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最果てに天深く  作者: 高原 景
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第四章 冴え疾剣

 梓魏しぎでは一時、間断なく雪が降り続き、その後は寒波に見舞われた。ぱたりと降雪は止まったが、厳しい寒さに何日も前に積もった雪が溶けることなく凍りついている。春の兆しを感じるにはまだ遠く、それでもやがて来る季節を人々は無言で待ち望んでいた。

 梓魏軍の鍛練は、深まる冬の最中にも淡々と続けられた。よろずが突然軍処方から呼び出しを受けたのは、軍に入隊してから一月程が過ぎた頃だった。

 万は食堂の中に視線を転じた。今は昼時を少し過ぎているせいか、兵士の姿は少ない。むっと立ち込める熱気もいくらか減じていた。聞こえるのは厨房で大量の食器を洗う物音ばかりである。彼自身はと言えば、姿勢を正して座り緊張に身を強張らせている兵士と見えるだろう。いい加減待ち時間にうんざりし、新参で真面目な兵士にあるまじく、香草など噛みながら昼寝の一つでもきめこみたかったが、それを堪える。

 梓魏軍隊に入隊してから今まで、周囲が彼に不審の目を向けることはなかった。梓魏領民ではあるが若い頃から各地を転々とし漸く故郷に腰を落ち着ける気になった男、その設定自体は彼自身の来し方とさほど違いはないのだが、そこに忠誠心だとか実直さだとかの単語が加わるあたりが違う点だろうか。

 剣術や武術については問題ない。むしろ中の上といった腕前に思わせるのが面倒だった。腕試しで三位に入ったせいで、何かと敵視してくる輩までもがいる。まだ肩書きを持たぬ兵卒の中で一番の猛者を自称する男達――不思議なことにそういう者が何人もいるのだが、自称するのは自由だからな、と万はのんびりと思う――には、恐れ入った風に負けてみせたりもする。兵士として見込みがあり性格も好ましい男、今のところそう思わせることには成功しているだろう。

 漸く食堂の入口にあらわれた人影に、万は立ち上がると背筋を伸ばした。相手は食堂を見渡すと万の姿を認め、忙しない歩調で卓の間を通り抜けて来た。その間も手に持つ書類の束に幾度も視線を落としている。この時と場所を指定したのは相手の方だが、どうやら多忙の合間を縫って万の元に来たらしい。

 近眼なのか眼鏡をかけ、撫でつけた髪のあちこちに直しきれなかったらしい寝癖がはねている。三十半ばというところか、美男と言っても差支えない顔立ちにも関わらず、常に目まぐるしい思考に捕われているかのような表情が、男を落ち着きなく見せていた。その実、軍処方ぐんしょかたの中でも一、二を争う秀才だと言われている。もっとも争う相手の方がはるかに出世していることや、この男に数多くつけられた身も蓋もない奇妙なあだ名にもそれなりの理由はあるのだろう。

 喋繰り独楽鼠、というあだ名もあったな、と万はまじまじと相手を見ながら思う。どういう意味だろうか。無論、読んで字の如く、なのだろう。

「君が万だね」

「はい。書記官殿」

「ああ、敬礼はいい。私はそれが苦手でね。どうも立木を相手にしているような気持ちになる。人間相手に奇妙なものだよ、全く。私のことは帆群ほむらと呼んでくれ。つまるところ、それが私の名前だ。肩書きとやらは立木に掲げる札と同じようなもので、敬礼同様に私は好かないのだよ」

 早口で言った相手は、万の返事も待たず卓に一枚の書紙を置いた。

「これは君への命令状だ。早速に要点を言えば、万君、君には椎良しいら様の護衛の任に就いてもらう。近衛兵だね、端的に言えば」

「は……」

 万は是認とも驚きとも取れる声を出す。表情は後者に近く見えるだろう。無論意図的にそう見せているのだが、相手はさして気にする風でもなかった。それどころか、ろくに万の顔も見ていない。ばさばさと派手な音をたてながら、しきりに書類を捲っている。

