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灰が階下へ向かうと、そこには設啓をはじめ若衆達が集っていた。泣きつかれて紺が眠るまで短い時間ではなかった筈だが、ずっと灰を待っていたらしい。その顔ぶれに灰は言った。
「夢見が悪かったようです。先程眠りました」
「彼女は一体何者だ」
間髪を入れずに問うたのは設啓だった。他の面々も灰の答えを待ち構えているようである。それに灰は気付く。どうやら、無為に彼を待っていたわけではないらしい。灰から真実を聞き出す、そう申し合わせてでもいたのか、設啓の言葉は言い逃れを許さぬ強さだった。
「どのような事情があるかはわからぬが、今回のような騒ぎは困る。人目を引くわけにはいかぬことをわかっているだろう。彼女のために若衆を危険に晒すことになりかねん。我らが緩衝地帯に入ったのは極秘なのだからな」
「紺は今回の俺達の任務と無関係ではありません」
灰の言葉に、設啓は束の間返す言葉を失った。
「どういうことだ?」
「話す前に、俺からも聞きたい。何故、いまだ皆が残っているのですか?」
責めるでもなく単純に不思議に思っているような灰の声音だったが、問われた若者達は気まずく顔を見合わせた。中の一人が意を決したように言った。
「俺達は調査打ち切りに納得がいかず残りました。打ち切りという判断をされた理由と、それにも関わらず副頭のみがいまだ動いているのは何故か、それをお聞きするまで多加羅へ戻る気はありません」
設啓は注意深く灰の様子を窺う。怒るか、うろたえるか、そう思って見やった相手は困ったような表情を浮かべただけだった。
設啓は一つ唸ると、床に胡坐をかいて座り込んだ。そして目の前の床に一枚の紙を置く。それに若者達の視線が集まった。設啓は睨みつけるように灰を見上げた。
「これを見てくれ」
真剣な声音に、灰も表情を改めると設啓の向かいに胡坐をかいた。戸惑いを浮かべた若者達が、設啓の視線に促されるように二人を囲んで床に座った。
灰は紙を広げると、硝子筒の仄かな明かりのもとで、短い文を読んだ。
「多加羅若衆の副頭を、媼が不当に拘束せしめるものなり」
設啓が灰の思考をなぞるように、文面の言葉を言う。
「今朝方、扉の下から入れられているのを見つけたらしい。誰が書いて寄こしたかわからぬ。これが、何を意味するかわかるか?」
「須樹さんが媼のもとにいる、ということですね」
迷いのない言葉に、若者達の間から驚きの声が漏れた。設啓は無表情に腕を組むと言った。
「そろそろ、皆にも本当のことを言ったらどうだ? 何故、緩衝地帯に調査に来たのか、何を考えて調査を打ち切り、今はどのように動いているのか。そして、あの少女が何者なのか」
短い文面を凝視していた灰は一つ小さく息をつくと、紙を床に置いた。半ば伏せていた顔をあげると言った。
「わかりました」
ただし、と灰は周囲の面々を見回す。
「俺がしていることは、既に若衆の枠をこえています。この先何か不測の事態が起こった場合、俺がしていることを知っていたら、皆の若衆としての立場も危うくなりかねません」
意想外の灰の言葉に、若者達は戸惑いを浮かべる。咄嗟に言葉を放とうとした設啓だったが、灰の視線にそれを呑み込んだ。初めて見る、強い視線が向けられていた。
「そんなの……構いません! 須樹さんのことといい、真実が知りたいんです」
「俺達で出来ることがあれば、何でもやります!」
不意に若者達が声をあげた。口々に同様の言葉が続く。設啓は熱意すら浮かべる面々を見回した。何を馬鹿な、と思う。よく聞きもせぬうちにこのように突拍子もない、まるで若衆としての立場を危険に晒すようなことを若者達が口走るなど、彼には信じられなかった。そもそも、若者達には灰とのやり取りに口を出さぬよう言い含めてあった。灰の真意を明らかとする、そのためにはそれが一番良いのだと、皆が頷いた筈だった。それにも関わらずこれはどういうことか。
