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最果てに天深く  作者: 高原 景
66/117

66

 死を覚悟した瞬間、男の体が大きくよろけた。

 非常な勢いで飛んで来た何かが、男の体にぶつかったのだ。何かはわからなかった。それは、粉々に砕けて須樹すぎの上に降り注いだ。音は聞こえなかった。がんがんと鳴り響く己の鼓動だけがあった。

かなりの衝撃だったのか、男が呻いて頭を押さえる。須樹は腕を縫いとめる凶器を掴むと、力任せに引き抜いた。その勢いのままに、相手の腹の辺りを薙ぐ。男が大きく背後に跳んでそれを避けた。その隙に、須樹は少しでも男との間合いを広げるために壁伝いに必死に足を動かした。

「くそったれが!!」

 ひどくしゃがれた声で男が叫ぶ。

「行くぞ!!」

 一声叫んだ男が突き当たりの窓に体ごとぶつかる。硝子の割れる鋭い音とともに、男の姿は闇に消えた。その後に他の二人が続く。

 その段になって漸く須樹は近付きつつある複数の足音に気付いた。呆然と立ち尽くす須樹の前を、幾人もの男達が走り過ぎ、三人の後を追うのか窓から外へと次々に飛び出して行った。

「逃がすなよ! おい、そこの二人は地下を見て来い」

 足音にかぶり、指示を出すらしい声が響く。須樹は壁に寄りかかると、握っていた短剣を床に落とす。澄んだ音が響いた。

「大丈夫か?」

 かけられた言葉に、須樹は顔を上げた。頭一つ高い位置から見下ろす男の顔があった。知らない顔だ。その顔がふと顰められ、須樹の左腕へと注がれた。

「ひどそうだな」

 つられて須樹も己の腕を見下ろした。力無くだらりと垂れさがり、流れ落ちる血が手を真赤に染めていた。床に出来た血溜まりに、なおも指先から雫がひっきりなしに落ちている。まるで鋭い爪に鷲掴みにされたような激痛が脈打っていた。

おう! 捕えたか?」

 響いた声に須樹は顔を上げた。足早に向かって来る宇麗うれいの姿がある。

「いや、窓から逃げた」

「そうか……」

「上の様子はどうだ。火はどうなった。子供達は無事か?」

「全て消し止めた。大した出火ではなかったからな。地下から目を逸らさせるためだけのものだったんだろう。……この破片は何だ」

 宇麗は屈み込むと床に散らばった欠片を拾い上げた。

「おい、まさかとは思うが、これは向こうに飾ってあった壺か?」

「まあ、な」

 男――黄というらしい――の視線が宙を彷徨う。

「昔から大事にしていたものだぞ」

「仕方がないだろう。何か投げつけないとこいつが死んでいたんだからな」

 宇麗はなおも何かを言いかけたが、小さく舌打ちをすると無残に壊れた壺の欠片を投げ捨てた。宇麗の眼差しが須樹に向けられる。

「傷を負ったのか。見せてみろ」

 つかつかと近付いて来た宇麗は無造作に須樹の左腕を掴む。それに須樹は思わず呻いた。

「おいおい、宇麗、もう少し優しく出来んのか」

 黄が呆れたように言った。

「うるさい。……見たところ動脈は切れてないようだな。骨にも異常はなさそうだ。運が良かったな。肉を貫いているだけだ。黄、こいつを治療室に連れて行って、治療を受けさせてくれ」

「ああ、わかった。お前はどうする」

「まだ終わっていない。男達の後を追う。それに……地下がどうなっているか確かめないとだめだ」

 宇麗の言葉に黄の顔が強張った。ちらりと地下へと続く矩形の闇へと視線を投げる。

「わかった。地下は今様子を見に行かせている。お前……名前を何といったか……」

はくだ」

 地下への階段を睨み付けていた宇麗が素気なく言った。

「そうだった。駁だったな。ついて来てくれ」

 須樹は頷くと、傷口を手で押さえ、男の後に続いた。助かったのだと、今更ながらに実感する。まるで悪夢のような出来事だった。腕の激痛がなければ、まさに夢であると思えそうなそれである。

 背後で慌ただしい足音が響く。それに続いて、男の声が響いた。

「だめだ、全員死んでいる!」

 須樹は思わず振り返っていた。地下から出て来たばかりらしい若者の顔は蒼々としている。宇麗が拳を握り締めた。問う声は低い。

「何人だ」

「見張りについていた三人と、後から向かった一人で四人……それから……」

 報告を述べる若者の喉仏が大きく動いた。喘ぐように続ける。

「捕えた男達も全員が殺されていた」

「何だと!?」

 驚愕をあらわにした宇麗が、足早に地下へと入るのを須樹は見つめていた。

「行こう」

 一連の遣り取りを聞いていた黄の表情は青褪め、強張っている。厳しい眼差しのまま、須樹を促すと足早に進んで行った。それを追いかけながら、須樹はちらりと等間隔に並んだ窓を見やった。硝子の向こうは暗い。壁に阻まれ作られた闇とは違う。吸い込まれるように柔らかなそれは夜の色だ。

「一体何が起こったんだ?」

 いつの間にか問うていた。先を行く男の答えはない。

「あいつらは何者だ」

「いいから黙って歩け」

 素気なく男は言った。言葉とは裏腹に、声は温もりを感じさせた。それを須樹は意外に思う。彼の戸惑いに気付いたように、男は言葉を続けた。

「傷の治療をしたらおそらく宇麗はお前を別の場所に移動させるだろう。仲間の命を救ってくれたとはいえ、お前はまだ虜囚だからな。逃げようなどと考えるんじゃないぞ」

「あの人は無事だったのか」

「ああ」

「良かった……」

 ぽつりと須樹は呟いた。それに、男は何も言葉を返さなかった。


 

