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最果てに天深く  作者: 高原 景
73/117

73

 男は杯に手を伸ばした。軽いその感触に、傍らに置いた酒瓶を掴む。だがそれも既に中身はなかった。俄かに酒瓶を振りかぶると壁に投げつけた。鋭い音が響き、瓶は粉々に割れた。その破片を睨みつけ、男は頭を抱えた。込み上げる苛立ちには際限がない。何もかもが、男の思うままにならぬ。酔いさえも、彼の鬱憤を晴らしはしなかった。

 男がいるのは安宿の一室である。狭い部屋には装飾と呼べる物はない。ただ寝るためだけの部屋だ。男が座る寝台を見れば、宿主が客に快適さを供することなどおよそ考えてなどおらぬだろうことがわかる。硬いばかりの寝台は何ともわからぬ汚れが目立ち、長年陽に晒されていないらしい掛け布の黴臭さが鼻についた。

 男は齢四十半ばといったところか、のっぺりとした顔立ちの中で、細い目ばかりが酷薄な光を帯びていた。

 頭を抱えたまま、男は眼球だけを上げる。腕に彫り込んだ蛇の尾が眼前にある。蛇、と男が呼ばれる所以であるそれを、血走った目で見ながら彼は低く唸った。

 ――こんな筈ではなかった――

 幾度となく繰り返した言葉をまたも心中に呟く。

 何故、このような事態に陥っているのか、思う程に怒りが募る。はじめは何もかもが上首尾だったのだ。けちのつき始めは、笠盛りゅうせいで動いていた手下達がおうな率いる卸屋おろしや連中に捕えられたことだった。それとて、当初はさほど気に病む程ではなかった。捕えられた者達は皆、今回の依頼の詳細を知らぬ。ただ命じられて動いただけだ。万全を期して、蛇自身が直に接触することもなかったため、誰が上にいるかも彼らは知らぬ。報酬さえ受け取ることがかなえば、誰の元で動こうとも気にせぬ輩ばかりを集めたのだ。

 彼らを殺しに孤児院に忍び込んだところまではうまくいっていたのだ。もとより、蛇は捕えられた者達を生かすつもりはなかった。失態を犯した者達に怒りを抱きこそすれ、無意味な慈悲をかけるつもりなどない。彼らがいなくなれば蛇の報酬の取り分が増えるのだから、むしろ都合が良いとさえ思える。

 請け負った依頼自体は概ね果たしたと蛇は考えている。緩衝地帯の各地で狼藉を働き、時間をかけて多加羅若衆の悪評を広めた。評議会では、間違いなく緩衝地帯の権利を沙羅久しゃらくに委ねる決定が出されるだろう。媼が何を言おうとも、評議会の決定を覆すことはできまい。阻むためには多加羅若衆の狼藉ではないという確かな証が必要だが、唯一の手掛かりだった捕えた男達も、既に命はない。全てが思惑通りに運んだ筈だった。

 誤算はこん、あの少女である。孤児院の庭で少女と出くわした時、蛇は心底驚いたものだった。紺は、蛇が商売の道具として己の手元に置いていた少年少女のうちの一人だった。借金の形に紺が蛇の元に来たのは、まだ彼女が五つかそこらの頃である。その紺の裏切りを、蛇は決して許すつもりはなかった。來螺を逃げ出した彼女が、まさか笠盛の卸屋達の中に潜んでいたとは――だが、思わぬ遭遇がもたらした愉悦は一時のことだった。

(またも俺から逃げやがった……)

 紺は蛇の正体を知っている。彼女が卸屋のもとへ戻れば、孤児院に忍び込んだのが蛇であることがばれるだろう。緩衝地帯での一連の出来事が蛇の仕業であると知られればどうなるか――そうなる前に、何としても紺を捜し出し、その口を封じねばならなかった。依頼主に不首尾が知られる前に、迅速になさねばならぬ。だが、いまだに紺の行方はわからぬ。

