第三章 螺状の絆
市場は活況を呈していた。人波は絶えることがなく、熱気と埃が乾いた空気に立ち込める。威勢良く商品を売り込む店主の声が、ざわめく通りのあちこちで響いていた。
雑踏の中で一人の男が地面に商品を並べていた。だが、売る気が全くないのか、地面に胡坐をかいて煙管を吹かし、掛け声をあげるでもない。それにも関わらず、商品の前で足を止める人が絶えない。
人々が足を止めるのは商品のせいではなかった。軒を連ねる派手な露店と比べれば店としての体裁さえ整っていないうえに、取り立てて変わった品を置いているわけでもない。ありきたりの地味なものばかりだった。人々が足を止めるのは、どうやらその男の風体故らしかった。一度見ると何故か目を放せなくなるような、不思議な空気を男は纏っていた。だが、眼力の鋭い者ならば、それが安らげる部類のものではないとわかっただろう。むしろ警戒を煽り、危うさを感じさせるものである。それにも関わらず、命を焼き尽くす炎に虫が引かれるように、人々は男に引き付けられていた。
「これはどこの品物?」
若い娘が櫛を手に取っておずおずと尋ねると、男は煙管を軽く振って答えた。
「さてね、俺も知りはしないが、おそらく東だろうよ」
「あの……いただいてもいいかしら」
「はいよ」
差し出された硬貨を受け取った男は笑顔の一つ見せるわけでもなく、無造作に小さな櫛を娘に差し出した。押し抱くようにしてそれを受け取り、娘は名残惜しげに男を何度も振り返りながらその場を後にした。万事がそのような調子である。
男は周囲への関心すらないかのように、俯きがちに煙管を吹かす。男が人目を引くのはその奇態な格好のせいもあったかもしれぬ。ぞろりと長い黒の衣を羽織り、帯は鮮やかな朱色である。漆黒の長い髪は好き放題にはね、まるで鬣のような有様である。そして頭から顔の左半分にかけて、紅白の格子縞と群青の二枚の布が絡み合うようにして覆っていた。隻眼なのか、あらわな右目は物憂げに伏せられ、人波を見るでもなかった。
雑踏の喧噪にも、道行く人々の視線にも無頓着だった男がふと顔をあげた。その先に、一人の旅人の姿があった。移り気に店から店へと流れ歩く人々の中で、その旅人の足運びには迷いがなかった。さして速くもない歩みではあったが、目指すところを知っている者のそれである。
「お客さん」
男が声を放った。不思議と通る低いそれに、旅人がゆるりと首を巡らした。旅人は既に五十はこえているだろう男だった。風雨に晒され続けたことを窺わせる肌は浅黒く、額に大きな一条の傷が走っていた。かなり昔に負った傷なのか、白味を帯び、無数に刻まれた深い皺に紛れるような具合だった。
旅人と男の視線が交錯する。
「少し見て行かないかい?」
「生憎と、必要な物はない」
旅人は答えたが、ふと興味を引かれたように男の前にしゃがみ込んだ。並べられている商品を眺め、鼻を鳴らした。
「ろくな物がないな」
「そうでもないさ。ここに置いていない物もある。欲しい物があれば言ってみな」
「言ったろう、別段必要な物はない」
「そうかい。ところでお客さん、異国の者だね。思うに東の方だ。それも草原地帯よりもさらに向こうの者じゃないのかい?」
旅人は眉を上げる。肩を竦めた。
「よくわかったな」
「ちょっとばかり耳がいいもんでね」
旅人は意外の念を持って目の前の男を眺めた。彼の言葉には確かに異国の訛りがある。だが、この異郷の地を流離って既に長い時が経つ。彼が東の者であることに、人々が気付くことはない。僅かな会話だけで男はそれを見抜いたというのか。
旅人の思いに頓着せぬ様子で男は煙管をくわえると、懐を探って小さな紙包みを取り出した。
「こいつなんかおすすめだ。そこらじゃあ手に入らない、優れ物の薬だ。どうだい?」
「効能は何だ」
「苦しませることなく相手の命を奪うことが出来る」
