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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 酒場は喧噪に満ちていた。広い店の中には酔客が犇めき熱気が籠っている。燻された肉の匂いと一日の疲れを酒で洗い流す男達の体臭、紅辛酒の独特の芳香、雑多なそれらが混ざり合う。灯された炎は陽気に揺れ、人々の笑顔を照らし出していた。

「おおい! こっちに紅辛酒を四つ頼む!」

 喧噪に負けじと叫んだ傍らの若者に、よろずは言った。

「おいおい、それくらいにしておけよ。これ以上飲んだら明日の訓練に響く」

「いいんだよ。明日訓練なんかあるもんか。どうせ雪かきで一日が終わりだ。飲まんでどうする!」

 そう言うと、手元の杯の残りを一気にあけた。

「二日酔いは辛いぞ。あまり無理するなよ」

「がき扱いしやがって、俺はまだまだ飲める!」

 むきになって言うものの、卓を囲む四人の中で最も若い。酒もさほど飲み慣れていないのか、三杯目をあけて既に顔は真赤になっていた。

「そうだよなあ。俺達雪かきするために梓魏しぎ軍に入ったんじゃないのによお……」

「今年はやけに降るよな」

 呼応して他の者達もこぼす。それに万は苦笑した。彼らの気持ちはわからないでもない。一昨日から降り続く雪はやむ気配がない。結局ここ二日ばかりは広い訓練場から大量の雪を掻き出す作業に兵士達は追われることとなった。だがそれも雪が降りやまねばいつ終わるかわからぬ。

 窓の外はなおも降り続く雪の影が忙しない。折角雪かきをしても、明日の朝になれば訓練場は一面白く染められているだろう。それを思うと、憂鬱を飲むことで紛らわしたくもなる。珍しくも夜の街に繰り出すことを許されたのも、兵卒達の鬱憤に対する上層部の配慮だろう。

「とにかく、今夜は飲む!」

「おう!」

 万は苦笑を深め、三人にあわせて杯をあけた。

「それにしても、この前の試合はすごかったよな。どこであんな剣術を身につけたんだ?」

 突然話をふられ、万は頭をかいた。少し前に開かれた腕試しのことを言っているらしい。

「別にすごくはないさ。勝ったのはたまたまだ。一位にもなれなかっただろう」

「でも初戦で一番の優勝候補を倒しただろう。それに三位ってのもすごいじゃないか。そんなこと言っていたら初戦敗退の奴らに恨まれるぞ」

「まぐれだよ、まぐれ。それに単なる腕試しじゃないか。勝ったところで出世するわけじゃなし」

「それがそうでもないんだよなあ。軍処方に務める兄貴から聞いたんだが、今軍では腕の立つ奴の選別を進めているらしい。腕試しで上位に入った者は特別に取り立てられることもあるとか」

 四人の中でも二番目に年若い男が得意そうに言った。

「本当か?」

「ああ。場合によっちゃ近衛に入隊することもあり得るらしい」

 近衛――惣領家を直接護衛する選りすぐりの兵士の集まりである。それに、若い兵卒である彼らは色めきたった。

「そいつはすごいな」

「大出世じゃないか」

「何故、今そんなことをしているんだ?」

 杯を傾けながら万はのんびりと問う。

「そりゃ当然惣領家の守りを固めるためだ。今は物騒だからな」

 なおも得意気に言った若者は声を潜めた。さほど機密性の高い情報でもないが、最下級の兵卒が知っていることでもない。自然と皆真剣な表情で耳を傾ける。

「一年前に惣領がお亡くなりになってから惣領家は次の主が決まっていない。誰が次の惣領になられるか、今中央はそれでもめている。それで不穏な事態とならないように、警備を増強するらしい」

「誰がなるかは決まっているだろう? 何と言ったか……あれだ、惣領家傍流の方がなるんだろ? 確か上総家じょうそうけ勢輝せき様だ」

「それがどうやら違うらしい。最近では椎良しいら様が次期惣領になられるんじゃないかと考えられているのさ」

「だが椎良様は目がお見えにならないんじゃないのか?」

 思わず万は口を出していた。惣領の座を巡る争いを彼は詳細に知っている。だが、まさかここでこのような話を聞くとは思わなかった。虚実入り交じっているとはいえ、もう噂として出回っているのか、と意外の念を抱いていた。いい加減酔いがまわっている相手は口が軽い。思わせぶりに指を振ると言った。