 その時、扉が叩かれた。最初は一回、その後に素早く三回、そして暫く間を置いてゆっくりと二回。それを確認し、蛇はうっそりと立ち上がると扉へと歩み寄り鍵を開けた。扉を開けて入って来た手下の男に蛇は不機嫌に問うた。

「何か掴めたか?」

 だが男は答えなかった。その顔が僅かに引き攣っている。どうしたのだ、と問おうとして、蛇ははっとする。動こうとした蛇の機先を制して、低い声が響いた。

「動くな。ここで騒動を起こすつもりはない」

 死角となっていた扉の影からである。手下の体を押しやり、一人の男が部屋に無造作に踏み入ると、背後で扉を閉めた。一連の動作はまるで流れるようにさりげなく、隙がない。手下はいまだに体を強張らせている。見れば、その背に鋭い短剣があてがわれていた。正確に急所の一点を狙っている。

 蛇は目を眇めて相手を見やった。男は頭から足首まで、全身を覆う黒い外套を纏っていた。顔の下半分も布で隠し、唯一覗いている目元も影となってしかとは掴めぬ。わかることといえば長身であることと、声の調子からおそらく三十は越しているであろう、ということだけである。

「何者だ、てめえ」

 蛇はじりじりとさがりながら問うた。得物の極細の剣は身につけていない。己の迂闊さが腹立たしい。

 蛇の予想に反して、対する相手は小さく笑ったようだった。

「さて、敵か味方か、それを決めるのは私ではない。お前達だ」

 揶揄するように言うと、捕えていた手下の背を軽く押した。それだけの動きで、手下は部屋の片隅に不様によろける。黒衣の男は短剣を素早く仕舞った。その動きを目で追いながら、蛇は油断なく問う。

「どういうことだ」

「そう警戒するな……とは言っても無理な話だろうが、私は依頼主から新たに遣わされた者だ」

「ああ?」

「どうやらお前達は相当な不首尾をしでかしたようだな。私はいわばその尻拭いに雇われた。始末屋、と言えばわかるか」

「ふざけんなよ。そんなことが信じられるか」

「信じる、信じないは勝手だが……お前達がへまをしたのは事実だ。依頼主はいたく不快に感じている」

 蛇は内心の驚きをつとめて出さぬようにしながら、目まぐるしく考える。まさか一連の手落ちを依頼主に気付かれていたのか――

「お前が依頼主から遣わされたと信じる根拠がどこにある」

「何度も言わせるな。信じるかどうかはお前の勝手だ。だが、これは知っておいた方がいい。依頼主はお前達を生かしておくべきかどうか迷っている。なればこそ私をこちらに送ったのだ。これまでの失態を償うだけの働きをすれば、無事報酬を手にすることが出来る。だが、もしもこれ以上の失態を重ねれば、命はない。私がお前達を殺す。失敗した者には死を……確かこれはお前達の信条でもあったな」

 相手の涼しい声音に蛇は低く唸った。殺意すら帯びた怒りを抑え込む。どうやら、依頼主は想像以上にぬかりのない相手だったらしい。どこからか蛇の動きを監視していたということか。

「依頼は失敗していない。全て果たした」

「では、この笠盛の在り様は何だ。そこら中に卸屋どもの目が光っているぞ。どうやら奴らには緩衝地帯で起こった一連の出来事が多加羅若衆の仕業ではないとばれたようだな」

「だからどうした。それとて確かな証拠はないさ」

 言い募った蛇だったが、始末屋から返ってきたのは冷たい嘲笑だった。

「笠盛で動いていた男達が卸屋に捕まったらしいな。それが失態でないとでも言うつもりか」

「あいつらはこの依頼の狙いも、雇い主のことも知らねえ。無論、俺のこともな。捕えたところで何もわかりゃしねえよ。それに、片はつけた。もう生きてもいねえ」

「孤児院から少女を連れ出したのは愚かだった」

 これには蛇も言葉に詰まる。苛立たしく相手を睨みつけた。何故そのことまでも知られているのか、と内心で毒づいた。全身に影を纏うかのような相手に丸腰で顔を晒している自分が、ひどく間が抜けて思えた。そのように感じさせる相手に対して、尚更に怒りが募る。

