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灰は窓辺に立つと家の前の路地を見下ろした。細い家壁の隙間から陽光が注ぎ、刷毛で真直ぐに刷いたように道を白々と照らし出している。昨夜積もった雪は既に大方が溶け、影に僅かに残るだけだった。
設啓と五人の若衆が媼の屋敷に赴いて既に一刻程が過ぎていた。一人家に留まるべき立場であることはわかっていても、落ち着かぬ心地は消えなかった。全てがうまく運ぶのか、それを見届けることが出来ぬのが心許ない。彼らを信用せぬわけではなかったが、不安はつきなかった。
その時、灰の物思いは軽い音に遮られた。扉を叩く音である。次いで、細く扉が開かれ、隙間から紺が顔をのぞかせた。
「お話ししたいんだけど、いい?」
「ああ」
灰は微笑むと紺を招じ入れた。
「この部屋も暗いのね。あっちの部屋も全然陽の光が射さないのよ」
紺は快活に言うとぐるりと部屋を見回し、寝台に腰をおろした。そのまま何かを考えるように俯く。
「今日は、他のみんなはいないのね」
「用事があって……」
ふと灰は言葉を切ると、紺に向き直った。
「媼のところに行っているんだ」
「え?」
僅かに紺の声が上擦る。
「まさか私のことで?」
「それもあるけど、それだけじゃない」
「私……孤児院には帰らないって言ったのに……」
「ここから追い出そうとしているわけじゃない。でも、孤児院の皆は紺がいなくなってきっと心配している。知らせておいた方がいい」
続く灰の声音は穏やかだった。
「本当に二度と孤児院に戻りたくないのか? 誰にも一言も告げずに別れてしまっていいのか?」
「……そんなことはないけど……」
ぽつりと紺は呟いた。寝台の上に足をあげると膝を抱え込む。背中を丸めるその姿を、灰は見つめた。
「私、この前の夜話したよね。どうやって蛇のところを逃げて来たか。あの後ね、考えたの。私、きっと何度あの時に戻っても、きっと何度でも逃げるんだって。どれだけ後悔しても、残される子達のことなんか見捨てて、一人だけ逃げるんだよ」
ゆらゆらと、紺は体を前後に揺する。汚い、とぽつりと呟いた。
「私、自分が汚いと思うの。でもいくらそう思っても、同じ結論に辿り着く。……灰ならどうする? あの時の私と同じになったら、どうする?」
問うて、紺は灰を見つめた。そこには己の過去を吐露した時に浮かんでいた虚ろさはなかった。
どうするだろう、と灰は思う。出た答えはごく正直なものだった。
「わからないな」
「嘘」
即座に紺が言う。
「嘘よ。灰ならきっと逃げないよ。自分のことなんか考えないで、みんなを助けるために火の中にだって飛び込むんだよ。そうでなかったら、きっと私のことを助けたりしない」
その響きに、灰は苦笑した。
「どうしたんだ? 怒っているように聞こえる」
「怒ってなんかないわ。ご免なさい、怒ってなんかいないの。ただ、どうしたらそんな風になれるんだろうって……そう思っていたの。そんな風に強くいられるんだろうって……」
灰は壁に凭れると、窓へと視線をやった。部屋の中まで陽光は届かずとも、仄かな明るさが薄い硝子を縁取る。それを見るともなしに見やりながら、ぽつりと言った。
「俺は強いわけじゃない。誰かを助けるとしたら、それは多分自分のためだ」
「自分のため? じゃあ、どうして私を助けたの? 自分のためなら何の得にもならないじゃない」
「あそこで紺を見捨てたら、俺はずっと後悔する。それが嫌だった。紺がどうなるかよりも、自分の気持ちのために助けただけだ」
「変なの。それでも助けてくれたわけじゃない。そんな風に自分がどう感じるか、いつもいつも先のことを考えて行動するの?」
「多分ね」
「ふうん。何だか、自分の感情を恐れてるみたいに聞こえる」
