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最果てに天深く  作者: 高原 景
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「おい、大丈夫か?」

 遠く声が聞こえる。かいは己の意識がふわりと浮上するのを感じた。目を開くと、蔡李さいりが覗きこんでいた。

「やっと目を覚ましたか。呼んでも揺すっても起きないから死んだかと思った」

「大袈裟だな。少し寝ていただけだ」

 苦笑しながら灰は身を起こした。途端に眉間の奥に鈍い痛みを覚え、額に手をやった。軽く髪を掻きあげて痛みをやり過ごし蔡李を見やった。

「昼寝にしては長過ぎるだろう。本当に死んでるみたいだったぞ。息もしているんだかわからなかった」

 漸く蔡李は安堵したらしい。笑みを浮かべて言った。曖昧に相槌を打ちながら、灰は壁に凭れる。

 眠っていた、ということに嘘はない。より正確に言えば、意識の半分を体に残し、残りを遠く彼方に投げていたというところか。確かに蔡李が言った通り、短い時間ではなかったのだろう。外は既に夕暮を過ぎている。さやさやと囁くような清宵である。その静けさが不意に破れた。くぐもった叫びにも似たそれは、容赦なく与えられる苦痛に引き攣る命の波だった。引っ掻くような不快な余韻を残すそれに、灰は顔を顰めた。僅かに顔を伏せることで表情を隠し、硝子筒の炎を調節するように、意識を広げる範囲を狭めた。

 階上で行われている一連の出来事を、灰の意識は克明に捉えていた。新たに十人程の男達がこの家に辿り着いたのが昼頃である。そして、昼過ぎから行われている蛇への容赦のない尋問は、次第に計算され尽くした冷徹な拷問へと姿を変えていた。それは、灰にとってまるで意識そのものを打ちすえるような衝撃として感じられた。叫び以上に雄弁な、命そのものがたてる苦痛の波である。

 実際に発される言葉を聞かずとも、やがて起こるだろう出来事を予測することは難しくはなかった。極限にまで蛇を追い詰め全てを聞き出した後、男達は容赦なく彼の命を奪うだろう。その時は遠くない。それは同時に灰が殺されることをも意味していた。灰が多加羅若衆であることを蛇の言葉から知れば尚更に、男達は灰を生かしてはおかぬだろう。

「おい、本当に大丈夫か? 傷が痛むのか?」

 蔡李に問いかけられ、灰は緩く頭を振った。

「何でもない。それより悪いな。昨日から寝台を半分とってしまっている」

「いいよ、別に。それにこの先どっちにしても二人で使うしかないだろう。互いに何時までここにいるかはわからんがな」

 何時まで生きているかは――言葉にはせぬ真意を灰は読み取る。ふと落ちた沈黙の中で、灰は冷たい壁に耳をつけた。家と言うよりも、まるで大地の一部となったかのような石は、静寂に満ちていた。その中に意識の半ばを浸したまま、灰は言った。

「蔡李、俺はここに閉じ込められているつもりはない」

 僅かに息を呑む気配の後に、無理矢理絞り出したような明るい声が響いた。

「逃げるのか? お前は鎖には繋がれてはいないから、隙をつけばうまくいくかもな。俺も協力するぜ」

「蔡李もだ。二人ともに、ここを出る」

 灰は蔡李を振り返った。蔡李は目を瞠り、そして腹立たしげに言った。

「俺は逃げられない。この枷は外せない。俺に気を使っているつもりならやめろ。無理なものは無理だ」

「無理じゃない。方法はある。蔡李は祖父殿のもとへ帰るんだ」

 蔡李は黙り込んだ。短くはない沈黙の後響いた声音に表情はなかった。

「今更希望を与えるな。覚悟は出来ているんだ。それとも、お前は俺を逃がすために来たとでも言うのか? 違うだろう。灰は自分が無事帰ることをだけを考えていたらいいんだ」

