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設啓が若衆を一堂に集めたのは、緩衝地帯に入ってから既に十日程が経った日だった。ねぐらにしている小さな家の居間に顔を揃えた若衆は、皆一様に疲れた表情をしていた。毎日足を棒のようにして歩きまわり情報を集めているが、今のところ若衆を貶めようとする者の気配とて掴めてはいなかった。全く意味の無い事をしているのではないか、そう思い始めている者がいることに設啓は気付いている。
設啓はおもむろに言った。
「今日まで御苦労だった。毎日よく調べてくれた。もう暫く俺と灰様で笠盛を調べてみるが、皆には明日、多加羅に戻ってもらおうと思っている」
驚きの表情を浮かべた若衆の面々を設啓は見回した。
「皆とともに俺も一度多加羅に報告のために戻る。出発は明日の早朝だ。すぐに出られるよう、準備しておいてくれ」
ほっと安堵するかのような雰囲気が若者達の間に漂った。だが、中には不服の表情を浮かべた者もいる。そのうちの一人が問うた。
「何故ですか? まだ何も掴めていません」
「これ以上調べても何もわからぬだろうと判断したためだ」
「灰様は……この場にはおられませんが、灰様もそのようにお考えなのですか?」
「二人で話し合った結果だ。皆には大事な鍛練がある。何時までも時間を浪費してはいられぬ」
「それは副頭とて同じではありませんか。灰様とお二人残られるならば、俺も残ってもう少し調べてみます。灰様がこの場におられないということは、今も動いておられるからではないのですか?」
勢い込んで言い募る言葉に、頷く数人の姿があった。それに設啓は意外の念を覚えた。皆が緩衝地帯での調査に辟易としているのではないかと彼は考えていたのだ。
「いい加減にしろよ。副頭が判断したんだから、多加羅に戻るべきだ。だいたい、多加羅若衆を貶めようとする者などいなかったんだよ」
押し殺した声は別の若者だった。疲労感すら滲ませてのそれに、同調する声がちらほらとあがる。それまで不平の一つも洩らさずに動いていた若者達だったが、その実何ら成果の出ない調査に、内心では苛立ちが募っていたのだろう。副頭の耳目のないところではひとしきり愚痴の言い合いでもしていたのかもしれぬ。
「灰様だって自分の考えが間違っていたから気詰まりでこの場にいないだけじゃないのか? だいたいあの少女は何なんだよ。あの紺とかいう。何時の間にか連れ込んで」
「おい、その言い方はないだろう。灰様は放っておけなかっただけだ」
「どうだかな。渡りの商人とはぐれた身寄りのない娘などと、お前は本当に信じてんのかよ。灰様はもともと何を考えているかわからん。だいたい灰様は來螺の生まれだぞ。俺達とは違うんだ。俺達に無駄に調べさせて、自分では何をしていたんだか……」
「何だと!」
怒鳴って詰め寄ろうとした若者を、設啓は押しとどめた。
「いい加減にしろ」
静かな声音だったが、抑え込まれた怒りの響きに若者達はぴたりと押し黙る。
「とにかく、お前達の任務は終わったんだ。異論は許さん。無駄に言い争う暇があるなら、明日帰る準備をしておくんだな」
「俺は納得がいきません」
「お前はもともと灰様贔屓だからな。灰様の意見が間違っていると認めたくないだけだろ。これだけ調べて何も出ないんだから、俺達は全く無意味なことをしてたってことだろうが」
「そうだよなあ。俺達は灰様の戯言につきあわされただけだってことだ」
灰に対する批判の声が上がる。それを設啓は無表情に見やった。
若者達の言葉は彼にも予想通りのものだった。若者達に多加羅へと戻るよう告げると決めた時、他ならぬ設啓が灰に指摘したことだった。当然出るだろう批判をどうするのか、と。灰は表情一つ変えずに答えた。そのようなこと構わない、それよりも若衆を早く緩衝地帯から遠ざけるべきだ、と。
