86
風が吹き過ぎた。
老婆は石の長椅子に腰かけながら上空を見上げた。気紛れな風がなければ、春が来たかと思わせる麗らかな日差しだった。慈恵院の小さな庭園には常緑の木々が生茂り甘い土の匂いがする。その香りに包まれて、老婆は己の骨ばった手に視線を落とした。力無く、最早美しくもなく、ただ生きて来た歳月のみを感じさせる。
「気分はどうだね?」
老婆は背後からかけられた声に振り返った。老師がゆったりとした足取りでこちらに向かって来ていた。着古した白い衣が、眩しい光のもとでは灰色に見えた。
「おかげさまで頗る気分はいいよ。関節の痛みが辛いところだがね、これはいつものことだ」
「そうか」
老いた医術者は長く息を吐くと老婆の隣りに座った。
「こんな日は春が近付いて来たと思えるねえ」
おっとりと言った老婆に、老師はふうむ、と唸る。
「おや、疲れでおいでかい? 最近一段と忙しいようだね」
「冬から春への変わり目は病人には辛い季節だからな」
厳しさの滲む声音だった。矍鑠とした姿は常と変わらず、だが垣間見える疲労の色に老婆は気付く。命が一斉に芽吹く春という季節は、はるかに膨大な撓められた力――苛烈な生と死の鬩ぎ合いの果てに築かれる。冬が深まり、やがて春へと向かう今は、老師にとっては心休まることの無い時なのだろう。
「年老いた者にとっても辛い季節だよ。そろそろ隠居して安穏と暮らしたいとは思わないのかい?」
「そうもいかんさ。儂も漸く弟子をとったところだからな。あいつを育てにゃならん」
「ああ、あの泉という子だね。賢い子だ」
「ああ」
泉自身には決して見せぬだろう柔らかな表情が老師の顔に浮かんだ。それを見つめ、老婆はふと首を傾げた。
「お前さん、あの灰という青年を何故弟子にとらなかったんだね? なかなかに見所のある若者じゃないか」
何気ない言葉に、老師は途端に渋面になる。答えぬ老師に、老婆はちらりと笑みを浮かべた。
「弟子にはとれんか。あれは根っからの風の民だろうからねえ」
「あの青年は儂などとは全く違う癒し手だ。惜しいこととも思うが、今更教えることに意味などなかろう。それに、彼は何時までもこの地に留まることはないと、儂にはそう思えてならんのさ。いずれ去る者を弟子には出来ん」
「風はもとより縛られることを嫌う。一つ所に引き留められるものではないよ」
「儂自身もあやつはこの地に留まるべきとも思えんからな。惣領が何故あの者を呼び寄せたかは知らぬが、ここは彼にとっては決して良き場所ではなかろう。無論、灰個人がどう思おうと、容易くこの地を去ることは出来まいが……」
低くくぐもった呟きに、老婆は相手が密かに青年を気遣うらしい気配を感じ取る。口でどう言おうとも、この老人は件の青年を心の奥底では認め、そしておそらくは彼の未来を案じてさえいるのだろう。
「あの青年はやがてこの地を去ることになる。遠く、まだ見ぬ地に旅立ち、二度と戻っては来ない」
「まるで灰の行く末を知っているような言い方だな」
唐突な言葉に思わず老師は苦笑した。老婆の顔が、老師に振り向けられた。老師は笑みを呑み込む。己を見つめる瞳の奥に、まるで決して溶けぬ氷雪のように固く凝るものがあった。それは暗く、老師を射ぬくような鋭さである。
「ああ、知っているんだよ」
真剣な声音だった。我知らず老師は目を瞠る。
「……これはしたり。お前さんは先見の術者かい?」
あれまあ、と老婆は笑った。
「私にそんな能力があるように見えるかい? 何ともおかしいねえ」
「いやいや、からかわれては困るぞ。未来が見える神秘の力でもあるのかと思ったわい」
「からかっているわけじゃないよ。事実はもっと単純さ。私があの青年の行く末を知っているのは、実際にこの目で見たからだよ。遠い東の地でね」