「そうか……」

「そうだよ。俺のことなんか気にするな」

 言ったきり顔を背けた蔡李に、灰は出かけた言葉を呑み込む。確かに安易な言葉を言うべきではないだろう。例え真意を言ったところで信じられる筈もなかろう。誰よりも信じることが出来ぬのは己自身なのだから。彼にしても、先を見通すことは最早出来ない。

 ――帰る。

 何気なく言ったその言葉が重い。 

 帰る――何処へ? その答えを灰は知らなかった。何処に帰る場所があると言うのか。昨夜あれ程鮮明に浮かんだ多加羅の街が、今は遠く、滲むような残像は奇妙に歪だった。嘗ては、確かに帰りたいと思っていた場所があった。故郷というものがあるならば、その場所こそがそうなのだと――。夕暮れに目覚める街の陰影、たちこめる脂粉の匂いと艶やかな嬌声に潜む密やかな痛み。灰がその場所に抱く印象は決して明るくはないが、それでも彼の幼い時に刻まれた淡い記憶には微かな温もりがあった。だが、その幻影もまるで砂礫の楼閣のように崩れていた。

 ざらついた感触を残し、蛇の叫びが遠く響く。灰は顔を伏せた。



 黙り込んだ灰を蔡李はちらりと見やる。きつく言い過ぎたせいか、と思ったがどうやら相手は物思いに沈んでいるようだった。

 ――帰る? 内心に反芻する。そのようなことが可能なのか……可能なわけがない。灰の言葉は蔡李にとって気休めにもならない。だが、根拠もない希望を口慰みに言う程浅薄な相手にも思えず、灰の言葉はこびりつくように耳の底に残った。

 突然この場所に連れて来られた相手は捉え所がない。多くを語らぬ性質なのか、それとも捕われた境遇で語る気になれぬのか、蔡李は相手の名前以外何も知らなかった。思わず必要以上に語った自分とは対照的である。異国の風貌も珍しく、大人びて見えるが、おそらく年の頃は自分と変わらぬ筈だ。落ち着いて取り乱さぬ態度は肝が据わっているのかとも思うが、豪胆と言う表現は当てはまらない。纏う雰囲気は静謐と言う方が相応しいように思う。

 蔡李にとって人は幾つかの類型に明確に分類出来るものだった。それは幼い頃から祖父に厳しく教え込まれた教訓でもある。常に客観的に人を観察し、まるで型に嵌め込むように相手が纏う人格を見極める。それは傲慢な独善ではなく、職業的なまでに昇華された一つの生きる術だった。だが、灰はそれまで蔡李が出会ったどのような人物とも異なっていた。それまで全く対したことのない新たな類型、ということか。いずれにせよ興味深い。

 尤も遠からず殺されるだろう己の立場を思えば、相手を知る必要などないのかもしれなかった。

 ――卸屋おろしやであれば人に食われるな。己が相手を食うつもりで対するんだ――

 ふと、祖父の言葉を思い出す。口癖のように祖父が言うのを、何時しか彼は反感とともに聞くようになった。早くに両親を亡くし、たった一人の後継ぎとして厳しく接する祖父に疎ましさを覚えてもいた。この場所に捕われるまでは、厳格な態度に隠された祖父の愛情にさえ気付かなかった。

(今頃気付いたところで遅い……)

 希望は、まるで朝露が草葉から零れ落ちる程の容易さで生まれては消えた。一つ一つ望みが潰えていくのを、蔡李は見つめていた。もしや自分が捕われている場所を掴んだ祖父が、助けを寄越すのではないか。扉を開いて迎えに来るのではないか。扉の鍵が開けられるたびに心の片隅で期待する自分自身を、蔡李は何時しか麻痺したような心持で冷笑していた。

