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須樹は焦燥に捕われていた。宇麗とその部下数名とともに馬を駆り、騒動が起きたという大通りから次第に範囲を広げて灰の姿を捜している。しかし灰はおろか男達の姿さえ見当たらなかった。
「くそ! 影も形もないとはどういうことだ」
「路地に潜んでいるのかもしれん。それなら厄介だぞ」
横で交わされる会話を聞きながら、須樹は道を行き交う人々を見渡した。ただならぬ彼らの様子に、周囲は胡乱な視線を向ける。市場の賑わいが、騒々しい雑音となって彼らを押し包む。明るいばかりの売り手の掛け声が現実と遊離して感じられた。須樹には灰が耶來の男に命を狙われているという事実自体がまるで悪い夢のように思える。宇麗は須樹の顔を見やると言った。
「灰というのはお前の仲間だと言っていたな。若衆なのか?」
「ああ」
「何故、蛇に狙われたのか心当たりはあるか」
須樹はちらりと宇麗を振り返った。
「わからん」
苦々しいその声音に宇麗はそうか、と返す。須樹は道すがら大まかにことの顛末を聞いていた。若衆が蛇と呼ばれる男から紺を救ったこと、そして彼女を匿っていたこと。では、何故蛇は灰を狙ったのか。紺を助けたのが若衆だという、それを蛇が知ったのか――だがそうであれば、紺が無事だったことは解せぬ。宇麗もまたそれを疑問に思っているのだろう。
(灰、どこにいる。まさか蛇に……)
如何に灰が手練であろうとも複数の耶來の男を相手にして無事に済む筈がない。
不吉な思いを須樹は振り払う。
「あいつがどこにいるか教えてやろうか」
不意に響いた低い声に、須樹は振り返った。見ると、何時の間にか一人の男が佇んでいた。漫ろ歩く人々の中で、その姿はまるで浮き上がるかのようだった。須樹は目を瞠る。彼は、相手が誰か知っていた。一年半程前に対面したことがある。不穏な気配は以前見た時と変わらず、だが張り詰めた暗さは凄味を増していた。
「鬼逆……」
須樹は男の名を呟く。
「鬼逆だと!?」
宇麗の声には驚きがあった。警戒もあらわに己を見つめる相手を前に、鬼逆の目が細められる。
「確か、お前は須樹だったな。灰の居場所を知りたいか?」
「どういうことだ。灰がどこにいるのか知っているのか!?」
「あいつは蛇に捕われて笠盛の北の外れにある廃屋にいる」
何故、相手がそのようなことを知っているのか、須樹は疑問に思う前に問うていた。
「殺されてはいないんだな?」
「ああ。蛇はあいつを殺しはしない。奴が灰を狙ったのは、俺の弟だと思ったからさ。大方灰を楯に、俺に脅しをかけようって腹だろう」
「何故そのような……」
言いかけて須樹はぎり、と奥歯を噛みしめた。
「知っていたのか? 蛇が灰を狙っていることをわかっていて、蛇の好きにさせたのか。灰が危険だということを知っていて、何故放っておいた!」
「早く行った方がよくはないか? 今頃蛇は笠盛から逃げ出す算段をしているかもしれんぞ」
須樹はわき起こる怒りを抑え鬼逆から顔を背ける。宇麗を振り返った。
「街の北に廃屋はあるのか?」
「おそらく蛇が取引に指定した場所と同じだ。だが、おかしいな……見張りをつけていたから妙な動きがあればすぐに知らせが来た筈だ」
最後は呟くように言うと、宇麗は周囲の男達を見回した。
「こいつを連れて行ってやりな。あたしもすぐに向かう。蛇がいても先走って手を出すんじゃないよ。一人は他の者達に今の情報を伝えろ」
