75
緩衝地帯で密かに調べていた若衆が多加羅へと戻ったということを、仁識はその日の午後に知った。他ならぬ、設啓自身が鍛練所へと姿をあらわして伝えたのだ。
「若様はいまだ緩衝地帯におられるのか」
仁識は一通り設啓の報告を聞いた後にそう問うた。それに設啓は頷く。
「ああ、そうだ。念のため、もう暫く調べるということだ。それから調査打ち切りに納得がいかぬと言い張った若衆も五人、残してきた。俺もすぐに緩衝地帯へ戻る」
副頭に与えられた部屋で向き合いながらの会話である。仁識は腕を組むと、考え込む。若衆が調査のために緩衝地帯に入ってから既に十日以上が過ぎ、その間何の報告もなかった。それが突然調査は打ち切るという決定を下し、多加羅へと戻って来たという。何がしかの成果があるかと思えば、それも皆無である。何よりも奇妙なのは、調査を打ち切るという決定をした灰自身が多加羅へは戻らず、いまだに緩衝地帯で動いていることだろう。
「気に食わぬ」
仁識は呟いた。
「一体何を考えている」
「言っておくが、この決定は俺の考えではないぞ」
「無論、そうだろうな。若様は一体何を考えている。何か言っていたか?」
「いいや、何も。何を考えているか、俺とて聞きたいところだ。だが惣領家の御方に強硬に言われては、従うしかなかろう」
真顔で答えた設啓に、仁識は顔を顰めた。
「殊勝なことを言う」
苦々しい響きだった。設啓はちらりと仁識を見やった。
「苛ついているな。察するに須樹の件は、お前も知っていた、ということか」
「何だと?」
「灰様から聞いた。須樹が緩衝地帯で姿を消したそうじゃないか。灰様が若衆の調査を唱えたのも、実際は須樹の行方を探るためだとか」
「若様が、お前に言ったのか?」
「ああ、そうだ」
「気に食わぬ」
再度の言葉ははっきりと設啓に向けられていた。そこに込められた意味を、設啓は取り違えはしなかった。もとより、誤魔化しのきく相手ではないと思っている。見込み通り、というところだ。会議の場であらかじめ決められた結論を導くための意見を設啓が述べたこと、それに仁識は気付いている。それならば、設啓の立場もまた察しているだろう。何も言わぬことも出来たが、設啓は敢えて言葉を放つ。
「透軌様から呼び出しは受けたか」
仁識の表情が険を帯びた。苛烈な眼差しが向けられる。そこに驚きが浮かんでいたとするならば、それはおそらく設啓が自ら己の立場を明らかとするような言葉を発したことに対するものだろう。仁識の声音は益々冷たく、鋭い。
「まさか若衆頭自らが若衆の中に犬を放っていたとはな。若衆内部にまで腐った権力闘争の手を伸ばすとは呆れ果てる。透軌様に一体何を吹き込んだ」
「灰様は警戒するに及ばず。上に立つ者として人望を集める程の器ではないが、その周りは侮れぬ。須樹と仁識、特に仁識は味方につけるに如くはない。そんなところだ」
「お前に若様の人となりを調べるよう命じたのは透軌様ではなかろう。誰だ」
「それを明かすと思うか?」
「見返りにお前は何を得る?」
「問うてばかりだな。己で考えることが出来ぬわけもあるまい。それとも、俺の見込み違いか?」
素気なく設啓が言えば、仁識もまた辛辣に返す。
「聞かずともわかろうものだがな。卸屋は己が利のためならば、どのような浅ましい所業でも喜び果たすと言うが、どうやら真実のようだ」
だが、と仁識は皮肉に笑んで言葉を続けた。
「お前がそのように報告したのが何時のことかは知らぬが、今でも同じように考えているか? そうならば、お前は課された役割すらろくに果たせぬ、ということだ」
ふん、と設啓は鼻を鳴らす。
「確かに俺は灰様を見縊っていたようだ。今回は思わぬ一面を見ることが出来た。今も一体何を企んでいるのか……」
「それも透軌様に……いや、透軌様の背後にいる人物に伝えるか?」
