83
須樹はぼんやりと寝台に座り込んでいた。目の前には殆ど手をつけぬままの昼飯が置かれている。既に冷え切ったそれを見つめ、須樹は溜息をついた。ここに捕われてから己の感情を抑えることには大分慣れたつもりだったが、気付けば不安に捕われていた。
動揺している、と思う。原因はわかっていた。昨日聞いた宇麗の言葉のせいだった。
――蛇を知っているか?
聞いたこともない名前だった。耶來の一員であるその男が、須樹のことを己の仲間だと宇麗に伝えたと言う。咄嗟には信じかねる内容である。反論することも出来たが、須樹は敢えて口を閉ざした。
左腕に蛇の刺青を彫り込んだ男――おそらく蛇というのは真実の名ではないのだろう。何が起こっているのかまるでわからぬ。それが須樹にはもどかしかった。灰の言葉を信じればこそ耐えることも出来たが、今はそれも揺らいでいる。不甲斐無さと怒りを抑えかねて須樹は俯いた。
その時扉が唐突に開かれた。見ると、張り詰めた表情の宇麗が立っていた。また蛇とやらのことについて問い質しに来たのか。思わず須樹は身構える。宇麗は言った。
「お前を解放する」
須樹の言葉を封じるように、宇麗は言い募った。
「さほど時間はない。余計なことを言わずに黙ってついて来い」
有無を言わさぬ口調である。半信半疑のまま須樹は宇麗の後に続いて部屋を出た。見張りの男もまた驚愕の表情を浮かべ、二人の姿を目で追っている。
足早に歩く宇麗は、須樹を振り返ろうとはしなかった。経験上、このような態度の宇麗に何を問うたところで答えはないと知っている須樹は、無言でその後を追う。宇麗が立ち止まったのは、一つの部屋の前だった。以前、媼と対面させられたのと同じ部屋であることに須樹は気付いた。
扉を開いた宇麗は、須樹を振り返った。
「入れ」
言われるままに部屋に踏み込み、そこで須樹は立ち竦んだ。
驚きは麻痺に似ていた。部屋の中には複数の人影があった。振り返った若者達の顔が喜びに染まる。それを、凍りついたように動きを止めたまま須樹は見ていた。何故、ここに彼らがいるのだ。夢ではないのかと思う。何故、若衆が媼の屋敷にいるのか。
「副頭!」
「須樹さん!」
口々に叫びながら若者達が走り寄って来る。存在を確かめるように少々手荒に触れて来る彼らを、須樹は呆然と見回した。
「……何故……」
「良かった! 無事だったんですね!」
「……何故ここにいるんだ」
「そりゃあ、須樹さんを取り戻すためですよ。本当に良かった」
良かった良かった、と口々に言う若衆を見回し、須樹は途方にくれる。視線を泳がせると、少し離れた場所に設啓が立っていた。腕を組み、何とも言い難い表情で須樹を見つめている。設啓の顔に浮かぶのは興奮であり、驚きのようだった。
「設啓、これは……どういうことだ」
「それには私がお答え致しましょう」
割って入った柔らかな声に、須樹は部屋にいるのが若衆だけではないことに気付いた。媼が微笑みを浮かべている。大柄な黄の姿もあった。
「彼ら若衆が、私のところを訪れたのです。そして貴方はただ巻き込まれただけで何も咎はない。若衆にかえしてほしいと、そのように言ったのですよ」
「そしてあたし達はその言葉を信じた、ということさ」
扉を閉めた宇麗が近付いて来る。
「その様子では若衆だということに間違いはないようだな」
なおも驚きに捕われたまま須樹は周囲の面々を改めて見回した。喜びを満面に浮かべながら、一人などは涙を浮かべている。次第に須樹の体から力が抜ける。喜びよりも先に、戸惑いがあった。
「……何故、俺がここにいるとわかったんだ?」
「そりゃあ」
「まあ、色々あってな」
一人の若衆の言葉を遮って設啓が須樹に近付いて来た。
「無事で安心したぞ」
「……すまん」