灰は答えなかった。その沈黙に、紺は灰を見やる。壁に凭れ僅かに首を傾げるようにして、灰は窓の方を見つめていた。長めの前髪が仄かな光を弾き、頤から頬にかけて、淡い影が不思議と澄んでいた。そのせいか、伏し目がちの横顔があまりに無防備に見え、紺は言葉を呑み込んだ。目が離せないまま、何故か見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちに陥る。
ふと灰が視線を振り向ける。藍の瞳に見据えられて、わけもなく紺は慌てた。
「ご免なさい。私、何だか余計なこと言っちゃって……」
灰は無言で紺に近寄ると口を閉ざすように動作で示した。目線が鋭い。それに紺は口を噤む。灰は何かを聞き取ろうとでもするかのように微動だにしない。身を強張らせていた紺は、次の瞬間灰の顔に過った表情にびくりとする。鋭く、凄味さえ感じさせるそれは一瞬だった。
「紺、決してこの部屋から出ないでくれ」
「え……?」
「絶対だ」
間近に覗きこまれて紺はつりこまれたように頷いた。それを見届け、灰は素早く部屋から出て行った。
扉を閉ざし、灰は廊下に佇む。不快な棘のように意識を刺激する存在、その気配をなおも追いながら、唇を噛みしめた。この気配には覚えがある。危うく気付かぬところだった。気付いたのは紺のお陰だったかもしれぬ。言われた言葉を受け止めかねて、逃げるように意識を外に逸らした、その時にこの家へと迫る複数の気配を掴んだのだ。気が散じていた。この段になって意識を緩めたていた己に、灰は気付く。わき起こる自身への怒りを灰は抑え込んだ。
(後だ。今は、考えるな)
まだ少し間がある。灰は扉を振り返ると手を翳した。注意深く周囲の空気に意識を伸ばし、部屋全体をすっぽりと包み込むように守りの網を練り上げる。特に念を入れて、扉と窓の部分には網そのものに侵入者を拒む弾力を与える。万全と思えるまで意識を凝らし、手を下ろす。既に複数の気配は玄関と裏の扉に迫っていた。
灰が階下へと向き直った時、鋭い音をたてて扉が破られた。階段は扉の正面にある。必然的に、家へと踏み込んできた者達の目には階段の上に立つ灰の姿が真先に捕えられていた。男が五人はいるだろうか。裏の人数も合わせればおそらく十人を超えるだろう、と灰は思う。何れも顔を目深に隠すように布を頭に巻き、しかと表情が掴めぬ。それでも先頭に立つ男が浮かべた笑みが、灰には見えた。
「銀の髪、藍の瞳……」
男が低く言った。声はまるでぞわぞわと広がるように、響いた。唇が吊り上がる。
「あいつだ! 捕えろ!」
男が叫んだ。男の手下が階段に殺到する。それに、灰は正面から向き合う。
最上段に達した先頭の一人が灰に掴みかかる。それを、灰は軽くかわした。二人目はまだ階段の途中である。駆けおりると、正面から向かって来る灰に虚を突かれたのか、相手の反応は僅かに遅れた。灰は勢いのまま姿勢を低めると男の腹に拳を叩きこむ。ぐえ、と奇妙な悲鳴が響いて男は下へと転がり落ちた。巻き込まれて一人が男の下敷きとなる。辛うじてそれを避けた一人が振り返った時には、灰は手摺を乗り越えて一階へと飛び降りていた。
危うげなく着地して振り返った灰に、男がにやりと笑った。
「さすが鬼逆の弟だ。一筋縄じゃいかねえなあ。おとなしく捕まってくれりゃあ痛い目を見ないってえのによ」
「鬼逆の弟などと、何のことだ」
内心の驚きを押し隠して灰は鋭く問うた。その間にも、間合いを詰められぬよう部屋をじりじりと移動する。
「しらばっくれるんじゃねえよ。こっちは確かな情報を掴んでんだからなあ」
「ふざけたことを。どこから仕入れたか知らぬが、出鱈目だ」
「お前を捕えりゃ出鱈目かどうかはっきりするさ。かわいそうになあ。助けてくれる若衆のお仲間はいない。さあ、どうする?」
言った男がどこに潜ませていたのか、両手に極細の短剣を握る。一瞬捲れあがった袖から、のたうつ刺青が見えた。灰はぽつりと呟く。
「蛇……」
「おっと、俺を知っているのかい? そいつは光栄だ」
油断なく相手を睨みつけながら、灰は扉へと向かう方法を探す。小さな部屋で押し包まれればろくな抵抗も出来ないだろう。
