76
多加羅へと報告のために戻った翌日、設啓は早朝に緩衝地帯へと発った。笠盛に着いたのは昼になる頃合いである。常と変らぬ活気を見せる市場を通り抜け、ねぐらへと向かった設啓は、戸惑いもあらわな若衆五人に迎えられた。
「副頭、これを見てください」
家の中に入った彼に、挨拶もそこそこに一人が差し出したのは折りたたまれた一枚の紙である。
「何だ、これは?」
「今朝方、扉の下から差し込まれていたんです。文のようなのですが……内容が不可解で」
設啓は何の変哲もない白い紙を開いた。そこには確かに文字が連ねられている。短い文だった。ぞんざいな筆致で書かれた内容にざっと目を通し、設啓は眉を顰めた。そのまま考えにふけるように黙り込んだ彼に、五人が詰め寄る。
「どういうことでしょう。そこに書いてある内容は……」
「まさか本当なのですか?」
その問いには答えず、設啓は低く問うた。
「灰様は戻っているか?」
「いえ、まだ戻っておられません」
言った若者は、はっと顔を強張らせた。
「まさか、そこに書かれているのは灰様のことですか?」
「いや、違う」
即座に設啓は否定した。己を見つめる若者達を見回し、再び文に眼を落とす。ゆっくりと読み上げた。
「多加羅若衆の副頭を、媼が不当に拘束せしめるものなり」
文はただその一文のみだった。
「この副頭とは、おそらく須樹のことだ」
若者達が黙り込む。次第にその表情にあらわれ起こるのは驚き、懸念、そして不安である。
「……どういうことです」
「須樹が暫く前から行方がわからなくなっていることを知っているな?」
「ええ、確か頭との会議あたりからでしたね」
落ち着いた声音で言ったのは錬徒を担う若衆だった。
「俺も詳しく事情を知っているわけではないが、須樹は緩衝地帯で行方を絶ったのではないかと考えられている」
言いながらも、設啓は混乱を抑えることが出来ない。誰がこの文を届けたのか。たった一文――驚くべきその内容である。
「一体この文は誰が……?」
「媼とは卸屋の元締めですよね。何故、そこに須樹さんが?」
副頭、と問う若者達の声に設啓とて答えられよう筈もなかった。見えぬところで一体何が起こっているのか、文の内容が真実であれ虚偽であれ、あまりに不可解である。
「とにかく無闇に動かず今は灰様の帰りを待とう」
答えながら設啓は思う。灰ならば何か掴んでいるのではないか。灰が何をしているのか、設啓は知らぬ。もしや、という思いの底には、不思議な程に納得する思いがあった。灰ならば、この不可解な状況を明らかとすることがかなうのではないか。しかしそれは、彼にしては常にない思考であり、到底是認し難いものだった。
――何を期待するというのだ。他を安易に恃むとは……――
腹立たしく設啓は己を戒めた。
その夜、笠盛の一角で騒動が起こった。媼の屋敷に何者かが侵入したのである。夜陰に紛れて屋敷に押し入った者達だったが、常になく厳しい警備の目を掻い潜ることは出来なかった。屋敷内部に蠢く不穏な影に気付いた者が直ちに仲間に伝え、密な連携のもとに侵入者を追い詰めた。だがほうほうの体で逃げた者達を捕えることはかなわなかった。
宇麗が侵入者の知らせを受けたのは、媼と執務室で向かい合っている時のことである。急ぎ現場に向かった彼女だったが、既に侵入した者達は逃げおおせた後だった。
「どんな者達だったんだい?」
「それは暗がりでどうにもわかりませんでしたが……やけに動きに無駄のない奴らでした」
「これだけの警備の目をくぐり抜けるとはな」
宇麗の声は半ば呆れたような響きだった。まさに屋敷全体をすっぽりと網で包み込んだかのような警備態勢である。そのような中、屋敷の内まで侵入を果たしたというのだから、相当な者達である。
「でも、逃げた奴らの様と言ったら、連携も何もない。まさに脱兎の如く、というやつでしたよ」
「そうだとしても、逃げた者勝ちだ」