 覚悟は出来ている、と蔡李は内心に呟く。扉が開かれる時、その向こうにあるのは救いではない。やがて訪れるのは己の最期、容赦のない死という現実なのだ。

 無論、蔡李は知らなかった。扉を開いてあらわれたものは絶望でも希望でもなく、彼が予想だにせぬ姿を纏っていた。



 蔡李は目を開いた。深い眠りの底から、まるで冷水を浴びせられたかのような唐突な目覚めである。一月近くも閉じ込められていれば、陽の光を見ずともだいたいの時間の流れが分かる。まだ深夜だろうと思い、何気なく辺りを見回す。その視線の先に、端然と寝台に腰をおろす灰の姿があった。硝子筒の淡い光に浮かび上がる横顔が、ふと蔡李に振り向けられる。

「起きたか」

 粘度さえ感じさせる静寂に、声が落ちた。もぞもぞと蔡李は身を起こす。再び床に視線を落とす相手は、それ以上何を言う気もないようだった。

「お前は寝ないのか?」

「ああ」

「昼間にあれだけ寝ればそりゃあ眠くはないだろうな」

 そうだな、と答える声音は柔らかい。蔡李は会話の継穂を失う。奇妙に目が冴えて眠る気にもなれず、ぼんやりと灰の横顔を眺めた。

 その時、灰が顔を上げた。真直ぐに扉へと視線を投げ立ち上がる。つられるようにして扉を見やった蔡李は、その音を聞いた。がちり、とまるで石と石を打ち合わせるような硬質なそれは、鍵が開かれる音である。思わず蔡李は身を強張らせた。

 扉の軋みが、蔡李には常よりも重々しく聞こえた。ゆっくりと開かれる隙間から洩れる光は黒緋を帯び、その中に浮かび上がった姿はまるで大きな影のように見えた。真実影であるかと思う程に、相手は音もなくするりと地下の部屋に滑り込む。外套に包まれた長身の、その手に握られているのが紛れもなく剣であることに蔡李は気付いた。研ぎ澄まされた銀の鋭さは、火影に艶めかしく揺れた。

 蔡李は身を竦ませた。とうとうその時が来たのか。いずれ殺されると覚悟はしていても、恐怖に体が縛られる。大きく息を吸い、灰、と呼びかける。立ち尽くすその姿があまりに無防備に見えた。部屋の半ばまで歩み入って来た相手と灰の距離は近い。なおも呼びかけようとして、蔡李は息を呑んだ。

 男が身を屈めると床に跪く。灰に向かって深々と頭を下げた。呆気にとられて蔡李はその光景を見つめる。まるで君主に傅く家臣のように――光も射さぬ地下で豪奢な錦も宝石もなく、影ばかりが寄り添う二人の姿は一幅の絵に似ていた。言葉を出すことすら躊躇う侵し難い静寂を破ったのは男だった。

「お考えに変わりはございませんか?」

「はい。全ては計画の通りに」

 灰の声が響く。男は更に深く頭を下げると、立ち上がった。頭巾と下布に大方隠された顔が、蔡李に振り向けられる。

「その者が蔡李ですね」

 蔡李は突然に名を呼ばれ目を瞠った。灰が無言で頷くのを、信じられぬ思いで見つめていた。



 灰は立ち上がったげんを見やった。背後から注がれる蔡李の鋭い視線には気付いていたが、今は時間が惜しい。殊更感情を抑えて問うた。

「首尾はどうなっていますか?」

睡覚煙すいかくえんを使いました。ですが量が十分ではありません。長くは保たぬでしょう」

「隣りの倉庫に蛇の手下がいます。彼らは?」

「既にそちらは準備が出来ています。残るは蛇だけです」

 灰は頷くと言った。

「蛇は二階の一室に捕われています」

 灰、と背後から蔡李の声が聞こえる。振り向けば、相手は彼を凝視していた。

「……その男は誰だ」

「灰様、時間はさほど残されてはいません。お早く」

 灰は頷き、蔡李へと近付いた。

「蔡李、彼は敵じゃない。俺達とともにここから逃げるんだ」

「待てよ……その男は何故俺の名前を……お前は一体何者だ」

「後で話す。今はここから逃げるのが先だ」

 疑惑の籠る相手の眼差しにはかまわず、灰は蔡李の腕に嵌められた枷へと手を伸ばした。その手を蔡李に払いのけられる。鋭く響いた音に、蔡李自身がはっとしたような表情になる。だが生じた猜疑はなおも頑なな怒りとなって灰へと向けられていた。