「それは俺じゃなく、ここに来れなかった他の奴に言ってやるんだな」
設啓は言うと、媼を振り返った。
「媼、我らの言葉を信じていただきありがとうございます」
「いいえ、いいのよ。貴方達の言葉が信じるに値するものだった、それだけのことよ」
でも、と媼は何気なく続けた。
「ご免なさいね、須樹さんにはもう少しここに留まっていただきたいの」
なおも喜びをあらわにしていた若衆の動きが止まる。須樹と設啓は思わず顔を見合わせた。
「それはどういうことでしょうか」
「そいつはあたしが説明するよ」
そう言った宇麗が須樹に向き直った。
「須樹、あたし達に力を貸してほしい」
執務室には重い沈黙が落ちていた。
「須樹を囮にして蛇を捕える……つまり、そういうことですか?」
言ったのは設啓だった。その言葉に、若衆の前に立った宇麗が頷く。
「ああ、そうだ。蛇はこの笠盛の街で巧妙に隠れてきた。奴を捕えるのは容易じゃない。この機会を逃したらおそらく次の機会はないだろう」
「だからと言って、須樹さんを餌にするようなことを……」
憤然と言った若衆を宇麗が見やった。
「万が一にも危険に晒されぬよう、我らが須樹を守ることを約束する」
「でも取引が耶來の策謀ならば、どのような罠が待っているかわかりません。蛇に気付かれぬようにするならば少人数で行くのでしょう? 守れると言いきれますか?」
「確かに、耶來は油断のならぬ相手だ。だがここは我らの縄張りだ。奴らの思うようにはさせん。表向きは少人数で行くが、既に十分な体勢を整えている」
不安の声に答えながらも、宇麗とて若衆の言わんとすることはわかっていた。何よりも漸く無事を確認した仲間をむざむざ危険に晒すようなことは承服しがたいのだろう。窓辺に立つ媼は口を挟む気配はなかった。何かを言いたそうな黄を横目で睨みつけ、宇麗は言った。
「取引は十七の刻、おそらくはそれで緩衝地帯の命運が決まる。蛇を捕えることがかなえば、一連の出来事が多加羅若衆ではなく奴の仕業であることも明らかにすることが出来るかもしれん。どうか、力を貸してくれ」
でも、と言いかけた若者が口を噤む。須樹が進み出ていた。宇麗を正面から見やる。
「わかった。引き受ける」
迷いなく力強い声だった。副頭、と呼びかける若衆を振り返り、須樹は言う。
「皆には迷惑をかけて悪い。この後に及んで勝手を言うことはわかっている。だが俺も蛇を捕えたいんだ。奴が何を企んでいるにせよ、これ以上好きにさせてはいけない。何よりも、この人達は若衆を信じてくれた。俺はそれに応えたいんだ」
低く言った須樹に若衆達が押し黙った。
「お前がそこまで言うならしょうがないな」
あっさりと言った設啓が宇麗に顔を振り向けた。
「ただし、現場には私達若衆も連れて行っていただきたい」
「ああ、わかった。……須樹、ありがとう」
宇麗の声は僅かに低かった。宇麗の顔に浮かぶ微笑みに須樹は目を瞬く。初めて見る柔らかな表情だった。だが、それもすぐに緊張に呑まれた。
「そうと決まれば、段取りを決めておきたい」
宇麗が言ったその時だった。突然廊下の向こうから複数の足音が近付いて来た。慌ただしいその響きに、何事かと一同が振り返る中、勢いよく扉が開かれた。取っ手にしがみつくようにして立つ少女の姿に、誰もが言葉を失った。紺である。その背後では、追いかけて来たのか、驚きを浮かべた警備の者達がいた。
紺、と宇麗が呟いた。それに肩で息をついていた紺が顔を上げる。顔を縁取る髪が乱れ、ほつれていた。
「お願い! 灰を助けて! 灰が……!」
聞き慣れぬ名に訝し気な表情を浮かべた宇麗とは裏腹に、若衆達の顔が強張る。少女に詰め寄るようにして扉へと向かって行った。
「灰様がどうしたんだ」
「蛇が……!」
