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最果てに天深く  作者: 高原 景
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82

「副頭」

 背後からの声に、設啓せっけいは振り返らなかった。彼が立つ窓辺からは、おうなの屋敷を包む木々がまるで森のように見える。その木々の間を、幾人もの警備の者達が歩いていた。屋敷を訪れてはじめに気付いたのが、そのただならぬ警戒の仕方である。

「副頭、媼は俺達の話を信じたのでしょうか」

 答えぬ彼に、堪えかねたように別の一人が言った。漸く設啓は振り返る。五人の若衆はいずれも不安の面持ちである。

「何時まで待たせるんでしょうか」

 設啓が全てを話し終えた後、彼らは媼と対面したのとは別の一室に連れて来られていた。ここで待て、という簡潔な言葉だけを残し、媼の側近らしい女性は去った。壮麗な客間といった趣の一室だったが、扉には鍵がかけられ、おそらく外には見張りが置かれているのだろう。若者達にしてみれば、落ち着かぬことこの上ない。

 設啓は腕を組み言った。

「どうだろうな。だが、少なくとも信じるに値する部分はあると思ったんじゃないか?」

 そうでなければ別室で待たせるようなことはせぬだろう。

 設啓自身は、相手の様子から感触は悪くないと考えていた。媼の表情は到底内心を読み取れるものではなかった。だが他の二人の反応から、紺という少女との出会い、その顛末を語った設啓の言葉が、彼らに与えた驚きが大きかったであろうことが窺えた。

 設啓は再び窓の外を見やった。それにしても、と内心に呟く。この展開は意外である。相手が彼らの話など歯牙にもかけぬ可能性の方が高いと彼は考えていたのである。下手をすれば対面すら許されぬのではないか――だが、媼達が若衆に向けたのは、不可解なまでの真剣さであり、まるでこちらを測るかのような鋭さだった。

 怪しい文が一つ、紺という少女との遭遇から得た情報も不確かで、ただ若衆としての信だけを武器にしての対面だった。少なくとも設啓は当初そう考えていた。

(どうやら違ったようだな)

 何かがあるのだ。少なくとも媼達にとっては、若衆の訪問は大きな意味を持つものだったに違いない。それが何故なのか、彼には窺い知れぬことだった。

(やはり全て計算のうちか……?)

 懐疑とともに思い浮かべた相手はかいである。彼はこの展開すらも見越していたのだろうか。

 媼の屋敷を訪れて、一刻程になろうかという頃合いだった。



 若者達を別室へと案内した宇麗うれいが執務室に戻ると、端然と座る媼と、落ち着きなく歩き回るおうの姿があった。宇麗の顔を見るなり、黄が唸るように言った。

「一体どういうことなんだ。こんがあいつらのところにいるなら、昨日の蛇の言葉は一体何だったんだ? 紺と蛇の手下を交換するというのは。話が通らんぞ」

「いいから、落ち着け」

 素気なく言うと、宇麗は媼の正面に腰を下ろした。黄もそれに倣い座ったものの、なおもどういうことだ、と呟いている。宇麗自身も設啓の話に衝撃を受けていた。蛇に連れ去られそうになった紺が、彼らの仲間に救われ匿われているという、それが一体何を意味しているのか。

「媼」

 呼びかけに、媼はつと顔を上げた。宇麗は言った。

「真実がどこにあるかあたしにはわかったような気がします」

「ええ!?」

 素っ頓狂な声を黄があげる。それを尻目に宇麗は言い募った。

「もしも若衆のもとに紺が保護されているならば、蛇は全くの虚偽をあたしに伝えたということです。仮に蛇の言を信じて取引の場所に行けばどうなっていたか……」

「蛇の狙いはあの須樹すぎという青年を手に入れること。おそらく蛇は取引の場所に赴いた卸屋おろしやを殺し、須樹だけを奪ったでしょうね」

 宇麗の後を媼の声が引き継いだ。それに宇麗は頷く。確信を込めて言った。

「はい。我らを謀って若衆副頭を手に入れ、蛇が何をしようとしていたか、考えられることは一つです」

「何だ、それは」

 黄の問いに宇麗はすぐには答えなかった。卓の上には設啓が広げた文が置いたままになっている。それを掴み宇麗は握り潰した。かすかな音が無機質に響く。

「……汚い手です! このような文を若衆に送り付け、媼への疑惑を植え付け、一方で偽りの取引をもちかけて我らのもとから若衆副頭を奪い取る。おそらく、蛇は須樹を殺すつもりだったんです。あたかも媼の仕業のように見せかけて……それを若衆が発見すればどうなるでしょう」