止める間もない――そう思い、不意に気付いていた。止めることは出来た筈だ。それを突き崩したのは何か。
(俺の言葉が封じられたが故……)
設啓は愕然とした。場の主導権は設啓が握っていた筈だった。灰は視線の一つで彼の言葉を封じ込めただけでなく、その場の流れさえも一気に己に向けたのだ。設啓はまじまじと灰を見つめた。火影に、灰の表情は常と変わらない。
「まず、はじめに知っていただきたい。俺は、何としても須樹さんを無事、多加羅に取り戻したいと考えています」
静けさに刻むように、灰が言った。
「そしてもう一つ、紺を守りたい。彼女は耶來に追われています」
一拍、落ちたのは静寂だった。皆の思考が言葉の意味に追いつくまでの、それはぽかりと空虚な洞を孕んでいた。次いで認識――問う声音に懸念と恐れが滲む。
「……何故、耶來が……?」
「全て、はじめから話します。今回の一件、俺達が調べていた緩衝地帯で起こった出来事の背後には、耶來が関わっています」
灰の声は密やかに、そして語られる言葉の不穏さにそぐわぬ穏やかさで響いた。
そもそもの始まりは須樹が緩衝地帯で行方を絶ったことだった。灰はそう語った。
「須樹さんの行方が分からなくなる前、緩衝地帯での一連の出来事がもしかすると意図的に多加羅若衆を貶めるために謀られたことであるかもしれないと、俺は須樹さんと話していました。無論、ほんの思いつき程度のことです。確かな証があったわけではありません」
設啓はそれが須樹とともに緩衝地帯の街や村で多加羅若衆を巡る噂を集めた直後のことだろう、と察する。まだ冬浅い時期だった。それ程前のことでもない筈だが、まるではるか昔のことのように思える。
「俺もその時点では、若衆として緩衝地帯の調査をすべきだとは考えていませんでした。ですが、若衆頭も交えての会議の前日、須樹さんか笠盛に向かったまま帰って来なかった。何かあったのではないかと、そう考えるのは拙速にも思えましたが、須樹さんが大事な会議を無断で欠席することがあるのか、と」
「それはなさそうですねえ……」
灰の言葉を遮るようにぼそりと言った若者に、周囲が咎めるような視線を向ける。だが灰は僅かにおかしそうに笑った。
「俺もそう思いました。帰って来なかった、ということは間違いなく何かが起こったのだと。須樹さん程の人がそう容易く厄介事に巻き込まれるとは考えられません。ですが、それが常ならぬことならばどうか……例えば、多加羅若衆を貶めようと画策する者達が本当にいて、その動きに気付いたならばどうだろうか、と。そして調べようとして逆に奴らに勘付かれ、捕われるような事態になっていたら……」
なるほど、と設啓は灰の言葉を聞きながら思う。既に灰の思惑を知っていた設啓だったが、灰が何故そのように考えたかまでは知らぬ。会議の日に須樹の不在を知り、会議が始まるまでの僅かな時間にそこまでのことを考えていたのか、と半ば呆れながら灰を見やった。
「だから会議の場で、敢えて一連の出来事の情報を集めるべきだ、と意見を出したんだな」
半分は周囲の若者に聞かせるために、設啓は問う。灰は頷いた。
「はい。今回の一件は若衆の手には負えぬことでした。沙羅久との争いを極力避けたい惣領家も若衆は動かぬのが最善だと判断するのではないかと……仮に須樹さんが謀略に巻き込まれたとしても、救うために動くことはないだろうと思いました。ですが、俺一人で緩衝地帯で須樹さんの行方を追うことは不可能でした。それならば、若衆として調査に赴くという名目があればいいと思ったんです」
緩衝地帯で起こる一連の出来事が多加羅若衆を貶める目的のもとに何者かが謀った可能性があること、そしてそれを密かに調べるべきだという意見を会議の場で述べた――その目的が実は須樹の行方を捜すためだったのだと、そう聞いた若者達は一様に複雑な表情を浮かべた。