言って紺は顔を歪める。若者達をかきわけて須樹は少女に近付く。彼には、少女が宇麗に捕われたばかりの頃対面した相手であることがわかった。様子が尋常ではない。
「一体何があったんだ」
設啓が問うた。紺は苦しい息の合間に言葉を押し出す。
「蛇が家に突然来たの。何人も男を連れて……それで、灰が絶対に部屋から出るなって言って……」
「それでどうしたんだ?」
「一人で部屋を出ていったの。私……蛇が何を言っているのかよく聞こえなかった。でも蛇は灰を狙ってるみたいで……灰は何とか家からは逃げ出せたみたいだった。蛇が後を追って行ったわ」
そんな、と誰かが呟く。須樹は己の問う声を、奇妙に遠く聞いていた。
「灰はその後どうなったんだ」
「わからないの! 私が家を出た時にはもう……。お願い! 灰を助けて! 灰が殺されちゃう!」
紺が叫んだ。
まるで凍える石床に沈み込むように、須樹は己の体温が冷えるのを感じていた。
「紺、その灰というのは誰だ。一体……」
「俺達の仲間だ」
宇麗の言葉を須樹は遮ると、振り返った。
「馬を借りることは出来るか?」
僅かに気押されたように、宇麗が頷いた。
「あ、ああ」
「灰を捜す」
言って廊下へと駆け出した須樹に若衆達が続いた。
「待て! 捜すと言っても、どこに逃げたかもわからんだろう!」
宇麗の声を背後に聞きながらも、須樹は足を止めなかった。
「おい、どうするつもりだ」
何時の間にか傍らを走っていた設啓が問う。そちらを見ることもなく須樹は答えた。
「手分けして街を片端から捜す。灰が簡単にやられるわけがない。必ず逃げのびている筈だ」
だが、相手は耶來だ。
内心の不安を須樹は抑え込む。何が起こっているのかわからぬ。だが、灰の命が危険に晒されている、それだけは確実なのだ。
「そこを左に曲がれ! 正面扉に続いている!」
背後から宇麗の声が響いた。どうやら若衆を追って来ているらしい。言葉の通りに曲がれば、正面玄関らしい扉が前方にあった。そちらに向かっていた須樹達は立ち止る。突然扉が開かれたのである。息せききって駆け込んできたのは一人の男だった。男は宇麗の姿を認めると大音声に叫んだ。
「御報告します! 街で騒動が起こり、耶來らしき者達の姿が確認されました!」
「どこだ」
間髪入れずに宇麗が鋭く問うた。
「中央市場で、何者かはわかりませんが一人の男を追っていたとのことです! その後は姿を見失いました」
「どちらに向かったのかもわからんのか!?」
「はい。路地に入って行ったのを見た者はいますが、その後は行方がわかりません」
くそ、と宇麗が毒づく。
「追われている男というのはどんな姿だったかわかるか?」
須樹は問うた。男は不審そうに須樹を見やりながらも答える。
「まだ年若い青年で、何やら異国の者のようだったと……」
「灰様……」
青褪めた若者の一人が呟く。須樹は扉の外へと駆け出した。その横を宇麗が追い越し、先導するように前を走って行く。その後に続きながら、須樹は絞り出すようにして言った。
「すまん、宇麗。蛇との取引の件、力を貸せない。俺は灰を捜す」
「気にするな。蛇がこれ程強引に動いたということは何かがあったのかもしれん。それに街で騒動を起こした者を放ってはおけないからね、ともに捜す」
厩舎の前には、既に馬が引き出されていた。宇麗と黄が跨り、いかにも手練らしく見える数人の男が続いた。
「いいかい! 街で騒動を起こしているのは蛇だ! 何としても捜し出し捕えるんだ!」
おう、と応える声が響く。宇麗は須樹に言った。
「あたし達は手分けして街を捜すが、その灰という奴の顔は知らない。お前達が別れてついて来てくれ」
「ああ」
頷いた須樹は若衆に別れて卸屋達とともに灰を捜すよう指示を出すと、手近な馬に跨った。
「お前はあたしと一緒に来な!」
言うなり拍車をかけて遠ざかる宇麗の後を、須樹は追った。