「そいつは……今捜しているところだ。卸屋どものところに戻る前に口を封じるさ」

「信じられんな」

 始末屋は蛇の言い分を切って捨てた。

「それだけの失態を演じながら依頼を無事こなしたとは、どうやら依頼主の懸念も尤もだったようだな」

「……俺達を始末するか?」

「いいや、己の失態は己で取り返せばいい。挽回する機会をやろう。これから先は、お前達は私の手足となって動け」

 蛇はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。漸く絞り出した声は苦々しかった。

「わかった」

「いいだろう。今はどのように動いている」

「紺と、あいつを連れて逃げた野郎を捜している。紺は俺達が誰かを知っているからな」

「その少女のことは放っておけ。時間の無駄だ」

「卸屋どもに接触されたら、今回の騒ぎが俺達の仕業であることがばれるだろうが」

「ふん、頭が足りないのかと思っていたが、やはりそのようだな。少しはまともな思考をしろ」

 あからさまな愚弄に、蛇の顔が引きつった。

「媼は油断がならぬ。仮にも卸屋の頂点に立つ者を見縊るものではないぞ。今回の一件が耶來やらいの仕業であることに気付かぬと思うか? 既に気付いているだろうよ」

「だが……そうだとしても、証拠はねえ!」

「ああ、だが媼とて黙って見過ごしにはしてくれんだろうよ。緩衝地帯全体の命運の分け目ともならば、手段を選ばぬだろう。評議会までまだ間がある。どのような手を打ってくるか知れたものではない。ここらで守るばかりではなく攻めに転じてみるべきだろうな」

「どういうことだ?」

「媼のもとに一人の若者が捕われていることを知っているか?」

 予想外の言葉に蛇は黙り込む。そういえば、と思い出していた。捕われた手下達を始末しに孤児院に忍び込んだ時、対した若者がいた。

「ああ……そういえば、一人閉じ込められている奴がいたな。それがどうした」

「今若者は媼の屋敷の地下に捕われている。そいつを卸屋どもから奪え」

「はあ? 何だってそんなことを」

「わからんか? 今回の騒ぎ、手下どもを始末したことで片がついたと考えているようだが、そう甘くはない」

「何故だ。あいつらが卸屋にとっちゃ唯一の手掛かりだった。そいつがなくなって、何を言い張ったところで、せいぜいてめえで作り上げたでっちあげだと思われるだけだ。卸屋は己の利のためならば、どんなことでもやるからな」

「まあ、聞け。その若者はお前達の手下が捕えられた騒動に巻き込まれ、卸屋に捕われた。つまりは一連の騒動を知る生き証人ということだ。それも、卸屋でも耶來でもない、唯一の外部の目撃者だ。お前の手下が緩衝地帯で動き、卸屋に捕われたこと、そしてお前達が手下を始末したこと、その全てを知っている。幸い、卸屋どもは彼の貴重さにはいまだ気付いていないようだがな」

 蛇は顔を顰めた。始末屋が意図しているのか否かはわからぬが、話の核心がなかなか見えない。苛立ちに、声音は険しくなるばかりである。

「だから、それが何だって言うんだよ。たかが若造の目撃者が一人いて、そいつの証言など誰が信じる。それこそ卸屋どもがその若造に金を掴ませたんだろうっておちになるだけさ」

