79
紺は目を覚ました。しみの浮いた天井をぼんやりと見つめ、寝返りを打った。敷布の温もりに頬を擦りつける。眠気はさほど残っていなかったが動くのが億劫だった。何故、こんなにも瞼が重いのか、と思う。
指先で瞼に触れるうちに、昨夜の出来事が脳裏に蘇ってきた。
夢を見た。恐ろしい夢――目が覚めて、その後のことは記憶が曖昧だった。灰が肩に着せかけた外套の温もりと、柔らかく包みこんできた彼の体温だけが鮮明だった。必死に縋りついて――何時の間にか眠ってしまったらしい。
(私……何を言ったんだっけ……)
記憶の断片を繋ぎ合わせるほどに、後悔の念が渦巻き紺は体を縮める。決して誰にも言ってはならぬ、彼女の胸にだけ秘めた過去だった。何故、灰に吐露してしまったのか、己でもわからぬ。例え誰に言ったとしても何もなりはしない。全て己が負うべきものだった。その罪だった。一時示された優しさに、甘えてよい筈がない。
だがわき起こる悔いとは裏腹に、昨日まで感じていた逃げ場のない圧迫が減じている。まるで涙とともに洗い流されたように、胸の奥に巣食う凝りが軽くなっていた。それは体そのものがふわふわと浮きあがるような奇妙な浮遊感すら伴い、紺は戸惑う。灰は紺がしたことを聞いても、責める言葉一つ言わなかった。思い出すほどに包み込むように温かいそれが、寄る辺ない浮遊感も相まって紺を不安にした。
相手が軽蔑を、弾劾を向けて来たならば紺はそれを受け入れることが出来る。それだけのことをした。死を願いながら最後の瞬間に全てを振り棄てて逃げた。皆を見捨てたその罪を自覚しているのだから――責められて当然なのだ。その罪業に捕われて生きるのが己に相応しい。そうでなければ、どうやって生きていけばいいというのだ。
蛇に飼われていた時は、來螺の裏側が全てだった。來螺の外に何があるか考えないわけではなかったが、彼女は夢見ることすら知らなかった。ましてや幸せを望むなど、苦しみを耐えるだけの生活の中で出来よう筈もない。希望を抱くことは、紺にとって徒労だった。ただ漠然と、外には苦しみも悲しみもないのだろうと、羨望すら覚えずにそう考えていた。
あの夜逃げて、はじめて彼女は知ったのだ。裸足で駆けながら、大地の固さと冷たさを。小石で切った足裏から血が流れて、それを手で押さえながら、紺は外にあるのが幸せでも温かさでもないとわかった。ただ一人、夜の底に行くあてもなく、小さな自分の体があるだけだった。捕われていた壁の外は茫漠として寄る辺なく、漸く得た自由はあまりに空虚だった。
紺は掛け布を握り締める。
時を戻せたら……開け放たれた扉を前にしたあの時に。そうすれば炎の向こうに取り残された子供達のもとに向かうのに。そこまで考えて紺はぎくりとした。内心で、小さく囁く声がした。
――本当にそうか? お前は、本当に引き返すのか? あの中へ、死んででも逃れたいと思ったあの場所へ、皆を助けるために戻ることが出来るというのか……
「嫌だ……戻りたくない……」
知らず知らずのうちに呟き、呆然とした。その言葉が、紛れもなく己の本心だとわかったからだった。それはまるで昨夜流した涙のように、止める術もなく零れ落ちた。蛇は恐ろしい。來螺にも戻りたくはない。だが、炎の中に皆を取り残してきたことは、悔いている筈だった。
(悔いている。私は……何度も戻るべきだったと、そう思った……)
――だが、そうすれば蛇から逃げることがかなわなかったのだろう? ……蛇から逃れる唯一の機会を捨てることが出来るというのか?