「笠盛に入ってからお前達は何をしたってんだ!」
声を張り上げたのは、設啓に押さえられた若者だった。
「ただ漫然と過ごしていただけだろう。それも安全な場所ばかりうろついて、本当に危険な場所に行きもせず、ただ無為に歩きまわっていただけだ。それが調べたと言えるのかよ!」
「分担の区域をちゃんと調べたさ。区域外まで行けとは言われていない」
「何故危険な区域が担当の中になかったかわからないのか? そういう場所は全て灰様が深夜に回られていたんだよ! お前が寝こけている間にな! お前らみんな、そんなことにも気付かなかったのかよ! いい気になって批判出来る立場か?」
若者達がしんと押し黙った。指摘されたことに気付いていた者達もいたのか、気まずげに数人が俯いた。
「とにかく俺は灰様自身の口から話を聞くまで、多加羅に帰る気にはなれません。副頭、灰様と話をさせてください」
迫られた設啓は淡々と答えた。
「灰様は今はおられない。それに先程言ったろう。これは俺達で話し合った結果だ」
「副頭、俺は灰様がどのようなお方か、少しはわかっているつもりです。あの方は普段滅多に御自分の思いを口にされることはないが、何か事が起これば誰よりも真先に動かれる。それも自分の身を危険に晒して、周りを守るお方だ」
設啓はまじまじと若者を見やった。灰と若者達の間には常に一線がある。それは須樹や仁識、冶都といった、灰とごく親しい者達との間にも時折感じられるものだった。設啓から見れば、灰は若衆の中に溶け込むことはなく、若者達もどこか彼を敬遠していた。設啓とてそれは同様である。彼が灰の人となりを多少なりとも知ったのは、ここ数日間近に接したが故である。
だが、目の前で必死の形相を浮かべる青年の言葉には、真実灰への信頼と気遣いが籠っていた。
「本当に灰様は緩衝地帯を調べるのは無意味だと思われたのですか? 本当は何かを……それも尋常ではないことを掴まれたんじゃないんですか? そして我らの身を案じて、危険から遠ざけるために多加羅へと帰れと言っているのではないですか?」
「副頭、俺も残ります。少なくとも、何をもってこれ以上の調査には意味がないと判断されたのか、それを灰様の口から聞かなければ納得がいきません」
それまで押し黙っていた一人が言った。同様の言葉が二つ、三つと上がり、それ以外の者は気まずそうに俯き、あるいは理解できぬとでも言いたげに顔を顰めている。対照的なその有様を、設啓は興味深く見やった。これは彼にとって予想外の展開である。おそらく灰にとってもだろう。彼が若者達の反応にどのような顔をするか、とふと思った。
設啓は一つ頷いた。
「わかった。納得出来ない者は残るといい。それ以外の者は明日多加羅へと戻ることとする。気詰まりに思う必要はない。これは副頭からの命令だからな」
設啓は若者達を階下に残し、二階へ向かった。部屋に入ろうとして、背後の物音に振り返る。思わず出かけた溜息を呑み込んだのは、相手を気遣ったわけではなかった。己の感情をあらわにすることに対する抵抗故である。
案の定、斜め向かいの扉が細く開き、その隙間から少女が彼を見つめていた。
「何だ」
「お話し合いは終わった?」
「ああ。用がない時は部屋から出て来るなと言っただろう」
「用があるんだもの」
拗ねたような口調で言った相手は、設啓の憮然とした表情を気にした様子もなく廊下へと踏み出してきた。
設啓は紺と名乗るこの少女がどことなく苦手だった。若者達が胡散臭く思うのも無理はないと思う。それなりに様々な人間を見て来たという自負がある設啓だったが、少女は掴み難く、対すれば落ち着かない気分にさせられる。異性に対する気兼ねというものとはまた別である。少女は明るく無邪気に見える。だが、時折掠めるようにして垣間見えるもの――それは見る者に不安を引き起こす虚ろな翳りだった。