暗闇から声が響く。黄である。屋敷の周りをひとしきり見回ってきたのか、手に松明を掲げて近付いて来る。
「それにしても、一体何が狙いだったんだろうな」
黄のその問いに宇麗は答えず、敷地内に生い茂る木々の影を見つめた。張りつめた静けさに沈む無風の夜である。木々の輪郭は奥行のない影絵を思わせた。
「そいつらがどこに忍び込もうとしていたかわかるか?」
「はじめに気付いた奴が言うには、どうやら地下に入りこもうとしていたみたいですね」
「地下だと? 確かか?」
頷く男を見やり、宇麗と黄は素早く視線を交わした。
「どう思う」
「おそらくお前と同じ考えだ」
答えた黄に、宇麗はすっと目を細めた。夜陰に鮮やかな、それは獲物に狙いを定めた猫の瞳に似ていた。
「あいつに会いに行くか」
更に周囲を見回るように部下達に命じ、宇麗と黄は屋敷の中へと向かった。
侵入者に対して迅速に対処が出来たのには実は理由がある。常日頃から媼の屋敷は厳重に警備が行われている。だが今この時ばかりは普段よりもさらに念入りに見回りが行われていた。孤児院で起こった惨劇故でもあるが、それに加え数日来不審な人影が屋敷の周囲をうろついているのに見張りが気付いたせいだった。
その情報は直ちに媼へと伝えられ、結果として宇麗が中心となり普段よりさらに厳しい警備態勢を敷くこととなったのである。屋敷の中まで侵入されたものの、宇麗達が築いた万全の備えが、起こり得たかもしれぬ惨劇を未然に防いだのだ。
だが、逃がしたのはやはり痛手だ――宇麗は歩きながら考える。侵入者が何者かはわからねど、孤児院への襲撃者か、それと関わりのある者だった可能性は高い。つまりは緩衝地帯で起こる一連の出来事の黒幕に繋がる輩だということだ。捕えることがかなったならば、今度こそ謀略の首謀者に近付けたかもしれぬ。
ただ一つ、収穫があったとすれば、侵入者がどうやら地下を目指していたらしいということだ。それが意味することは、如何に不透明な状況とはいえ一つしか考えられなかった。もっとも、侵入者が例え地下に忍び込むことがかなおうとも、目的――如何なる目的かはわからねども――を達することは出来ずに終わっただろう。奴らが狙っているだろう存在は、既に地下にはない。
二人が向かった先は屋敷の三階、奥に設えられた部屋だった。身を隠す場所とてない真直ぐな廊下を歩むと、突き当たりの扉の前には不寝番の見張りが剣を携えて椅子に座っている。見張りは二人の姿に気付くと素早く立ち上がった。緊張の面持ちで宇麗に問うた。
「先程の騒ぎは何だったのですか?」
「この屋敷に忍び込もうとした者達がいたようだ」
「何ですって?」
孤児院での惨劇を思い起こしたのか、声が張り詰める。それに、宇麗は安心させるように一つ大きく頷くと、落ち着いた声音で言った。
「大丈夫だ。すぐに逃げたらしい。傷ついた者は誰もいない。中の様子はどうだ」
ほっと安堵の息をつき、見張りは答える。
「特には何も。眠ってはいないようですが」
「そうか。少し話がしたい。開けてくれ」
見張りは頷くと、閂を外し扉を開いた。宇麗、そして黄の順番で中に入る。そこは小さな部屋だった。寝台と机のみが置いてあり、窓はない。宇麗は後ろ手に扉を閉める。
仄暗い中で、青年は片膝を抱え込むようにして寝台に座っていた。宇麗と黄の突然の訪れにも、青年が驚いた様子はなかった。宇麗は腰に手を当てると、青年を見下ろした。己の視線を臆することなく受け止める相手に問う。
「そろそろ答える気になったか? 須樹」
青年は答えなかった。無論、答えなど期待していなかった宇麗だが、青年と対するたびに感じるもどかしさが胸中に渦巻く。
――多加羅若衆の副頭というのは本当か?――