――出来はしまい。お前の罪の意識など、所詮その程度のものなのだ。他の者を犠牲にしてでも生きたいと願う、その汚い本性から目を逸らすための手段でしかない。己を己で籠絡する浅薄な手管というわけだ。
冷やかな内心の反駁に、何故か灰の眼差しが浮かんだ。
責められれば――己で己を責めていれば余計なことを考えずに済む。流されるように笠盛に辿り着き、皆を置き去りにした罪悪感を抱きながら、罪悪感そのものを何時の間にか言い訳にして、与えられた場所で無為に時を過ごした。己には希望を抱くことも、幸福を求めることも出来ぬのだと――それは絶望だろうか。それとも歪な安寧だったろうか。少なくとも過去の罪に捕われていれば、己の汚さに気付かずに済んだ。
灰は責めなかった――紺は思う。灰は紺を拒みも責めもせず、決して断じようとはしなかった。そこにあるのは呵責無く紺の本心を暴く静けさだった。ありのままの姿を見通す容赦のない寛容さだった。
つまるところ、紺は灰から厭われることを望んでいたのかもしれなかった。そうすれば、露わになりかけていた本心を、再び罪の意識という紗で包むことが出来たのだ。しかし灰は全てを受け止めただけだった。それは、残酷な優しさであるかもしれなかった。紺の抱える恐怖だけでなく、罪悪感をよすがに敢えて目を逸らしていた我執さえも、あるがままに包み込む。だがそうであるからこそ、はじめて紺は偽りなく心の底から泣くことが出来たのかもしれなかった。
(でも、それじゃだめだ)
見捨てた仲間への罪悪感を本心から目を逸らす手段としたように、自分を支えるよすがとして灰に何時の間にか重荷を負わせてしまう。何の関わりも無い相手だというのに、ただあるがままに受け止めてくれるというそれだけで、際限なく灰に甘えることになるのではないか。そのようなことは許されまい。
(それに、私がいたら迷惑をかけてしまう……)
灰以外の若者が己に向ける眼差しはどれも好意的ではない。これ以上灰の立場が悪くなる前に、そして蛇が紺を見つけ出す前にここを出て行かなければ、と思う。
紺は掛け布から手を離した。残された依怙地な皺を指先で撫でる。
今何時かと見やった窓の向こうは仄暗い。階下の物音に耳を澄ませると、丁度階段を昇って来るらしい足音が聞こえた。じっと動かずにいると、足音は扉の前で止まった。扉を叩く音に続いて、声が聞こえた。
「起きているか?」
灰の声ではない。落胆とも安堵ともつかぬ思いが込み上げる。
「はい」
「食事を持って来た。扉の前の机に置いておく」
紺は慌てて寝台から抜け出すと、扉を開いた。既に階段に向かっていたらしい若者が驚いた顔で紺を振り返った。
「あの……灰はいますか?」
「いや、もう出かけられたが……」
中途半端に言葉を切った若者が視線を彷徨わせた。
「昨日はご免なさい。私、灰にも謝りたくて。それと……あの……灰を責めないでください。私が無理矢理ついて来たの。迷惑かけないようになるべく早くここを出て行くから」
早口に紺は言った。そのまま扉を閉めようとしたが、若者が不意にその扉を押さえる。驚いて顔を上げた紺を見やり、つかえながらも言った。
「その……君はここにいればいいんだ。出て行く必要などない」
「……そんなこと、私が誰だかわからないから言えるんだわ」
「君は灰様が連れて来た人だ。あの人が君のことを守ると……守りたいんだと昨日言っていた。俺にはそれで十分だ。俺達で君のことは必ず守るから、安心してくれ。今まで邪険にして悪かった」
それだけを言うと、紺の手に食事が乗った盆を押しつけるようにして、去って行った。
紺は扉を閉じると盆を抱えて寝台に座る。落ち着かない心地で、汁物と飯だけが乗った盆を見つめた。いかにも料理には不慣れな若者が作ったものらしく、汁物の芋は不器用に形が不揃いで、一口飲めば塩味が濃かった。
「しょっぱい……」
紺はぽつりと呟く。無性におかしくなって紺はくすくすと笑った。おかしくて、悲しい。どんな状態でも腹は減る。それが生きるということなのだ。ここを出ると心に決めながら、青年が紡いだ言葉にまたも気持ちが揺れている。守りたいと灰が言ったという、それに縋るように、ここにまだいていいのだと安堵している。守ってほしいと渇望している。
笑いながら込み上げるものを抑えかねて握った拳で口元を押さえる。ひく、と喉が鳴った。だめだ、と思った時には遅かった。止めようもなく涙がぼろぼろと零れ落ちる。しゃくり上げ、盆の上に屈みこむと、甘い飯の匂いと湯気が額のあたりにふわりと広がった。
泣く資格など自分にはないのだと、悲しみや、ましてや辛さなど、置き去りにしてきた子供達のことを思えば、感じることさえ罪なのだとそう思っていた。それが、まるで体の内で何かが壊れたように、涙が止まらなかった。
――生きたいのだ。
どれ程罪悪感を抱こうと、ただ生きていたいのだ。
「……絶対に、戻りたくない。絶対、戻らない」
――今一度あの炎の中に立ったとしてもか? 皆を見捨てると……そのことでずっと苦しむことになるとわかってなお、そう思うのか?
