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最果てに天深く  作者: 高原 景
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70

 時の流れが、まるで纏わりつくように緩慢に感じられた。闇の中で神経を研ぎ澄ましていた須樹すぎは顔を上げた。扉の向こうで微かな物音がした。食事を持って来たのか、と思い、ふと不審に感じた。あまりに気配がなかった。常ならば廊下を歩いて来る足音がする筈なのに、それすらなかった。

 普段とは様子が違う。不安が生じる。

 躊躇っている場合ではない――須樹は思考を振り払うと身構えた。機会は一度きり、失敗すればおそらく次はない。

 閂の外される音が響いた。扉がゆっくりと開く。滑らかに、軋みの音一つ立てずに開けられたそれに、須樹はするりと近付いた。逆光のせいで顔もわからぬ人影へと一気に間合いを詰める。一撃で仕留め、廊下の者達に声を出させる前に何としても倒す。

 急所を正確に狙って拳を突き出した。

 だが、手応えはなかった。確実に仕留めるつもりの拳が空を切った。外したわけがない。避けられたのだ、と瞬時に悟る。須樹は愕然とした。

 音もなく身を翻した相手の影だけが視界を過る。咄嗟にそれに向かって腕を伸ばし、胸倉を掴む。十分な体勢で相手の体を床に倒そうとした須樹は、次の瞬間体の重みがなくなったかのような奇妙な感覚に捕われた。

 ふわりと視界が流れた。奇妙に柔らかく、抗いがたいほど緩やかな一瞬だった。次いで衝撃、息が詰まるようなそれに、思わず呻く。痛みは不思議なほどなかった。

 床にうつ伏せに押さえつけられていることに須樹は気付く。背にのしかかっている相手の力は強い。まるで頑丈な鎖に戒められているかのように、体を動かすことが出来なかった。相手を床に投げるつもりで、逆に自分が投げ倒されたのだと、須樹は気付いた。

 まるで相手の動きが読めなかった。凄まじいまでの手練である。まず感じたのは単純な驚きだった。

 ――失敗した――

 次いでその一言が渦巻く。決して手加減したつもりはなかった。それがまるで赤子のようにあしらわれ、なす術もなく押さえつけられている。屈辱に目の前が赤く染まる。情けなさに、須樹は歯噛みした。最早逃げることは不可能だろう。起こる騒ぎを覚悟して、須樹は失意を押し殺し体を強張らせた。漸くの決心も、己で己の行く末をさらに危ういものにしただけだったのだ。

 須樹は自らを拘束する男を睨みつける。見上げた相手はなおも影に沈んでいた。微動だにせぬ相手の輪郭ばかりが黒々と、やけに大きく見えた。

 無言の相手は、息一つ乱してはいない。圧倒的な力で須樹を押さえつけながらも、相手は不気味なまでに気配が希薄だった。聞こえるのは己の鼓動ばかり――ふと須樹は訝しく思った。静か過ぎる。辺りは異様なまでの静けさに浸されていた。何故、騒ぎが起こらぬ。部屋の外の見張りはこの騒ぎに何故、一言も発さぬのだ。とうに宇麗が駆けつけていてもおかしくはない。

 その時、男がひそりと囁いた。

「手荒なことをして申し訳ありません、須樹殿」

 須樹は目を見開いた。男はなおも小声で続ける。

「拘束を解きますが、どうか声をあげぬよう、お願い致します」

 負荷が消える。須樹は呆然としながら身を起こし、目の前の人影をまじまじと見やった。廊下から部屋へと差し込む仄かな光に男の顔が浮かび上がる。その顔に覚えがあった。

「あなたは……」

 須樹はぽつりと呟いた。彼は男を見知っていた。確か名をげんといった筈だ。どのような立場の者かは知らぬが、多加羅惣領家に仕える男だ。何時の頃からか、影のようにかいに付き従う姿を見かけるようになった。その男が何故、このような場所にいるのか。