「ねえ、灰はまだ帰って来ないの?」
「ああ」
「いつ帰って来るの?」
「知らん」
少女は幼く頬を膨らませた。愛想なし、と呟くと小さく溜息をつく。気落ちした様子で俯くのに、これでは自分が苛めたようではないか、と設啓は益々居心地が悪い。そもそも、灰がどのような経緯で紺と出会い連れ帰って来たのか、紺という少女が何者なのか、それさえ設啓は詳しくは知らされていない。紺自身も詳細を語ろうとはしなかった。
極秘の行動をとる若衆の中に、どのような事情があるにせよ部外者を連れ込むなど言語道断と言えたが、紺は彼らに必要以上に干渉しようとはせず、彼らが何者かも気にしていない様子だった。ただ一人灰に対してだけ、紺は全幅の信頼を寄せ、それ以外の者に対しては関心すら抱いていないように見える。
そして肝心の灰はと言えば、少女を連れ帰った次の日から、何かとあけることが多く、今も一人別行動をとっている。少女のために部屋を譲り、今は設啓と同じ部屋で寝起きしているが、そこにも殆ど戻らない。一度ならず何をしているのか聞いたものの、いまだに明確な答えはなかった。それどころか、設啓に頼んでいた宇麗への伝手さえも、もう必要ない、という一言で白紙にしていた。先程若者が灰の真意を問うたが、最も知りたいと思っているのは設啓である。
「まあ、いいや。灰が帰って来たら知らせてね」
「何で俺が……」
「じゃあ、別の人にお願いするから。それでもいいの?」
つけつけと言った紺を設啓は睨みつけた。
「わかった、知らせる。だから必要以上に部屋から外へは出るな」
「わかってるわよ」
つんと顎をあげた紺はそう言うと、部屋の中へと姿を消した。
設啓は一つ肩を竦めると己の部屋へと入った。つまるところ、考えてわからぬことを悩むことほど無意味なことはない。紺のことは連れて来た本人である灰が責任を負えばよい、そういうことだ。
(だが、そろそろ本心を聞きたいところだな)
苛立ち紛れに思う。灰は何時戻るのかも定かではない。いい加減、何も知らされずにいるのにはうんざりしていた。振り回されている、と思う。気付けば何時の間にか灰が意図する流れに――それがどのような流れなのかわからぬから、尚更に腹立たしいのだが――巻き込まれている。設啓にとってはこの上なく不本意なことだった。
紺は小さな部屋の寝台に膝を抱え込んで座った。
殺風景な何もない部屋だった。一人閉じ籠っているといらぬことばかり考えて憂鬱になる。この街にはまだあの男がいるに違いない。蛇に掴まれた、その腕の感触が生々しく蘇る。思わずぎゅっと目を瞑り、紺はゆっくりと息を吐き出した。
――大丈夫、この場所のことはばれてない……大丈夫――
言い聞かせる程に、粟立つような恐怖が遠ざかっていった。それでも身内に湧き起こった不安は容易に消えてはくれない。
(灰がここにいてくれればいいのに……)
心細くそう思う。灰の静かな声を聞けば、少しは安心出来るのではないかと思う。
灰に連れられてこの家に来てから既に数日が経っていた。若者達が十人も一つ家に寝泊まりして何をしているのか、はじめこそ疑問に思ったが、紺は何も問おうとはしなかった。紺自身が己のことを知られたくなかったせいもあるが、彼らが総じて危険な部類の者達ではないとわかったからである。それに加えて、どうやら自分を匿うことで、灰の立場を――彼が若者達の中でどのような立場なのか、それは定かではないが――悪くしているらしいと悟ったが故だった。
例え彼らが何者であろうとも、灰さえいれば大丈夫なのだと紺は思う。何故、灰という人物をこれ程まで信頼しているのか、紺自身にもわからなかったが。