「ああ。だから継ぐことはないと思われていたんだが、玄士の正章せいしょう様が椎良様を強力に推しているらしいんだよな。正章様は前々から上総家とは折り合いが悪い。上総家から惣領を出そうものなら、自分が追い落とされることがわかっているから、是が非でも椎良様を惣領に、ということらしい。ここからが面白いんだが、噂じゃあ正章様は椎良様に自分の息子を婿として差し出すつもりらしいぜ」

 万は杯を卓に置いた。一瞬顔が強張ったのが自分でもわかった。幸い、彼の表情に気付いた者は一人もいなかった。

「それがどう面白いんだ?」

「わからないのかよ。椎良様が惣領になられて、玄士様の息子が婿になってみろよ。玄士様の力はこの上なく高まる。影響力は今まで以上、誰も手出しが出来なくなる。上総家も目じゃないってことさ」

「なるほどなあ……」

「ま、どうなるにせよ、雲の上の話だな。俺達にゃ関係ねえ」

「しかし何で近衛の増強なんてするんだ。要は玄士様と上総家の争いだろ? 不穏な事態なんて別に起こらないんじゃないか?」

「そりゃあ、十年前の事件があるからだろ。ほら、椎良様の暗殺未遂事件……」

 調子っぱずれの歌声が突然あがり、それに若者の声が掻き消された。隣りの卓で、酔いのまわった男達が興に乗ったのか、大声で歌い出していた。息を詰めるようにして話していた座が白ける。

「暗殺未遂事件があったというのも噂に過ぎないだろう」

 万の言葉に、隣りの騒ぎを呆気に取られて眺めていた若者が振り返った。

「あ? ああ……何だっけ?」

「だから、十年前の」

「そうそう、噂なんだが、実際あったらしいぜ。しかも上総家が仕組んだことだという話があるんだよ。惣領の座欲しさにな。で、折角勢輝様が惣領になるのが確実だったってのに、今頃になって椎良様にそれを横から奪い返されるんだから、次は何をするかわからんってね……」

「おい、見ろよあれ、馬鹿だよなあ」

 歌い出した男達とは別の卓の一団が立ち上がり、歌にあわせてどたどたと騒々しく足を踏みならしている。

「もっとうまく踊れー!!」

 歓声とも野次ともつかぬ掛け声がかかる。つられたように方々で男達が立ち上がり足を踏みならす。手拍子、足拍子が入り乱れて店中が一つのうねりに呑み込まれるように沸き立っていた。

「俺達も行こうぜ!」

 万の正面の兵卒が叫ぶと踊りの輪の中に飛び込んでいった。もう一人がその後に続く。

「おい! 悪いが俺は帰る!」

 万は今しも飛び出そうとした残りの一人の腕を掴むと大声で叫んだ。そうせねば聞こえぬ程の騒々しさである。相手の返事は聞こえなかったが、頷いた動作から伝わったのだろうと判断し、万は揺れ動く男達をかき分けて出口へと向かった。

 店の外に出ると途端に突き刺すように冷たい夜の大気に押し包まれた。外套を羽織り、店から離れる。陽気な喧噪が遠ざかった。酒の酔いはとうに消えていた。どさくさに紛れて店から出ることが出来たのはむしろ良かった。出た、というよりも実際には逃げ出したようなものだったが、と万は苦く思った。先程聞いた話に、自分でも驚くほど動揺していた。

 体の芯から凍えるような寒さが今はありがたい。肉体的な感覚が、思考の渦から己を遠ざけてくれる。

 街の外に向かっていた万はふと足を止めた。酒場の界隈からは離れ、既に眠りに落ちる街並みが続く。ひっきりなしに舞い落ちる雪の帷の向こう、光という存在から見放されたかのような街角にひそりと立つ人影があった。暫しその姿を見つめ、万は大きく嘆息した。足早に近付き路地に踏み込むと、背後に影が続く。真新しい雪を踏みしめる足音が二つ、夜の街に微かに響いた。