「そうよ」
紺は呟く。苦しみは消えない。それでも己はあの扉に向かって走るだろう。
何度でも、走るだろう。
それが、紺にはもうわかっていた。
空は一面薄墨に染まっていた。濃淡は滑らかに、時に不穏に暗く、そして高かった。確かな質量を感じさせながら、掴みどころなく軽くも見える。雪雲である。
まるで雲そのものが綻び地に落ちるように、柔らかく冷たい切片が降り出したのは、宇麗が笠盛の北に向かう途中であった。頬に触れた感触に思わず上空を見上げれば、ふわりふわりと花びらのように舞う雪が視界を斑に染めた。寒さに身を竦め道行く人々も、同様に顔を上げ、外套を掻き合わせて足を速めた。
この地方では雪はさほど降らない。だが、寒さが体の芯に沁み入るように厳しい日に、時折激しく降ることがある。降れば街が一面白く染まる。そのような日には外を漫ろ歩くよりも、家の中で温かな炉辺にいる方がよい。降り出した雪に、露店の店主も諦め顔で、まだ昼の時分だというのに店を閉める者も多かった。客足の遠のく一日である。
次第に閑散とする街を、宇麗は足早に通り抜けた。
その日、宇麗は朝から街の各所をまわっていた。向かったのは蛇の捜索に当たる部下達のもとである。街の至る所に見張りを配置しているが、如何に巧妙に隠れたものか、腕に入れ墨のある耶來の男は杳として行方が知れなかった。既に何日も監視を続ける部下達の疲労もある。直接に赴いて鼓舞するのが目的だった。
もっとも、部下達を慮った以上に、彼女自身が体を動かしていたい気分でもあったのだ。ここ数日の煩悶が、益々憂鬱に感じられる天候である。蛇の存在もさることながら、蛇に連れ去られた紺のことが常に心にかかっていた。日が経つほどに、紺が無事生きている可能性は低く思われる。口に出さずとも、多くの者が既に紺の命はないだろうと考えているだろうことを宇麗は知っている。
そして媼の屋敷に捕える一人の青年の存在である。彼が果たして多加羅若衆なのか、そして緩衝地帯においてその存在がどのような意味を持つのか、それを見極めねばならぬ。緩衝地帯の命運を決する評議会の開催は刻々と近付きつつある。課された責任の重さと、それを果たすことが出来ず立ち尽くす己への不甲斐無さばかりが募っていた。
宇麗は外套の頭巾を目深く被ると、足を速めた。
街の北は笠盛の中でも寂れた一角である。神殿が建ち比較的大きな家々が連なっているそこは、嘗ては裕福な人々が住み華やかさを誇った時もあった。だが、市場の立つ中心部に活気を奪われ、今では閑散とした雰囲気が漂う。神殿があるために、その界隈での商いそのものが憚られ、発展から取り残されることとなったのである。今では空家も多く、日中でも人通りは少ない。
これから向かう先に蛇が潜む可能性は低いと宇麗は考えていた。寂れた界隈で見知らぬ者が出入りすれば目につく。蛇がそのような場所を隠れ家に選ぶとは思えなかった。念のため見張りを置いてはいるが、蛇が潜んでいれば既に報告が来てもおかしくはなかろうと思う。
次を最後に一旦媼の屋敷に戻ろう、宇麗がそう考えた時だった。
視界の端を何かが掠めた。宇麗の反応が遅れたのは気が散じていたせいではなかった。己の考えに集中していたが故である。それでも振り返った宇麗が、暗色の影が人気のない一角に踏み入るのを捉えるには十分だった。