「つまり、調査というのは本当の目的ではなかったんですね」
「無論、調べることは必要でした。何者かが緩衝地帯で謀略を仕掛けているとして、それを調べなければ須樹さんの行方も追えませんから。ただ……確かに、俺の中ではまず第一に須樹さんを捜すという目的があった。皆には悪いと思っています。結果として、俺は皆を利用したのですから」
だが、実際に笠盛で調べてみれば、謀略の影すら掴めなかった。真実、須樹が謀略を企む者達に捕われたならば、その者達がなりを潜めるのはむしろ当然のことであろう。そうであれば、須樹の行方を追うのは益々難しい。灰自身打つ手なく感じるようになった時期に出会ったのが紺だった。
そこまで語られた内容を聞き、設啓は灰をまじまじと見つめた。偽りを言っているわけではない。だが、明らかに、全てを語ってはいない。情報を得るために宇麗への接触を図ったこと、そして耶來を牛耳る鬼逆からの不可解な伝言――何れも若衆に知らせるにはあまりに不穏なことではある。
「それで、紺は一体何者なんだ」
「彼女は媼が開く孤児院に入っていたようです」
「媼の……!?」
灰は頷くと、紺を不審な男達から救った経緯を語った。孤児院での不審火、そして紺を捕えた男達との遭遇――
「会話から男達は來螺の者のようでした。それもおそらくは裏側の一員だと思います」
「裏側と言うと……耶來か」
「はい。彼らは何か事を……それも多分に不穏な事を起こして逃げているようでした」
一体どれほどの血が流されたのか、男達の体から漂ってきた吐き気を催すような濃厚な血臭を、灰は思い出していた。
「紺が男達と遭遇したのは孤児院の庭だったようです。孤児院で起こった火事が恐ろしくて庭に出たところを男達に出くわし、無理矢理連れ去られたと言っていました。おそらく、火事は男達が起こしたのだと思います。そしてその隙をついて孤児院で何事かを成した……」
束の間灰は黙り込んだ。再び語り始めた声は、僅かに低かった。
「俺は、謀略を働く者達の動きが掴めぬのは、奴らが須樹さんを捕えた後、なりを潜めたせいだと、そう考えていました。ですが、それは間違っていたのかもしれない。笠盛は緩衝地帯を裏から支配する媼の本拠地でもあります。よく考えれば、不審な動きをする者達を媼が見過ごしにする筈がない。謀の黒幕の動きが全く無いのは、既に媼に捕われていたからではないのか。そうであれば、いくら調べたところで、何も掴めぬ筈です。そしてもしも、謀略を働いていた者達が耶來であれば、捕われた仲間の口を封じるために強硬手段を取ることも辞さないのではないか、と。おそらく孤児院には媼に捕われた者達がいたのでしょう。耶來の男達はそこに忍び込み、捕われた者達を殺したのかもしれない」
「殺す……? 逃がすためじゃなく、殺すためにわざわざ忍び込んだってのか?」
「はい。口封じのためではなくとも、耶來では失敗した者の命を奪うことはさほど珍しいことではないと、聞いたことがあります。それに、捕われた者達は既に媼の側に顔が割れている。逃がせばかえって足手纏いになりかねません」
しん、と沈黙が落ちた。
「恐ろしいな……」
ぽつりと一人が呟き、その響きがぎこちない余韻を残した。それに灰は静かな眼差しを向け、ふと顔を俯けた。
恐ろしい。非道な存在に向けての言葉は、同時に灰に向けられたものでもあった。それに灰は気付く。耶來の男達の思考を、その残虐な行為を、淡々と推測してみせた灰自身への言葉でもあった。
「何故、紺は男達に連れ去られたんだ。逃げるところを見たならばその場で殺されるんじゃないのか?」
設啓の言葉が響いた。事務的にも聞こえる乾いた口調は、気まずさに包まれた雰囲気を呆気なく破った。それに灰は答える。
「紺は以前、來螺の裏側で蛇と呼ばれる男のもとにいたようです。そこから逃げて媼の孤児院に身を寄せていた。そしてあの夜孤児院を襲った男達の中の一人が、蛇だったようです」