「それが単なる若造ではなく、多加羅若衆の副頭ならばどうだ」

 始末屋の言葉を内心でなぞり、蛇は驚きに目を見開いた。

「あいつが……多加羅若衆の副頭だと……? 何故そんな奴が……」

「おそらく、多加羅若衆でも今回の騒ぎの背景を探っていたのだろう。だが、卸屋どもはまだそのことには気付いていない。どうやら、お前達と敵対する勢力か何かだと考えているようだ。だが、我らには好機だ。多加羅若衆であると気付かれる前に若者を奴らから奪う」

「奪ってどうするってんだ」

「殺すのさ」

 簡潔に始末屋は言った。あっさりとした響きに迷いはなかった。人の命を奪うことについぞ躊躇いを感じたことのない蛇でさえ、それにどこか薄ら寒い思いを抱く。無論、若者に同情したわけではない。始末屋が蛇達を文字通り始末すると決めた場合にも、同じように淡々と、冷徹に決断を下すだろうことを察したからである。

「何故だ」

「媼は評議会の動きを何としても止めようとするだろう。今のところ多加羅若衆の狼藉という噂が真実ではないという決め手を掴んではいないようだが、邪魔をされる前に、こちらが先に媼を潰す」

 始末屋は淀みなく続けた。

「多加羅若衆では、行方のわからぬ仲間を今捜している。つまりは、媼に捕われた若者だ。そいつが殺されて発見されればどうなる。しかも、媼の一味によって殺されたのだという確かな証拠までもがあったとすれば」

 漸く蛇にも男の思惑がおぼろげながらわかった。

「つまり奴らは貴重な生き証人をなくすだけじゃなく、若衆殺しの罪までもを負うってわけか」

「ああ、そうだ。我らには一石二鳥、というわけさ。多加羅が緩衝地帯に手出し出来ぬとはいっても、若衆が理不尽に殺されたとあらば黙ってはおらぬ。媼の地位も失墜するだろう。評議会も彼女の意見には耳を貸さなくなる」

「なるほど……だが、媼の屋敷は守りが固い。簡単にはいかねえぞ」

「何とかするんだな」

 素気なく始末屋は言った。

「すぐに動け。また、首尾を聞きにくる」

「おい、待てよ。お前は何もしねえのか」

「言ったろう、私はお前達の敵にも味方にもなり得る。お前が無事依頼を果たすことがかなうか、それを見極めるためにいるのだ。お前は自分のやるべきことを果たせ」

 言い置いて、入って来た時と同様に男は静かに扉の外へと姿を消した。

 部屋に取り残されて、蛇は暫し立ち尽くしていた。

「なあ、どうするんだ……?」

 おずおずと掛けられた声に視線を振り向けると、手下が蛇を窺っていた。部屋にもう一人いたことを失念していた蛇だったが、男のどこか間の抜けた顔に不意に怒りがわく。

「この馬鹿野郎が! てめえがさっきの野郎にこの場所を教えたんだろうが!」

「教えたわけじゃねえよ。部屋の前でいきなり短剣を突きつけやがったんだ」

「くそっ! 何が始末屋だ!」

 苛々と、蛇は歩きまわった。その様子を手下は不安そうに見やる。

「何見てやがる! てめえも聞いていただろうが、媼の屋敷に忍び込む算段をするから手下ども集めて来い!」

「わかった。ああ、そうだ。俺も知らせたいことがあったんだよ。さっき情報通の卸屋に接触したんだが」

「笠盛の卸屋どもと関わりのない奴に接触したんだろうな」

「ああ、それは大丈夫だ。それで、紺の情報を聞いたんだ」

「紺の行方を掴んだのか!?」

 蛇は足を止め問い質す。始末屋には追うなと言われたが、蛇は紺をこのまま見過ごしにする気はさらさらなかった。彼の元から逃げた存在を、生かしておくつもりはない。もとより紺に対する制裁はこの依頼とは関係がない、彼自身の問題だ。始末屋の言に従ういわれなどない。