宇麗は目を細めると素早く人影が消えた区画へと歩み寄る。もとは瀟洒だっだであろう屋敷――長年打ち捨てられ、雑然と荒れ果てたその横に、薄暗い道が続いていた。その先に一瞬見えた人影は、さらに角を曲がって姿を消す。咄嗟に宇麗は走り出していた。
何が、と思う前に突き動かされる。垣間見えたその姿が、妙に目に焼き付いていた。息を殺すようなその気配故であったかもしれぬ。あるいは、舞い落ちる雪のせいか、己の吐く息のせいか白々と靄に沈む心地の視界に、その暗い色彩が奇妙に浮いて見えたせいかもしれなかった。一人で追う危険は承知していたが、不審な人影をここで見逃すわけにはいかなかった。
角を曲がった宇麗は舌打ちをする。伸びる先に、目指す人物の姿はなかった。さほど狭い道ではなかったが歩く人の姿もなく、奇妙に暗い。その先が滲むように掴み難いのは、不意に雪が強まったせいだった。
宇麗は素早く振り返った。家壁に隠されるかのように、階段が横合いに伸びていた。腰の剣をいつでも抜けるように身構えながら、宇麗は視線を上げた。段の最上に、一人の男が立っていた。頭から被る形の外套は黒く、顔はその影になって見えぬ。
「何者だ」
宇麗の問いは些か唐突であり、脈絡がなかった。もっともこの状況で、目の前の男がわざと宇麗に後をつけさせたのだろうと考えるのが自然ではあったが――果たして、男は低く笑い声を上げた。地を這うようにそれが響いた。
「さて、何者か……俺とてわからん。俺がお前達の味方となるか、それとも敵となるかはお前次第だ」
くぐもった声から、おそらく顔の下半分も用心深く隠しているだろうことが察せられた。宇麗は無言で相手を睨みつける。剣呑なそれが、次の瞬間には驚きに見開かれた。男が不意に左腕を掲げると、その外套を捲り上げたのだ。晒された腕――そこに狂おしくのたうつ炎が絡みついていた。炎でありながら、青味を帯びて冷たく暗い――いや、炎ではない――
「……蛇……」
禍々しささえ感じさせて、幾筋もからみあう蛇の姿がそこにあった。まるで生きてうねっているかのようである。
「俺を知っているのか」
揶揄の声音、それに宇麗は油断なく身構えた。
「お前が耶來の蛇か。それならば味方などとよく言えたもんだね。お前はあたし達の敵だ。どういうつもりかは知らないが、追い詰められて漸く尻尾を出した、というわけか」
言い放った宇麗に、蛇が返したのは不可解な冷笑だった。
「どうやら俺のことを端から敵と決めつけているようだが、それはどこから仕入れた情報だ? お前達と敵対しているのは俺ではない」
「何だと?」
「今緩衝地帯で起こっていることは、俺達が起こしたことではない。鬼逆という男を知っているか? 緩衝地帯での一連の騒ぎの背後には奴がいる」
宇麗は答えなかった。実際は答えることが出来なかったのだ。辛うじて、内心の驚愕が表情に出ぬように抑え込む。それでも沈黙に宇麗の思いを読み取ったのか、相手が笑みを深めたらしい。
「俺達は鬼逆を追って来た」
「証があるか?」
宇麗が言ったのは、真に問うためではなかった。相手の言葉の不可解さに巻き込まれる心地の危うさ、己の思考が流されぬよう手繰り寄せるためだった。
「一つ教えてやろう。お前達が先だって捕えた男達は鬼逆の手先だ」
「……」
「漸く奴らの居場所を掴んだと思ったら、お前達に目の前でかすめ取られたわけだ」
しんと足元から這い上がる冷気に、宇麗は絡み取られたように動けない。男の声の低さに、雪の吸いつくような静けさが際立つ。