そう問うた夜でさえ、彼は僅かに驚きを示しただけだった。その落ち着きが宇麗には意外だった。問うても答えぬ相手に、もたらされた情報が真実か否かを判断することが出来ぬ。だが、彼が多加羅若衆の副頭であれば、地下の一室に罪人さながらに押し込めているのは如何にもまずかった。無論、今でも拘束していることに違いはないが、扱いは格段に違う。有体に言えば、人間扱いをしている、ということだ。
この部屋に彼を移し、既に数日が経つ。地下に捕えていた時には如何にも囚人然としていた青年だったが、湯浴みで汚れを落とし真新しい衣を纏っている。食事も日に三度と規則正しいものとなっていた。突然の待遇の改善にも、青年は何も問おうとはしなかった。淡々とそれらを受け入れ、そして今、この時に至るまで一貫して口を閉ざし続けている。決して真実を明かそうとせぬその態度が、ただの強情ではないように宇麗には思えた。
では一体何が彼の口を閉ざすのか――仮に彼が若衆であるとして、それが明らかとなってなお、何が彼を支えているのだろうか。
「先程騒動があった。この屋敷に忍び込もうとした輩がいた。事無きを得たが、連中はどうやら地下を狙っていたらしい」
黙って聞き入る相手に、宇麗もまた淡々と告げる。
「お前を狙ってのことではないかと、あたしは思っている。だが、何故だ? それがわからないのさ」
「心当たりがあるならば言ってくれないか。俺達もこの前のような惨事は御免だ。お前に狙われる理由があるならば、また今夜のようなことが起きるかもしれぬ。それがわかれば備えも出来よう」
「あたし達の仲間がお前のせいで犠牲になるようなことは避けたいからね」
交互に言った宇麗と黄を、青年は見やる。その表情に、僅かではあるが葛藤の影が過ったのを宇麗は見逃さなかった。どうやら彼もまた孤児院での惨劇を思い出したらしい。己のせいでさらなる犠牲が、と言われれば表情を消すことが出来なかったのだろう。それがこの青年の性質であり弱みなのだと宇麗は思う。悪人ではない。これは宇麗と黄が二人ともに青年に抱く印象だった。
「狙われる心当たりは?」
青年は小さく溜息をついた。
「何もない」
漸く答えるとそれきり口を閉ざした。その言葉に嘘はないだろう、と宇麗は判断する。そして思うままに問うていた。
「お前がそこまで口を閉ざす理由はなんだろうな。あたしにはよくわからない。確かに緩衝地帯に多加羅と沙羅久は手出し出来ない。下手なことをすれば大事だ。お前が口を閉ざすのは多加羅若衆を守ろうとしてのことなんだろうが、それを支えるのは何だ? 多加羅若衆としての矜持か?」
答えは期待していなかった。案の定何も言わぬ相手に宇麗は肩を竦め、踵を返した。
「まあ、いいさ。言う気になるまで気長に待とう。行くぞ」
腕を組んで遣り取りを聞いていた黄もまた宇麗に続く。部屋の外へ出かけた二人の背に、その時声がかけられた。
「俺を支えるものが何か、それは信じる思いだ」
ぽつりと、まるで己に言い聞かせているかのように響く。宇麗は振り返った。
「信じる……? 何をだ」
青年が真直ぐに顔を向けた。迷いの無い視線である。
「人だ」
それだけを言って、青年は現から己の思考へと沈み込むかのように、視線を逸らせた。その姿を見やり、宇麗は部屋を出ると静かに扉を閉ざした。
廊下を歩むと、背後から狼狽したような黄の声が聞こえた。
「しかし益々こんぐらがってきたな。あいつが多加羅若衆だとして、何故狙われる? それも媼の屋敷にまで忍びこむとは相当なことだ」
続く黄の言葉は張り詰めた響きである。
「厄介なのはそれだけではないぞ。あいつが狙いなら、媼の屋敷に捕われていることを奴らは知っていた、ということだ。極秘事項だぞ」
「ああ、わかっている」
「内部から情報が漏れた可能性は考えられるか?」
黄の問いに、宇麗はすぐには答えなかった。廊下に設えられた窓の前で足を止める。庭を見下ろせば、松明を掲げて辺りを見張る男達の姿が浮かび上がっていた。
「わからん。だが、奴らも追い詰められているのではないかと、あたしは思っている。今回のやり方はあまりに強引だ。これだけの警備を見れば、余程でなければ忍び込もうなどという気は起こさぬだろう」