「……何故、そのような物を私に見せる」
「お客さんには要り様な気がしたんだよ」
旅人の顔が強張った。気味の悪いものを見るような目つきで男を眺める。改めて見れば、男は美しかった。一見すると女性的な程に端麗な顔立ちだったが、頬が削げた鋭い輪郭に甘さはなかった。整っているだけに、硬質な凄味を感じさせる。晒された右目は深い青に灰色が混じっているのか、それとも氷のような冷めた浅葱に黒が混じっているのか、掴みどころのない色彩である。
顔の左半分を布に覆われているせいか、男は年齢が掴み難い。二十代にも四十代にも見えた。だが少なくとも旅人より年上であることだけはないだろう。旅人は苦く言った。
「若いの、私にはそのような薬は必要ない」
「無論、相手を殺すばかりじゃあないさ。生きるのに厭いたらこいつを呑めばいい」
「それこそ必要ない。苦痛のない死など私には許されぬ」
「そうかい」
言うと男はあっさりと紙包みを懐にしまった。なおもまじまじと男を見つめながら、旅人は小さく苦笑した。
「何故、私が人を殺しにいくことがわかった?」
「勘というやつでね、何故と言われてもわからない。強いて言えば歩き方、かね」
「ふん、大したやつだな。それとも見透かされた私がその程度ということか……」
自嘲を含ませて旅人は言う。
「ただの物売りにも見えんが、何を好き好んで路傍に蹲っている」
男はにやりと笑った。それだけで人を惹き付ける。
「蹲っているとは人聞きの悪い。俺は見守っているのさ。これからこの街で起こることをな」
「何が起こるというのだ。平和な街だ」
「表向きにはな。お客さんももう少しここにとどまったらどうだ。面白いものを見ることが出来るやもしれん」
「先を急いでいる」
「獲物が逃げるのが怖いのかい?」
「いいや、逃げることはない。あやつは必ず私を待っている。私自身も、あやつの血を浴びるために、何十年も旅をしてきたのだからな。それもあと少しで終わる」
旅人の声音は優しくすらあった。それに、男はさして興味を引かれた様子でもなかった。のんびりと言う。
「まるで想い人をずっと追い続けているような言いようだな」
「変わった男だな……。しかし……想い人と言えばそうかもしれん。私と彼女の縁は深い」
「ああ、やはり女か。出会えるといいな」
「ああ……」
旅人は背嚢を担ぎ直すと踵を返した。
「どこにいるかはわかっているのかい?」
男は言うと、煙管の灰を地面に落とした。すでに立ち去りかけていた旅人は僅かに男を振り返った。
「多加羅だ」
ぽつりと言葉を残して、旅人は再び雑踏へと紛れた。その姿を見届け、男は物憂げに腕を組んだ。再び霞がかったように、その表情から周囲への関心が失せる。まるでまどろむような眼差しで人々の群れを眺めた。
どれ程そうしていたのか、男の背後にひそりと立つ気配があった。人影は周囲の街衆と大差ない地味な衣を纏っている。さりげなく男に近付くと、傍らにしゃがみ込んで商品を覗き込んだ。そのまま視線を上げることなく囁いた。
「蛇が動きました」
「漸くか」
煙管をくわえたまま、男がやれやれと言った風情で答えた。
「それから……多加羅の若衆ですが、こちらは動きが掴めません。もしかすると、多加羅へ戻ったのかもしれません」
「確かか?」
「ここまで動きがないとそれしか考えられません。手に負えぬとわかったのでしょう」
男はゆるりと煙管を唇から離す。うっすらとそこに笑みが浮かんでいた。その笑みに気付いたのか、街衆の風体の男が尋ねる。
「何故、多加羅若衆の動きまで見張る必要があるのでしょうか。蛇を泳がせることも合点がいきません。早々に捕えればよろしいものを」
「これからが面白いというのに、それをしてしまっては台無しだ」
「面白い……ですか?」
理解に苦しむ、という相手の声音に男は笑みを深めただけだった。相手はその様子に僅かに呆れたように溜息をつき、苦笑した。