「入隊してまだ時間は経っていないが、異例の抜擢だ。新参の君が突然に大任を任されるには理由がある。知りたいかね? 簡単に言えば君が各地の事情に明るいと考えたからだ。それが何故理由になるか、疑問に思うだろうね? 無論、その通りだろう。無理もない。わかりやすく言えば、近々椎良様は中央に赴く可能性があるからだ。我ら梓魏領民は所領を出ることが少ない。元来、出歩くことを好まない民なのだよ。そのため外の情報が嘆かわしく少ない。だが、中央に赴くとあらば旅慣れて、多くの土地の事情を知る者が必要だ。そこで君だ。わかったかね? 質問はないようだね。よろしい」

 一方的にまくしたててから、漸く書記官は万の顔を正面から見た。優秀にも関わらずこの男が何故下位の書記官の地位に留まっているのか、万にはその理由がわかったような気がした。質問も何も、言葉を挟む余地が全くなかった。この調子で上官にも接しているのだろうか。

(接しているんだろうな……)

 半ば感心しながら万は思う。あまり意味がないようにも思われたが、一応は不安そうな表情を作っておく。

「ですが書記官殿」

「帆群だ。先程も言ったが、それが私の名前だ」

「失礼致しました。帆群殿、椎良様が中央に赴かれるというのは何時のことなのでしょうか。初めて聞きました」

「まだわからないのだよ。私も確信のないことを口にするのは甚だ不本意ではあるが、もしかすると、ということだ。明らかに確信が持てれば、また改めて知らせる。その時に備えて君には今から近衛隊に入ってもらいたい。いざという時、君の経験や知識を活かすためにも他の近衛兵との信頼関係、これは大事だ。非常にね。だから今からなのだ。わかったかね? 幸い、君の剣術や武術の腕前はなかなかのものと報告されている。非常に真面目に軍務に取り組んでいるのもよろしい。近衛兵は精鋭だ。今よりもさらに力ある者達の中に入れば、君自身も上達できるだろう」

「光栄です」

 万は敬礼しかけてやめる。これは演技ではない。

「ふむ。学ぶのが早い。私はそのような者は好きだよ。近衛隊にはすでに話を通してある。明日から君は近衛兵だ。まずは明朝八の刻に身の回りの物を持って近衛隊統括本部に赴きたまえ。本日の軍務は免除されているな? よろしい。荷物をまとめておくといい。近衛兵舎に移ることになるからな。質問は? ないか。私は近衛隊の担当だからこの先も何かと顔を合わせるだろう。わからないことは遠慮せずに聞いてくれ。では、頑張りたまえ」

「承知致しました」

 帆群はうむ、と頷くと踵を返した。来た時と同様、せかせかと遠ざかる。面白い男だ。しみじみそう思いながら帆群の背中を見送り、万は腰をおろした。目の前に残された一枚の紙を手に取る。ざっと目を通すと再び卓に置いた。

 お前はただ待てばいい、そう言った兄の言葉を思い出していた。なるほど、うまいことしたものだ。帆群が言ったように梓魏領民が所領を出ることは少ない。他所領との商いが盛んではないため、人の行き来自体があまりないのだ。惣領家もまた所領を出ることは皆無に近い。惣領家の者が中央に赴くとなれば重大事だろう。

 万の経歴から、さももっともな理由で彼を近衛隊に引きあげたのは誰か。清夜すがや上総じょうそう家の息がかかった者と言っていたが、その何者かは軍の上層部に属しているのだろう。

(誰かはわからぬ方がいい)

 惣領家姫君が中央に赴くというのは清夜がすでに予測していたことである。この機会に乗じて万を椎良の身近に配し、その命を狙う輩から守る。全て清夜の思惑通りである。だが、清夜が由洛公ゆらくこうの命令により梓魏を離れてから如何なる情報も入らず、万にとってはあまりにもどかしい日々だった。まずは第一歩といったところだ。