「何故、鬼逆を追っている? 同じ耶來だろう」
「奴は帝国内で動かぬという耶來の掟を破った。制裁が必要だ」
「生憎と信じることは出来ないね。それに、どの道我らは耶來の者がこの街で勝手をするなど許さぬ。それは鬼逆であろうと、お前達であろうと同じことだ」
宇麗の言葉にも、相手はいっかな怯んだ気配を見せなかった。脅しを気にかける様子もなく言った。
「俺とてこの地でお前達卸屋連中と対立はしたくない。好き好んで姿をあらわしたわけではない。俺はお前達と取引がしたいだけだ」
「取引だと?」
「ああ、そうだ。俺達の仲間を返してもらいたい」
「ふざけたことを言う。お前達の仲間だと?」
「お前達のところにいる筈だ。年の頃十九程の若者……彼は鬼逆の動向を追っていた俺達の仲間だ。鬼逆の手下どもの動きを探らせている矢先、お前達に捕えられた」
「……何を……」
宇麗の声が掠れた。剣の柄を握り締める手が、強張っていた。
――須樹……内心に呟き、目の前の男の言葉を反芻する。あの青年が、蛇の仲間――耶來の一員だと言うのか。だが、緩衝地帯で不穏な騒動を起こしていたのは蛇ではないのか。
(戯言だ! 首謀者は蛇の筈だ。それに……あいつが耶來であるわけがない)
内心の思いは、すぐに戸惑いに呑まれた。では、一連の出来事が蛇の仕業だと、あの青年が多加羅若衆だと知らせたのは何者だったのか――夜陰に紛れて宇麗達にそう知らせたのは、得体の知れぬ影である。正体がわからぬ分、蛇よりも怪しいと言える。
宇麗の驚きと迷いを見透かしたように、蛇が低く笑った。宇麗は相手をねめつけると言った。
「取引、と言うからにはお前は我らに何を渡すつもりだ」
「紺という少女だ」
宇麗は息を呑む。
「何故、紺が……! お前達のところにいるということか! 孤児院を襲ったのはやはり貴様か!」
「おっと、落ち着いてくれよ。あの少女をお前達のところから攫ったのは俺達ではない。さっきも言ったろう。ことを起こしたのは鬼逆だ。数日前、孤児院に忍び込み捕われた者を殺したのは鬼逆の手下達だ。そいつらが紺を連れ去った」
「では何故」
「あの夜、孤児院から逃げる鬼逆の手下どもは俺達が捕えた。その際に少女を無事保護した、というわけさ。無論、すぐに解放することも出来たが……仲間がお前達のところに捕えられているからな、交換といこうじゃないか。悪い話ではない筈だぞ」
宇麗は油断なく男の姿を見つめながら、必死に考えを巡らせる。内心を見透かされぬよう、咄嗟に繕った表情は冷笑だった。
「あまりに突拍子がなくて到底信じることが出来ん。紺が無事お前達のところにいるという証拠がどこにある。それに、あの若者がお前達の仲間だと? 本人は多加羅若衆の副頭だと言っているぞ」
男を試すための言葉だったが、相手は動揺した様子も見せなかった。含み笑いすら感じさせる余裕の口調である。
「そいつは機転だな。多加羅若衆だということにしておけば、お前達の動きを縛ることが出来るからな。どれ程にあやしい人物であろうとも、多加羅若衆であるという疑いがあれば、お前達は迂闊に手が出せんだろう」
機転――そう言われれば、宇麗にも蛇の言い分は尤もに思えた。では、あの影は何故青年が若衆だなどと告げたのか――宇麗の思考をなぞるように、男が言った。