設啓は目を瞠る。
蛇、と灰は確かに言った。鬼逆の伝言にあった名が、まさかここで出るとは――設啓の思いを知ってか知らずか、灰の言葉は明瞭である。
「耶來は逃げた者をどこまでも追って制裁を下すといいます。蛇が紺を連れ去ったのはそのためでしょう」
「その場で殺すなどということをせず、より酷い制裁を下すために連れ去った、ということか」
灰の言葉の先を奪うように、設啓が言った。続く言葉は幾分苦々しい。
「そして、連れ去られそうになっている場に行きあたり、蛇から紺を奪ったわけか」
あっさりと灰は頷く。そのような反応がかえってくるだろうと設啓は既にわかっていたものの、やはりこの相手はどこかずれていると思わずにはいられない。蛇が紺を奪った相手をただで済ます筈がない。それを、灰は迷うこともなく紺を助けたのだ。神経が太いのか、それとも単に先のことを見通す力がないのか――少し前の設啓ならば後者と考えるところだ。
「……あの少女のことはわかった。だが、肝心なことをまだ聞いていないな。須樹のことはどう考えているんだ」
「須樹さんは、耶來と媼の争いに巻き込まれた可能性が高い。今は媼に捕われているのだと思います。耶來の者達に捕われた後に媼の手に落ちたのか、それはわかりません。おそらく須樹さんは、多加羅若衆に咎を被せぬために若衆であることを決して明かさない筈です。そうであるならば、須樹さんは耶來の者ではなくともそれに敵対する者か……何れにせよ一連の出来事に関係がある存在と考えられているのだと思います」
「何時からそのように考えていた?」
「紺を連れ帰った夜です。ただ、確証を得ることはまだ出来ていません」
「このところ単独で動いていたのは媼のもとに須樹がいるか確かめようとしていたのか?」
問い詰めるような設啓の言葉だった。
「はい」
「調査を打ち切ったのは何故だ」
「須樹さんが媼のもといることはほぼ確実だと思ったからです。笠盛では卸屋達の警戒が益々高まっていました。このまま留まり続ければ、若衆の動きが掴まれる可能性がありました」
「尤もらしいな。だが納得は出来ん。調査を切り上げる決定をして若衆を笠盛から遠ざけ、一人残って何をするつもりだった?」
二人の応酬に、周囲の若者達が気押されたように聞き入る。
「一つには、紺をこのまま放っておくことが出来ませんでした。蛇はおそらく彼女を捜している筈です。紺は蛇達が笠盛で動いていることを知っている。蛇にすれば彼女が媼のもとに戻る前に何としても見つけ出し口を封じたいと考えている筈です」
「なるほど……。だが、須樹のことはどうするつもりだ? 諦めたわけではあるまい。何を考えている?」
「正直に言えば、俺にもどうすればよいかわかりませんでした」
拍子抜けするほどに、あっさりと灰が言った。だが次の瞬間、その口元に笑みが浮かぶ。暗がりに浮かび上がるそれは、凄艶な翳りを帯びていた。
「今、この時までは」
張りつめた静寂が落ちる。
「多加羅若衆の副頭を、媼が不当に拘束せしめるものなり」
低く呟き、灰は床の紙に手を触れる。まるで、そこに宿る意図を読み取ろうとでもするかのように、僅かに目を伏せて言葉を継いだ。
「この文が意味することは何だと思いますか?」
唐突に尋ねられ、設啓は眉根を寄せた。
「……それがわかれば苦労はせん」
「俺は、この文の狙いは、若衆の間に混乱を引き起こし、そして媼に対する不信の念を植え付けることだと思います」
設啓は灰の言葉を反芻する。不穏に投げ込まれた短くぞんざいな一文。実際、若者達は不安を煽られている。そして文の内容が真実であれば、その不安は容易に媼への怒りと敵愾心に形を変えるだろう。灰の指先で、文は滲むように白い。
「仮に多加羅惣領家がこの文のことを知れば、媼に対して並々ならぬ警戒を抱くでしょう。それが狙いだとすれば、この文を寄越したのは十中八九媼の陣営の者ではない。おそらくは媼と敵対し、その足元を掬おうとする者なのだと思います」