最初は紺がここにいることに気付かれたのかと思った灰だったが、どうやらそれは違うらしい。灰自身が狙いなのだ。紺のことは気付かれていないのかと僅かに安堵しながらも、何としてもこの家から男達を引き離さなければならないと灰は思う。万が一紺の存在に気付かれたらどうなるか――怪魅の力による守りも長くもつわけではない。
腹に拳を食らった一人がいまだ倒れているのを視界の端に捉え、灰は動いた。それに一人が向かって来る。繰り出された拳は僅かに上体を逸らせることで避け、隙の多い相手の腹を膝で蹴り上げる。男がもんどりうって倒れた。
それが合図だったように、一斉に男達が灰に向かって来た。
一人の腕を掻い潜り、振り返る余裕もなく勘だけで背後に肘を振り上げた。鈍い感触はどうやら相手の頬に当たったらしい。別の一人に背後から掴みかかられ、咄嗟に胸倉を掴むと勢いのまま背負い投げて床に叩き付ける。だん、と重い音が響き衝撃に床が揺れる。
扉の前に残るのは二人、それに向き合った時、裏手からばらばらと足音が響いて来た。裏の扉も破られたのだと察して、灰は即座に動いた。蛇の前にいた一人が懐から短剣を取り出す。
「殺すなよ!」
蛇の声に、男は無言で鞘をはらった。滑るように走ったその軌跡を見据え、突き出された腕に沿うようにして体を翻した。相手には、突然目の前から姿が消えたように思えただろう。瞬時に死角に移動した灰は、短剣を握る相手の手首を掴んで背後に回り込んだ。腕を背中で捻りあげられて男が苦痛の悲鳴をあげた。緩んだ手から短剣を奪い、その柄で相手の後頭部を殴る。
倒れ込んだ相手を見ることもせず、灰は蛇に向き直ると短剣を放った。正確に胸元を狙ったそれに、蛇が大きく横に跳ぶ。その隙に灰は扉へと一気に走り寄った。
「くそ! 逃がすか!」
今しも戸外に出ようとしていた灰は咄嗟に半身を大きく後ろにひいた。上腕に痛みが奔る。蛇が一気に間合いを詰めて、極細の短剣を繰り出していた。体勢を崩したところにさらに蛇が迫り来る。変幻自在の鋭い突き、それを避けるほどに再び家の中へと押し戻されそうになる。背後に倒れていた者達が起き上がる気配に、灰は唇をかんだ。
蛇の向こうに扉、右手と背後には十人に近い男達の姿がある。まるで絡みつくような蛇の動きに、体の自由が奪われていく。せめて間合いがあれば――
灰は大きく斜めに切り裂く蛇の腕と擦れ違うように左へと踏み出した。脇腹を熱い感触が過る。僅かに蛇との距離が広がり、灰は一瞬後ろに重心を移した。それを弾みに、一気に地面を蹴る。正面から低い体勢で短剣を繰り出してきた蛇の、その腕を飛び越え、ぎょっと動きを止めた相手の肩を背後に蹴りつけた。勢いのまま着地したその時、脇腹に鋭い痛みが響いた。
よろめきかけながらも、灰は開け放たれた扉の外へと飛び出す。顔をあげると、眩暈を覚える程光が眩しかった。強く頭を振ると、灰は走り出した。
「追え! 追えってんだ! 逃がすんじゃねえぞ!」
蛇の声が背後に響いた。
紺は部屋の隅に蹲っていた。怒号が響くたびに、全身が震えた。一際鋭く聞こえる声は忘れようもない。姿が見えずともわかる。
蛇だ。
階下での騒ぎは、実際にはごく短い間の出来事だったが、紺には果てしなく長い時間に思えた。
物音が聞こえなくなっても、紺は動くことが出来なかった。ぎゅっと閉じていた瞳を恐る恐る開くと、部屋の中は薄暗く、静かだった。紺は深く息を吸う。口元で握りしめた両の掌がじっとりと汗で濡れている。指先が白く、冷たかった。
蛇が来たのだ。でも、何故――?
(私を捜しに……?)
違う、と混乱しながらも紺は思った。漏れ聞こえた言葉は不明瞭だった。だが、蛇の狙いが紺ではなく灰であることはわかった。最後に聞こえた蛇の叫び――逃げた灰を追う男達の荒々しい足音が、まだ耳の底に響いている。
蛇は灰を追って行った。そうとわかっていても、少しでも体を動かせばそれを聞きつけた蛇が扉を開けに戻るのではないかという恐怖に紺は囚われる。
(灰……どうして? どうして灰が……)
まさか、と紺は思う。
(まさか私を助けたせい? 私を助けたから灰が蛇に狙われたの?)