宇麗の言葉に部下達が頷く。一散に駆けて行く彼らの姿を見送り、宇麗は再び男を見やった。漆黒の衣、射干玉の髪、まるで全身に闇を纏うようでありながら、男は目を惹き付ける。危うい魅力だ。宇麗とて鬼逆の名は知っている。耶來の主――鬼逆がそのように言われるようになったのは、ここ一年程、ごく最近のことだ。噂以上に底の知れない危険な相手に思えた。
「お前が鬼逆か。何故、この笠盛にいる」
「何やら面白そうなことが起こっているから見物に来た」
「ふざけるんじゃないよ。何が目的だ。蛇を追って来たのかい?」
「確かに奴には制裁が必要だ。だが俺は卸屋の縄張りを荒らす程身の程知らずでもない」
鬼逆は薄い笑いを張り付けたまま答えた。食えぬ返答である。それに宇麗は苛立ちを感じた。蛇は狼藉を働き、人の心に疑念をまき、仲間を殺した。口振りから鬼逆は蛇の所業を掴んでいたことが窺える。
(やはり、こいつがあの夜の影か……)
宇麗は内心に呟いた。蛇の存在や須樹が若衆であることを伝えた存在、それが鬼逆だったのではないか。一部の隙もなかったあの影が、この男であれば納得がいく。
「あたし達に蛇の存在や須樹のことを伝えたのはお前か」
だが問われた方は意想外の反応を返した。僅かに目を瞠ると、へえ、と呟く。まるで面白がるように言った。
「そいつは何とも興味深い話だな。生憎とそれは俺ではないぞ。俺はただこの街で起こることを見ていただけさ」
「な……お前以外に誰がいるというのだ!」
「さて、考えることだな」
一言残し、男は踵を返した。遠ざかるその背を咄嗟に追いそうになり、宇麗は舌打ちをする。今は鬼逆よりも蛇が先だ。北の廃屋、そこに真実蛇がいるのか、まずは確かめねばならぬ。今まで巧妙に姿を隠していた相手にしては、己が指定した取引場所に潜むのはあまりに無防備にも思えたが、そもそも十七の刻の取引を前に街で騒動を起こすこと自体が不自然だった。
(一体何が起こっているんだ)
媼の屋敷から強引に須樹を奪おうとしたことといい、相手も追い詰められているのかもしれぬ。だが、当初はむしろ宇麗達の方が蛇の後手に回っていのだ。一体蛇は何に追い詰められているというのか。
宇麗は須樹達の後を追って街の北を目指した。
須樹達が街の外れにある廃屋に辿り着いた時、そこには人影一つとてなかった。打ち捨てられた建物には、だが確かに人がいた痕跡があった。そして柱には新しい血痕が僅かに残っていた。
須樹達から遅れて現場に到着した宇麗は部下から報告を受ける。離れた家屋から廃屋を見張っていた宇麗の部下は、皆身動き出来ぬよう縛られ、猿ぐつわをかまされた状態で発見された。縄を解かれた彼らの言葉によれば、廃屋を見張っていた昨夜、突然に何者かの襲撃を受けたという。あて身をくらわされ、気付けば縛られていた、と。
報告がないのも尤もだったのだ。それを知り、宇麗は臍をかんだ。決して油断があったわけではない。だが掴んだと思った蛇の影を、またもむざむざと逃してしまったのだ。相手の方が上手だったということか。だが、宇麗がその時感じたのはちりちりと神経を焙られるような、違和感だった。何かがおかしい。これは全て蛇がなしたことなのか。狡猾に須樹と紺の交換を申し出た相手と、街中で騒動を起こす迂闊さとが結び付かぬ。そして見張りの存在に気付き拘束したのは誰か。蛇だとは思えなかった。これまでの蛇の所業を思えば、見張り達は命を奪われていてもおかしくはない。
そしてもう一つ気になるのが鬼逆の言葉だ。あの夜、宇麗と黄に情報を渡したのは一体何者だったのか。耶來ではなく、無論卸屋でもない、いわば新たな存在である。
部下達に指示を出し、宇麗は廃屋を見やった。その前に立ち尽くす須樹の背中があった。近付き隣りに立つ。青褪めた須樹の顔は何を思うのか、彼の内心をあらわすように強く握りしめられた拳が僅かに震えていた。