「まあ、いいでしょう。我らは貴方についていくだけだ。また新たな動きがあればお知らせします」
「ああ。ところでどうだい? 何か一つ買っていかないかい?」
「いりませんよ。ろくな物がない。だいたい売れもしないのに、一日中往来に座っているなんて酔狂に過ぎますよ。蛇に見つかる危険もあるというのに」
「その時はお前達が守ってくれるのだろう?」
「御冗談を。蛇如きにどうにかなるお方なら、我々はついていこうなどとは思いません」
言うと、来た時と同様にさりげなく離れて行った。
「そんなにろくでもない物ばかりかね。それなりに売れるんだがね」
男は呟くと、のんびりと煙管を吹かした。まるで見えぬ先に目を凝らすように上空を眺める。すでに彼の頭には、これから女を殺しに行くであろう旅人のことも、忠実に命令をこなす部下である男の存在も遠く霞んでいた。
「さて、どう動くかね? 先見占いでもこればかりは読めない」
流れ行く雲は、勿論未来の行先を示しはしなかった。
白沙那帝国の都は正式な名称を白西露峰と言う。名の由来は都を半ばぐるりと取り囲む険しい山脈をあらわしたものだとも、その街の外観故であるとも言われているが、いずれにせよ的を射たものと言える。
白西露峰は百万の人が住むとも言われる帝国随一の都市であるとともに、他では見られぬ巨大な建造物群で知られる。遠くから見れば、あたかも切り立った鋭い岩山が連なっているようにも見えよう。だが最も圧巻であるのは皇帝が坐す宮殿だった。天を突く建造物よりもさらに高く、広大な宮殿は峻険な山脈の懐に抱かれ、その岩肌の一部となったかのような外観である。十重二十重に高い壁を巡らし、渦を巻くようにして上へ上へと伸びるその様は、下から見上げればまさに一つの山である。
都を初めて見た者は、その規模と迫力、そして美しさに圧倒されるに違いない。青灰色の山々を背後に、白壁の家々が連なり建つ様は、決して溶けぬ氷雪に象られた姿にも映る。晴天であれば眩しい程に白く、空が暮れゆく色彩に染まる頃合いであれば、紫に、紅に、琥珀に、空から注ぐ光の奔流にのみ込まれる。
悠緋が露台から街を見下ろした時、街は燃えるような深紅に染まっていた。夕刻である。触れれば火傷を負いそうな色彩とは裏腹に、吹く風は透徹として冷たい。手摺に添えた指先が、何時しか凍えていた。悠緋はかじかんだ指先に息を吹きかける。息は、白い霞となって大気に溶けた。体の芯に沁み込むような寒さも無理はなかった。悠緋が立つのは市街をはるかに見下ろす場所である。
宮殿と一口に言っても、様々な区域がある。皇帝が住まう真之宮、皇妃や寵妃が住まう廉之宮、皇族のための波之宮を頂点に、八大楼宗家の屋敷や軍隊の本部、神殿、そして都の貴族が住まう屋敷が連なっている。地方から都に出てきた惣領家の者や貴族のための居住区もあり、さらには宮殿や貴族の屋敷などに仕える人々の家々までもが連なっているため、市街とは隔てられた宮殿の内部そのものが、一つの街の様相を呈していた。条斎士の修練の場である聖蓮院もまた宮殿の一角を占める。
その聖蓮院の露台から街を眺めながら、悠緋は多加羅から都に来た時のことを思い出していた。三年前のことである。初めて見た都の姿に彼女が感じたのは、感動ではなかった。むしろ恐怖と言う方が相応しい。街は硬質な端正さで外部の者を拒み、宮殿は傍若無人なまでの壮麗さで彼女を圧しようとしているかのように思えた。だが、それもすでに遠い。まるではるか昔の出来事のようである。多加羅を出た時に十五だった彼女は今では十八になっていた。
「悠緋様」
かけられた声に悠緋は振り返った。背後に何時の間にか青年が立っていた。吹き過ぎる風に、背で一つに纏めた青年の髪が揺れる。
「このようなところにおられたのですか。お寒くはありませんか?」