 その清夜に、万はふと思いを馳せた。今清夜は沙羅久しゃらく多加羅たからの狭間、緩衝地帯にいる。緩衝地帯で由洛公が企てた謀略を万も大まかに聞いていた。呆れたことに、その計画のために耶來やらいの男達を雇ったという。万からすれば、大事な計画に耶來を雇うなど正気の沙汰とは思えなかった。いつ裏切るかもわからぬ無法者である。計画が何事もなく成功すれば良いが、下手をすれば寝首をかかれるだろう。彼の地で清夜に課せられた任務がどのようなものであるかは知らぬ。だが、彼が緩衝地帯に送られたということは、何か厄介なことでも起こったのだろう。

(まあ、兄貴ならうまく片を付けるだろう)

 兄の身を案じぬわけではなかったが、彼がへまをするとは思えなかった。暗殺技術は勿論、知力や思考力でも万が清夜に敵ったことはなかった。常に清夜は万のはるか高みにいる。十年を経て再会した清夜は、より揺るぎなく、透徹として隙がない。清夜と相対して打ち負かすことが出来る者などそうはいないだろう。そこまで考え、万はふと一人の男を思い出していた。

 脈絡なく浮かんだ姿は、この冬のはじめ、嵐の中でまみえた相手だった。決して口外せぬと誓った一夜の不思議な邂逅は既に遠く、もとより掴みどころがなかった男の容貌とて曖昧である。だが、不気味な程の静けさと、研ぎ澄ました刃のような、男が纏う危うい気配を忘れることは出来なかった。恐ろしい程の手練――おそらくは万や清夜と同じく、影に身を置く者だ。全く知らぬ相手にも関わらず、不思議に記憶の中の男は清夜に似ていると思う。兄のひたむきな生き様と、異国の相貌を持つ青年を守る男の姿とが重なる。二人に通じるものは揺るぎの無い強さだった。単に武術や剣術に長けているだけでは得られぬ、それはおそらく己を捧げてでも守るべきものを持つ者の強さだ。

(守るべきもの……か)

 反芻して万は苦く笑った。強さの根源がそれであるならば、己には決定的に欠けているのもそれだった。逃げるようにして梓魏を去った自分が、再び舞い戻って椎良の命を守ろうとしている。それが嘗て恋うた相手への執着故か、欺いた相手への罪滅ぼしのためか、それすらわからなかった。

「十年か……」

 密やかに呟く。惣領家直系の姫にとっては近衛兵が一人増えることなど瑣末なことだろう。身を飾る宝石一粒の方が余程価値がある。是非ともそうであってほしいところだ。

 万は立ち上がると食堂を後にした。



 一度大きく揺れて馬車は止まった。

 外から幌が開かれる。途端に湿った冷たい空気が馬車の荷台へと吹き込んだ。かいは伏せていた顔を上げる。馬車の外は深い闇だった。ひたすらに揺られて進んだ時間を考えれば、おそらく深夜に近い時刻なのだろう。寒さと疲労で体が芯から強張っていた。

「おりろ」

 暗がりの向こうから響いた蛇の声音に、周囲の男達が無言で立ち上がる。中の一人が後ろ手に縛られた灰を引き起こそうとする。

「おい! そいつに触るんじゃねえ!」

 蛇の鋭い声音に、男は肩を竦めると荷台の外へと姿を消した。それを見届けると、蛇が荷台へとのぼってきた。一人取り残された灰の腕を掴むと無言で荷台から引きずり出す。降り立ったそこは夜陰に沈み見通しがきかぬ。それでも目の前に蹲る建物の輪郭を捕えることは出来た。周囲は広い。おそらく緩衝地帯でよく見られる牧場地の家なのだろう。

 灰を引き連れて蛇は目の前の建物へと向かった。周囲に立つ男達の姿は影に沈み、しかしまるでひたひたと押し迫る波のように、歩む二人に意識を向けている。油膜のように纏わりつくそれは、無論快いものではなかった。端的に言えば、険悪である。その大部分がどうやら蛇に向けられたものであるらしいことに、既に灰は気付いていた。