「……耶來の者、ということか……」
「それはまだわかりませんが、可能性は高いと思います。ただ、耶來が須樹さんのことや、若衆の動きを把握したのはごく最近、おそらくは数日の内のことだと思います。もし以前から俺達の動きに気付いていれば、紺がここにいることも見逃されなかったでしょう。そうであれば、確実に蛇の襲撃を受けた筈です」
恐ろしいことを平然と言う。呑まれたように、誰も一声も発さなかった。設啓はなおも内心を窺わせぬ相手を前に、おもむろに切り出した。
「須樹のことはどうするつもりだ。考えがあると言ったが、聞く限り打つ手は皆無に思えるぞ」
「この文の狙いが媼への不信を煽り、多加羅と緩衝地帯の不和を誘発させるのが目的であるとするならば、その逆を突けばよい、ということです。この文に踊らされて媼を敵に回せば、例え多加羅惣領家といえども分が悪い。それならばいっそ媼を味方につければいい」
「敵の敵は味方、ということか?」
「そこまでは言いませんが、少なくとも正体不明の文の送り主よりも、媼の方が余程信じるに値するのではないかと思います」
「味方につけるなどということが出来ると思っているのか? どうするつもりだ」
「正攻法が一番いいでしょうね。正面から媼のもとに出向き、何者かが媼と多加羅との間に不信の種を蒔こうとしていることを伝え、須樹さんの解放を求める」
「……無茶な……だいたい惣領がそのようなことに頷く筈がないぞ」
呆れて言った設啓に、灰が返した。
「惣領には知らせません。媼のもとには俺が出向きます」
「な……」
設啓は続く言葉を失う。
「え……灰様が出向くって……そんな無茶な!」
「そうですよ。媼っていやあ、緩衝地帯で絶大な力を持つ相手ですよ。そのようなところにのこのこ出向いたりしたら、それこそ無事じゃすみません!」
口々に言う若者達の中で、設啓は唖然としていた。驚きを繕うことさえ出来なかった。その時設啓が灰に対して感じたのは、自身でも意外なことに些か力抜けするような思いだった。失望、とまでは言わぬ。だが、少なくとも灰の考えに期待を抱いていたのだと自覚するには十分なそれである。設啓には灰の言葉があまりに愚かしく聞こえた。それまでの彼の明晰さからすれば、まるで子供騙しのような案である。
「冗談だろう」
思わず問えば、返された視線ははっとするほど真摯なものだった。それに、設啓は表情を改める。
「いえ、冗談ではありません」
「そのような方法で須樹が救えると思っているのか?」
「では、どのような方法ならば救えると考えているのですか?」
逆に問われ、設啓は言葉に詰まった。
「勿論、突拍子もないことだとわかっています。ですが、多加羅若衆を巡り起こっている出来事の根底にあるのは、不信と疑念です。狼藉や噂は単なるきっかけに過ぎません。事がここまで悪くなったのは、人が疑心暗鬼に捕われて、物事を見通すことが出来なくなっているせいではないかと、そう思います。それを、俺は打ち破りたい」
強い響きには迷いの欠片もなかった。
「それに耶來の者達を媼が捕えていたならば、媼は今回の一件が多加羅若衆の仕業ではないと既に知っている筈です。須樹さんには何の咎もない。それを示せるのは多加羅若衆だけです」
「だが、須樹が若衆であると向こうが知れば、それを逆手に取られるかもしれんぞ。緩衝地帯に本来多加羅は手を出せんのだからな」
「媼はそのようなことはしないと思います。何よりも、逆手に取ったところで益がない」
「ですが、このことが沙羅久に漏れたら……」
言ったのは、それまで黙っていた若衆だった。それにも、灰は淡々と返す。
「媼がこちらの言うことを信じるならば、決して事を公にはしないと思います。もしも沙羅久に伝われば、この機会を逃さずに緩衝地帯での影響力をさらに強めようとするでしょう。辛うじて均衡を保っていた二惣領家の力関係が崩れれば、緩衝地帯の自治がこの先続くかどうかも微妙になります。どちらの所領にも属さずに自治を貫くことを誇りとしている緩衝地帯自らが、そのような危険を冒すことはないと思います」