「ええ。でもここからの眺めを見たかったのです」
答えれば相手もまた遠くに視線を投げた。深紅は益々深く、すでに暗色に沈みつつある。
「聡達様はもう講義を終えられましたの?」
「いえ、まだです。皆に少し課題を出しましたので、その間抜け出して来た次第です。講堂に籠りきりではどうにも息苦しい。もう少ししたら戻らねばなりませんが」
言いながら青年、聡達は悠緋に微笑みかけた。凛々しい顔立ちが、笑うと思いがけず柔らかいものとなる。
聡達は悠緋が白西露峰に出て来たその同じ頃に聖蓮院に入っている。その当時から優れた条斎士であった彼は、今では聖蓮院の中でも選り抜きの術者を指導する立場となっていた。
沙羅久惣領家の二男である彼に、悠緋は少なからず警戒心を抱いていたが――それは多分に噂で聞いていた聡達自身の所業のせいもあった――聡達はそんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、会えば気さくに話しかけてくる。何時しか穏やかな彼の笑顔に、二惣領家に古くからある諍いも遠く思われるようになっていた。
「悠緋様はもう全ての講義を終えられたのですか?」
「ええ。宝珠がこれ以上染まらないので、実技の講義は一月程前に全てやめましたの。ですから、今は講義自体それ程数がないんです」
僅かに目を伏せた悠緋に、聡達は言った。
「学理もまた条斎士にとっては大切な分野です。悠緋様は非常に優秀な成績を修めておられる。新たな言霊の法理を発見するためにも、悠緋様のように優秀な条斎士は是非とも必要です」
「……でも聡達様のようにお若くして講義を持っていらっしゃる方もおられるのに、私のように才の無い者がここにいてもよいのかと……思わずにはおれません」
「あなたらしくもない。何かあったのですか?」
気遣う声音に、悠緋は微笑んだ。何かを吹っ切るように一つ頭を振ると言う。
「少し感傷的になっているのかもしれませんわね。都に出てきたのが丁度これくらいの季節だったかと思うと、何だか複雑な思いがいたします」
「三年前ですね」
「ええ」
「多加羅にお帰りになりたいのですか?」
「帰りたくも思います。この三年、一度も父上にも兄上にも、会っておりませんもの」
「だが、あなたがお帰りになられては、私が寂しくなる」
悠緋は思わず傍らの青年の顔を見上げた。思いがけない近さで漆黒の瞳が見つめていた。視線が絡め取られる。聡達が手を伸ばす。その温もりを頬に感じて、悠緋は息を呑んだ。
「聡達様」
立ち竦んでいた悠緋は突然かけられた声にはっと我に返ると、後ずさった。温もりが離れる。聡達は手を下ろすと、声の方を振り返った。
「すでに皆課題を終えました。お戻りください」
回廊の暗がりに、まだ年若い娘が立っていた。聖蓮院の学生が身に着ける白と青を基調とした衣を身に纏い、条斎士としての階層を示す帯は深紫、優れた術者であることを示していた。聡達が受け持つ講義の生徒であるらしい。そうであれば聖蓮院の中でも一際優れた条斎士であることは間違いなかった。
娘の顔は影になって見えず、しかし悠緋は我知らず顔を伏せていた。
「ああ、すぐに行く」
答えた聡達は悠緋を振り返ると、にこりと笑った。
「では、私は戻ります。また、時を改めてお会いしましょう」
一礼して去る聡達の姿を見送り、悠緋は詰めていた息を漸く大きく吐いた。どくどくと脈打つ鼓動が、まるで自分のものではないように感じる。思わず頬に触れていた。聡達の指先が掠めたそこだけが、奇妙に熱い。
(驚いたわ……)
心中に呟きながらも、悠緋はとうに気付いていた。聡達が己に向ける好意が、単なる友情や条斎士としての仲間意識ではないことに、である。だが、それが果たして恋情と呼べるか否か、ということになると、悠緋には聡達の気持ちがわからなかった。常に変わらぬ穏やかな彼の態度からは、真実何を思うかまで読み取ることができない。