老師は返す言葉も思いつかぬまま、目の前の女をまじまじと見つめた。互いに長い年月を生きて来た者同士、抱くものの形は違えども多くを語らずとも共感を得ることのかなう相手だと思っていた。だが、今対する老婆はまるで遠い異国の言葉を話しているかのように掴み所がない。だが、耄碌した老人の戯言とも思えぬその様子だった。
戸惑いもあらわな老師の様子にもかまわず老婆は訥々と続けた。
「お前さんは仙寿という存在を知っているかい?」
「ああ、古くから伝わる御伽噺に出てくる者達だろう? 確か死して後も魂が滅びず何度も転生を繰り返す人々のことだ。東の果ての何とかという国に住むという……」
「シェンジェン国だよ。仙寿は実在するのさ。私はね、仙寿なんだよ」
さらりと老婆が言った。今度こそ老師は言葉を失う。それは驚きのため、というよりも多分に突拍子もない言葉への呆れのためであった。無論、彼とて人の言を己の狭量な見解だけで判断することの愚は知っていたが、それにしてもあまりにも荒唐無稽である。そもそも、老師は仙寿の存在そのものを信じてはいない。老師にとって死はもっと厳然としたものだった。彼の長い人生はそれとの戦いだったとも言える。死して後蘇るなど、彼から見れば御伽噺の域を出ぬ戯言でしかない。
それでも、老婆の様子には即座に否定することを躊躇わせるものがあった。それは張り詰めた静けさにも似て、激しい何かを抑えつける葛藤のようでもあった。徒に偽りを述べる者のそれとは思えぬ。
「ふむ……仙寿……というなら、何故未来を知っているということになるのだ? 転生をしたのならば過去は知っていても未来は知らんだろう」
まるで無理矢理口から異物を押し出すかのように、仙寿、と言った老師の声音に女は可笑しそうに瞬いた。
「そうさね。そう思うだろう? 転生と聞けば、人は魂が過去から未来へと続くと考える。だが、実際には違うんだよ。仙寿の転生はそんなもんじゃないんだ。過去から未来へ蘇るわけじゃないのさ」
老師は語る老女の横顔を見つめる。細められた瞳に映り込む木々の緑が深い――いや、違う、と老師は思った。陽光にあらわとなった老婆の瞳そのものが、まるで底知れぬ沼を思わせる翡翠を帯びているのだ。異国の瞳だ。何故、今までその色彩に気付かなかったのか、老師は不思議に思った。常に彼女が佇むに影を選び、顔を伏せていたせいだろうか。
「死した仙寿は確かに生まれ変わる。だが、生まれ変わるのはそれより千年先の未来かもしれぬし、千年前の過去かもしれぬ。生まれる場所とて同じことさ。仙寿はシェンジェン国に生まれると考えられているが、実際はどの地で生まれるかなぞ誰にもわからぬ」
まるで謎かけのような老婆の言葉である。
「東の地で灰を見た、というのは……」
「ああ。私は幾つか前の前世で彼を実際に見たのさ。時代で言うならば今からさほど先の未来ではないよ。あの青年もまだ二十歳そこそこに見えたからね。この地で会うとは不思議な巡り合わせだよ。あの青年と東で出会った時、私はまだまだ幼い少年だった……つまり今生の命ももう残り僅か、というわけさ。私がシェンジェン国以外の地で死を迎えるのは、長い記憶の中でも初めてのことだねえ」
独白のように老婆は言った。馬鹿げたことと思いながらも、老師は語られる言葉に引き込まれる。
「お前さんの話が真実だとして、何故シェンジェン国に仙寿は集うのだ? 仙寿はシェンジェン国に生まれるわけではないのだろう?」
「ああ、そうだよ。仙寿はね、生まれる時も場所も己では何一つ選べやしないのさ。膨大な前世の記憶を抱えて、幾度も蘇っては滅する。まるで時の浪間に、気紛れにあらわれては消える玉響の泡のような存在なのさ」