 蛇の手下である男達は移動の際にも概して無口だった。だが、彼らが指示を出す立場にある蛇に対して不信と怒りを抱いているらしいことは態度の端々に見て取れた。おそらく蛇もそれに気付いている。手下達が必要以上に灰に近付くのを厭うのもそのせいだろう。己の獲物だと、まるで誇示するような態度は、男達へのあからさまな牽制であり、己の優位を再認識させるための意図的なものでもあるように灰には感じられた。

 蛇以外の男達にとって、この場所は初めてらしかった。誰もが次の行動を判じかねるように立ち尽くしている。蛇は正面の建物の前で彼らを振り返ると言った。

「今夜は隣りの倉庫で眠れ。当分の食糧も寝具もあるから適当に食って休んでいろ」

 濁った返答が夜の底に響き、ぞろぞろと男達が遠ざかる。蛇はそれを見届けて短く鼻を鳴らすと、灰を振り返った。暗闇に蛇の白目ばかりが目立った。

「おとなしくなったな。抵抗しなけりゃ痛めつけるようなことはしねえ」

 優しげな声音は、しかし奥底に揺れる酷薄さをかえって浮き立たせるものだった。無表情に視線を逸らせた灰に蛇は鋭く舌打ちをすると、正面扉の呼び紐を引いた。暫く待つと、扉の上部にある覗き穴が素早く開かれる。淡い光が漏れる。次いで扉が細く開かれた。灰からは死角となる位置で、低い声が言った。

「何故この場へ来た。まだ時期ではないぞ」

「依頼を果たしたからに決まっているだろう。報酬を受け取りに来たんだよ」

「話が違うぞ。契約では報酬を渡すのは評議会が開かれた後だ」

「こっちにはこっちの都合があるんだ。とにかくここで話しをする気はねえんだ。つべこべ言わねえで早く中へ入れろ」

 相手が思案しているのか、暫しの沈黙が落ちた。次いで不承不承といった雰囲気で扉が大きく開かれる。蛇は灰の腕を強く引くと建物の内部へと踏み込んだ。そこで初めて灰は蛇と言葉を交わしていた人物と向き合った。硝子筒を掲げ持つ相手は四十がらみの頭髪が薄い男だった。簡素で厚手の衣を纏うがっしりとした体躯は、一見したところ牧場主といった風体である。男は蛇に連れられて入って来た青年に、驚きの目を向けた。

「おい! こいつは何だ!」

「こいつは依頼とは関係ねえ」

 説明する気もない蛇の言葉である。男は後ろ手に縛られた青年の、血に染まった衣に顔を顰めた。蛇へと向ける眼差しが険を帯びる。

「どういうことだ」

「だから、てめえらには関係ねえんだよ。こいつを逃がさねえよう閉じ込めてもらえりゃこっちはそれでいいんだ。余計なことを聞くんじゃねえ。報酬を受けとりゃこいつを連れてさっさと出て行ってやるよ」

 言い放つと何事かを言いかけた男を無視して、仄暗い廊下を進んだ。灰は素早くあたりへと視線を投げる。漆喰の壁はところどころ罅割れ、水の湿気たような臭いが立ち込めていた。外観は暗闇のため掴めなかったが、どうやら長年放置されていた建物のようだった。意識の端にちりちりと数人の気配が掠める。建物内部には少なくとも四人程の人間がいる。

 蛇は廊下の突き当たりの扉を開けた。ぎい、と鈍い音が響き、地下へと続く細い階段が姿をあらわした。そこは闇ではなかった。橙を帯びた光が階段の先に続く通路を照らし出している。蛇は背後からついて来た男を振り返る。

「こいつも地下に入れておいてくれ」

 男は憮然とした表情で、しかし蛇の言葉には逆らわず先に立って階段を降りた。とりあえずこの場は蛇の言に従うこととしたのだろう。決定権のない立場なのか、端から判断するだけの器量がないのか――そのどちらとも言えそうだった。

 男は地下に一つきりある部屋の前で、懐から鍵の束を取り出した。壁にかけられた硝子筒のもと、目を眇めて中の一つを選び出し、鍵穴へと差し込む。がちりと重い音が響く。低い軋みをあげて開かれた扉へと蛇は近付くと、短剣を取り出し灰の縛めを解いた。