(恋だなんて、愚かなことを……)
苦く思う。惣領家に生まれた者が、色恋に現を抜かすなど許されることではなかった。それに加えて、長い確執を抱く二惣領家とあっては、益々論外である。聡達にそれがわからぬ筈もなく、尚更に彼女には聡達という人物がわからない。そして貴族然とした彼の態度に時折掠めるようにして過るもの、それに彼女は気付いていた。例えれば、それまで確かに見えていた筈の物が、気まぐれな炎の揺らぎに、ほんの束の間、まるで見たことのない形を露わにするような――それは悠緋を何故か怯えさせた。
悠緋は頬に触れていた手を、力無くおろす。
(父上、兄上……)
呼びかけた相手は自分のことを少しでも思い出してくれているだろうか。二人と文の遣り取りはしていても、それはどこか他人行儀で尚更に故郷から遠く隔てられた己の立場を感じさせた。時折、たまらなく会いたく思う。だがそれが容易くはかなわぬだろうことを、既に彼女は察していた。
三年という歳月は、彼女を内省的にした。聖蓮院で己の条斎士としての才の貧しさに気付いたせいもあったろう。条斎士の力の強さは宝珠の色でわかる。修行の中で宝珠に力を込めれば、才ある程にその色彩は変化する。白橡から花葉、そして朱色から紅へと移ろい、力があればやがて深い青へと染まる。最も力ある者の宝珠は黒味を帯びた緑だという。悠緋の宝珠は紅に染まってから、その色をかえようとはしなかった。
都の聖蓮院には白沙那帝国全土から特に才ある条斎士ばかりが集められる。悠緋は己の才能が、到底都に留まるだけの域に至らぬことを自覚していた。そして、才能のない自分が都に呼ばれたという、それが表向きの理由とはかけ離れた目的のためであろうことにも気付いている。だが、それがどのような目的であるかは悠緋にもわからなかった。
――お帰りになりたいのですか?
帰りたい、と思う。だが、帰ることはおそらく許されまい。
ふと遠い面影を思い出していた。ほんの一時、数える程しか顔を合わさなかった相手である。言葉を交わしたのはさらに少ない。今ならば、あの時相手に抱いたのが仄かな恋情であったとわかる。狂おしく、一途に、だがそれはあまりに一方的で、幼く拙いものだった。
三年――あの少年は今十七になるだろうか。すでに霞む面影に、三年の歳月を経た顔を想像することすらできなかった。
(思っても詮方ないこと。きっと私のことなど忘れているわ)
そのまま目を転じれば、空を彩る朱緋はすでに藍の深さに沈み、さらにそれすら呑み込むように、夜の漆黒が覆い被さっていた。
「御執心ですのね。好いておられますの?」
背後から掛けられた声に聡達は振り返らぬまま、足早に回廊を進んだ。言葉すら返そうとしない彼の態度に、娘はなおも言い募る。
「お似合いではございませんわ。あのお方、惣領家の出自であられるから、お慈悲で聖蓮院にいらっしゃるようなものでございましょう? 聡達様が聖遣使であられることも御存知ないなんて」
長い回廊は暗く、夜が迫る頃合いであれば尚更にその奥行が掴めない。
「聡達様にはもっと相応しい者がいます。あのように条斎士としてもろくな才覚の無い者をお構いになるなんて……」
「相応しい者とは誰だ。よもや自分のことを言っているのではあるまいな」
漸く答えた聡達の声音は、しかし突き放すように冷たかった。娘はひるんだ様子もなく、傲然と顎をあげると言い放った。
「ええ。そうです。私の優秀さは御存知の筈です。来年には聖遣使を拝命することもかなうだろうと、他の師にも言われましたもの」
「だが愚かだ」
素気なく聡達は言った。蔑みに満ちたそれが、娘はまるで心地良いかのように低く笑った。
「相変わらず、冷たいお方ですこと。先程の姫君にそのような態度を取ったことなどおありかしら?」
どうだろうな、と聡達の返事は気のない響きだった。