「御無事で良かった」

 須樹の混乱など知らぬ気に、弦は言った。

「何故、ここに?」

「灰様の御命令で参りました。灰様はおうなのもとに須樹殿が捕われているのではないかとお疑いであられました。そして、私に調べるように、と」

「灰は俺を捜しているのですか?」

「はい。須樹殿が姿を消されたのは、緩衝地帯で多加羅若衆を巡る一連の騒ぎに巻き込まれたせいではないかとお考えであられました」

「だが、何故俺がここに捕われていると……」

「須樹殿、今は時間がありません。全てを申し上げることは出来かねます。見張りの者達は薬で眠らせていますが、効果はさほど長くはありません。私がここに来たのは灰様のお言葉をお伝えするためです」

「灰の?」

「はい。灰様は須樹殿のことを必ずお救いするおつもりであられます。そして、須樹殿にはこの先何を見、何を聞こうとも、決して多加羅若衆であることを自ら明かさぬように、と仰せでした」

 須樹は息を呑む。まさか、と思い、その一方で妙に納得している自分がいた。やはり、灰は須樹を捜していたのだ。いかにしてか彼が捕われている場所までも割り出し、多加羅若衆であることを秘している彼の立場をも見通しているらしい。

 須樹の全身から力が抜ける。内心に生じたもの、それは安堵のようでもあり、痛みすら伴う不甲斐無さのようでもあった。虚脱したように、須樹は言った。

「俺は、ここから逃げるつもりだったんです……」

「そのようですね。灰様もそれを危惧しておられました」

 間に合ってよかった、と男は淡々と言葉を紡ぐ。実際に危ういところだった。成功したか否かは別にして、須樹はまさに自力で逃げようとしていたのだ。

「須樹殿、決して独力で逃げようなどとはなさらぬことです。そのようなことをなさっては、かえって須樹殿のお立場は悪くなってしまいます」

 須樹は狼狽する。見張りは薬で眠らされ、扉は開いている。今こそ、逃げる絶好の機会ではないか。だが、ここまで忍んで来たであろう弦は、須樹に逃げるなと言うのだ。

(いや、違う。灰が逃げぬよう言っているのだ)

 だが、何故――須樹の戸惑いに気付いているのかいないのか、あくまでも表情を変えぬまま弦は言った。

「もう暫し御辛抱ください。必ずや、お救い致します」

「……灰は何をしようとしているのですか?」

「私には申し上げることはできません。ですが、どうか灰様を信じてお待ちください」

 言い終えると、弦はさっと立ち上がる。そのまま扉へと向かう弦の背中に、須樹は言った。

「待ってください。灰は、何か危険なことをしようとしているのではないですか? 捕まったのは俺の失態です。そのせいで、あいつが危険な目に遭うようなことがあれば……」

 振り返った男が浮かべた表情に、須樹の言葉は途切れる。笑みだった。

「御心配めされるな」

 ただ一言残し、弦の姿は扉の向こうに消えた。がちりと、閂の下ろされる音が響き、そして人の気配が消えた。

 呆然と床に膝をつき、須樹は弦が消えた先を見つめる。

 ――必ず助け出す――

 灰の言葉が聞こえた気がした。

 そういえば、と須樹は思う。ここに連れて来られる前に捕われていた場所で、まるで灰が目の前にいるかのように、その存在を感じたことがあった。たった一度きり、一瞬ではあったが鮮烈なまでのその感覚を、須樹は思い出していた。そして、必ず灰が己を捜しているだろうことを心のどこかで確信していたのだと、須樹は今更ながらに気付いていた。それは、あの束の間の不思議な感覚故であったかもしれぬ。

(灰、危険なことをするな)

 強く思う。灰が他人を助けるために己を顧みぬ程に無理をすることを、須樹は知っている。他ならぬ自身の過失で、灰が危険に晒されるようなことがあれば――。須樹はやるせなく俯いた。

(どうか)

 呼びかけた相手は、弦だった。

(俺はどうなってもいい。俺に何があったとしても、どうか灰を守ってください)