「確かにな……」
「だが一つわかったことはあるぞ」
その声音と、振り返った宇麗の眼差しに黄は口を噤んだ。
「やはり、須樹はただの通りすがりではない、ということだ。こうなると、笠盛で何をしていたのか、何としても吐かせねばならん」
決然としたその声音に、黄がふと困惑を浮かべた。次いでがしがしと頭をかくと溜息をつく。その様子を宇麗は訝しく見つめた。
「参ったなあ……」
「何がだ」
「お前の言うことはわかるんだが、俺はな、どうにもあいつを……須樹を憎めない心地になってきているんだ」
「……」
「あいつに何か薄汚い裏があるとはどうしても思えんのさ。それはお前も同じだろう?」
心底困ったような黄の口調に、宇麗は眉を顰めた。それ以上の言を咎めるその表情に気付いているだろう黄は、気負う様子もなく言い募った。
「やはりお前は人を見る目があるな。最初からあいつのことを買っていただろう」
「……そのように見えたか?」
「自覚がないようだが、思い切りそんな風に見えていたぞ。間違って拷問などせずにいて良かったな」
「多加羅若衆を拷問したなどとなると、後々禍根を残すことになるからな。この先も口を割らせる方法には気を付ける必要があるだろうな」
「俺はそういうつもりで言ったんじゃないんだがなあ」
ではどういうつもりだ、と宇麗は胡乱に男を見やった。それに黄はにやりと笑んで肩を竦めてみせた。お前もわかっているだろう、としたり顔に言った。
「あいつも言ったように、要は人だ。人と人を繋ぐ信頼、というやつさ。利害よりも何よりもそいつが重要だと、俺は思うわけだ」
「ふん、卸屋らしからぬ甘いことを言う」
宇麗は言い放つと黄に背を向けた。だが、宇麗の言葉もまた迷いを孕み、力がなかった。それに己で気付き宇麗は渋面になるのを抑えられぬ。振り返ってその顔を見せるのも腹立たしく、足を速めて廊下を進んだ。
(あいつが緩衝地帯にとって害ある存在ならば、甘いことなど言ってはおられぬ)
そう考えながらも、宇麗は先程青年が向けた眼差しを忘れることが出来なかった。仮に青年の存在が害になるとして、己は彼をどうするだろうか。例えば、その命を奪うことが出来るだろうか。
――そうして築かれた緩衝地帯の安寧に、そも如何程の価値があるのだ――
宇麗は思考を振り払うように強く頭を振った。
「何を馬鹿な。たった一人と緩衝地帯を秤にかけるなど愚かなことだ」
背後を歩く黄は宇麗の唐突な言葉に何を問うでもなかった。思考が読めるわけでなし、しかし黄にも宇麗が何を考えていたかわかっているのだろう。宇麗の迷いを、理解しているだろう。
媼ならばどうするだろうか――宇麗はふとそう思った。
設啓はがばりと身を起こした。
眠気は目を開けたその時に霧消し、些か唐突な覚醒に認識が追いつくまで暫くかかった。再び、彼の眠りを破った音が聞こえる。それが悲鳴であると理解するのにさらに数瞬を要した。
「一体何事だ」
呟くと素早く部屋を出た。するとそこには既に階下から集って来た若者達五人の姿がある。紺の部屋の前で戸惑った様子で立ち竦んでいた。そのうちの一人が設啓を振り返り、あからさまにほっとした表情を浮かべる。
「副頭……」
「どいてくれ」
設啓は若者達を押しやると、扉の前に立った。扉を叩くも答えはなく、尚も高く細い悲鳴が切れ切れに続いている。
「開けるぞ」
言ってから扉を開け放つ。途端に明瞭に耳を貫く悲鳴――その甲高い響きに設啓の背後で若者達が怯むのがわかった。設啓もまた暗がりに沈む部屋に立ち入るのを躊躇う。
悲鳴は若者達にわけのわからぬ恐れを呼び起こした。悲鳴など珍しくもなかろう、そう思いながらも臆する。人がこのように痛々しく叫ぶことがあるのか――まるで追い詰められて逃げ場をなくした手負いの獣のように……。言うなればそれは安寧に包まれた日常を打ち破る赤裸々な不条理だった。