「ふざけるなよ! 俺をどうするつもりなんだよ! お前、一体どこの手の者だ!」

 灰の傍らをすり抜けた弦が無造作に蔡李に近付く。咄嗟に後ずさった蔡李に抵抗する間も与えず、首筋に当身を入れる。崩れ落ちた体を支えると、弦は咎める視線の灰を振り返った。

「説得は後でもいいでしょう。時間がありません」

 灰は出かけた反論を呑み込む。確かに時間は限られているのだ。蔡李の腕に嵌められた枷を示し、弦に問うた。

「外せますか?」

「専用の工具がないと無理です」

 半ば予測していた答えに灰は頷くと、鎖の上に手を掲げた。意識を凝らし、脳裏に像を結ぶ。衣の下、紐に連ねた黒玉の、その膨大な力を自ら築いた虚像に収束させる。空間が軋む。不快な歪みは一瞬のことだった。渦巻くように灰の掌に集った漆黒の波が、長く鋭い形を纏った。黒く滑らかに、光すらも吸い取るように深く、それは矛のように見えた。

 灰は束の間具現したそれを握り締めると、一気に鎖に振りおろす。力が貪欲に鎖に食い込み破壊するのを灰は感じた。まるで紙を貫くような呆気なさで、音もなく鎖が断ち切れる。条理から外れた力で練り上げられた矛が、煙のように揺らめき消えた。その力が拡散し再び小さな玉に収斂するのを確認して灰は小さく息をついた。

 振り返ろうとして灰は動きを止める。肩に恭しく掛けられた感触があった。手で触れると厚手の外套なのか、足首までを覆い、寒さに凍えた体を包み込む。言葉はごく静かなものだった。

「どうか、御身をこれ以上お晒しにはなられませぬよう、お願い申し上げます」

 灰は咄嗟に答えることが出来なかった。色の無い言葉に込められたものを捉えかねる。勝手をする灰への咎めなのか、単に主を気遣うものであるのか――あるいは、何の意味もないのかもしれなかったが、何故か灰はいたたまれない心地になる。

 弦が蔡李の体を担ぎあげ、扉へ向かった。灰は益体のない思いを振り払うと、外套の前を閉じ合わせ、頭巾を目深に被る。弦に続き地下から抜け出すと、そこは不自然なまでの静けさに浸されていた。階段の手前に一人――例の四十がらみの男が眠りこんでいた。

 僅かに空気中に残る睡覚煙の匂いを嗅ぎ、灰は言った。

「やはり十分には効果は出ていない。急いだ方が良さそうですね」

 足早に階上へと向かう。燃して生じた煙によって人を眠らせる睡覚煙の効果は強く、ごく僅かな煙でも人を眠りに引き入れることが出来る。だが実際に効果があらわれるのは火に投じて数分の間に生じた煙だけであり、狭い空間で使うのが常である。このように建物一つに使ったのでは、全体に行き渡ったとしても効果はさほど強くは出ないだろう。半刻保つかもあやしいところだった。

 灰が目指したのは建物の二階部分の一室である。蛇が捕われている部屋は、既に地下にいた時に把握していた。目指す扉の前には眠り込んだ男が二人倒れていた。三階を見上げれば、そこにも一人倒れている姿がある。

 迷うことなく扉を開けて部屋に踏み入った灰は思わず立ち止まった。凄惨な蛇の姿が、部屋の真中にあった。椅子に縛りつけられ、全身に無数の傷が刻まれている。流れ出た血が椅子を伝い床に溜まっていた。弦もまた背後で立ち止まる。だが、彼が示した驚きは蛇の惨たらしい姿に対してではないのだろう。低く呟く。

「まさか、薬が効いていないのですか?」

 弦の言葉の通り、蛇の目は見開かれていた。死んでいるのではないことは、上下する肩の動きでわかる。自失したように床を見つめていた蛇がゆるゆると顔を上げ、怯えの混じった眼差しで入口に立つ二人の姿を見つめた。