 黄は漸く宇麗が言わんとすることを察したのか、強張った表情を向けた。

「つまり、行方がわからなくなっている若衆副頭を殺し、その罪を媼になすりつけようとしていた、ということか!?」

「ああ、それしか考えられん。今回緩衝地帯でことを起こしている奴らの狙いは、評議会で緩衝地帯の権利を沙羅久しゃらくに渡すという決定を出させることに違いありません。もしも首謀者が蛇ならば、それを阻もうとしている媼は邪魔な存在でしょう」

 その媼が多加羅若衆を殺したとなればどうなる。結果は火を見るよりも明らかだ。

「若衆殺害などという嫌疑がかけられれば、媼の力は失墜します。そうなれば評議会を阻む者もいない」

 強い口調の宇麗に、黄は問う。

「じゃあ、鬼逆きさかの仕業だというのも全くの出鱈目なのか?」

「おそらくな。何よりも、紺は蛇に孤児院の庭で遭遇し連れ去られそうになったんだから、間違いなく孤児院を襲撃したのは蛇だ。この屋敷を襲ったのも蛇に違いないさ。侵入に失敗して、何とか須樹を奪おうとこのような取引を尤もらしく持ちかけたんだろう」

 黄に答えながら宇麗は我知らず拳を握り締めていた。爪が掌に食い込み、痛みが奔った。孤児院の地下で殺された者達の痛みはこれよりもはるかに凄まじいものだっただろう。いまだ鮮明に浮かぶ惨殺の図だった。

「だが、あいつらが若衆だという証もないぞ。それこそ若衆を名乗って須樹を手に入れようとしているのかもしれん。全てが蛇の手管かもしれんぞ」

「いえ、それはないわね」

 黄の疑問に答えたのは媼だった。

「彼は代々多加羅惣領家の街で卸屋をしている家系の者だと言っていたわね。そうであれば、彼は多加羅でも最も力ある卸屋の一族の出だということよ。彼らが若衆を騙っていたとしたら、この場でそのようなことは言わないのではないかしら」

「確かに、そうですねえ。媼の前で卸屋を騙るような馬鹿はおらんか……そのような嘘はすぐにばれるわな」

 黄は納得の声音である。

「それに宇麗、あなたはあの青年が耶來やらいには思えない、と言っていたわね」

「はい。これで全てに納得がいきます。あたし達が見張っていた男達のもとに須樹があらわれたのは、若衆の噂をまいていた男の後をつけてきたのでしょう。もとより何者かの謀略だという考えがあれば、男を見過ごしに出来なかったのに違いありません。その後口を閉ざしていたのは、多加羅若衆の副頭が緩衝地帯で密かに動いたことが明らかとなれば、多加羅と沙羅久の間に軋轢を生じさせることになりかねないと考えたせいでしょう」

 それに、と続く言葉は少なからず自嘲の響きがあった。

「あたし達のことも信じることが出来なかったんでしょうね」

「無理もないわね」

「媼」

 宇麗は媼を見つめた。

「須樹をあいつらのもとにかえしてやりましょう。そして、多加羅若衆が今回緩衝地帯で密かに動いたこと、これは決して明らかにすべきではないと思います」

「二所領の不干渉、その原則に目を瞑るべき、ということかしら」

「はい。今の状況で沙羅久がこのことを知れば、強引に緩衝地帯に手を伸ばして来る可能性があります。評議会や西の元締めの動きを考えれば、尚更公にすべきではありません」

 そう言いながらも、宇麗は己の考えの根底にあるのが、そのような理由だけではないと気付いていた。

 あの若者達は無謀だ。だが媼に正面から向かって来た彼らの表情には、例え咎を負おうとも仲間を救わんとする固い決心が浮かんでいた。文よりも媼を信じると言った彼らの言葉が、強く耳に残っていた。