宇麗は須樹の視線を追う。廃屋の前は土が晒されていた。昨日の雪が溶けてぬかるんでいるそこに、数頭分の馬の蹄と馬車の車輪らしき跡が残っている。宇麗ははっとする。まだ新しい。それは茫漠と風が吹き渡る草原の中へと消えていた。
「灰は蛇に連れて行かれた」
宇麗を見ることもなくぽつりと須樹は言った。
「俺は灰を追う」
「何を言っている。どちらの方角に行ったかもわからないだろう。ここらは草地が多い。蹄の跡を追うのも容易くはないよ」
「何もしないでいるよりはましだ」
須樹の強い口調に、宇麗は束の間黙りこんだ。それでも無謀だと反論しかけて宇麗は言葉を呑み込んだ。目の前に広がる草原の、その只中に一人の男が立っていた。背が高い。暗色の外套を纏い、まるで風と同化したかのような密やかさでこちらを見ていた。奇妙なまでに気配を感じさせぬその存在に、宇麗は目を眇めた。
須樹もまた驚きとともに男を見つめる。考えるより先に男に向かって踏み出していた。背後で何事か言った宇麗の言葉も耳に入ってはいなかった。男は須樹が歩み寄るのを待ち構えるかのように微動だにしない。近付く程にあらわとなる相貌――弦である。
須樹の混乱を男はわかっているだろう。問われる前に、弦が言った。
「須樹殿、私はこれから灰様を追います」
抑揚の欠けた低い男の声に、須樹は目を瞠る。
「灰が……どうなったか知っているんですか? あいつが何処にいるかも……」
「はい。行先は明らかです。蛇の後を追えば、灰様のもとに辿り着きます」
須樹は思わず弦に詰め寄った。
「つまり、蛇の動きを掴んでいた、ということですか?」
「はい」
「それなら何故……! 貴方なら灰を救うことも出来たでしょう。何故、むざむざ連れ去られるようなことに……!」
須樹の叫びにも、弦の表情は変わらなかった。
「灰様がそのように望まれたからです」
須樹は束の間返す言葉を失った。
「どういう……ことです。灰が望んだなどと……」
「須樹殿、私とともに灰様を追うならば、全てをお話し致しましょう」
揺るぎなく立つ弦の姿を、須樹は睨みつける。全てを――灰が何をしていたのか、それを男は話すと言う。そもそも、須樹は何故己が解放されたのか、それすらもいまだ理解出来ていない。捕われていた間でさえ灰を信じて待て、という男の言葉に従っていたに過ぎない。つまるところ己は何もしてはいないのだ、と須樹は思う。では、彼を自由にしたのは誰なのか。それが灰に違いないだろうことを須樹は確信していた。
もとより、須樹に迷いは欠片もなかった。
「わかりました。俺もともに連れて行ってください」
須樹は馬に跨り、弦の後に続く。振り返れば既に廃屋は小さく、そこにいるであろう宇麗の姿は見えなかった。
――男とともに灰を追う。若衆の皆には必ず戻るとだけ伝えてくれ。
そう告げた須樹に宇麗は胡乱な眼差しを向けた。無理もない、と思う。宇麗は弦の素性を知らぬ。見知らぬ男が突然にあらわれ、その者が蛇の行先を知っていると言われれば、不思議に思う以上に不審に思うだろう。
半ば強引に宇麗を押し切り、須樹は彼女に背を向けた。
目の前を行く弦は急ぐ様子でもなかった。弦ははじめから須樹の分の馬を用意していたらしい。男が一体何を思うのか須樹にはわからない。弦は終始無言のままである。笠盛の街が遠ざかり見えなくなった頃、漸く弦が須樹を振り返った。それに須樹は問う。
「どちらの方角に蛇が向かったかわかっているのですか?」
「いえ、私は知りません」
