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「それにしても驚いたな」
須樹はぽつりと呟いた。朝の稽古が終わり、広場の隅にある木陰で涼んでいるときのことである。横に座る冶都が彼の言葉にぼんやりと頷く。二人の視線の先では灰が指南役から剣の振り方の指導を受けていた。
「お前よりも俺のほうが驚いたよ。いくら狙いすましてもひらひら逃げていくんだからな。化かされてるのかと思ったぜ」
須樹はにやりと笑った。
「そろそろ加倉の取り巻きどものところに戻らないのか?」
これには冶都が嫌そうに顔を顰めた。
「今更戻ってどうなるんだよ。俺のことなんかもう相手にしないさ」
須樹は破顔した。
「それで安心したよ。やっとお前らしくなったな」
「どういうことだ」
「お前には、玄士様のご子息に取り入ろうと媚を売るのは似合わないってことだ」
「好きなように言え」
冶都は空を見上げ、大きく溜息をついた。
「これでまた親父の期待を裏切っちまったなあ。加倉様のお気に入りになれれば見直してやるってのが親父の口癖なんだよ」
「そうなのか」
「まあ、どっちにしろ……どんだけ俺が媚び諂ったところで、たかが商人の息子が貴族様の仲間に入れてもらえるわけがないんだよ。今回のことはむしろあいつらから抜けるいい機会だったのかもな」
さばさばと言いながら冶都は須樹ににやりと笑んでみせた。須樹は昔から知る彼らしいその笑顔に安堵する。裕福な商人の三男である冶都が、ただ己の欲だけで加倉の取り巻きの一員になっていたわけではないことを、須樹は薄々察してはいたのだ。元来明るくまっすぐな気性の冶都のことである。ただ父親の期待に応えようとしていただけなのだろう。
「それにしても頭は何を考えていたんだ。さっきのあれでは灰様を若衆に入れないようにしていたとしか思えんぞ」
「実際そうだからな」
ぽつりと冶都が答えた。
「どういうことだ?」
「頭が俺に言ったんだよ。いくら惣領のお言葉でも灰様のような異端を若衆に入れるわけにはいかないってな。若衆を汚すわけにはいかないから、何とか入れるのを阻止したいと……」
冶都は言いながら須樹の形相に気づいて慌てて弁解した。
「俺じゃないぞ! 頭が言ったんだ」
「つまりお前と対戦させることで灰様がいかに若衆にふさわしくないかを示して、入れないつもりだったんだな」
「ああ」
「なんでお前はそんなことを引き受けたんだよ」
冶都が気まずそうに目を伏せてから、しぶしぶ言った。
「俺が言うとおりにしたら、親父が有利になるように市の権利を変更するよう絡玄様に伝えてもいいって言われたんだよ」
須樹は顔を顰めた。加倉の遣り口に強い怒りが沸き起こる。たとえ狙い通りに灰が若衆に入るのを阻止したとしても、加倉が冶都との約束を守るとは思えなかった。
そもそも灰が若衆に入るということは惣領の決定なのである。それを覆すようなことをすれば、ただでは済まないはずだ。もしかすると、と須樹は考える。貴族の子弟ばかりが固める取り巻きの中でただ一人平民の出である冶都に灰の相手をさせたのは、後に受けるだろう非難を冶都一人に負わせるためだったのではないだろうか。冶都が加倉の命令でやったことだと言ったところで、家臣達の筆頭である玄士を父親に持つ加倉が相手では結果は目に見えている。冶都は捨て駒だったのだ、と須樹は確信する。
「なんで頭はそこまでやるんだ?」
独り言のつもりの呟きに冶都が答えた。
「頭は不安なんだよ」
「不安?」
「ああ。半分はお前のせいだな」
須樹は思わず目を見開いた。
「気付いてなかったのか? 若衆の大半は加倉様よりお前のほうが頭に相応しいと思ってるんだよ」
須樹は言葉に詰まる。彼とて周囲が自身に向ける期待に気づいていないわけではなかった。
「それに加えて惣領家の者まで入ってみろ。今までは家柄だけで皆を黙らせていたが、それよりももっと身分が上の者が来るんだから、心中穏やかじゃないだろうな」
「灰様はわかるが、俺は単なる工芸家の息子だぞ」
冶都が苦笑した。
「それがどうした。若衆はもともと平民のほうが多いんだ。それを一部の貴族の道楽者ばかりが幅をきかせているんだからな」
貴族の子弟が平民に見せるあからさまな蔑みと威丈高な態度は、若衆内部の軋轢の一因となっていた。若者ばかりの集まりとはいえ、そこにあるのは身分と因習に縛られた社会の縮図なのだ。貴族と平民の衝突は何も今にはじまったことではない。