「先の質問、好いているかと問うたな。私は彼女を好いている。何より彼女は愚かではない。己の力を知る者が私は好きだ」
「あら、それだけかしら?」
聡達は娘の言葉には答えず、僅かに口元を笑みに歪めた。夕暮れの泡沫に染まる悠緋の姿を思い出していた。気丈な横顔に浮かんでいたのは、おそらく郷愁とでも言うものなのだろう。
――悠緋に近付き、なるべく多加羅の情報を引き出せ――
そのように命を受けて三年、既に聡達は、多加羅が秘める真実について彼女が何も知らぬだろうことをわかっていた。それでもいまだに彼女に関わるのは、単純に面白いと思うからだ。逆境にあっても真直ぐに前を見つめる強さを秘めながら、呆れるほどに純粋な悠緋という存在は、彼にとっては物珍しくさえもあった。時にひどく傷つけたくも思う。そうせぬのは、惣領家に連なる者としての自覚などといったものや、相手への遠慮からではない。
敢えて言うなれば、無防備に咲く花を、己の力で何時でも手折れるとわかりながら敢えて風に揺れるに任せている、というところか。悠緋は例えるなら紅の大輪だ。鮮やかでありながら、清らかさを失わない。だが、傷一つないその花びらを傷つければ、どれほどの芳香が零れ落ちるだろうか。
「何を考えておられますの?」
問う娘に、聡達は薄い笑みを向けた。心底楽しげなそれに、娘は目を細める。
「あら、何だか不埒……」
囁く声音には微かに淫靡な響きがある。
「聡達様、先程のお方に沙羅久に暫く戻られることはお伝えになりましたの? 近々、沙羅久に向かわれるのでしょう? 聡達様に会えなくなれば、あの方、恋しくお思いになるのかしら」
聡達は足を止め振り返った。娘に向けられたその顔は暗がりに沈み、問う声音に表情はなかった。
「何故、お前がそれを知っている」
「私にも後ろ盾も伝手もございますわ。聡達様がお思いになる以上に貴方のことを知っております。貴方が皇女様の御寵愛を受けておられることも……」
娘の言葉の最後は悲鳴に紛れた。唐突に動いた聡達が娘の胸倉を捕え、壁に押し付けたのだ。聡達の手が娘の細い首を包むように当てられた。
聡達が囁くように言霊を紡いだ。喉元が押しつぶされるような圧迫がかかる。娘の顔が強張った。彼女の視界には、聡達の掌が纏う力の、その不可視の光が映っていた。撓められた力が、まるで幾重にも巻きつく縄のように首の周りを押し包む。次第に圧力を増すそれに、喘いだ。声を出すどころか呼吸することさえままならない。
「……聡達様! おやめください!」
必死の思いで声を絞り出すと、息がかかるほど間近に聡達が顔を近づけて来た。暗闇から浮かび上がった聡達の顔は常と変わらなかった。何の感情も窺わせぬ漆黒の瞳が、鏡のように、恐怖に歪む娘の顔を映す。その奥に、ゆらりと炎のように揺れるものを娘は見たように思った。憐みも躊躇いもなく、あるのは無機質なまでに透徹とした殺意、ただそれだけである。
娘は慄然とした。――殺される。体の奥底で本能が叫ぶ。伸ばした手が哀願すら込めて聡達の腕に触れる。だが、聡達は縋るようにして伸ばされたそれを冷淡に見やると、囁いた。
「だからお前は愚かだと言うのだ」
さらに強まる言霊の圧力に、娘は空気を求めて大きく口を開いた。と、唐突に聡達が手を引いた。娘が石床にくずおれる。蹲る姿を睥睨し、聡達は言った。
「この先いらぬ詮索をしようものなら、これぐらいでは済まぬ。命はないと思え」
喘鳴をもらしながら、娘は必死に頷く。体が小波立つように震えていた。それは傍若無人に命を侵食する死への怯えだった。目の前に立つ存在への凍えるような恐怖だった。
「どうか……お許しください。どうか……」
囁くように声を絞り出す。しかし、応えはなかった。涙を浮かべて娘は漸く顔を上げた。その瞳に映ったのは、最早振振り返ることもなく遠ざかる聡達の姿だった。