考えてもみてごらん、と老婆の声は低い。
「まるで投げ出されるようにして幾度も幾度も生まれ変わるとどうなるか……。それまでの記憶を有していれば尚更に、生まれ落ちた瞬間からは仙寿は孤独なんだよ。己という器が空っぽであれば、新たな世界で満たすことが出来る。だが、仙寿の器は生まれ変わるごとに既に満たされている。新たな親も、新たな街も、生まれ変わって得る全ても、やがて時の彼方に永遠に喪失するものだと知れば、やがて耐えられずにシェンジェンを目指すのさ。そうしなければ生きていけないと皆がわかっているんだよ」
「シェンジェン国になら救いがあるのかね?」
「ああ。シェンジェン国には仙寿の主である礎の子がいるからね」
「礎の子?」
「転生に翻弄される仙寿の中で唯一人、過去から未来へと魂が生まれ変わる存在がいるのさ。死して後、はるかに隔てられた時の彼方に流されず、まさに時を刻むように未来へと生まれ変わる存在……それが礎の子と呼ばれている。仙寿にとっては、例え何時の時代に生まれようとも存在する唯一の者が礎の子なのさ。時から切り離された彼らにとっては礎の子はいわば時と己を繋ぐ唯一の楔とも言えようかね。礎の子が死ねば、その魂を抱く新たな転生者を仙寿達は捜し出し、そしてシェンジェン国に連れて行くのさ。自らの主としてね」
「……どうにも、信じ難い話だな……」
「ああ、そうだろうね。所詮、御伽噺さ。仙寿なんてのはね……知らぬならば知らぬ方がいいんだよ」
言いながら老婆は小さく笑った。笑みを掠めるようにして浮かんだ諦めと悲嘆は一瞬で消えたが、老師の目に焼き付いた。
「ついでにもう一つ、御伽噺をしようかね……」
ぽつりと老婆は呟いた。最早男を見ることもせず、己の拳――まるで雛鳥のように小さく、握りしめたそれへと視線を落とす。
「悲しい二人の仙寿がいた。二人は幾度も生まれ変わり、幾つもの時代で何度もすれ違い、出会いを繰り返していた。ある時、何度目かの出会いを果たした時、一人は男で一人は女だった。二人は愛し合った。まるで互いの他には何もいらぬのだと、そう思う程に心の底からね。だが、二人は互いに秘密を抱えていた」
なおも老婆は己の手を見つめたまま語り続ける。
「女と出会うより二百年後の時代に、男は愛する女の魂を抱く相手を、己の手で殺していた。それが男の前世の記憶だった。そして女は何時しか男が抱えるその秘密に気付くこととなる。女もまた苦しんだ。何時か自分が二百年後の世界に生まれた時、男に殺されると知ったからだ。……そのことが次の生である現世にまで及んで男を苦しめていることを知ったからだ。そして彼女もまた密かに決心をする。やがて再び生まれ変わり、二百年後の世界に命を得た時には、男の手にかかるのではなく自ら命を絶とうと……そうすれば、今生に転生する男の苦しみを幾ばくかでも和らげることがかなうのではないかと、そう考えた」
老婆の言葉は乾いた地面にゆっくりと落ちた。風が通る。それは渦巻くように激しく、螺旋を描いて二人の間を吹き過ぎた。
「何故、男は女を殺めたのだ?」
「女は裏切り者だったのさ。仙寿にとって、決して許されぬ裏切りを女はした」
「……二百年の後の時代に生まれ変わり、その女はどうしたのだ?」
密やかな問いかけに、老婆は顔を上げる。僅かに呆けたような瞳を老師に向けると、さあ、と呟いた。知らぬ、と――
「御伽噺の最後はいつでも謎に満ちているものさ」
そして深く笑んで問うた。
「お前さんならどんな結末を望むかね?」