「もともと若衆頭は力ある者が就くべきものだから、父親の威光だけでその座についている加倉様は自分を脅かすものを異常なほど恐れてるんだよ」
広場には熱気がこもり、少年達の足元をゆらりと揺らしている。それを見るともなしに見ながら冶都は言った。
「お前が頭に名乗りをあげれば間違いなく加倉様はその座を追われるだろうな。頭に真実相応しい者があらわれたら、取り巻き以外は誰も加倉様には従わないさ」
冶都は何気ない様子で言葉を続けた。
「どうだ?この際いっそのこと名乗りをあげたら」
ふざけているのかと須樹が振り返ると、思いのほか真剣な冶都の顔があった。
「俺もお前が名乗りをあげるなら賛成するぞ」
「俺は人の上に立つのにふさわしくない」
「身分のことを言っているのなら」
「身分のことじゃないさ。ただ……」
冶都の言葉を遮った須樹は、迷うように視線を彷徨わせる。それに冶都はため息をついた。
「まだ迷ってるのか? 家を継ぐかどうか。お前みたいな不器用な奴に工芸家がつとまるとは思えんがなあ」
須樹はあけすけな言葉にさすがに眉を顰めた。
「言ってくれるな。俺だって自分が工芸家に向いているとは思わないさ。でも親父が継いでほしいみたいなんだよ」
須樹は一筋額から流れる汗を拳で拭った。地面に跳ね返された光のせいか大気が白い。高い壁の向こうには端然とした惣領家の屋敷が見える。黒い甍が、妙に冷たく見えた。実際には陽光に焼かれ、熱いに違いない。
「親父は多加羅の出じゃないから俺が若衆に入るのもいい顔はしなかった。お袋の手前黙ってはいるが内心では若衆をやめて工芸家の修行をしてほしいと思っているはずだ。俺も正直迷う」
「羨ましい話だ。俺なんか兄貴が家を継ぐから居場所がない。若衆に入るしか道がなかったからな。あとは南軍に入っていけるところまでいくさ。もっとも、今の若衆はどうも居心地が悪い。加倉様の取り巻き連中といてよくわかったよ。あいつらが上にいたんじゃ若衆は良くはならない。お前みたいな奴が頭になって変えてほしいんだがな」
なおも言う冶都に須樹は呆れたように笑ってみせた。
「こんな中途半端な覚悟の頭など誰もついてこないさ」
「当分は加倉様の天下か。このままだと皆ばらばらになってしまうぞ」
加倉が頭を継いでから、確かに若衆内部の結束は目に見えて弱まっていた。しかし冶都が言うように、須樹が頭に名乗りをあげれば事態は好転するのだろうか。須樹には到底そうは思えなかった。天秤の傾きが変わるように、力関係が一方から一方に移るだけではないのか。
ふと、須樹は広場に視線を向けた。照りつける太陽と体を動かしたことで暑くなったのか、灰が青い布をほどいていた。硬質な輝きの銀の髪が柔らかく光を弾く。
「いや、もしかするとそう悪いことばかりではないかもしれんぞ」
その声音に冶都は須樹の視線の先を追いかける。
「貴族であろうと平民であろうと、身分に関わらず誰からも慕われる人が出てくるかもしれないからな」
「それがあの若様か?」
須樹は僅かな沈黙の後に答えた。
「さあな」
無意識に右手の包帯に触れて笑む。
「だが、そうであればいいとは思う」
「なんでそこまで灰様に肩入れするんだ。まだよくわからん相手だぞ。しかも……」
「しかも、なんだ」
「こういうことを言うのは俺だって嫌だが、灰様には噂が多すぎる。灰様の祖母は來螺の者だというじゃないか」
「來螺の者だから卑しいというなら、俺達平民を見下す貴族どもと結局は同じだ」
冶都が黙る。須樹もまた樹の幹に背を預け、獣が身を起こすように陽炎がむくりと立ちあがり、厳然と聳え立つ石壁を溶かすのを眺めた。
須樹が住むのは、多加羅の街の外周に位置する区域である。惣領家の屋敷や若衆の鍛錬所がある界隈とは違い、ひしめき合うようにして家々が建ち並ぶそこは、人々の生活の雑多な匂いに満ちていた。街の構成はそのまま人の身分と豊かさをあらわす。外延部は街の中でも貧しい人々が暮らす地域だった。
須樹が帰途についたのは夕暮れの紅が家々の白壁を染める頃合いだった。せわしなく道を行く街衆も家路についているのか、どこか穏やかな表情を浮かべていた。子供達が歓声をあげながら駆け抜けると、その後をささやかな風が追いかける。家々からもれる音と匂いは分かち難く混ざり合い、響き合うように不思議と均一で穏やかな活気を醸し出していた。人々の営みは小さな家々から路地にもあふれ、まるで金笹の葉のように重なり合っているのだ。