 誰にも見られぬだろう一角まで辿り着き、漸く万は後ろからついて来た人物を振り返った。

「こんなところで何をしている」

 問われた相手は涼しい顔で答えた。

「首尾を確認しに来た」

「あのな、俺はうまくやってる。のこのこ会いに来るなんてどうしたんだよ。らしくないな。誰かに見られたらどうする」

「弟を心配してはいかんか?」

 さらりと言った相手を万は睨みつけた。対する兄、清夜すがやは憎らしいほどの無表情である。

「先程ともに酒場に入った他の三人は、梓魏軍の者か?」

「そうだよ、同じ隊の……あのなあ、一体何時から見てたんだ?」

「うまく連中の中にとけこんだようだな。だが、あまり慣れ合うな。それでなくともお前は情が移りやすい」

「……いいのかよ、こんなところで油を売っていて。俺が椎良様の護衛の任につくという段取りはどうなっている」

「上総家に縁のある官吏が既に手をまわしている。お前は近衛に召し上げられる筈だ」

「何時だ」

「近々だ」

「上総家が椎良様に刺客を放つのではないかと噂が出ているぞ。どうやら惣領家のお家騒動はこれからが佳境のようだな」

 清夜の顔が僅かに強張る。

「その噂、どこで聞いた」

「さっき一緒に飲んでいた連中からだ。中の一人に、兄が軍処方で働いている、という奴がいてな。あんたが言う慣れ合いの成果だよ」

 皮肉に笑んだ万だったが、ふと真面目な表情になる。

「なあ、上総家は本当に北限の民にとって信頼出来る相手なのか?」

「あの家は我らの主の家系だ」

「だがなあ、それだって時代が変わりゃ意識も変わる。上総家のお歴々が、一度でも北限の民が生きる土地に来たことがあったか? いまだに自分達を北限の民の一員だと思っているかねえ」

 万の言葉を、清夜は否定も肯定もしなかった。答えぬのではなく答えられぬ、ということかもしれぬ、と万は思う。

「賭けてもいいが、そんなこと欠片も思っちゃいないだろうよ。今じゃあ上総家は梓魏惣領家に取り込まれちまったのさ。ただ、北限の民に由来するために惣領になれず、さぞや悔しい思いをしているだろうよ。そんな中で甘い一言で喜んで尻尾を振る便利な奴らがあらわれた……これ幸いと利用するって腹だ。俺にはそう考える方がしっくりくるんだがね。惣領の座を得たいがために、兄貴達は利用されているんじゃないか?」

 あるいは、そも上総家と北限の民を結ぶものは、歴史に埋もれた古びた信義などではなく、互いの利害の一致なのかもしれなかった。万からすれば、その方が余程相手を信頼できるというものだ。

 上総家――梓魏惣領家の傍流の血筋と言われる彼らは、梓魏惣領家が北限の民の長であった一族と姻戚関係を築いた結果つくられた家系だった。

 白沙那はくさな帝国により北限の民は嘗て支配していた土地を追われた。だがそれは容易くなされたわけではない。新たにその地を治めることとなった梓魏惣領家は北限の民の苛烈な抵抗に手を焼き、長の一族と姻戚関係を築くことで事態の収束を図った。梓魏の支配者たる地位を北限の民に約し、ともに所領を支配するのだという、それが梓魏惣領家の言葉だったという。

 過酷な気候で生きることを強いられ、長きにわたる戦いに疲弊していた北限の民は、惣領家の言葉を受け入れ抵抗をやめた。梓魏惣領家と並び立つ存在――嘗ての支配者としての矜持を辛うじて満たすことがかなったが故である。例え見せかけであろうとも、誇り高い彼らにはそれが必要だった。

 だが、実質は違うことに、多くの者は気付いていた。北限の民は単に己の主を人質に取られたに過ぎない。時代が移ろう中で、北限の民は梓魏の真の支配者であるという、その矜持を頑なに守り続けた。今でも北限の民の中では公を中心として根強く復権を図る動きがある。北限の民の本来の主である上総家から梓魏惣領を出そうというのも、その一つである。他ならぬ万自身がその動きに巻き込まれているのだ。

 全ては十年前に遡る。十年前に惣領家の主筋の姫、たった一人の後継ぎである椎良の命を奪うことで宿願を果たそうとした彼らだったが、暗殺は失敗する。それが今に至る混乱の始まりだった。

 現在でも椎良を亡き者とすべきだという強硬な意見を持つ者は多い。だが、それに異を唱える者も少なからずいる。十年前とは状況が変わったのだ。その一つの理由が、はからずも先程兵卒の一人が口にした言葉の中にあるのだと万は知っている。

 暗殺未遂の事実は表向きには秘されたが、隠そうとして隠し通せる出来事ではなかった。黒幕は上総家なのではないか――そのような噂が広まるまでさほどの時間はかからなかった。しかし上総家は仮にも惣領家の傍流である。最も動機があるとはいえ、疑わしいだけで弾劾することは不可能だった。結果として梓魏領民の敵意の矛先は北限の民へと向けられたのだ。