嘘、と紺は呟いていた。嘘だ。自分のせいで灰が狙われるなんて。
――嘘、嘘、嘘――
何度も呟きながら、紺は顔を伏せる。どうすればいいのかまるでわからなかった。
無論、動かなければいいのだ。灰は絶対にこの部屋から出るなと言った。それに従っていればいいのだ。そのうち他の若者達が戻る。
(多分、灰も戻って来る)
――戻って来なかったら?
ひそりと、内心の声が聞こえた。相手は蛇だ。その恐ろしさを紺はよく知っている。蛇以外にも多くの気配があった。灰が無事逃げのびることが出来るとは、どうしても思えなかった。
(それでもいいじゃない。灰がどうなろうと、ここにいれば安全なんだから)
小刻みに震える体の奥底から何かがせりあがってくる。どくどくと、己の鼓動が響き、瞼の裏で炎の紅が揺れた。この命は自分で選び取ったものだ。紺は益々小さく体を丸め、唇を噛みしめた。あの夜のように、振り返らなければいい。そうすれば、誰の命が危険に晒されようと自分は生き延びることが出来る。
そして際限もなく逃げ続けるのだ。
「本当に、それでいいの?」
言葉が零れた。自分自身のそれが、まるで見知らぬ他人の声のように響いた。
目を逸らし蹲って、生き続けるのか。まるで骸のように――
紺は目を見開く。顔を上げた。
次の瞬間、紺は立ち上がり扉に向かっていた。勢いよく扉を開けると、ふわりと風のような気配が揺れ、破れた。それに気付くこともなく紺は一散に階段を駆け降りると家の外へと走り出していた。
路地を走りながら、紺は浮かんで来た涙を乱暴に拭う。涙は邪魔だった。
もっと速く走らなければ、と思う。今この瞬間にも、灰の命は蛇に奪われようとしているかもしれない。自分のせいで、また誰かが死ぬことになるかもしれない。
必死の形相で走る彼女に、道行く人々が怪訝な表情を向けている。そんなことは構わなかった。どう見られてもよかった。ただひたすらに媼の屋敷を目指しながら、紺は蛇に見つけられるかもしれないという恐怖さえ忘れていた。
――俺は強いわけじゃない。誰かを助けるとしたら、それは多分自分のためだ――
灰の声が響く。仄かな光に向けられた横顔に目を奪われた。それがあまりにも、澄んで美しく見えたから。
――あそこで紺を見捨てたら、俺はずっと後悔する。それが嫌だった。紺がどうなるかよりも、自分の気持ちのために助けただけだ――
(違うよ、灰)
それは強さだ。己を見据える厳しさ、決して逃げることを許さないそれが、弱さである筈がない。
(私、わかった。動かなきゃだめなんだ。蹲ってちゃ何も変わらない)
幾つもの差し出される手に縋りついてきた。行くあてもなく彷徨う彼女を孤児院へと連れ帰った宇麗、温かな孤児院の仲間達。蛇から助けてくれた灰。彼らがいなければ、今頃紺は生きてさえいないだろう。本当の意味で、紺は生きてなどいなかった。己で選んだと思っていた生でさえ、所詮は与えられ許されたものでしかなかった。
大通りの人混みを走り抜けて、角を曲がる。何かに足を取られてつんのめった。強かに膝を地面に打ち付けて、それでも紺は前を睨みつけると立ち上がる。足を止めはしなかった。駆ける足音が、遠く、近く、聞こえた。
これは自分の足音だ。あの夜、來螺の街を駆け抜けた時と同じ、その音だった。蛇に捕われたままならば、こんな思いは知らなかった。こんなにも辛くやるせない腹立たしさは知らなかった。己の不甲斐無さに泣くこともなかった。
そして己は何度でも、あの扉へと向かうだろう。その先に待つ新たな苦しみが命の代償ならば、それを背負って生きるしかないのだと、紺は走りながら考えていた。
通り過ぎる風は、身を切るように冷たかった。紺の長い髪が、踊るように流れた。