小さな看板を掲げた家が近づくにつれ須樹は無意識にため息をついた。彼が住むその家もまた古びて小さかった。幾人かの顔なじみと笑顔で挨拶を交わしながらも、足取りは気分に引きずられるように重くなる。須樹は家の横の細い路地から裏に回り込み、父親が工房として使用している薄暗い部屋から中へと入った。途端に乾燥した金笹の匂いに包まれた。戸口から差し込む夕暮れの光の中で、金笹の繊維と細かな埃がゆらゆらと舞っていた。
家の正面はささやかながらも父親の作品を並べる店舗となっている。正面から入ることになんの問題もないのだが、須樹はそこにいるだろう父親と顔を合わせるのが億劫だった。しかし工房を足早に通り過ぎようとした須樹は、暗がりから掛けられた声にぎくりと足を止めた。
「遅かったな」
父親だった。
「ああ、今日は新人が入ったから色々とね……」
曖昧に濁した言葉を追及する気配はなく、暗がりから歩み出した父親は作業用の椅子に腰をおろすと大儀そうにのびをした。そば近くの古びた机の上には作りかけの籠が並べられている。
「金笹の質がいまいちで、どうも良い作品ができん」
父親は言うと不満そうにその一つを取り上げた。
金笹はその美しい色合いと芳しさから様々なものに使われるが、容易に扱えるものではない。乾燥させた後にほぐされると、繊維状のそれはまるで絹糸のように繊細である。細かな繊維を縒り合わせるのは特に難しく、腕の立つ職人が仕上げれば強靭で美しい光沢を持つそれも、未熟な者が扱えばたちどころに艶を失い脆くなる。籠や家具といった実用品から、水を弾く特性を活かした外套、そして複雑な造形を持つ芸術品まで、工芸家の手によって金笹は様々なものに姿を変える。
須樹の父親の作品は素朴な日用品が多い。今手に持つそれも、細部にさりげない装飾を施しながらも全体にがっちりとしたものだった。貴族が高値をつけるような華麗なものもあるが、父親がただ飾りのためだけに作るのをひどく嫌っているのを須樹は知っていた。
「今年の金笹は良さそうだよ。これだけ乾いていると秋には綺麗な色に染まる」
「ああ、去年は夏に雨が多かったからな」
さりげない会話を交わしながらも、須樹は父親が自分の帰りを待っていたらしいことに気づく。素通りすることもできず、しばし二人の間に不器用な沈黙が落ちた。
「須樹、わかっているとは思うが私はお前に後を継いでもらいたい」
ようやく切り出した父親は、その穏やかな人柄そのままの優しげな風貌に、いつになく厳しい表情を浮かべていた。
「それはわかってるけど、今は若衆のほうが何かと忙しいんだ」
「お前はずっと若衆にいるつもりか?」
その追及に思わず須樹は答えに詰まる。それは彼とて迷っていることなのだ。
「多加羅といい沙羅久といい若衆のような集団は決して若者にとってよい場所とは思えん。母さんは多加羅の出だからそうは思わないだろうが、私は外の者だからな。かえってよくわかるものだ」
「父さんがそう考えているのはわかってる」
思わず苛立ちを感じ、須樹の声が尖る。父親はそんな息子の表情を見つめ、静かに言った。
「お前が惣領家のために若衆として役立ちたいなら、私は無理に継げとは言わない。本当にそうしたいなら、そうすればいい。だが、迷っているのだろう? そろそろはっきり決めなさい。もう十六になるのだからな。工芸家として修業するにも遅過ぎるくらいだ」
「……わかった」
父親の言葉はもっともなのだ。須樹は少しでも疎ましさを感じた自分を恥じる。
「近いうちにちゃんと決めるよ」
父親は微笑んだ。それにどこか後ろめたさを感じながら、須樹は奥へと向かった。
明るく大胆な性格の母親と違い、おとなしく優しいばかりの父親である。どれほど父親が一人息子に期待をかけているか、須樹は理解していた。だが、父親が望む道を進むにはあまりにも迷いが大きかった。冶都に言ったのは本心だった。工芸家という職業に自分が向いていないのは、父親とて知っているだろう。飽きやすい性質ではない。ただ創作のためにすべてを注ぎ、孤独にその道を極めることに魅力を感じないのだ。だからといって若衆にこの先も居続ける決心がつかなかった。特権的な少数による横暴に怒りを感じながらも、それを覆すことなどできまいという諦めを持ち、いつしか唯唯諾諾と状況に染まる己に嫌気がさしていた。