「だが……媼が俺達の言い分を信じると思うか?」
「疑念に抗し得るものがあるとすれば、それは信念しかない。多加羅若衆自らが、媼のもとを訪れることに意味があるのです。こちらの言うことを信じるか否か、媼はそれを試されることになる。信じぬならば、まさに耶來の手管に呑まれることになるのだと……この文は若衆にとっては切り札になる。そこに、勝機があります。それに……俺は、須樹さんを信じています」
柔らかに灰が笑んだ。その言葉に彼が何を込めたのか、おぼろげながら若者達は悟る。須樹の人となりを知る彼らであればこそ、わかることだった。
不意に設啓が盛大な溜息をついた。それは滅多に感情を出さぬ彼にしては非常に珍しい。設啓は苦々しく言った。
「話はわかった。だが、媼のもとに一人で行くなどと、そのようなことは是認出来ん」
「ですが……」
「媼のもとには俺が行こう」
灰はその言葉に虚を突かれたように黙った。
「確かに、須樹を救うには小手先の方法では無理だろう。正面から、というのが案外一番いいかもしれん。だが、いかにそうであろうとも、惣領家の者が媼のもとを訪れるのはまずいだろう」
「そうですよ。灰様は行くべきではありません。緩衝地帯に惣領家の御方が来られていることを知られるだけでも大事です。ここは俺達に任せてください。若衆の信を示してやりますよ!」
一人が設啓の後に続くと、周囲の面々も次々に頷いた。それをぐるりと見やった灰に、設啓が重々しく言った。
「決まりだな。媼のもとには俺達六人が行く」
何事かを言いかけた灰を設啓が睨む。
「反論はさせん。多加羅若衆が媼のもとを訪れることに意味があるならば、これが一番いい方法だ。それがわからんわけではないだろう」
それに灰は黙り込んだ。確かに設啓が言うことには一理ある。己が多加羅若衆である前に惣領家の一員なのだと、それは紛れもない事実だった。そしてそのことが万が一明らかとなればどうなるか――
「わかりました。頼みます」
漸く答えた灰に、設啓は頷いた。二人を囲む若者達はどこか晴々とした表情を浮かべている。それを設啓は苦々しく見やった。彼が媼のもとに行くと言ったのは、何も灰の言を全て鵜呑みにしたからではない。無謀だと囁く声が内心にはある。だが、設啓が声を上げねばどうなっていたか。この場は既に灰が意図する流れに呑み込まれている。
疑念には信念をぶつける、灰の思惑は真実その言葉の通りなのか。否、と思う。灰が空手で媼の懐に飛び込む、そのような人物には到底思えなかった。確かな勝算があるからこそ、選んだ方法なのではないか――無論、それはこの一件を通じて灰と接したからこそ思うことだった。
さらに言えば、若衆自身が媼のもとをおとなうと自ら表明するのさえ計算の内ではなかったのか、と設啓は思う。何時の間にか己の望む方向に周囲を巻き込む――それは会議の時と同じ光景だった。設啓が言い出さなければ、逸る若衆達が結局は同じ結論を出していた筈だ。設啓が自ら赴くと言ったのは、若者達の手綱を締めるためでもあった。
だが、全てが灰の意図したとおりであるならば、一体何時からその流れに己は巻き込まれていたのか、設啓はそう思う。この場の主導権を握られた時か、調査を打ち切ると決した時か。それとも、更に以前からか。設啓にはわからなかった。
数日の内に媼のもとをおとなうことを決し、若者達は散会した。
我ながらよくもまあややこしい(と言うほどでもないですが)仕掛けを込めたものだと、読み返しながら思います。読んでいただいている皆様はどう感じておられるでしょうか。先の読めない展開を意図して書いていたのですが、客観的にどうか、となると少しわかりません。
何はともあれ、少しでも楽しんでいただければ幸せです!