蛇達の隠れ家は、灰が捕われた場所からさほど離れてはいない街の外れにあった。乱暴に引きずられるようにして連れて来られたのは半ば崩れかけ、寒風が吹きこむ廃屋である。もとは白かっただろう壁は風雨に痛めつけられてくすんだ黄土色に染まり、天井から壁にかけて大きな蜘蛛の巣がわびしく揺れていた。
灰は廃屋の中央にある柱に後ろ手に縛られていた。こめかみを殴られた衝撃で、いまだ頭は重かったが、意識は清明になっていた。
蛇は短剣を弄びながら廃屋の外を窺っている。手下の男達は総勢十一名、荒んだ雰囲気を纏い、口数が少なかった。時間を持て余していたらしい一人が、ふらりと灰に近付くと顔を覗き込んできた。
「おい、手を出すんじゃねえ」
蛇が低く言う。
「手は出さねえよ。どうもこいつの顔に見覚えがあるような気がするんだよな」
「鬼逆の弟だってんならあいつに似てんだろうが」
「いや……そういうんじゃねえ」
なおも覗き込んで来る男の脂臭い息から灰は顔を背けた。その拍子に揺れた髪に、男が目を細める。
「ああ! 思い出したぜ! 歌姫だ! いただろう、銀の髪の」
「何だと」
蛇が灰に近付く。灰は間近に覗き込んできた蛇を睨みつけた。まじまじと灰の顔を見やった蛇が言った。
「確かに似てやがる。名はなんといったか……そうだ、紫弥だったな。なるほどなあ。何故多加羅若衆が鬼逆の弟なのかと思っていたが、お前はもともと來螺の一員だったってことだな」
「……何のことだ」
「お前の母親だよ。來螺の歌い手だっただろう」
低く言った蛇から灰は視線を逸らせた。それを阻むように、蛇が灰の頤を掴んで顔を己の方に向けさせる。灰の眼差しに、蛇はにやにやと笑いながら続けた。
「母親が紫弥だってのは間違いなさそうだな。こいつはおもしれえ。紫弥の息子が裏側に帰ってくるわけだ」
「何をわけのわからぬことを……」
「お前は知らねえのか。紫弥ははじめ裏側にいたんだよ。気の狂った母親と一緒にな。本当ならお前の母親はあのまま耶來に飼われる筈だった」
灰は胡乱に蛇を見やった。彼の母親は來螺の表、自警団に属していた筈である。灰の戸惑いに気付いたのか、蛇は下卑た声で続ける。
「それを、紫弥が十歳かそこらの時、美しさと歌の才能に目を付けた自警団が金を出して、裏側から買い取ったのさ。自警団には価値のある取引だったろうさ。何せ、後々は天上の歌姫と呼ばれて自警団に大金を落としたからな」
灰は我知らず目を瞠った。
「俺もまだ若かったが勿体ないことだと思ったぜ? お前の母親はそりゃあ美しかったからな。裏側に留まってりゃいい商品になっただろうよ」
なぶるような蛇の言葉を聞きながら、灰は一つの光景を思い出していた。
まだ彼が幼い時のことだった。小さな部屋の片隅、窓辺に立つ母親が空を見つめていた。波打ち流れる銀の髪が柔らかな光を纏い、時折窓からの風に揺れていた。伸ばされた背中が細く、晒された白い腕が力無く垂れていた。幼い彼の目には、母親がまるで泣いているように感じられた。慌てて下から見つめると、紫弥は泣いてはいなかった。瞳はただ空虚に乾いていた。
(自警団に金で買われた……)
蛇の言葉を反芻する。じわじわと、這いあがるように胸の内に込み上げるものがあった。それにまかせて灰は低く呟く。
「はなせ……」
「ああ?」
「その手をはなせと言っている」
灰の鋭い眼差しに、蛇が笑みを消した。頤を掴んでいた手を俄かに振り上げると、平手で灰の頬を張り飛ばした。
「くそ生意気ながきだ。強がっていられるのも今のうちだ」
苛立たしげに吐き捨てると蛇は灰から離れて行った。その背を睨みつけ、灰は顔を伏せる。
――運命に従容と従うも、昂然と抗うも己次第――