 最後に男が見せた不敵なまでの笑みが脳裏に浮かぶ。揺るぎなく、迷いの欠片とてなく、その笑みは凄味さえ帯びながら、不思議に穏やかだった。

 暗闇の中、須樹は跪く。言葉もなく、祈るように頭を垂れた。




 視界が真白に染まっていた。

 ――飛雪ひせつ!!――

 叫ぶ声は吹雪の唸りに紛れ、少し先までも届きはしない。横殴りに吹きつける風雪に、ともすれば体が引き倒されそうになる。清夜すがやは太腿まで雪に埋もれながら、もがくようにして前へと進んでいた。体中が冷え、すでに手にも足にも感覚はなかった。

 ――飛雪!!――

 焦燥のまま再度呼びかける。小さな姿はどこにも見えない。早く見つけなければ。このような吹雪の中、幼い子供の体力などすぐに尽きてしまう。清夜自身も今にも倒れそうに疲れ果てていた。寒さと飢えが容赦なく力を奪う。

 と、その時、風向きが変わったのか、不意に視界が明瞭に開けた。遠く、どこまでも広がる雪原の上に、まるでしみのようにぽつりと黒い色彩があった。清夜は必死で近付く。行く手を阻む雪を忌々しくかき分けながら漸く辿り着いた清夜は、息を呑んだ。飛雪が雪に半ば埋もれて倒れていた。

 しっかりと瞳を閉じた飛雪の顔は雪にも負けぬ程に白い。祈るような気持ちで抱き起こすと、その体は冷たかった。口元に手をかざし、清夜は安堵の溜息をついた。まだ、息がある。己の外套を脱ぐと、小さな弟の体を包み込む。抱き上げると、痩せた体は悲しい程に軽かった。生きているとはいえ、このままでは凍死する危険がある。

 急ぎ、元来た方向へ戻りながら清夜は呟いていた。

 ――僕がお前を守る。絶対に守る――

 呪文のように、己の心に刻むように、清夜は繰り返していた。まるでそれに応えるように、腕の中で飛雪が小さく兄者、と呟いた。

 なおも視界を覆うのは白、己の力などこの色彩の前に如何程のものでもない。それでも清夜は挑むように前方を睨みつけた。

 風の轟きは慟哭に似ていた。


 がたり、と馬車が揺れた。清夜ははっと目を見開く。一瞬己がどこにいるのか掴みかね、そして苦笑した。何時の間にか眠り込んでいたらしい。馬車の小さな窓から外を見ると、目的地に着いていた。豪奢な屋敷が目の前にある。馬車の揺れはどうやら止まった時のものらしい。清夜は馬車を降りると屋敷へと向かった。

 ごく僅かな時間だったのだろうが、懐かしい夢を見た。遠い昔の記憶、何年も見ていなかった夢だ。それを今頃何故、と思い、さらに苦笑を深める。弟との十年ぶりの再会のせいか。もっとも飛雪――今はよろずと名乗る男は、あの時のことなど覚えていぬだろう。

 待ち構えていたように開けられた大きな扉を抜ける。玄関部分の広間を抜け、目的の部屋へと向かった。

 部屋も屋敷の外観に違わず華麗だった。赤を基調とした装飾は重々しく、深い色合いの木々を惜し気もなく使った家具調度も立派なものである。もっとも、先代の主の頃にはなかったものもある。壁にかけられた大角鹿の頭の剥製は今の代の主になってからのものだ。その主、暖炉の前に佇む男は、戸口に立った清夜を振り返ると笑んだ。年の頃は清夜と同じ三十代半ばでありながら、どこか弛緩した印象を人に与える。

「待っていたぞ」

 清夜は一礼だけすると部屋に踏み入った。外の厳しい寒さが嘘のように、部屋は暑いくらいである。そこには他にも数人の姿があった。男が三人、屋敷の主よりは年嵩の者ばかりである。どっしりとした設えの椅子に座り、手に持つ硝子の杯には琥珀の液体が揺れていた。