「報告するのはそちらの役割だ。何を伝えるか……あるいは何を伝えぬのか、好きなようにすればいい」
「……なるほど」
仁識は呟くと、戸外に顔を向けた。苦々しい思いが込み上げていた。
「私を……試すわけか」
「さて、何のことか俺にはわからんが」
「よく言う。私が透軌様にすすんで尻尾を振るかどうか、それを確かめたいのだろう。一つ言っておくが、若様の影響力が今以上に高まることを警戒して私を若様から遠ざけたというなら、効果は知れている。あまり若様を甘く見ぬことだ」
「……覚えておこう」
設啓は表情一つ変えずに答えた。
仁識は鍛練が終わるとすぐに鍛練所を後にした。残って自身の鍛練をする気にはなれなかった。鍛練所の門を出て、暫し立ち尽くす。坂の上に浮かび上がる惣領家の屋敷を見やった。昼に設啓から聞いたことを、透軌に知らせねばならぬ。そう思いながらも、仁識は陰鬱な思いに捕われる。先日、透軌に呼び出されてから絶えず感じているそれだった。
どの道、突然に面会を求めたところで会うことはかなわぬだろう。まずは透軌付きの家司に話を通し、日を改めて訪れることになろう。報告するのは仁識の役目と言い切った設啓は、明日には再び笠盛に向けて発つという。彼が透軌に何も伝えずに多加羅を出るのか、それはわからなかった。だが、何れであろうとも、己が透軌に何を伝えるかで忠節の度合いを測られるのは確実だった。
何時かはこのような時が来るのではないかと、仁識は考えていた。望むと望まざるとに関わらず、大家の後継ぎとして多加羅中枢の動きに巻き込まれることになろうことは、十分にわかっていたことだ。だが、それがよもや灰と築いた信頼関係を秤にかけるような部類のものになろうとは、仁識は思っていなかった。――いや、わかっていながら、気付くまいと目を逸らしていただけか……仁識は自嘲の笑みを浮かべた。
三年前にあらわれた灰という存在が多加羅の人々に与えた影響は大きかったのではないか、と仁識は思う。それは気付かぬうちに広がる静かな波紋のようなものだ。灰に向けられるのが反感や嫌悪であろうとも、彼だからこそ人に与え得るものであり、それだけ彼の存在感が大きいということの証左でもあった。灰は対する者に必ず何かしらの印象を与える。まるで磁力のような、惹き付ける力があるのだ。
そして少なからずの人々が、灰という存在に魅了されていることを仁識は知っている。
おそらく、ごく早い時期から灰が持つ影響力に気付いていた人物がいるのだろう。無論、その人物が灰に抱いたのは好感などというものではあるまい。その逆であろう。
(おそらくは絡玄様あたりか……)
絡玄は多加羅における商いで大きな権限を握っている。市場の認可をはじめ、流通に関する事柄も絡玄の管轄だった。卸屋にとっても無視出来ぬ存在であろう。そして透軌が最も信を置く家臣が絡玄であることは多くの者が知っていた。それが、絡玄の勢力を益々強める結果となっている。
その絡玄ならば、灰を警戒する理由がある。次の惣領が透軌であると、多くの者が疑いなく考えている。だが、もう一人の惣領家の血筋である灰という存在が、この先透軌の障害になる可能性は皆無ではない。そして灰という人物を少なからず知る仁識にとっては、人々が灰の姿をより知ることとなれば、新たな惣領に灰を望む者が出ることは何の不思議もないことだった。
また、多加羅の貴族同士の尽きることのない権力闘争を考えれば、力を伸ばしつつある絡玄一派に対抗するために、灰を利用しようとする者が何時あらわれてもおかしくはない。無論、灰が自らすすんでそのような地位を望むことなど考えられぬことではあったが、権力を巡る争いは時に個人の思惑などはるかに凌駕するものだった。