「儂は医術者だ。他者を殺めることも、自身を殺めることも是認することが出来ん。だが、女が自殺したところで、男が救われるとは思えぬ。女とて、酷い未来を知ったならば変えればよかろう」
「……変えられるものならね」
「時を渡って転生するならば未来を変えることとてかなおう。無論、それは罪なのかもしれぬが……何故、それをせぬのだ?」
「そうさねえ。確かに仙寿の中には前世で知った未来を変えようと試みる者もいる。だが、多くはただ静かに礎の子のもと、シェンジェン国で朽ちる人生を望むようになるのさ。未来を変えることは恐ろしいことだよ。悲しいことだ。未来を変えればどうなる。未来を生きた己の記憶が、嘗て確かに生きた時そのものが、消えてなくなるかもしれぬ。過ぎた前世を己の手で消すことなど、仙寿には出来やしないのさ」
無論、シェンジェンに集うことを厭う仙寿もいるがね、と老婆は言う。抱く記憶に捕われることもなく、与えられたその時々の生を享楽的に、あるいは淡々と生きる者も確かにいる。だが、それは仙寿の中の異端だった。仙寿もただの人の子――奇跡と呼ばれるものの底にあるのは、不条理な生の繰り返しに縛られた魂、ただそれだけだ。
不意に吹いた冷たい風に、老婆は羽織る毛織の布を引き寄せた。ふと夢から醒めたように顔を巡らせると、からりと口調を変えて言った。
「さあさ、益体もない話はこれでお終いだ。休憩はこれくらいにして、そろそろ診察に行った方がいいんじゃないかい?」
「あ……ああ」
老師は我に返ると立ち上がった。確かにまだ診察を終えていない患者が多くいる。歩きかけながらも現実離れした物語の余韻が生々しく、老師は老婆を振り返った。莞爾として己を見つめる相手に何か言葉をかけようと思い、出たのは結局己でも呆れるほどに事務的なことだった。
「後で泉に関節の痛みに効く薬湯を持って来させよう」
「ああ、ありがとうよ。灰が調合したものだろう? あれはよく効くね」
「あまり体を冷やさぬよう、気を付けるんだぞ」
「はいよ」
柔らかな返答を背に聞き、老師は建物の中へと向かった。回廊から何となしに再び振り返ると、老婆は降り注ぐ陽光に染まっていた。
老師が去ってなお、老婆は庭園から動くことが出来なかった。まるで石と同化したかのように、動くのが億劫だった。老師が浮かべた表情を思い出し、小さく笑う。あの老人には突拍子もない話に聞こえただろう。耄碌した老女の戯言と笑うだろうか。誰かに託すことなど到底出来ぬものではあったが、あの老人ならば語ってもよいと思った。ただ一度生まれて消える、そのような人の生き様に真摯に向き合ってきたあの老人であればこそ――何度も生まれ変わり、どれ程に多くの記憶を抱いていようとも、ただ一度の生を鮮やかに生きる者達の激しさに焦がれたのだと、臆面もなく言える気がしたのだ。結局言えはしなかったが、と老婆は自嘲する。
(稟は、もう来ているかね……)
思い浮かべたのは一人の少女だった。毎日のように友の見舞いに訪れる少女は、その後に必ず老婆のところにも顔を出していた。他愛の無い会話に明るい笑顔、気付けば毎日少女を心待ちにしている。このような温かい日であれば、二人で小さな庭を散策出来るだろう。我知らず微笑みを浮かべ、老婆は振り返った。
その視線の先に、男が一人立っていた。
振り返ったのは、彼女自身にもわからぬ無意識の動作だった。何かを感じたわけでもなく――だが必然的に、振り返った先に立つ男の姿を既に老婆は知っていた。昔は何度も夢に見た。恐怖に怯え、己が迎える最期の時を反芻した。それがこのように美しい日であるとは知らなかったが――
己を見つめる男を前に、老婆の顔からゆっくりと笑みが抜け落ちる。残ったのは張り詰めた覚悟と諦めだった。男は回廊から踏み出すと、一歩一歩老婆へと近付く。その手に、鋭い剣が握られていた。男の顔は青褪め強張っていた。