 手下はおどおどとした様子で言葉を継いだ。

「あ……いや、紺の情報はなかった。だが、別の情報があった。どうやら、鬼逆きさかが俺達の動きに気付いたらしい。それで、手下どもを笠盛に送り込んでいるとか」

 蛇は一拍黙り込み、痛烈な舌打ちをした。

 重い沈黙が落ちた。耶來は外部から持ち込まれた様々な依頼を請け負う。だが、帝国内で動くのだけは御法度だった。白沙那はくさな帝国は国境地帯への勢力拡大を虎視眈々と狙っている。耶來が帝国内で暴虐を働いたことが明らかとなれば、それを口実に武力による制圧に乗り出さぬとも限らぬ。それを恐れてのことだった。もっとも、その禁を破り帝国内で動いた者は少なからずいるが、明らかとなれば耶來の内部で手酷い制裁を受けることになりかねない。なればこそ、蛇達も極秘で動いていたのだ。

 現在耶來を実質的に動かしているのは鬼逆である。その彼が蛇の動きに気付けば、見過ごしにすることはないだろう。

「……鬼逆の野郎が笠盛に来てるってのか」

「それはわからない。ただ……少し奇妙な話を聞いた」

「何だ」

 催促するも、男は僅かに言い淀むようだった。

「……とにかく、奇妙な話さ。今この笠盛に鬼逆の弟という人物がいるらしい」

 蛇の顔が驚きに染まった。

「あの野郎に弟がいたのか? 聞いたこともねえぞ」

「ああ、だから奇妙だと言っている。何でも母親は違うが、父親は同じらしい」

「がせじゃないのか?」

「何度も卸屋に問い質したが、本当だと言い張って……畜生、特別な情報だとかで散々情報料をせしめやがった。独自に調べて掴んだ情報だとかぬかしやがって」

「本当なら、何故今まで噂の一つも上がらなかったんだ?」

「知らねえよ。ただその弟ってのは來螺に住んでいるわけじゃないみたいだな。帝国内のどこか、鬼逆とは離れて暮らしているらしい。今回鬼逆が俺達を追うために緩衝地帯に詳しい弟の力を借りようとしているんじゃないかって話だ」

 蛇は男の言葉が意味することを考える。

 耶來で近年頭角をあらわしてきた鬼逆は、蛇にとっては気に食わない、殆ど憎悪していると言ってもいい程の相手である。蛇よりも若年でありながら多くの者を従え、今では彼を歯牙にもかけぬ。裏側でそれなりの勢力を誇っていた蛇の力が翳り出したのも、鬼逆という存在のせいだと彼は考えていた。

 今回、緩衝地帯での依頼を受けたのも、鬼逆の力に対抗する地盤を作るために資金を得たいと考えたが故だった。危険の多い依頼ではあるが、その報酬はかなりのものである。金さえあれば、と蛇は思う。そもそも鬼逆が耶來でのし上がったのはその資金力故だ、というのが蛇の見方である。姑息に金を稼ぎ、気付けば盤石な体制を整え誰も逆らえぬ有様だ。蛇にとっては我慢がならぬ。

 その鬼逆に弟とは――数年前までは鬼逆の育ての親という人物がいたが、その男も既に死んでいる。肉親と呼べる者がいたとは、全くの初耳だった。

(だが、こいつはおもしれえ)

 蛇の顔が、笑みに歪んだ。

「弟、か。そいつが笠盛にいるんだな?」

「そうらしいな」

「そいつを捜せ」

「何だって?」

 訝しげに問い返した男に、蛇は益々唇を吊り上げた。

「聞こえねえのか。そいつを捜すんだよ。こりゃあ依頼の報酬どころじゃねえ。耶來の玉座を鬼逆から奪う好機かもしれねえぞ」

 蛇の笑いにつられたように、男もまた笑みを浮かべた。

「なるほどな。で、そいつを見つけ出してどうするつもりだ。殺すのか?」

「お前は馬鹿か。そんなことをしたら意味がねえだろ。生かして利用するのさ。そいつは鬼逆の弱みだ。これ以上鬼逆に大きな顔はさせねえ。媼の屋敷から若衆を奪うのとは別に、そっちにも人を回せ」