不思議な人だ、と紺は灰のことを思う。紺が嘗て來螺の裏側にいたことを知った者が、彼女にどのように対するかは概ね決まっていた。ある者は露骨に嫌悪を、ある者は同情を示す。怯えて近付こうとせぬ者も少なくない。あるいはわかった顔で慰めの言葉をかける者もいたが、紺にとってそれは遠まわしな拒絶でしかなかった。宇麗でさえ、はじめは紺を腫れ物に触るようにして扱ったのだ。
だが、灰の態度はそのどれとも違った。拍子抜けするほどあっさりと紺の過去を認め、怯えるでも嫌悪するでもなかった。耶來に追われていることを知りながらも恐怖の一つも見せぬのは、単に耶來の恐ろしさを知らぬのか、それとも肝が座っているのか、紺にも測りかねる。
紺は掛け布のうねりを何度も手で撫でながら、ぼんやりと視線を彷徨わせた。今頃、孤児院では夕飯の準備が行われているだろう。食事が始まれば、小さな子供達のお喋りで、食堂は蜂の巣をつついたような賑やかさに包まれる。ほんの数日前までの紺の日常――だが、それはいまや遠い夢の光景に思えた。あの温かい空間に己の居場所など所詮無かったのだ。もう二度と、戻ることなど出来はしない。
――あんなことをしてまで來螺から逃げ出したってえのに、哀れな奴だよなあ――
蛇の言葉を思い出す。蛇の言う通りだ、と紺は思う。
蛇のもとで過ごした歳月――周りには紺のような境遇の少年少女が多くいた。何れも蛇の商売の道具として使われ、この年になるまで生き延びた者は半数にも満たない。十年近い時を、恐怖と忍従と、身を切るような苦しみの中で耐え、逃げ出したのは十四の時だった。無我夢中で逃げて、気付けば笠盛に辿り着いていた。倒れているところを宇麗に拾われ、孤児院に迎え入れられて新たな人生を掴んだのだと思っていた。
だが、それは間違いだったのだ。
例え今灰が匿ってくれていても、何時まで続くかはわからぬ。結局、己は來螺を逃げ出した時から何も変わってはいないのだ。逃げて、逃げて、逃げ続けて――そして、例え蛇に見つかることはなくとも、一生恐怖と絶望を引きずっていくのだ。それは左腕に刻まれた印と同じで、決して消えはしない。
紺はふと顔を上げた。微かな眩しさが、過ったような気がした。だが、光など見えよう筈もない。壁には横に細長い窓が設えられているが、小さな家々が犇めく界隈である。素気ない家壁が連なっていた。まるで逃げ場のない己の境遇そのものだ、と紺は考える。息詰まるその圧迫に、じわじわと侵食されるような気持ちに捕われる。
ふと、紺は目を細めた。一点にまるで吸い寄せられるように目が惹きつけられる。じっと見つめると、褪せた壁の色彩の中で、そこだけが鮮やかに澄んだ青だった。それが空の色であることに、紺は暫くして気付いた。靠れ合うようにして並び建つ家々の真中に、まるで奇跡のように空へと一つの空間が開けていた。
遥かな紺碧――
「綺麗……」
ぽつりと呟く。胸が締め付けられるような感覚がわき起こる。つん、と鼻の奥が痛くなった。紺は慌てて目を瞬いた。
「変なの……なんで泣きたくなるんだろ……」
息詰まる程の憧憬――神の御業などというものがこの世に本当に在るならば、これこそがそうかも知れぬ。神の御手でなければ、奇跡のように、空の欠片をこの場所まで届けることなど出来ぬに違いない。見つめ続けていなければ、空へと続くその細い道が閉ざされるのではないかと、紺は半ば恐れを抱きながら目を凝らした。
空は、手が届きそうな程近くにも見えた。だが、手を伸ばしたところで、その沁みるような青に指先が届くことはないのだと、紺にはわかっていた。あの浄い色に触れることなどかなわぬ。だからこそ、記憶に刻みつけよう。せめて、自分にも空の光が届いた瞬間が僅かでもあったのだと――。紺は遠く果てしない一点を、いつまでも見つめていた。