由洛公ゆらくこう、彼は?」

 問うた一人は五十を過ぎているだろう、肥え太った顔の中で小さな目が埋もれるかのようである。

「ああ、彼は清夜といいます。慈善家だった我が父が、飢え死にしかけていた彼を昔救いましてね、以来我が家によく仕えてくれているのですよ。清夜、こちらの方々を知っているか?」

「存じております」

 清夜は眼差しを伏せて答えた。無論、彼は知っていた。この部屋に集うのはいずれも公の称号を帯びる者達ばかりである。

 郷氏ごうしとして貧しい土地に生きる北限ほくげんの民は、公の称号を許された一握りの者達によって率いられている。公の多くは、白沙那はくさな帝国にこの地に追いやられた後、民を優れた指導力で率いた者達の家系だった。厳しい気候の中で北限の民が生き抜くことが出来たのも彼らの功績に依るところが大きい。

 だが、それももはや昔のことだ――清夜は冷やかに男達を見やった。分厚い衣と贅肉に包まれた目の前の男達の中に、嘗て民を率いた祖先の誇りが如何程残っているだろうか。今や公とは名ばかり、あるのは己の財への執着と嘗ての栄光に縋る古びた矜持ばかりだ。

 中でも、由洛公を名乗るこの男が最も始末に負えぬ、と清夜は思う。父親の後を継ぐ前は己の虚栄と欲望のままに放蕩の限りを尽し、由洛公の名を継いだ後もそれは変わらぬ。虚栄の対象が、北限の民の未来を担うという英雄願望に取って代わっただけだ。それも父親が築いた信頼と莫大な財産に寄生しているだけであり、男自身が築いたものなど何一つとしてない。あるのは使い古された題目、自己愛に満ちた懐古主義ばかりだ。

「お前を呼び出したのは他でもない、頼みたいことがあるのだ」

「何でしょう」

「実は緩衝地帯での計画が少し厄介なことになってね」

 思わず清夜は顔を上げる。由洛公はわざとらしく肩を竦めると、杯をあおった。

「雇い人達が少々難物なのだ。そこで、後始末をお前に頼みたい」

「由洛公、私は緩衝地帯での計画には反対だと申し上げました。確かその時、貴方は私には何も頼まぬと仰せではありませんでしたか?」

 苦々しい清夜の声音だった。

「君、主に向かって無礼なことを言うんじゃないよ」

「ああ、いいんですよ。彼の物言いには私は慣れているのでね」

 横合いからの声に、由洛公が言った。

「私は己の役割を果たしております。緩衝地帯でのことは別の者にお命じいただきたい」

「惣領家の姫君の暗殺を阻む手筈は整えた、ということかな」

「はい」

「報告の一つもなかったが……お前の秘密主義には参るね。この通り、彼は私にはなかなか詳細を語らぬのですよ。これではどちらが主かわかりません」

 男はおどけたように言い、他の者達が媚びるように虚ろな笑いで呼応した。

「全ては順調でございますれば、無用な報告で煩わせるわけには参りません」

「そうか。まあ、うまくいっているならばいい。引き続き頼む」

「はい」

 実際には違う。万はまだ姫の身辺警護の任にはついていない。だが、万が椎良の近衛となるのも時間の問題だ。そのための手筈は既に整えている。それを目の前の男に言うつもりは毛頭なかった。

 公という相手の立場を思えば、清夜の態度は不敬でさえある。だが唯一の、そして絶対的な清夜の強みは、彼が先代由洛公の時代から仕え、年若い時分から絶大な信頼を得ていた、ということだ。清夜の力と影響力を男は無視出来ない。公という呼称に違わず矜持ばかりが高い男にとっては我慢ならぬことだろう。生憎と清夜にとっては男の機嫌などどうでもよいことだった。ただ目的を達するために男の下にいるに過ぎない。男は清夜が築いた幅広い伝手が、そして清夜には男の莫大な財産が必要なだけなのだ。そういう意味では、男の財力に媚び諂いこの部屋に集う無能な公達と己は大差ないと清夜は思う。