「入れ」

 命じられて、灰は部屋の中へと踏み込んだ。暗闇を覚悟していたが、そこもまた光が灯されていた。扉の横に設えられた硝子筒に、細い炎が揺れ、すえた臭いの籠る地下の部屋を半ばまで照らし出していた。背後で扉が閉ざされ、鍵の閉められる音が無機質に響いた。

 灰は縄に擦れた手首を無意識に握りながら、部屋の中を一頻り眺めた。窓のない部屋は倉庫として使われていたものか、底冷えする寒さは全体が石造りのせいだろう。ゆっくりと視線を巡らせていた灰は、その動きを止める。部屋の奥――小さな寝台の上に蹲る人影があった。膝を抱え込むようにして座っているらしい。暗がりに姿は定かではなく、しかし相手の吐く息が白く滲んでいた。

 灰は目を細めた。空気を伝わるのは敵意と警戒、そして恐怖である。

「……誰だ……」

 相手の声は僅かに震えていた。光の傍らに立つ灰からは、奥の人物の姿は闇に紛れ捉え難い。ひきかえ相手からは灰の姿がよく見えるのだろう、注がれる視線が強い。互いに身構えるように、張り詰めた静寂が落ちる。暫くして、なおも警戒を解かぬまま幾分しっかりとした声が言った。

「怪我をしているのか……?」

 とうに血は止まっていたが、手当の一つをするでもなく馬車に揺られ、客観的に見れば惨憺たる姿だろう、と灰は気付く。ちらりと己の体を見下ろせば、腕と脇腹の傷のせいで、衣の右半身が案の定黒ずんだ血糊に染まっていた。実際以上に酷く見えるだろうそれである。

「大したことはない」

「とてもそうは見えないぞ」

 目が暗がりに慣れる程にあらわとなる相手の容貌を見れば、灰と年の頃は変わらぬだろう青年だった。寒さから身を庇うためか厚手の毛布を纏い、乱れた髪が顔を半ば覆っていた。

「あいつに捕えられたのか?」

 ひそりと問われて灰は思わずまじまじと相手を見つめた。

「さっきの男だ。あいつに捕えられたんじゃないのか?」

 蛇か、と内心に思い、灰はただ首肯した。その動作に、相手の緊張が僅かに綻ぶ。年の近い相手に気が緩んだか、あるいは、少なくとも己に危害を加える相手ではないと思ったせいだろう。ほっと息をつく気配が密やかに響いた。

「お前もか……。俺もあいつに捕えられてここに入れられたんだ」

 青年がぽつりと言った。それに灰は目を瞠る。

「いつからだ?」

「ここに入れられてからどれくらい経ったかはよくわからないんだ。でも、多分一月程前からだと思う」

 一月――呟いた灰の声は寄る辺なく響いた。それは決して短い時間ではない。見れば、青年が纏う衣は汚れ、顔も垢じみている。

「見ろよ、これ」

 言いながら青年が毛布の下から左腕を掲げてみせた。その手首に鉄の枷が嵌められていた。じゃらりと響いた錆ついた音はそこから伸びた鎖がたてたものだった。鎖はのたうつように寝台から床へ、そして部屋の奥へと続いている。

 灰は壁に掛けられた硝子筒を掴むと、青年へと近付いた。柔らかな光に、青年が眩しげに目を細めた。床に硝子筒を置き、灰は寝台に腰をおろした。間近に枷を見ると、人の力では到底壊すことはかなわない頑丈な物だとわかった。太い釘で固定され、工具を使わなければ外すことは出来ないだろう。鎖に触れれば、ざらついた冷たい感触が残った。

「見せてくれ」

 灰の動きを目で追っていた青年は、突然の言葉に戸惑ったようだった。それでも意図を察したのか枷を嵌められた腕を差し出す。衣はところどころ破れていた。露出した肌は鉄の枷に触れ続けたせいで赤く腫れあがり、裂けるような傷から血が流れている。