「しかし、あいつが自らそのようなことを言うとは考えられん。もしや鬼逆にいっぱい食わされたんじゃないのか? あいつを多加羅若衆だとでも吹き込んでおけば、媼といえども万事に用心深くなるだろう。そうすればお前達に邪魔をされたくない鬼逆にとっちゃ、動きやすいってわけだ。何より、あいつは全ての所業が鬼逆の仕業と知っている。拷問でもされてあいつが真実を口にするのを誰よりも恐れているのは鬼逆自身だからな。それを防ぐためかもしれん」
笑い含みに言った男が腕を下ろす。外套の内に消えるその一瞬、まるで蛇の尾がぬらりと揺れたように、宇麗には見えた。
「証がほしい。本当に鬼逆が一連の出来事の首謀者ならば、お前達が捕えた者どもをこちらに引き渡してもらいたい。話が本当ならば、そいつらは孤児院に忍び込んだということだろう。媼の縄張りで勝手はさせん。騒動を起こした者はこちらで処分を行う」
「そいつは無理な相談だ。それはあんたらの掟であって俺達の掟ではないからな。鬼逆は耶來が裁く。その手下もだ。引き渡すことは出来ん」
「だが、お前の言葉が真実かどうかの証はどうなる? そんな話を容易く信じるとでも思っているのか?」
「信じる信じないは自由だが、取引に応じる方が賢明だと言っておこう。取引の刻限は明日の十七の刻、場所は街の北東の外れにある廃屋だ。来る人数は三人まで、それ以上で来たり武器を持っている者を見た時には少女を殺す」
「……紺に手を出してごらん。お前の仲間とて無事には済まない」
「それはお前達次第だ」
低く言うと、男は素早く身を翻した。滲む白に溶けるようにして消える。宇麗は咄嗟に階段を駆け上がり、男が消えた先を見た。しかしそこにはただしんしんと降る雪の影があるだけだった。
宇麗は立ち尽くす。剣の柄を握り締めたままの手が、凍えるように冷たい。関節が強張る程に強く握りしめたまま、宇麗はそこから手を離すことが出来なかった。思考が渦巻き、空転する。しかし、一つだけ確かなことがあった。この取引は公平ではない。蛇の言葉が真実であるのか、それとも影の言葉が真実であるのか、それを判断するものが宇麗には何もないのだ。
(いや、それは違うな)
苦々しく考えた。あの青年だ。彼だけが、全てを明らかにすることが出来る筈だ。多加羅若衆なのか、それとも蛇の仲間、耶來の一員なのか。
(あいつが耶來……?)
信じられぬ。これまで見て来た青年の様子から、耶來の一員などという発想は全くわかなかった。口を閉ざすのは多加羅若衆であるが故だと、宇麗は殆ど確信していたのだ。だが、彼が耶來であれば――それとて口を閉ざすのは尤もではないか。
男の腕に蠢く蛇の、その残像が瞼の裏に揺れる。それに、まるで思考までもが縛られたかのような感覚に陥る。おぞましさは、容易には消えなかった。
――人だ――
ふと浮かんだのはその言葉だった。あの青年がぽつりと零した。一体何が彼を支えているのか、そう問うた宇麗に対する答えだった。
人を信じる思いなのだと、彼は確かにそう言っていたのだ。
宇麗は漸く柄から手を離すと、足早にその場を去った。
今更ながら、物語の展開にほころびを見つけることがあり、そのたびにひやりとします。書いている時は気付かないものですね。修正するとなるとかなりさかのぼる必要もあり、とりあえずそのままにしていますが……。でもまあ、書いた時点での力量、ということなのでしょう。今なら違う展開にする、と思う反面、この展開は過去の自分しか書けなかったんやな、とも思うわけで。
ではでは、次も迅速に更新! を目指します!