峰瀬が如何なる思惑で灰を多加羅へ招じたか、それは知らぬ。だが、敢えて灰を人目に晒そうとしなかった惣領の思惑すらも越えて、密やかに動き出したうねりを、仁識は感じずにはいられなかった。人の欲望と執着に彩られたそれである。
「おおい、仁識!」
突然呼ばれ、物思いにふけりながら歩いていた仁識は振り返った。息を弾ませて坂道を駆けて来る冶都の大柄な姿があった。今日は冶都の範は休みの日に当たっていた筈である。
「良かった。今からお前の屋敷に行こうと思っていたところだ」
「どうした」
問いながらも既に仁識は察していた。どこかで設啓達が多加羅に戻ったということを知ったに違いない。思った通り、冶都は急いた様子で仁識に尋ねた。
「緩衝地帯に行っていた連中が帰って来たんだって?」
「ああ。よく知っているな」
「さっき鍛練所の前を通った時に、丁度帰るところだった若衆から聞いたんだ。で、どんな報告があったんだ? 須樹は見つかったのか?」
「ここはまずい。少し歩こう」
仁識は言うと坂道を逆に歩き出した。貴族の屋敷が建ち並ぶ界隈で立ち話は相応しくない。何より、静かな街路で話す事柄ではなかった。冶都も意図を察したのか、仁識の歩みに合わせた。
「どうせなら、防壁の外の広場に行こうぜ。あそこならば話を聞かれる心配はないからな」
屈託のない冶都の言葉に、仁識は頷いた。
広場は庶民の家々が建ち並ぶ界隈にひっそりとあった。夕暮れの頃合いで、人の姿はない。その一角に置かれた石造りの椅子に座り、仁識は設啓から聞いた話を大まかに話した。
「結局、須樹は見つかっていないんだな……。若衆達を引き揚げさせるなんて酷いじゃないか。灰は須樹のことを諦めちまったのか?」
気落ちした様子で冶都が言った。
「私はその逆だと思うがな」
「どういうことだよ」
「考えてもみろ。本当に諦めたのならば、若様も多加羅へと戻る筈だ。だがそれをせずいまだに笠盛にいる」
「設啓はそこらのことは何も言っていなかったんだろう?」
「ああ。だが、設啓の話では若衆を多加羅へ帰すという決定をしたのは若様らしい。若様としては若衆がいては都合が悪かった、ということだろう」
「つまり……?」
「つまり、若様は何か重大なことを掴んだということだ。おそらくは須樹に繋がる何かだろうな。そうなれば、建前としての若衆の調査などもう必要ない。掴んだことが危険を帯びることであれば、むしろ若衆を緩衝地帯から遠ざけて独自で動いた方がいいと考えたのだろうな」
「……そいつはつまり灰にとっても危険だということじゃないか」
「そうかもしれんな」
「それも一人で何もかもやろうってのか? 相変わらず自分のことには無頓着な奴だな。おまけに自分を案じる存在がいるってことをいまだにわからんらしい」
仁識は冶都をまじまじと見やった。その視線に、何だ、と冶都が問う。
「お前が若様のことをそんな風に思っていたとはな」
「何だそれは」
「いや、少し意外に思っただけだ」
「灰の心配をしているのは何もお前や須樹ばかりじゃない」
「私はさほど心配していないがな。若様ならば一人でも何とかする筈だ」
「本気でそう思っているのか。そうならば、お前も大概鈍い。何時までそんなことを言っているつもりなんだよ。実際はお前だって緩衝地帯にすぐさま向かいたいだろうが」
いつになく真剣な冶都の口調だった。まるで問い詰めるようなそれに、仁識は素気なく返す。
「私には鍛練の指導がある。向かおうにも向かえぬ」
「あのなあ、鍛練がなんだよ。そんなもん錬徒に任せればいい。お前が緩衝地帯に行かないのはそんな理由じゃないだろう」
「随分と言ってくれるな。お前に私の何がわかるというのだ」
仁識の声音がはっきりと険を帯びた。だが、冶都はそれに怯んだ様子もなく言い募る。