「何を信じるか、私達も選ぶべき時のようね」

 まるで宇麗の思考を読み取ったかのように媼が言う。

「須樹を彼らのもとにかえしましょう。でも、彼には手伝ってもらわねばならないことがあるわね」

 一瞬目を瞠り、宇麗は頷いた。

「取引は十七の刻だったわね。蛇の動きは何かあるのかしら?」

「取引場所の廃屋には昨夜から見張りを付けていますが、まだ蛇があらわれたという報告は入っていません」

「まさか、この後に及んで蛇の取引に応じるってのか?」

「蛇はまだあたし達が紺の行方を掴んだことを知らない。取引に応じるふりをして油断させ、一気に奴らを捕える」

 宇麗の言葉に、なるほど、と黄が呟く。だが、それには須樹を取引の場に伴わねばならぬ。蛇が如何にして須樹が若衆であることを知ったかはわからぬが、蛇に警戒させぬためにも須樹の存在が必要だった。

「彼は、引き受けてくれるかしら?」

「信には信を返しましょう。そのうえで、彼らを説得します。おそらく、これは蛇を捕える最後の機会となります」

「貴女に任せるわ。まずは、彼を若衆に引き合わせてあげましょう」

 にこりと笑んで媼は言った。それに大きく頷くと宇麗と黄は足早に部屋を出て行く。その背中を見送り、媼は小さく笑った。

「面白いこと。多加羅若衆が本当にこちらを味方につけるなんて……」

 笑みを唇に乗せたまま、媼は視線を窓外に転じた。硝子にちらちらと舞う陽光の向こうに、澄んだ冬の大気が渦巻いている。

「でも、まだ見えないわね……」

 媼の呟きは密やかだった。まだ、見えぬ。静かに座したまま媼は思う。全ての渦の中心はまだ明らかにはなっていない。解かれぬ謎の形を見極めるように、媼の瞳は硬質な輝きを帯びていた。


 

 一足ごとに、上腕と脇腹の傷が痛んだ。既に衣は血で真赤に濡れている。痛みの脈拍が、鼓動と被る。どちらも命に関わる程の傷ではなかった。だが、手当をせずに放っておいてよい部類のものでもない。

 灰は後ろを振り返ることはしなかった。そのようなことをせずとも、蛇達が執拗に彼を追って来ていることはわかっていた。蛇が何時から灰に目をつけていたのかはわからないが、おそらく若衆の動向を監視していたのだろう、と灰は考える。若衆達が媼の屋敷に向かったその隙をつかれた、ということだ。

「逃げきれるとでも思っているのか!」

 いたぶるような蛇の声を背に聞き、灰は交差した街路を走り抜ける。

 逃げ切れるとは思っていない。このままではいずれ捕まる。傷のせいで走る速度が落ちているのが自分でもわかっていた。だが、逃げきる方法がないわけではない。

 灰が目指しているのは街の中でも最も大きな市場が立つ通りだった。それが前方に見えていた。露店を飾る異国の織物が鮮やかに、ざわめきは地を這うように感じられた。

 大通りは何時にも増して人通りが多かった。昨日の雪に外出を控えた人々が、まるでその分を取り戻そうとでもするように漫ろ歩いている。その人混みに灰は走り込んだ。周囲で驚きの声が上がる。次いで背後で響いた物音に、灰は眼差しを険しくした。怒号に入り交じって甲高い悲鳴が響く。何かがひっくりかえるような、派手な音がそれに続いた。

 人波の中にまで蛇達は追って来ているのだ。人の多い場所に逃げ込めば追って来ぬのではないか、そう思っていた灰は目論見が外れたことを知る。卸屋の厳しい監視のもとにある笠盛りゅうせいの街でこのような騒動を起こせばどうなるか、それが蛇にわからぬ筈がない。それでも灰を捕えようとしているということか。