「酷いな」

 ぽつりと灰は呟いた。ふわりと白い息が広がる。しんしんと凍えるような寒さに、言葉がひそりと落ちた。

「何故、このような物を……」

「半月くらい前かな、逃げようとしたんだ。もう少しで建物の外に出られるところだったが、だめだった。連れ戻されて、こいつを嵌められた」

 青年の言葉を聞きながら、灰は血濡れていない方の袖の端を噛み切る。そのまま勢いをつけて一気に布を裂いた。鋭い音が響く。細長く切り取った布を灰は丹念に伸ばす。

「おい、何してる」

「肌が鉄に触れないようにしておいた方がいい。本当は清潔な布の方がいいんだが……」

 言いながら灰は布を枷と腕の間に通し、素早く巻き付けた。常に身につけていた薬草や包帯は、蛇に捕われた時に奪われていた。器用な手の動きに青年は暫し呆気に取られたように見入り、そしてふと灰の左腕に目を止める。切り取られた布の分だけ晒された腕に、白い布が見えた。手首からきっちりと巻かれたそれは、まるで包帯のように見える。

「その腕はどうしたんだ?」

 灰は己の腕を見ることもなく答える。

「昔負った傷の痕があるんだ」

「隠しているのか?」

「ああ。見て気持ちの良いものではないからな」

 言いながら灰は布の端を結び合わせた。

「これで少しはましになる筈だ」

 慣れた鮮やかな手つきを半ば感心したように見つめていた相手は苦笑する。

「変な奴だな。そっちの方が余程傷だらけだ。こめかみからも血が出ているじゃないか」

「何故ここに捕えられたんだ?」

 青年は束の間黙り込んだ。表情に厳しい色が浮かぶ。

「わからない。だが、察しはついている」

 感情を必死に押し殺すかのような声音である。青年は俯きがちに、唇を噛みしめていた。くっきりとした目鼻立ちは幼くも見えるものだったが、鋭い輪郭が目についた。頬の深い影はおそらく捕われてから刻まれたものだろう。

「あいつらは多分、俺の命を楯に祖父に脅しをかけているんだ。俺の祖父は力があるからな。目的は金か、それとも別の何かか……」

 声音に悔しさが滲む。青年は小さく息をついた。

「お前は何故捕えられたんだ?」

「俺も似たようなものだ。俺の命を楯にある人に脅しをかけようとしている」

 答えながら灰は片膝を抱え込んだ。凍えるように冷たい手に、己の息ばかりが仄かな温もりだった。

「……同じ立場、ということか。お前、名前は?」

「灰だ」

「俺は蔡李さいりだ」

 床を見つめたまま灰は問うた。

「このような目に遭うとは、蔡李の祖父殿は何をしているんだ?」

 僅かに迷うような沈黙の後、青年は答えた。

「俺の祖父は緩衝地帯の中でも力ある卸屋おろしやなんだ。西の元締めと呼ばれているのが俺の祖父だ。聞いたことがあるか?」

「ああ。確か緩衝地帯西部の街や村を裏から動かしている人物だろう? 誰が脅しをかけようとしているんだ?」

「わからない……」

 不意に蔡李の声が熱を帯びた。吐き捨てるように続ける。

「祖父が俺のせいで何か無理なことを要求されているかと思うと、我慢がならない。何とかして逃げ出したいのにこの鎖のせいでそれも出来ない」

「でも目的が達せられたら、そのうち解放されるんじゃないか?」

「どうだろうな。おそらく俺を捕えた男は裏稼業を生業にしている奴だ。目的を達したら多分俺は殺される」

 それが、この閉ざされた場所で考え尽して得た結論なのだろう。突然に捕われ一月も閉じ込められていれば、どれ程の不安と孤独を感じていたか――それでも青年は気丈である。冷静な言葉の裏には、既に覚悟を決めた者の静けさがあった。

「だから祖父には出来れば要求など呑まないでほしいんだ。こんなことを言ったら頭からどやされるだろうけど……でも俺のためにあの人はどのようなことでも受け入れるんじゃないかと思うと、やりきれない」

