闇がその光にのたうち暴れるが、光の浸食は止まらない。布が裂けるように、あるいは打ちすえられて砕けるように闇の領域が収縮する。どこからか広がるその光は、波のように揺れ動き、容赦なく闇を呑みこんでいく。
光と闇の攻防は実際には瞬くほどの間の出来事だったが、灰には時の流れが奇妙に間延びして感じられた。柔らかい光に包まれ、闇は急速にその色を弱めると次第に大地へとしみこみ、やがて消えた。
唐突に起こった出来事に茫然としながら、灰はいまだ揺れている光を見やる。光はある一点を源にして広がっているようだった。どれほどの距離があるのかはわからないが、夜をも透かして波紋のように広がるそれは、脈打つように一度大きく揺れてから弱まり、あっけなく消えうせた。
なおも光の元を探そうとするがその欠片も感じられず、灰は諦めて目を閉じた。光は窓から左手の方向から発していた。山の中腹のそこには、もはや何の存在も感じられない。混乱しつつも、強張っていた体から力が抜けた。
混乱の次に襲ってきたのは言いようのない不安だった。得体の知れないあの闇は人を越えたものだ。しかし光は違う。人為である。灰は光に見覚えがあった。接見の間で峰瀬の胸元に見えたものとそれは同じだったのだ。灰の怪魅師としての力を必要としているという峰瀬には、接見の間での対面以来一度も会ってはいなかった。惣領家を背負って立つ男が何を考えているのか、灰には想像もつかなかったが、素気ないほどのその態度に彼はどこか安堵すら覚えていたのだ。
だが目にした異変に、灰は己の認識の甘さを知る。山一つを覆うほどの膨大な闇、それをあの光は鎮めた。常人が成し得ることではない。光の源は峰瀬その人だったに違いないと、灰は確信する。そして冷たい予感とともに思考はさらに先へと向かう。峰瀬が怪魅師の力を必要としていることと、あの闇の塊とは関係しているのではないだろうか。
灰は新たに湧き上がる恐怖に近い不安に小さく息をつくと、叉駆に身を寄せた。猛々しい獣の姿でありながら、大地の、そして大気の力に満ちたその気配は灰にとって心地よく感じられる。自然に潜む力の結集である叉駆は、本来感情を解するはずのない存在である。しかしその瞳は気遣うように灰を見つめていた。
灰は鋭敏な意識を閉じた。再び見やった山は、これまでと同様どこか歪な力を内包しながらも、数多の命を抱く存在として静かにあるだけだった。
これで第一章が終わり、次から第二章「祭礼の時」がはじまります。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。この先も、読んでいただければ幸せです。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!