そう言った母親が、真実何を思っていたのか、今でも灰にはわからない。來螺で芸能家として生きていた母親の姿は華やかだったが、時折見せる表情の虚ろさを灰は知っていた。天上の歌声と評されながら、母親が普段は滅多に歌わぬことにも気付いていた。何時だったか、歌うことが辛いのか――そう問うた少年に、母親は哀しく笑んだだけだった。
灰は歯を食いしばった。じくじくと傷が痛んでいた。その痛みに集中することで、胸の奥に生じたもの――吐き気すら伴ううねりから意識を逸らす。
と、その時、意識の網に馴染み深い気配がかかった。灰は視線を上げる。その気配、影として己に仕える男が纏う空気に、灰はふと眉を顰めた。冷たく、危うささえ孕んで、それは容赦のない殺意となって蛇に向けられている。
(駄目だ、手を出すな)
内心に思う。決してここで手を出してはならない。灰の思惑を知っている弦であれば、何も言わずともここで手を出すことの愚を知っている筈だ。やがて、弦の気配は吹きすさぶ風に紛れるようにして消えた。
いまだ胸中に渦巻く激しい感情を、灰は抑え込む。周囲の男達は、最早抵抗することもかなわぬ灰の存在に、注意を向けてはいなかった。灰は強く瞳を閉じた。ここで失敗するわけにはいかない。時間はさほど残っていない。それが灰にはわかっていた。
その時、唐突に廃屋の扉が開いた。灰は顔を上げる。男が一人立っていた。
「その若者は何だ」
黒一色を纏う男の第一声がそれだった。蛇は弄んでいた短剣を素早く仕舞うとぼそりと言った。
「始末屋、てめえには関係ねえ」
「何を馬鹿な。勝手なことはするなとあれ程に言っておいただろう!」
「依頼に関してはてめえに従うが、それ以外は御免だ! こいつは俺達の獲物だ。口を出される筋合いはねえ!」
言い張った蛇に、相手の男――始末屋が向けたのは軽蔑と怒りが入り交じったような声音だった。
「口を出すなとはよく言ったものだ。その青年が依頼と無関係だと言うならば、この状況はどういうことだ! 笠盛の卸屋どもが大挙してこの廃屋を目指しているぞ!」
「何だと!」
蛇が壁へと駆け寄る。一部大きく崩れた個所から外を覗いた。
「俺達の動きはあいつらには知られてねえ筈だ!」
「馬鹿なことを。あれだけの騒ぎを起こして本気でそう思っているのか! もう間もなく連中はここに到着するぞ」
「何故卸屋どもにこの隠れ家がばれるんだ!」
始末屋は何かを堪えるように僅かに黙り込んだ。不意に冷たさを増した相手の気配に、蛇が引き攣った表情を浮かべる。
「隣りの倉庫に念のため馬車と馬を準備している。まずはそれで笠盛を離れろ」
「お……おう。てめえはどうするんだよ」
「私は後からお前達を追う。捕まるなよ」
始末屋の言葉に蛇が頷く。浮足立ち固唾を呑んで二人の遣り取りを聞いていた男達は、僅かに落ち着きを取り戻し、ばらばらと廃屋の外へと向かった。蛇は数人の男達とともに灰に近付くと柱に縛りつけていた縄を短剣で切る。
「おい、抵抗するんじゃねえぞ。逃げようとすれば容赦しねえ」
灰は扉へと引き立てられる。乱暴に小突かれよろめいた彼を、思わずといった体で始末屋が支えた。片腕一本で己を支えた相手を灰は見つめる。視線の交錯――まるで掠めるようにして向けられた灰の視線に、始末屋は微動だにしなかった。
廃屋の外に出ると、倉庫から飾り気のない馬車が引き出されていた。
「おい、逃げるったって、どこに行くんだ」
灰の腕を背後から掴んだ男が、馬の轡を握る蛇に問う。蛇は廃屋の戸口に佇む始末屋をちらりと見やると、低い声で言った。
「依頼主のもとだ。報酬を受け取ってこの依頼ともおさらばだ」
「こんな様で報酬を受け取ることが出来るのかよ」
「始末屋が追い付く前に依頼主と接触出来れば大丈夫だ」
「ああ、そうだろうよ」
吐き捨てるように言った手下を蛇は睨みつけた。