「大事にされているんだな」

「……前は俺なんかより商売の方が余程大事なのだろうと思っていたが、こんなところに閉じ込められてはじめてわかった。どれほど大事にされていたかがな。情けない話だ。ろくに感謝すらしたことがなかったのに」

 自嘲するように呟いて、蔡李は気まずそうに笑った。喋り過ぎたな、と独りごちる。

「まともに会話するなんて久しぶりだから……悪いな。変な愚痴を聞かせた」

 いいや、と答えて淡く笑んだ灰に、蔡李は問うた。

「お前はどうなんだ?」

 何が、と問い返すことはせず、灰は僅かに視線を伏せた。仄かな笑みはそのままに、ひそりと答える。

「俺の場合は、脅したところで無意味だろうな。あいつは見込み違いをしたんだ。俺の命を楯に取ったところで、相手が要求に応える筈がない」

「……そうなのか?」

 ああ、と灰は短く答えた。静かな声音に何を思ったのか、青年はそれ以上問おうとはしなかった。灰は寝台の横に置かれた小さな卓に視線をやった。水差しと皿が置かれている。食事はまともに与えられているのだろう。水差しに水が残っているならば、傷口を洗い流せるかもしれぬ、そう考えながらも動くのが億劫だった。痛みはさほど酷くはない。しかし、不快な鈍麻に足先から浸されるような、けだるさがあった。灰の横顔に蔡李は瞬くと、己が被っていた毛布を灰の背に被せた。

「少し休めよ。ああ、毛布は気にすんな。こんな所に閉じ込めやがって、あいつら毛布だけはしこたま置いていったからな」

 言った通り、他にも数枚の毛布が寝台の上には積まれていた。凍える程に寒い地下室に火さえ焚かず、決して良い待遇とも思えなかったが、少しは体を温めることが出来る。温もりに包まれて灰は抱え込んだ膝に額をつけるようにして俯いた。灰の無言を疲労故と考えたのか、蔡李は気を遣うように黙り込む。

 ちらちらと揺れる淡い光のもと、半ば伏せた灰の眼差しが次第に影を帯びる。やがてうつらうつらと眠りに落ちたらしい蔡李の息遣いを聞きながら、灰は戸外の気配を探る。冴えた星月の光は、階調を移ろう淡い粒子だった。冬の長い夜も更けつつある。奇妙な場所であいまみえた二人の青年の存在など知らぬ気に、地面を這う鼠の、微細な髭の揺れがさやさやと響いた。

 僅かでも眠った方がいいのはわかっていた。鋭さを帯びる思考とは裏腹に、体は眠りを欲している。灰は目を閉じた。ふと浮かんだのは、泣きそうな顔で己を見つめるりんだった。被さるようにして責める眼差しの須樹すぎがいた。案じているだろう、と思う。全てがうまくいっていれば、須樹は既に解放されているだろう。若衆がねぐらに戻り、こんから事の顛末を聞けば灰が蛇に追われたことも知る筈だ。

 睡魔に意識を呑まれながら、卒然と脳裏に多加羅の街が浮かんだ。遠くに在りながら、街衆のざわめき、鍛練所に響く掛け声までが、不思議に鮮明である。仁識にしきの遠慮のない物言いと、冶都やとの快活な笑い声が懐かしかった。秋連しゅうれん娃菜えなは緩衝地帯へと向かう灰に何も問わず、それでも案じる視線を向けて来た。静星せいせいの青白い顔が浮かび、なるべく早く多加羅に戻れと憮然として言ったせんの言葉を思い出す。連鎖的に浮かぶそれらは、灰が背後に残してきたものたちだった。

 一体いつからこれほどに――ぼんやりとした思考を最後に、止めどない残像は曖昧に滲んで消えた。自分がどのような言葉を紡ごうとしたのかもわからぬまま、灰は泡沫の眠りに落ちる。その寸前、灰は、遠く確かに獣の鳴き声を聞いたように思った。

 第四章「冴え疾剣」(「さえはやつるぎ」と読みます。)開始です。今まで影の薄かった主人公がようやく前面に出てきます。

 因みに「疾剣」は造語です。意味はそのうちに出てきます。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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