(こんな根性無しに頭がつとまるわけがない……)
須樹は憂鬱に思う。若衆でさえこうなのである。この先南軍に入ったとしても、結局は晴らすことのできない不満と鬱屈を抱え、やがては諦めのうちにそれらも忘れてしまうのだろうか。
「やっと帰ったね」
須樹の物思いは溌剌とした声に破られた。見れば腕一杯に色とりどりの布を抱えた母親が立っていた。布を須樹に押し付けた母親は、忙しげに小さな厨房に入る。
「それをたたんどいとくれ。私は夕飯の準備があるからね」
作品を引きたてるために店先に飾るそれらの布には、かすかに太陽の匂いと温もりがあった。須樹は食卓に布を広げながら、鼻歌交じりに動き回る母親の背に声をかけた。
「父さんがそろそろ決めろってさ」
何を、とは問わずに母親は明るく笑った。
「おや、とうとう言ったかい。あの人は何でも難しく考え過ぎて、時間ばかり無駄にしちまうからね」
「俺もそろそろ決めるよ」
自分に言い聞かせるように須樹は呟く。母親は聞いているのかいないのか、返事はない。彼女は須樹がどちらを選んでも、きっと笑って見守るだろう。
緩衝地帯の街から多加羅に来た父親は、もとは須樹の祖父にあたる工芸家の弟子だった。娘の不器用さと職人にはあまりに不向きな豪快な性格に、祖父は早々に娘を後継ぎにすることを諦めていたのだろう。有望な弟子が娘と結ばれ、後を継ぐのにさほどの時間はかからなかった。
須樹に若衆への入隊をすすめたのは生粋の多加羅育ちである母親である。彼女にとっては多加羅の若者が若衆に入るのはごく自然なことだったのだ。適した道に進むためには何事も経験しなければわからないから、という彼女の言葉に父親も反対はしなかった。しかし緩衝地帯で生まれ育った父親にとって、若衆というのは多加羅と沙羅久の諍いの中心と言ってもいい存在なのだ。須樹もそれを否定する言葉をもたないが、かと言ってこの多加羅という街にあって裕福でない者の生き方は限られている。
子供は誰しも十二までは小学院に通い教育を受けることができる。これは現在の惣領、峰瀬の方針であり、それ以前は教育すらまともに受けることができない者も多くいたのだ。しかし小学院を出てからどのような道を選ぶか、あるいは選べるかは、やはりその身分と豊かさに大きく左右される。須樹にはもとより選択肢はほとんどなかった。より高度な教育を受けられるほどに裕福ではなく、特定の貴族に仕えることができる身分でもない。そして多加羅を出て新しい人生を模索するほどにすべてを切り捨てることもできなかった。
そういえば、と脈絡なく須樹は思う。父親が生まれ育った街であの灰という少年と出会ったのだ。惣領家の人間であると知らなかった時にはただ面白い少年だと思っただけだが、再び顔を合わせた相手は人を惹きつける不思議な雰囲気を持っていた。そして惣領家の人間とわかってなお、須樹は少年のことを気に入っている自分に気付く。
冶都に言った言葉を再び思い返す。灰ならば身分の隔てなく誰からも慕われる頭になるのではないか――戯れに言った言葉である。須樹とて本気で言ったわけではない。しかし、と須樹は丁寧に布をたたみながら考える。もしもそれが実現したら――。
鮮やかな布をよりわけながら須樹は思わず笑む。もしも実現したら――? もちろんこれほどに面白いことはないだろう。
金笹の香りが、迫る宵闇の底にたゆたう。空気の流れが濁ると香りは沈んで溜まるのだと、つい先日聞いた言葉を思い出す。言った少年はまるで一陣の風のようだ。見るたびに姿を変える、留まることを知らない存在だ。妙な確信とともに須樹はそう思う。
折しも戸口から気まぐれな風が吹き込み、手元の布を揺らした。心地よい香りと、それすらも吹き散らす気ままな風に、須樹はしばし身をまかせ大きく伸びをする。小さな窓から見やれば、明かりが灯りだした家々が淡い夜の気配に柔らかく包まれていた。
まだまださくっといきます。今回は須樹がメインですね。彼は書いていて安定感というか、安心感のあるキャラです。対照的に、灰はものすごく不安定なキャラで、はじめはなかなか灰の視点を通して書くことができませんでした。それは今もかわりませんが、少しはましになったかな、とは思います。
次で第一章は終わり、第二章に入ります。ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!