「ああ、わかった」

「ところでその弟ってのはどんな奴だ。名前はわかっているのか」

「いいや、わからねえ。それ以上のことは卸屋が頑として言わなかった。もっと知りたければさらに金を出せとさ」

「俺がその卸屋に会いに行く。金などいくらでも出してやるさ。鬼逆の弟とやらを捜そうにも手掛かりがなきゃ話にならねえ」

「相手が言っている額はでかい。はした金じゃねえんだぞ」

「見つけ出すことがかなえば、そいつの命を盾に鬼逆から金をせしめることが出来るかもしれん。それこそ、鬼逆を追い落として來螺の裏側を俺達が仕切ることになるかもしれん。そうなれば、卸屋にくれてやる金などはした金程度に思えるようになるさ」

「そうか、それもそうだな」

 歯をむき出して男は頷いた。

 蛇は再び部屋を歩き回りながら、狡猾に思いを巡らせる。先程までの鬱屈と怒りが嘘のように、蛇は自然と込み上げる愉悦にくつくつと笑い声をあげた。

 始末屋の存在は気に食わぬ。全くもって気に食わぬ。だが、打つ手なく思われた状況も、うまくすれば切り抜けることが出来そうだ。そして何よりも思わぬ情報――鬼逆の弟、というそれである。存在すら秘されていたということは、それだけ鬼逆が弟を大事に思っているからではないのか――鬼逆の弱点を突こうとする者達から守るためだったのではないか、蛇はそう思う。それが今同じ街にいるのだという。思わぬ大きな獲物が、突然目の前に放り出されたようなものだった。

 どうやらつきがまわってきたようだ。蛇はそう信じて疑わなかった。



 二つの人影が、道を急いでいた。宇麗うれいおうである。夜も更ける頃合いに、手元を照らす硝子筒が一つきり、見通しのきかぬ路地にはひたひたと足音ばかりが響いていた。

 二人は夜を徹して笠盛と街道筋を見張る部下達を見回り、媼の屋敷へと戻る途中である。孤児院に何者かが侵入してから既に数日、片時も監視を緩めてはいなかったが、襲撃者の行方はいまだに掴めていなかった。

 一日がまたも不首尾に終わり、宇麗も黄も口数が少ない。そもそも襲撃者の容貌とて定かではなく、見つけ出そうということ自体に無理があることは彼女達とてわかっている。唯一辿る伝手といえば、襲撃者が紺を連れ去ったのではないか、ということだけだった。紺を連れた者がいないか目を光らせろ、宇麗も散々部下達には言ってある。無論、それとて紺がいまだに殺されずにいれば、ということではあった。そして紺が生きていることが望み薄であろうこともまた、否定しがたい現実である。

 宇麗にとって状況はあまりに厳しく、先行きはこの夜の道さながらに暗澹としていた。

「宇麗、待て」

 宇麗は背後からかけられた黄の声に振り返った。

「どうした」

 問いかけに黄は答えなかった。振り返った宇麗の背後を凝視しながら僅かに身構える。宇麗も黄が見やる先に目をやった。注意深く目を凝らすと、前方の闇に紛れるようにして、黒く縁取られた気配があった。手元の硝子筒の明かりのせいで、前方の暗がりは粘度さえ感じさせて尚更に深い。そのため佇む姿に気付かなかったらしい。