(わかっていた、ということかね)
ぼんやりと思う。不思議なものである。老師に語ったのは、己の死が間近であるとわかっていたからだろうか。
「……捜したぞ」
低く男が言った。冬の最中、まるで春を思わせる美しい日差しにも目をやらず、男は老婆と対峙する。無論、何度まみえようと男は変わらぬ。不器用に、愚直なまでに己の信念を貫く、そういう男なのだ。
「えらく長くかかったもんだね。待ち草臥れたよ」
言いながら、己は二百年前に生を受けた時から、幾度もの転生を繰り返し今この時を待ち続けていたのだと、老婆は悟った。無論、男に老婆の言葉の意味などわかりはしまい。やがて死して後、新たな生で出会う女のことを、まだ男は知らぬのだから。
「何故、我らを……あのお方を裏切った」
「今更、理由を知ってどうなると言うのだ」
老婆の囁きに男の顔が歪む。その額に刻まれた白い傷跡に、老婆は気付いた。何十年も、おそらくは彼女を殺すことだけを考えて異郷の地を旅し続けたのだろう。その苦難を思う。
「……お前を殺す」
「ああ、知っているよ」
「お前が我らを裏切らなければ、礎の子が失われることはなかった!」
不意に激情に駆られたように男が叫んだ。剣を握る手が震えていた。それを老婆は見つめる。断罪はただ悲哀を感じさせただけだった。
「何故だ。何故、白沙那皇帝にあのお方のことを……我ら仙寿の存在を告げたのだ! お前の裏切りさえなければ、東方遠征は起こらなかった! あのような酷い戦は起こりはしなかったのだぞ」
東の地を蹂躙し、多くの命を奪った悲惨な戦いの記憶を、男は生々しく抱いているのだろう。言葉には血を吐くような痛みが籠っていた。
東方遠征の真の目的は領土拡張ではない。己の死に怯えた皇帝が、何度も生まれ変わりこの世に生きるという仙寿の、その奇跡を己がものとせんと派兵を決したのだという、それが真実だった。遠い東の果て、御伽噺の中にしか存在しないと思われていた仙寿が、確かに生きているのだと皇帝に告げたのは何処からか都にあらわれた一人の女占い師だったという。
――永遠に存在したいなら、仙寿から奇跡をお奪いなさい。時を紡ぐのは仙寿の主、礎の子と呼ばれる存在です。その者の魂を我がものとすれば、幾度死のうとも、必ずやこの世に生まれいでることがかないましょう――
朽ちゆく己の命への妄執に捕われていた皇帝にとって、占い師の囁きはあまりに甘美だった。現実離れした戦の動機に無論声高に反対を唱えた者もいたが、嘗てより苛烈で知られ、晩年にあって最早慈悲の欠片もなくしていた皇帝の、容赦のない血の粛清の前に誰もが口を閉ざした。時の権力を望む者達の画策も絡みあい、かくして、国境を侵す狼藉者の成敗、はては領土拡張という尤もらしい号令のもと、狂奔のうちに戦端は開かれる。
「何故……!」
まだ青年だった男が戦の粉塵の中皇帝の傍らに立つ彼女を見た時に浮かべた表情を、老婆はまざまざと思い出すことが出来る。愕然と見開かれた瞳にあるのが、裏切り者への憎悪だけであれば己もまたこれ程に苦しみはしなかっただろうと老婆は思う。あの時、立ち尽くす青年の顔にあるのが悲しみでさえなければ――
「あの戦いの折に、同胞を守るため礎の子は己が身を晒し、その魂は千々に砕かれたのだ。最早我らは生きるよすがを失った。その絶望が如何程のものか……!」
そしてただ裏切り者を殺すためだけに生きてきたのか。悲しみを殺意に変え、苦しみを憎悪に変えて。老婆は哀しく目の前の男を見つめた。