 そうとわかれば迷うことはなかった。灰は突然の騒動に立ち竦む人々の間を駆け抜け、路地に飛び込んだ。振り返ると、蛇達を避けるためか通りの真中に道が開いていた。迫り来る相手、そのさらに向こうにある一つの姿に灰は息を呑む。人混みの中、まるで浮き上がるようにして見えるその顔が、灰の驚きを受け止めて笑みを象った。視線の交錯は一瞬のことだった。

 灰は前方に視線を戻すと、人気のない路地の奥へと速度を上げた。

 同じく路地へと踏み込んで来る蛇達の足音を聞きながら、笠盛の地図を脳裏に思い浮かべる。蛇達がどこまでも追って来るならば、万が一にも他の人に被害が出ぬよう、なるべく人気の無い道を選ぶ。おそらく既に卸屋達はこの騒ぎに気付いている筈だ。そうであれば、これは灰と蛇達だけの問題ではない。風体から耶來の者とわかれば、卸屋は蛇達を捕えようと迅速に動く筈だ。

 灰が目指したのは街の北だった。次第に蛇に間を詰められながら、それでも辛うじてまだ追いつかれていないのは灰の方に土地勘があるからだった。敢えて見通しのきかぬ路地を選び、分岐した細い道を駆け抜けて行く。

 再び大きな通りに踏み出した灰の目の前に、一際大きな建物が聳えていた。神殿である。多加羅のものほど壮麗ではなかったが、信仰の威を纏って冬日に厳めしい。広い道に人通りはなかった。

 閑散とした道を駆け抜け、灰は荒れ果てた屋敷の傍らで足を止めた。既に街の外れに近い。道の先に、冬枯れして琥珀に染まる草地が見えていた。風が吹き渡っている。周辺は空家ばかりなのか、寂々とした静けさがあった。肩で息をつきながら灰は振り返る。陽光を背に近付きつつある蛇の姿は、陰鬱な影を纏っているように見えた。

「……手こずらせやがって……」

 息を切らしながらの蛇の言葉には苦々しい響きがある。

「だが、ここまでだな」

 蛇が不気味な笑みを浮かべる。背後に続く男達の獰猛な視線に晒されながら、灰は真直ぐに蛇に向き合った。

「どこから俺が鬼逆の弟だという情報を仕入れた」

 恐れの欠片も見せぬ相手に、蛇の笑みが消える。忌々しげに目を細めて吐き捨てた。

「質問出来る立場じゃねんだよ」

 蛇の言葉が終わらぬうちに、蛇の背後から走り出た一人の男が灰に掴みかかる。灰は痛みを堪えて最小限の動きで拳を避ける。勢いのままつんのめる相手の膝裏を蹴りつけると、相手は顔から地面に倒れ込んだ。それを見た蛇が呆れたように言った。

「まだそんな力があるのか。つくづく見かけによらねえなあ。だが、ここまでだぜ」

 背後で濁った怒声が響いた。はっと振り向いた時には遅かった。倒れていた筈の男が、何時の間にか迫っていた。手には鞘から抜かぬままの短剣が握られている。こめかみに衝撃が弾け、灰は地面に倒れ込んだ。間髪入れず腹に痛烈な蹴りが入れられる。執拗に二度、三度と蹴りつける相手を、蛇の声音が止めた。

「それぐらいにしておけ」

 不承不承といった体で男が灰から離れる。灰は薄目を開けた。血の生温かい感触が頬を伝っていく。

 立たせろと言った蛇の声が不鮮明に歪む。無理矢理に両脇から腕を取られて引きずり起こされる。乱暴に髪を掴まれて顔を上げさせられた灰は、間近から覗き込む蛇を見やった。殴られた衝撃で、いまだに視界が揺れていた。

「こいつがいりゃあ、鬼逆は俺達の思うままだ」

 周囲で響く笑い声に、それは違う、と灰はぼんやり考える。群衆の中に佇む鬼逆の顔、一瞬交錯した相手の眼差しを思い出していた。その顔を彩った笑みは、何を告げていたのか――

 ――お前の策謀に、俺も乗らせてもらう――

 そう言った時も男は笑っていた。

「隠れ家に連れて行け」

 蛇の声が遠く響いた。

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