 その人影は、まるで二人を待ち構えていたかのようだった。

「誰だ」

 問い質し、黄が宇麗をその背に庇うように進み出た。宇麗もまた硝子筒を道に置くと、腰の剣に手をやる。

 足音すらたてずに、その人影は二人に向かって進み出た。だが、硝子筒が作る円形の光の淵までは来ず、やはり姿は輪郭までしかわからぬ。

「伝えておくことがある」

 ひそりと人影が言った。低い、くぐもった男の声だった。警戒もあらわな二人に対して、淡々と言葉を継いだ。

「緩衝地帯での一連の出来事を起こしたのは、蛇、と呼ばれる男だ。左腕に蛇のような刺青がある」

 宇麗は目を見開いた。黄もまた驚いたのか、その背が強張っている。

「奴が主導して緩衝地帯の各地で狼藉を起こし、それと同時に街で多加羅若衆の噂をまいた」

「目的は何だ」

 ひそりと宇麗は問う。

「既にわかっているだろう」

 宇麗は黄の前に出ると、眼差しをひたりと前方の闇に据えた。

「蛇は耶來の者か?」

「そうだ。お前達が捕えた男達を殺したのも奴だ。その際、一人の少女を連れ去っただろう」

 宇麗は息を呑んだ。鼓動が跳ねる。

「紺は蛇に連れ去られたのか。まだ生きているんだろうな?」

「そのようだ」

 内心の思いを些かも悟られることのないよう、宇麗はつとめて平静な声を出した。

「では、蛇に一連の陰謀を実行させた者は誰だ」

「それについては答えぬ」

 宇麗は忌々しく相手を睨みつけた。その様子に頓着するでもなく、闇に沈む男は言った。

「それからもう一つ、お前達が捕えている若者、彼が何者かわかっているのか?」

 咄嗟に答えられぬ宇麗に、相手は知らぬようだな、と呟くように言った。

「彼は名前を須樹すぎという。多加羅若衆の副頭だ」

 今度こそ、宇麗は驚きに言葉を失った。黙り込んだ宇麗にかわり、黄が鋭く問うた。

「何故、我々にそのようなことを伝える。お前は何者だ」

「蛇の所業を好ましく思わぬ者は何もお前達だけではない、ということだ。だが、このままでは蛇の思惑通りにことが進みかねん」

「あたし達に蛇とやらの動きを阻め、と言うのかい? 自分自身でやらぬのは、出来ぬ理由があるのか?」

「そうとってもらって構わぬ。情報は渡した。あとは自分達で何とかしろ」

 すっと男の気配が薄らいだ。咄嗟に宇麗は駆け寄ると手を伸ばした。だが、その指先は宙を掠めただけだった。足音の一つすら残さずに、忽然と相手の姿は消えていた。消える筈がない――混乱しながらも宇麗は思う。おそらく手近な路地にでも身を潜めたのだろう。だが、追うことは無意味だろう。宇麗にせよ黄にせよ、体術には少なからずの自信がある。その二人に、あれだけ間近にいながら相手は付け入る隙を見せなかったのだ。侮れぬ相手である。

「おい、宇麗どういうことだ」

「わからん」

 男が消えた闇を睨みつけながら宇麗は答えた。一体何者なのか――そして、知らされたことは真実なのか。

 だが、と宇麗は得心する思いもあった。はくと宇麗が呼ぶ青年――聞いたことが真実ならば須樹という名だという、彼である。名前すら明かさず、笠盛で何をしていたかも言おうとせぬ、その態度はあまりに不審である。しかし宇麗には彼が一本筋の通った誠実な人柄なのではないかと思えていた。だからこそ、陰惨で不穏な一連の出来事に青年がどのように関わっているのか、宇麗には不可解だったのだ。

 青年が多加羅若衆であれば、物事は全く違う様相を呈する。何故、彼が何も言おうとせぬのか、それとて明白ではないか。

 宇麗は黄を振り返った。

「とにかく急ぎ戻ろう。今の情報が本当かどうか、確かめる必要がある」

 黄は頷いた。

 笠盛の夜の底、混迷を深める事象の、それはほんの始まりに過ぎなかった。

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