「この際だから言わせてもらう。確かにお前はすごいよ。博露院を飛び出すなんて並みじゃない。だが若衆に入ってから今までお前自身で決断して動いたことが一回でもあったか? 口では偉そうなことを言いながら、お前は結局与えられた枠から出れないんだよ。お前自身がどうにかしたいっていう思いは無いのかよ」
言い返そうとして仁識は言葉を呑み込んだ。一つには、冶都が浮かべる表情――もどかしさと腹立たしさが相混じったようなそれのせいであり、もう一つには心中に生じた戸惑いのせいだった。普段ならば反感と怒りしか抱かぬであろう冶都の言葉に、仁識が覚えたのは胸の奥にすとんと落ちるような感覚である。それへの戸惑いだった。
(何時かはこのような時が来るとわかっていた……)
不意に、思ったのはそれだった。冶都の言葉は、もどかしく心中に凝る惑い、自分でも掴み難かったものを、思いがけず明瞭な輪郭で浮かび上がらせたのだ。
若衆という枠の中で過ごす、その安穏とした日々が永劫に続くものではないと仁識は知っていた。だが、本当にそうだったのか。例えば、惣領家の一員であることに葛藤しながらもそこから逃げようとせず足掻く灰のように、職人である父親の家業を継がずより多くの人々の中で生きる道を選んだ須樹のように、そして迷わず南軍の軍士となることを目指す冶都のように――若衆でありながらも、彼らはその一時に甘んじることなく、己が進む先を見据えている。
引き比べて己はどうなのだ、と仁識は思う。博露院を厭うてやめた後は若衆が彼の逃げ場となった。大家の矜持に捕われた父親と対峙することを避け、心を痛める母親に背を向け、そしてただ一人進む先もわからず立ち尽くしている。何時までも若衆でいることがかなうわけもないものを、その中にいれば己の立ち位置があるのだと、それが永遠に続くのだと錯覚してはいなかったか?
「仁識、すまん。言い過ぎたか?」
黙り込んだ仁識に、冶都がおろおろと言った。それに、仁識は微かに笑んだ。時に嫌になるほど鋭いくせに、それが無意識ともなれば腹立たしく感じることさえ馬鹿馬鹿しくなる。
「謝るな。お前の言うことも尤もだと考えていただけだ。確かに、私は口先ばかりだな。お前達のように己の行先一つとて決めることが出来ぬ」
「あ……いや、仁識、本当に俺はお前を責めようと思ったわけじゃないんだ。何と言うか、だな……俺自身も須樹のことが心配で、緩衝地帯に行きたいのに行けんせいで苛々して、だな……」
「お前に悪気がないのはわかっている。問題は私自身にある」
ほろ苦い、仁識の言葉である。冶都は気まずそうに頭をかき、言葉を探すように視線を彷徨わせたが、結局何も言わなかった。
暫くの沈黙の後、仁識は言った。
「明日、私は透軌様に先程の話を御報告申し上げる」
普段と変わらぬ仁識の声音に、冶都はほっとしたようだった。
「灰が調査を独断で打ち切ったってことは、問題になるのかな」
「さあ、どうだろうな。だが、そもそも今回の調査の立案者は若様であって透軌様ではない。何も仰られないだろう」
「そうか」
安堵したような冶都の言葉を聞き、仁識は立ち上がった。それに、冶都が慌てたような素振りを見せた。
「もう帰るのか?」
「ああ」
「もう少し話さんか? まだ帰らんでもいいだろう」
「何を話すことがある。もう話すべきことは話しただろう」
「いいじゃないか。例えば……そうだ! 剣舞のこととか、だな」
仁識は冶都の必死な形相を見下ろし、眉根を寄せた。
「そういえば、設啓達が戻ったのを知ったから鍛練所に来た、というわけではなかったな。もとから私に用事でもあったのか?」
「ああ、そうだというか、違うというか……何と言うか、お前と話したい気分だったんだよ」
「何を企んでいる」
「……何も企んじゃいない。もう少しここにいてくれればそれでいい。たまにはゆっくり話したいこともあるだろう」