悲鳴が不意に途切れる。
「一体どうしたというのだ」
部屋に踏み込もうとした設啓だったが、少女の高い声音がそれを阻んだ。
「来ないで!!」
設啓は目を凝らした。少女の姿は寝台にはなかった。部屋の片隅に、まるで己の身を必死で守ろうとでもしているかのように蹲っている。その体が震えているのが、暗闇の中でもわかった。
「来ないで……」
哀願だろうか、それとも恐怖だろうか。弱々しいその声音は悲鳴と同様、若者達の動きを縛った。
その時ゆっくりと階段を昇って来る足音があった。
「灰様……!」
若衆の一人が言う。それに設啓は思わず振り返っていた。見れば暗がりの中を近付いて来る灰の姿があった。外套を羽織り、髪を隠していた布だろうか、それを手に持って若者達の様子を不思議そうに見つめている。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも……紺がいきなり悲鳴をあげ出したんだよ」
設啓の声音は幾分不機嫌なものだった。狼狽しうろたえた、その己に対する腹立たしさ故である。
「紺が……?」
灰は呟くと若者達の間を抜けて設啓の傍らに立った。僅かに目を細めたのは暗闇を見通すためか、壁際に蹲ったきり身動きしない少女の姿を見つめる。一体どうするつもりか、と設啓は思わず灰の横顔をまじまじと見た。
灰の声はごく静かだった。
「紺」
その呼びかけに、紺がぴくりと身を震わせた。
「……灰……?」
「ああ。中に入ってもいいか?」
少女はなかなか答えなかった。答えを急かすこともせず、灰は少女を見つめている。周りの若者達の方がその沈黙に耐えられず、そわそわと落ち着かなかった。漸く答えた少女の声は、ともすれば聞き逃しそうなほどに小さかった。
「いいよ……」
灰は部屋の中へ踏み込もうとして、思い出したように設啓を振り返る。
「皆を下へ、お願いします」
「あ……ああ」
頷いた設啓を見やり、灰は部屋に入ると扉を静かに閉ざした。若者達は互いに顔を見合わせる。
「下へ行こう」
設啓の言葉に、皆一様に頷くと階段へと向かった。その後に続きながら、設啓は束の間扉を振り返る。そこにあるのは夜のしじまばかりだった。
灰はゆっくりと紺に近付くと、少し距離を置いてしゃがみ込んだ。膝を抱え込んで壁際に座り込む紺は、まるで己の姿を見られることを恐れるかのように益々身を縮める。膝を見つめる瞳は虚ろに、しかし大きく見開かれていた。
「紺、何があった?」
静かに問えば焦点を結ばぬ紺の瞳が灰へと向けられた。何も映していなかったかのような――あるいは誰にも見えぬものを見ていたかのようなそれが、徐々に現に染まる。
「あ……」
口元がわなわなと震えて、弱々しい声が漏れた。途端に紺の顔がくしゃりと歪む。溢れ出した涙を隠すように紺は顔を俯けると両手で頭を抱え込んだ。全身を震わせながらも、紺は嗚咽を漏らしはしなかった。身を守ろうとするかのように晒された腕が、凍りつく夜気の中、あまりに細く頼りない。
灰は紺をじっと見つめ、外套を脱いだ。それを少女の寒々とした肩にかける。灰の動きに、びくりと紺が身を震わせた。その耳元に灰は囁きかける。
「傷つけるようなことは何もしない」
外套を纏わせて再び距離を取ろうとした灰だったが、その動きを止める。衣の胸元を紺が掴んでいた。縋りつくように小さな拳で握り締め、呟いた。
「離れないで……お願い……傍にいて」
「大丈夫だ。どこにも行きはしない」
灰は頷くと、その場に膝をつく。なおも俯いたまま、紺は言った。
「ご……ご免なさい。迷惑……かける、つもりなんて……なかったの。わ……私……夢を、見たの……。お、恐ろしくて……」
「迷惑なんかじゃない。誰も紺を責めてはいない」
穏やかな灰の声音に、紺の肩が小さく震える。必死に、それは何かを押し止めようとしているかのように見えた。