 真実が奈辺にあるかもわからぬ中で、北限の民に対して迫害が行われたわけではなかった。だが、一連の世の流れは、歴史に埋もれたかのように見える北限の民との戦の記憶が、梓魏領民の意識に深く刻まれていることの証左でもあった。強硬にことを運べばやがていらぬ火種を抱えることになりかねぬという、北限の民が教訓を学ぶには十分だった。

「だいたい上総家は本当に強硬派とは関係がないのか? 実は姫暗殺の主導者は上総家の勢輝様なんじゃないのか?」

「勢輝様はそれ程に愚かな方ではないと聞いている。強硬派の動きに良い顔はされていないようだな」

「それで、強硬派は大人しくしているのか? まさかもう刺客を放ったなんてことはないだろうな」

「私が知る限りそこまで動いてはいない。だが、時間の問題だな」

「今からでも北限の民が一枚岩になって、姫暗殺なんて物騒なことをやめてくれないもんかね」

「血を流し築いたものはいずれ瓦解する。北限の民と惣領家の約定のようにな。そして我らが主を奪われた怒りをいまだに抱いていることから学びもせず、相手の主を奪おうというのだから愚かしい限りだ。だが、それをわからず己の妄執にとりつかれた者達もいる、ということだ。あの連中はそれこそが真実の忠節と信じている」

「傍迷惑なもんだ。だいたいそんな奴らは自分の指から血が流れただけで大騒ぎするってえのに、人が流す血は紅辛酒だとでも思ってるんじゃねえか? いかれた奴らだ」

 ぼやく万の口調に、くすりと清夜は笑った。可笑しげなそれに万は目を瞬く。だが、兄の柔らかな表情はすぐに消える。

「私は暫く梓魏を離れる。今日来たのはそれを伝えるためでもある。これから何かあっても一人で何とかしろ」

「どこに行くんだ?」

「緩衝地帯だ」

「緩衝地帯って……なんで」

「少し厄介なことになっているらしい。事態を収拾してこいとの由洛公ゆらくこうからの命令だ」

「なんで兄貴が行くんだよ。緩衝地帯での計画を進めていたのは由洛公じゃねえか。兄貴は計画には反対だと言っていたんだろう? 何故兄貴が尻拭いをするんだ」

「仕方がないさ。由洛公には恩義がある。それに計画自体はさほど悪いものではなかった。ただ、方法が悪かった、ということだ」

「そこまで義理立てする必要はないだろう。恩義があるのは父親の方であって道楽息子じゃないだろ。それに、恩義と言っても俺達を暗殺者に仕立て上げたのは先代由洛公だ。俺としちゃあ、到底感謝する気持ちにはなれねえな」

「万、私はあの方に仕えているんだ」

 淡々と清夜は言う。それに万は言い様のない苛立ちを感じた。昔から、兄のこのような顔を見るたびに感じていたそれである。

「だいたいあの道楽息子が真剣に北限の民の未来を考えていると兄貴は思っているのか? 公達が唱える北限の民の復権なんて、そんなものはまやかしだ。綺麗事ばかり並べ立てても、あいつらは所詮己の財のみに固執する屑どもじゃないか。そんな奴らのために、なんで兄貴がそこまでやるんだ」