「気色悪い。生憎、私は無駄話は好かん」
「さっきのしおらしいお前はどこにいったんだよ!」
「やかましい! 何を考えているかは知らぬが私は帰るぞ」
歩きかけた仁識に対し、冶都はがばりと頭を下げた。
「すまん! 本当のことを言うから帰るな! お前に会わせたい人がいるんだよ。もう少ししたらこの広場に来る筈だ」
立ち止まり、仁識は振り返った。
「ここに来たのは、はじめからそのつもりだったのか。会わせたい人物というのは誰だ」
冶都は仁識の顔色を窺うように見上げながら、おずおずと言った。
「ほら、この前に言っただろう。第六公家に奉公する親戚がいると。今日暇がもらえたというから、どうせならお前に第六公家の許嫁がどのような人か話してもらおうと思ったんだよ」
ほお、と仁識は言う。その声音は、お世辞にも温かいものとは言えなかった。
「私はお前に言った筈だがな。私の許嫁のことに口を出すな、と。それを忘れたわけではあるまいな」
「忘れはせん。忘れはせんが、何と言うか助けになりたいんだよ。お前が結婚するならば、幸せになってほしいと、そう思うからだ」
仁識は天を仰いで溜息をつく。
「全く、懲りない奴だな」
言いながらも、そこにあるのは柔らかな響きだった。仁識は相変わらずの冶都のお節介にうんざりしながらも、怒りを抱くことはなかった。そのような己に内心に驚きを感じる。どうやら、これもまた己が目を逸らし逃げ続けていたことの一つ、ということか――そう思う。
「わかった。話を聞けばそれでよいのだな」
「会ってくれるか! ありがたい!」
途端に笑顔になった冶都である。その顔が、仁識の背後に向けられた。
「ああ、良かった。丁度来たところだ。仁識、彼女が第六公家に奉公している俺の従妹だ」
仁識は己の影の横に伸びたもう一つの影に気付く。振り返ると、逆光の中に人影があった。仁識は目を細めた。
「こいつが話していた仁識だ」
屈託なく冶都が言った。
「どうしたんだよ。こっちに来いよ。貴族とは言ってもこいつはなかなかいい奴だからな。気遅れする必要はない」
言われて、人影は二人へと近付いて来た。滲むように光の残滓が移ろい、あらわになる相手の顔を、仁識は見た。
「仁識、俺の従妹の羽那だ」
冶都の声を聞きながら、仁識は呆然と目の前の姿を見つめた。相手もまた、僅かに青褪めて仁識を見つめていた。
このような場所で会う筈がない。公歴書館の片隅、書物と柔らかな光に囲まれたあの静寂の中で出会う筈の相手だった。まるで約束事のように――そう、約束事だったのだ。仁識と娘の、それは口に出さぬ取り決めだった。周囲から切り離された異空間であればこそ、二人は向き合うことが出来た。それ以外の場所でまみえれば、築いた仄かな絆など瞬く間に崩れ落ちるのだと、互いにわかっていたのだ。
とうとう、知ることがかなったのだと、その時仁識は考えていた。だが、それはまるで自分の思考ではないかのように遠い。何度もあいまみえながら、それでも問うことがかなわなかったたった一つの言葉、その答えである。
――名を、教えてはくれまいか?
問えば相手は答えただろうか。それすらももう知ることがかなわぬ。
互いに名も、年も知らぬ。偶然の出会い――だからこそ守られる儚い静寂だった。それが破れたことを仁識は知った。そして己を見つめる娘の瞳の中に、同じ思いがあることに気付いていた。
(今頃知ったところで……)
あまりに皮肉な――このような思いは知るべきではなかった。互いの想いなど、知るべきではなかったのだ。
――出会うべきではなかった。
仁識は虚空に視線を投げた。広場の冬枯れした木立の向こうには、遥かに遠く宵に移ろう空があった。それは無慈悲なまでに透徹として、心を映すにはあまりに深く、美しかった。