ぽたりと、微かな音が聞こえた。見開いた瞳はいまだ虚ろなまま、涙ばかりが少女の感情をあらわすよすがのように、止めどなく床へと落ちる。
「……い……家が……」
絞り出すような、紺の声音だった。
「……家が、炎に包まれて……崩れ落ちていくの……わ、私、それを遠くから見てた……。怖くて、怖くて……家の、な、中には……まだ幼い子もいたの……。みんな寝てた……。に、逃げ遅れた子も……いたかもしれない」
途切れ途切れのそれは、夢にしてはあまりに詳細な描写だったが、灰は問い返すことはしなかった。衣を掴む紺の手が白い。
「わ、私が……火を点けたの!」
叫ぶように、紺が言った。
「私が……! 死んでも構わない……い、生きていたくないって! 幸せな子なんて一人もいなかった。悪いことだと思ったけど、どうせならみんなで死のうと……お……思って……」
不意に、抑えることが出来なくなったのか、嗚咽が響いた。救いを求めるように腕を伸ばしながら、しかし紺は全てを拒むかのように身を縮めている。灰にはかける言葉が見つからない。何を言ったところで、その言葉は空虚に響くように思えた。ただ、あまりに小さなその姿が壊れそうに脆く見えて悲しい。
灰は少女を柔らかく抱き締めていた。一瞬紺の体が強張り、それまで辛うじて支えていたものが一気に崩れたように、力が抜けた。紺は灰の胸にぶつかるように縋りついた。堰を切ったように――まるで幼子のように紺は声をあげて泣いた。しゃくりあげ、それでも紺は言葉を続ける。まるで己の中の全てを吐き出すようなそれを、灰は受け止めることしか出来なかった。
「逃げるつもりなんて……なかったの! 火がどんどん広がって……動く気なんてなかった。で、でもその時……扉が開いてるの……気付いたの。普段は鍵のかかっている扉が……それを見たら私、ひ……必死で外に向かって走ってた。は……裸足で、走って、走って……気付いたら來螺の街を出てたの。……遠くから振り返ったら……燃える建物が見えたわ……!」
「うん」
「夜なのに、空が……真赤だった……。家が……紙の箱みたいに……崩れて行くの。わ……私……なんで……あんなこと……!! ……みんな中にいたのに、独り……逃げるなんて!!」
それは己への弾劾だった。少女が抱く恐怖の、その根源にあるのは蛇への恐れだけではなかった。自らへの断罪、その食い込むような痛みである。
「他の子を見捨てて……蛇から逃げて…………私……!!」
それきり口を噤んだ紺は、確かな拠り所を求めるように灰にしがみつく。灰は何も言わず、紺を包み込んだ。他にどうすればよいのか、彼にもわからなかった。ただ、今この時だけでも少女が己を支えるための、そのよすがとなるならば、それでよかった。
紺の体を縁取る命の光は、彼女の内心をあらわすのか、荒れ狂い目まぐるしく揺れ動く。痛々しく、引き裂かれるような情動に惑う様は、しかし火花にも似て美しかった。それが次第に緩やかになり、柔らかく少女の核を包み込む繭のように凪ぐのを、灰は見るともなしに見つめていた。
嗚咽が弱まり泣き腫らした紺の瞳が緩やかに閉ざされるまで、灰はじっと動かずにいた。きつく衣を握り締めていた紺の手がゆっくりと解ける。ぱたりと、下に落ちたそれを見やり、灰は少女の体を抱き上げた。寝台まで運び、そこに寝かせる。掛け布団を被せると、紺が小さく身じろいだ。うっすらと目を開くと、灰を見上げて言った。
「……ご免なさい……」
「何故、謝る?」
「わかんない……わかんないけど……」
呟き、紺は瞳を閉じた。続く声は、眠りと現の狭間で柔らかだった。
「……蛇は……来るかな……?」
まどろみに揺れるそれに灰は微かに笑んだ。
「蛇は来ない。紺に決して手出しの出来ぬ場所に去る」
「不思議……灰が言うと本当に聞こえる……」
語尾はかすれて消えた。穏やかな寝息を確認し、灰は寝台から離れる。
「嘘はつかぬ」
暗がりに一言残し、灰は部屋を出た。