「私には果たしたい目的がある。そのためならば屑どもに対してであろうとも喜んで膝を屈するさ」

「その目的ってのは何だよ。北限の民が嘗ての権力を取り戻せるわけがない。北限の民にはもうどこにも行き場はないんだよ。あの地で生き抜くしかないんだ」

「あの地で生きることを捨てたお前に、そのようなことが言えるのか?」

 はっと万は口を噤む。責める響きはなかった。ただ事実を指摘しただけ、ということか。静かな兄の面から万は目を逸らしていた。

「私が何を思うかなど、お前には関係のないことだ。もとより私とお前とでは目的が違う」

 聞きわけの悪い子供に対するかのような兄の言葉である。万は苦々しく溜息をついた。考えてみればこの兄が本心を彼に明かしたことなど今まで一度もなかった。

「俺も緩衝地帯に行く」

「何を馬鹿なことを……そのようなことは無理だ」

「何とでもなるさ。遠縁の親戚が死んで葬儀に出るとでも言えば、理由はつく。由洛公の浅知恵のせいで兄貴一人を危険な場所に行かせられるか」

「だめだ。お前は椎良様をお救いすることだけを考えていろ。いつ強硬派が刺客を放つかわからん」

 万は返す言葉に窮する。予想以上に惣領家を巡る動きは激しく、予断を許さぬ。それを思えば、清夜の言は尤もなものである。そしてもう一つ――万は低く問うていた。

「さっき聞いたが、玄士の一人が椎良様と自分の息子を結婚させようとしているらしいな」

「ああ、正章のことか。……やはり、気になるか?」

「……」

「正章は権力欲が強いうえに、生粋の北限の民嫌いだからな。上総家から惣領を出すのを何としても阻もうとするだろうな。最近では益々力をつけて強引になってきている。そのせいで北限の民の強硬派が事を急ぐ可能性がある。博山公はくざんこうの性格はお前も覚えているだろう。正章がこれ以上力をつける前にと、姫の命を奪おうとする動きがはやまるかもしれん」

「博山公か……くそっ!」

「とにかく、私のことは余計な心配などせずともよい。お前こそ迂闊だからな、用心しろよ。お前自身が死んだことになっていることも忘れるな」

 最後の言葉に、万は顔を顰めた。面と向かって言われると、やはり良い気分ではない。

 己が故郷では死んだことになっている、その事実を知ったのは梓魏を去った後のことだった。清夜の所業であることはすぐにわかった。飛雪という名を捨てた彼に対する、それが兄の意思表示なのかと思い悩んだ時期もあった。今となってはそれが、全ての咎と汚名を被せられた彼を救うための唯一の方法であったのだと、万にもわかる。

「わかってるさ。それに別に兄貴を心配しちゃいない。いつも俺よりも腕は上だった」

 清夜は薄く笑んだ。ふと視線を上に向ける。それにつられて万もまた上空を仰いだ。降り注ぐ雪がさらさらと頬に触れる。夜の天空、その滑らかな漆黒から湧き出し、やがて僅かに銀灰の翳りを帯びて、最後にはあえかな純白へと移ろう。

 そういえば、と囁くように言った清夜の声音は穏やかだった。

「昔お前はよく一人で雪の中に飛び出して行ったな」

「……そうだったか?」

「ああ。父上と母上が死んだ後には二人を捜しに行くのだと言って、一人雪原に入り込んだ」

 何故父と母がいないのか――幼い弟のその問いに、清夜が二人は雪原の向こうに行ったのだと答えた、それ故だった。子供にとって雪原はどこまでも続く果てしない世界だった。その向こうにまだ見ぬうつつがあるなどと、あの頃は知らなかった。

「私が捜しに行くとお前は雪原に倒れていた。あの時は肝が冷えた。死んでいるのかと思ったが……」

 清夜は言葉を切ると、万を見やって笑う。

「あの頃からしぶといな、お前は」

「言ってろよ」

 ふと、万は目を細めた。記憶の底から、不意に湧きあがったものがあった。視界を埋め尽くす白、飢えと疲れ、倒れ込んだ雪原は不思議と柔らかく温かかった。そのまま意識を失い、気付いた時には見慣れた炉辺で、温めるためか兄に抱きしめられていた。叱られるかと思って見やった兄は、ただ深く静かな眼差しでこちらを見つめていた。それに、何故か泣きたくなったことを覚えている。己の小ささを痛感した瞬間でもあった。

「なあ、あの時何か言っていなかったか?」

「どの時だ」

「俺が雪原に迷い込んだ後、兄貴が俺を連れ帰ってくれただろう。その時だ。何か言っていただろう」

「……さあな。覚えていない。お前の気のせいじゃないのか?」

「そうか?」

 万は首を傾げる。確かに気のせいなのかもしれぬ。あの時彼は兄の腕の中で気を失っていたのだから。だが、まるで水底から小さな泡が浮き上がるように、遠く何かを囁く兄の声が聞こえるような気がした。

「とにかく、お前は自分の仕事にだけ集中していろ。わかったな」

「ああ」

 じゃあな、と言って遠ざかる清夜の背に、万は思わず声をかける。

「気をつけろよ」

 清夜は頷くと、ひっそりと姿を消した。万は兄が消えた闇を見つめる。何故か、やるせない思いが胸中に凝っていた。それさえも埋め尽くすように、雪は静かに降り積もっていった。

 今回で第二章は終わります。次からは第三章「螺状の絆」がはじまります。第二章の最後あたり、主人公が全く出てこない、という。この先もしばらく出ません。物語はさらにややこしくなっていきますが、読んでいただければ幸せです。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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