「もしかすると部屋の中までは届かなかったのかもしれません」

 ひそりと告げた灰の言葉に弦の眼差しが険しくなる。つまり、廊下にいた者にしか効果は出なかった、ということなのか――。青年を肩に担ぎながら、弦はまるでそれを感じさせぬ滑らかな動きで剣を抜き放った。体を強張らせる蛇に近付き、その体を戒める縄を剣で切る。

「立て。お前をここから連れ出す」

 呆然とした表情のまま、ぎくしゃくと蛇が立ち上がった。訝しげに細められた眼が、次の瞬間には大きく見開かれた。揺るぎなく立つ弦の姿を凝視し、喘ぐように言った。

「てめえ……始末屋……!?」

 弦はそれ以上の言葉を封じるように剣の切先を蛇の首筋に突き付ける。

「ここで死にたくなければ黙って歩け」

 顔を歪めた蛇が、ふらつきながらも弦の命令に従う。

 傷のためよろめく蛇を引き連れて階段へと向かう。階下へ降りようとして、弦は鋭く上を見やった。階上に男がいた。倒れ伏した仲間の体を揺すり呼びかけている。その視線が振り向けられる。見合ったのは一瞬、動いたのは同時だった。

 弦が蛇の腕を掴むと、問答無用で階段を駆け降りた。それに続きながら、灰は男の足音と叫びを背後に聞いた。

「侵入者だ! 誰か!」

 その声に被って蛇が喚いた。

「こいつだ! こいつが始末屋だ! こいつなんだよ!!」

 幾つかの叫びが階上で上がる。叫びは連鎖し、灰達が家の扉に辿り着く頃には階下を目指す足音が間近に迫っていた。

 家の外へと走り出た灰は、暗がりに嘶く馬の気配を捕えた。迷わずそちらへ走ると、数頭の馬の姿と、ずんぐりとした馬車の輪郭が浮かび上がった。

「灰様は馬に!」

 弦は鋭く叫ぶと、馬車へと駆け寄った。荷台には縛められた耶來やらいの男達の姿がある。弦は肩の青年を荷台におろし、次いで引きずっていた蛇の腹に容赦なく肘を叩きこむと、ぐったりとしたその体を投げ入れるようにして荷台に放り込んだ。手近な一頭に跨った灰は、家の方向から上がった複数の声音に振り返る。戸口から洩れる光に縁取られ、数人の男の影が見えた。

「馬だ! 追え!」

 馬首を巡らして拍車をかけると、同時に馬車も動き出した。並走するように横につけた灰は、御者台に座る人影に息を呑んだ。弦がいるとばかり思っていたそこに、予想だにせぬ姿があった。

須樹すぎさん……」

 轟く馬蹄と車輪の音に呟きは紛れたが、須樹はその声が聞こえたかのように灰を見た。互いに笑みの欠片もなく、だが須樹の顔に浮かんだのは紛れもなく安堵だった。その向こうに馬を駆る弦の姿が現れる。灰は出かけた言葉を無理矢理呑み込んだ。

 振り返ると、家の輪郭が次第に遠ざかる。弦の先導で、一行は南西へとひた走った。だが、十人以上の人間を満載した馬車では、単騎の速さに敵うわけがない。やがて追い来る者達の存在を灰の意識は捉えた。夜の向こう、その暗がりから抜け出すようにして近付きつつあるその気配である。追いつかれるまでさほど時間はかからないだろう。

 灰は一気に馬を速めて馬車の前を駆け抜け、弦の横に並べた。

「追手を食い止めます! 先に行ってください!」

 反論だろうか、口を開きかけた弦を見やり、灰は方向を転じた。

 ――叉駆さく、来い。

 想念に応えて夜の大気に溶け込んでいた存在が体の回りを包み込む。耳元で轟々と大気が鳴る。その向こうに須樹の声を聞いた気がしたが、灰は振り返ることはしなかった。

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