「ああ、私は知っているよ。お前の絶望も、仙寿達の苦しみも。だが、礎の子とて同じではないのかい? あのお方は常に縛られておられた。我らの苦しみに、悲しみに、全てを奪われておられた。あのお方は心の底から解放されることを望まれていた。私はそれをかなえてさしあげたかった……」
老婆の言葉に、剣を握る男の腕から力が抜けた。
「礎の子が、解放を望んでいた……?」
「我らが時の渡り人であるならば、あのお方は時に捧げられた生贄だった。未来も過去もなく泡沫の生を渡り歩く我らがあのお方を求めたのは、ただ己が救われたかったが故だ。仙寿は礎の子を己が命のよすがとするために、最も尊いお方を己が奴隷にまで貶めたのだ。礎の子はそれに気付いておられた。長い間、解放を願い、絶望の中に何度も生を繰り返しておられた。……お前は知るまい……」
知るまい、と繰り返した低い声音に、男は凝然と立ち尽くす。力無く下ろされた腕の先で、剣が薄ら氷の鋭さで瞬いた。
「だが……多くを死なせてまで時の呪縛を解かんとした私とて、悔いなかったわけではない……己が成した罪を、迷いがなかったと言えば嘘になる」
「今更、そのような言葉……」
絞り出すような男の声に、老婆は虚ろに笑んだ。
「ああ、その通りだ。罪人の戯言さね」
――女が自殺したとて、男が救われるとは思えぬ――
老師の言葉が響く。そうかもしれぬ。つまるところ、女はただ己を救いたかったのかもしれぬ。自ら命を絶ったところで、許されることではあるまいに……
それはゆっくりとした動作だった。力無い老女の動きを、男はただ見つめていた。警戒を抱かなかったのは、老婆の瞳がまるで凪いだ水面を思わせる程に澄んでいたからだった。懐に伸ばされた老婆の手に、小さな短剣が握られているのを見て、はじめて男の目が大きく見開かれた。咄嗟に剣を掲げ持った男の前で、老婆は短剣の鞘を抜き払うと、まるで屈みこむようにして己の胸にそれを突きたてた。鈍く肉の裂かれる音が響いた。
「やめろ……!!」
男は倒れ込んだ小さな体を受け止める。逞しい男の腕に、老婆の体は軽かった。老婆の胸に深々と刺さった短剣を見て、男の顔が悲痛に歪められた。老いた体のどこにそれ程の力があったのか、柄まで埋まった短剣の根元がじわじわと鮮やかな紅に染まる。
「何故、何故このようなことを!」
男の叫びに老婆はうっすらと目を開いた。ひゅう、と細い息が漏れ、ごぼりと口から血が溢れ出た。老婆の目には、光を負う男の姿が大きな影となって映った。暗がりに沈むその顔――怒り、憎しみ――それだけではなかった。まるで泣きそうに歪められたそれに、老婆は弱々しく喘いだ。笑おうとして、それはうまくはいかなかった。
――ああ、本当に救うことなど出来やしないね……苦しみだけでなく、さらに悲しみを負わせるだけだなんて――
やがて男は来世で、老婆の遠い前世の時と交錯するだろう。男が新たに負う悲しみは彼をどこに導くだろうか。老婆にはわからぬ。過ぎた時には戻れぬ。それは記憶の喪失であり、己の喪失だった。
(それでも私は変えたかったのだよ……)
老婆は震える手を男に向かって伸ばした。血濡れた己の手は弱々しく震え、途中で地面に落ちた。それでも衝動のままに老婆は絞り出すようにして言った。
「……私は……今生で、礎の子に会ったよ……」
男の影が揺らぐ。視界は深い闇に閉ざされつつあった。言葉とともに命が流れ出すように、全身から力が抜けていく。
「……あのお方の魂は……砕けてはいない……転生を果たしておられる……」
「それはまことか!? あのお方は、生きておられるのか!!」
男の声はまるで遠雷のように、高く遠く聞こえた。急速に冷える体がまるで奈落に落ち込むように感じられる。なおも問う男の声音に、老婆は答えることはしなかった。答えることなど最早出来はしなかった。