「だが、そちらがうまくいっているならば、緩衝地帯で動くにも支障はあるまい」

「ですから、それは……」

「君には北限の民の誇りがないのかね」

 清夜は突然割り込んできた声に振り返った。杯を口元に運びながら清夜を睨みつけているのは最も年長と思われる男だった。たるんだ頬の肉が口の動きにつられ揺らめく。

「北限の民が嘗ての栄光を取り戻すためにも、我々の計画に失敗は許されんのだよ」

「そうだ。我らの主が梓魏しぎの支配者となるために尽力することを厭うなど、君はそれでも北限の民か」

「だいたい由洛公のお言葉に逆らうとは何事だ。聞けば、君は先代由洛公に命を救われたというではないか。その恩も忘れたのか」

「ああ、いいのですよ、皆さん。この男にはこの男なりの思いがあるのでしょう」

 由洛公は笑い含みに言った。

「清夜、お前が私の……いや、我ら北限の民の期待を裏切らぬことはよくわかっているよ。尤も弟は違ったようだがね」

 己への批判にも表情を変えなかった清夜が、素早く由洛公をねめつけた。白皙の面にあらわれた怒りの色に、由洛公が歪んだ笑みを向けた。なぶる意図が透けて見える。

「由洛公、そやつの弟というのは何のことです?」

「皆さんも御存知ですよ。おそらく私より詳しく知っておられる筈だ。十年前、梓魏惣領家の姫君を暗殺する計画が実行されましたが、その折に姫君に近付き毒を盛ったのは彼の弟なのですよ」

「おお、知っている。確か、姫に懸想し、挙句の果てに殺すこともかなわず、我らを裏切った若者がいたな」

「あやつか。暗殺者が聞いて呆れる。色狂いした愚か者だ」

「まさに北限の民の恥晒しですな」

「弟は、死にました」

 公達の声を断ち切るように、清夜が強い口調で言った。

「私がこの手で殺しました」

 冷やかな響きに、しんと場が静まる。清夜は由洛公を見やった。

「ですが、十年前の暗殺が未遂に終わったからこそ、今我らには新たな未来を築く展望が開けたのです」

「ああ、その通りだとも」

 清夜は嫌悪とともに目の前の男を見据えた。深く息を吸い、己の感情を深く沈める。

「私に緩衝地帯へ赴けと仰せなのですか?」

「ああ」

「お引き受け致しましょう。どのような事態になっているのですか」

 由洛公はにやりと口元を歪めると、杯を掲げた。

「聞きましたか? 皆さん。やはり彼は誇り高き我が民の一員だ。彼の忠義に乾杯を」

 声には愉悦が滲んでいた。己の意のままにならぬ相手を屈服させた、その快感なのか――。どうでもよい、と清夜は思う。男が己をどのように思おうと、そのようなことはどうでもよい。

 部屋に澱む熱気に包まれながら、彼は轟く風雪の音だけを遠く聞いていた。


 屋敷を出た清夜は、門の外で待っていた馬車へと歩む。

「どちらへ向かいますか?」

 御者が問うた。長年彼の下で働く者である。表情に出したつもりはなかったが、彼が内心に隠したものに気付いたのかもしれぬ。気遣う響きがあった。

「私の住処へ。準備を整えすぐに梓魏を出る」

「……承知致しました」

「いや、梓魏を出る前に寄る場所がある」

 それだけを言うと、清夜は馬車に乗り込んだ。

 轍の音を聞き、清夜は漸く体から力を抜いた。梓魏を出る前に、一度万に会わねばならないだろう。首尾を確認し、警告を与える。彼が緩衝地帯に向かえば、傍近くで見守ることは出来ぬ。不測の事態が起こったとしても、万自身の力だけで切り抜けるしかないのだ。

(尤も、見守ってほしいなどと思うわけもなかろうが……)

 そう思い、清夜は瞳を閉じた。眠りは、訪れなかった。

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