弦の答えに須樹は唖然とした。あれ程揺るぎなく行先がわかっていると言った相手の言葉とは思えぬ。
「灰様のもとへと案内するのは私ではありません」
その言葉が終わるか終らぬか、というその時、大気がどう、と鳴った。颶風にも似た耳を聾するその音に須樹は思わず周囲を見回す。だが、枯草一本揺れるわけでもない。無風である。
訝しく再び弦を見やった須樹は目を見開いた。
弦の横に陽炎のように揺らめくものがあった。まるでそこだけ空気がひずんでいるかのように、渦巻きざわめいている。それが唐突に一つの像を結んだ。音も無く、獣がそこに姿をあらわした。牛程もあろうかという大きさの引き締まった漆黒の体躯、尖った耳、炯と光る切れ長の眼、そして酷薄ささえ感じさせる鋭く長い牙――獣はゆるりと視線を巡らせると須樹を見た。銀灰のそれに射竦められて、須樹の体が強張る。
言葉もなく獣に見入る須樹に、弦が告げた。
「この獣が灰様への道標となります」
獣はふいと須樹から顔を背けると、まるでにおいを嗅ぐように鼻面を上空に向けた。不意にぱたりと尾を一振りすると北西の方角に頭を向けた。
「須樹殿、どうなさる」
いまだ衝撃に捕われたまま獣を凝視していた須樹は、その言葉に我に返った。男はただ静かに須樹を見ていた。どうするのか、このまま灰を追うのか。それとも引き返すのか。これを見たうえでもまだともに来るかと、まるで試すかのような弦の言葉である。
真実、試しているのだ。須樹は悟る。問う声音は、内心とは裏腹にひどく落ち着いて響いた。
「この獣は、一体何ですか?」
「灰様と深い絆で結ばれた存在とでも申し上げましょうか。灰様はこの獣と長い年月を過ごして来られた」
深い絆――須樹は再び獣を見やる。
いまだに見たものが信じられぬ。全てがあり得ぬ光景だった。何もない空間から、何故あのような獣があらわれたのか。獣はおそらく牙蒙、獰猛さと狡猾さで知られる猛獣である。しかし不思議なことに、獣を前にしても馬達が驚き怯える様子はなかった。目でしきりに獣の姿を追っていることから、見えていないわけでもなかろう。そのこと自体が、獣が尋常でない存在であることの証のようにも思える。すっくりと草原に立つ獣の姿は、優美とも言える曲線を描いてどこか神秘的ですらあった。
獣が唸るような声を発した。僅かに弦を見て前足で地面を引っ掻いている。その姿にまるで急かされているような心地を須樹は覚えた。突然に宙からわき出たところを見ていなければ、それが不可思議な存在だとは到底思えぬ程に自然な仕草である。
須樹は弦に言った。
「行きます」
その言葉が合図だったように、獣が駆け出した。しなやかに躍動するその姿を弦が追う。その後に続きながら須樹は前方に目を凝らした。
あの獣が灰の居場所を知っているという。それならばただ信じて走るだけだ。だが、己が一体どこに向かっているのか、その先に広がる光景がどのようなものであるのか、須樹には見当もつかなかった。驚きはいまだ消えず、衝撃は奇妙な程に落ち着いた覚悟に変わっていた。
例えどのような光景が待ち受けていようとも、そこから決して目を背けぬと須樹は心に決める。それがどのようなものであろうとも。
宇麗に捕われて数日が経った時に暗闇の中で明瞭に感じた灰の気配を、今再び須樹は思い出していた。気のせいだとばかり思っていたが、本当にそうだったのか。灰には測り知れぬところがある。灰の見ている世界が己の見ているものとは全く違うのではないかと、そう思ったことも一度ならずあった。
(灰……)
呼びかけた相手は今何を思っているだろうか。馬の蹄が大地を揺るがし、疾駆する獣の姿は一陣の風に似ていた。