男がそっと老婆の体を地面に横たえる。死にゆく姿を見つめ、握り締める己の剣に目を落とした。
と、その時背後で響いた足音に、男は振り返る。その視線の先、一人の少年が見慣れぬ男の姿を凝視していた。男の足元に横たわる小さな姿に、少年の顔が驚きに染まった。男は身を翻し庭園を駆け抜けると、石壁の上へと一動作で体を持ち上げる。そのまま、男の姿は壁の向こうに消えた。
泉は呆然と立ち尽くし、はっと我にかえった。
倒れ伏した人物に駆け寄る。その胸に突き立った短剣と、大きく広がる血の色に、少年は息を呑む。
「ばあちゃん! ばあちゃん、しっかりしろよ!」
叫び、傍らに座り込む。老師に頼まれて庭園にいるという老婆のもとに薬湯を持って来た。その小さな壺を、あたふたと地面に置く。医術者見習いとしてまださほど修練を積んでいない泉にさえ、その傷が最早手の施しようもないものであるとわかった。老婆の薄い唇が細く開いた。そこからひゅうひゅうと音が漏れる。泉は咄嗟に口元に耳を近付けた。
「……に……伝えて……おくれ……」
喘鳴に紛れ、か細く紡がれる末期の言葉に泉は耳を澄ました。不明瞭な言葉に、泉は顔を歪めながら頷く。
「ばあちゃん、誰に伝えればいいんだよ。ばあちゃん!」
さらに老婆の口元に耳を寄せて、泉はその最期の言葉を聞いた。視界の端で一瞬大きく老婆が目を見開いた。そして、抜け落ちるように、光が消えた。泉はのろのろと身を起こす。衝撃に弛緩したまま、大地に横たわる骸を見つめた。上半身を紅に染めて、だが老婆の顔は穏やかに、最早何も映さぬ瞳は静かに深い洞を思わせた。
泉の知らせで老婆の遺骸と対面した老師は、一つ大きく息を吐いた。何故、死んだ――声にならない呟きは、老師の胸の内に落ちた。老婆の語った物語が、果たして真実であるか否か彼にはわからなかったが、やがて何時の時代にか、何処かで彼女が再び生まれ変わることがあるならば、せめて小さな幸せを得ることのかなう人生であるように、と願わずにはいられなかった。
この日多加羅で一人の仙寿が命を絶ったという、それは彼女が残した言葉とともに密やかに東の地へと伝えられた。だが、それを知る者は多加羅にはいなかった。
そしてその同じ日、一人の青年が多加羅の北西、沙羅久の地を踏んだ。三年の時を隔てて故郷へと戻った聡達である。青年は己が生まれ育った街を見下ろし小さく笑んだ。箱を連ねたような沙羅久の街は、まどろむかのようである。その上を悠々と雲が渡る。嘗ては退屈と倦怠しか感じなかったそこを目指し、青年は進んだ。
冬はいまだ深く、だが新たな季節の兆しを感じさせる風が、青年の髪を緩やかに揺らしていた。
今回で第三章は終わり、次から第四章「冴え疾剣」がはじまります。今回、よほど消そうかと思ったエピソードですが、結局そのまま更新しました。第二部の本筋とは全く関係のない話で、多分第四部か第五部に関わってくる内容なので。とはいえ、まだ第三部さえ書けていないという体たらく。「仙寿」は第一部からちょこちょこ言葉だけなら出てきていますが。
因みに第三章の一話目、鬼逆(その時点では名前は出ていませんが)と話していた「女を殺しに行く男」が今回老婆と話していた男です。まあ、第三章の一話目を変えなかった時点で、この展開も変えようがなかったのですが。ついでに言うと、第三章の「螺状の絆」は、鬼逆と灰、そして老婆と男の関係をイメージしてつけた標題です。
第四章ではこれまでの展開の裏側を全て明らかにしていきます。書き手ですらもどかしい展開、読んでいただいている皆様には本当に感謝しています。これからもどうかよろしくお願いいたします!