 その時(かい)が孤児院の前を通ったのは偶然だった。まだ調べていない界隈に足を運ぶつもりで通りがかっただけである。だが、眠りの中にあるであろう建物に目をやったのは、やはり宇麗のことが頭にあったせいだった。

 視線を向けた先、建物の三階に揺れる明かりがあった。はじめは窓に灯る明かりに見えた。夜半を過ぎている頃合いにまだ起きている者がいるのか、と思い、はっとした。明かりは、灯火にしては不自然だった。ゆらりと影と光が大きく交錯して蠢いている。その窓だけではない。二つ隣りの窓にも同様の不穏な明るさがあった。さらに離れた窓にもゆらゆらと踊るようなそれがある。

 火事なのだと悟り、灰は足を止めた。建物のそこかしこで明かりが灯るのは、出火に気付いた人々が起き出しているのだろう。内部で慌ただしく動く人々の気配が、夜の大気に滲んでいた。やがて不穏な炎は消しとめられたのか、窓は暗がりに沈んだ。

 我知らずほっと息をついて、再び灰は歩を進めた。冬の乾燥した季節に、火事はまま起こるものだった。だが孤児院であれば子供達も多くいるだろう。怪我人がいなければいいが、と考える。

 灰は特に急ぐでもなく孤児院の前を通り過ぎ、一区画先の横合いに伸びる道へと踏み込んだ。人気のない細い道である。ここを抜ければ、夜遅くまで開く賭場があった。噂をまく者達が動いているとは最早思えなかったが、万が一の可能性を考え、一度は足を運んでおきたかった。

 物思いにふけりながら歩いていた灰は、ふと足を止めた。耳を澄ませる。細く高い悲鳴が聞こえた。それは切れ切れに続く。考える前に灰は走り出していた。

 不意に悲鳴が途切れた。さらに足を速めて、灰は角を曲がった。その先に、ちらりと数人の姿が見えた。何かを言い争う男達の声が聞こえていた。足音を忍ばせ、しかし極力素早く灰は男達の後を追った。男達は急いでいるのか、足運びが忙しない。まるで物音をたてるのを恐れるかのような身ごなしだった。遣り取りも小声である。

 男達が向かう先は、灰の目的地でもある賭場がある界隈だった。夜半にも関わらず、まだそこそこの人の姿がある。その道の手前で男達は立ち止まっていた。

 灰は静かに近付くと、手前の角から様子を窺う。人数は三人、いや四人だ。三人は男、輪郭しか掴めないが、その中の一人が腕に羽交い締めにするようにして小柄な人影を捕えていた。女性だろう、と思う。悲鳴の主か――方向からしておそらく間違いないだろう。

「いい加減にしろ!」

 業を煮やしたかのような男の声が聞こえた。声を潜めてのそれは、むしろ静寂に鋭く響いた。風向きのせいもあろうか。灰の視線が険しくなる。男達の方から流れ来る空気に、微かに金っぽい臭いが混ざり込んでいる。

(血の匂い……?)

「そんな小娘を連れて行けない!」 

「こいつは俺の物だ! 俺の商品なんだよ!! 俺のところから逃げやがったんだ。見つけたから連れ帰る。文句があるか!!」

「大ありなんだよ。そいつはあの孤児院にいた奴だろう! 下手に連れ歩いてみろ、折角うまく逃げたのに、見つけてくださいと言っているようなものだぞ!」

「見つかりゃしねえ。今夜中には笠盛りゅうせいを出りゃあいいんだ」

「そう甘かねえだろ。既に手を回して街の周りに見張りを置いていてもおかしくはねえ。俺達だけならば顔を見られていないから大丈夫だが、そいつを連れてちゃあ街を出ることも出来ねえ」

「いい気になるんじゃねえぞ。俺達はお前に従っちゃあいるが、阿呆な頭はいらねえんだよ。さっきだってさっさと逃げりゃあいいものを、あの餓鬼にかかずらっているから連中に追いかけられる羽目になっただろうが!」

「うるせえ!!」

 険悪な遣り取りの合間に、嗚咽が聞こえた。まだ幼い響きから少女だとわかった。少女を捕えた男がその耳元で囁いた。

「お譲ちゃん、声を出すんじゃねえぞ。どうなるかはわかっているよなあ? まさかお前が笠盛の卸屋おろしやの中に隠れているとはな。あんなことをしてまで來螺らいらから逃げ出したってえのに、哀れな奴だよなあ。安心しな、すぐに殺しはしねえよ」

 猫なで声のそれに、灰は眉を顰めた。まるで猫が捕えた鼠をなぶるような男の言葉である。残忍な響きがあった。

「くそ……しょうがねえ。とにかく逃げるのが先だ。おい、そいつに叫ばせるんじゃねえぞ」

「少しでも叫んだら、その時はお前が何と言おうと、そいつを殺す」

「ああ」

 男は少女から手を離す。だが鋭く細い刃のようなものをその背中に突き付けるのが、灰の位置からは見えた。

 男達は大胆にも少女を取り囲むようにして道に踏み出す。賭場ばかりが集まる界隈は、明るいとまでは言えずとも灯火が灯っている。その中を別段急ぐでもなく男達は足を進めている。灰も密やかにその後に続いた。漏れ聞こえた内容だけでも彼の興味を引くには十分だったが、何よりも男達に囲まれて身を震わせる少女を放っておくことは出来なかった。

 道に踏み出してあらわとなった男達の姿を灰は観察する。一様に頭を布で隠しているのは、灰のそれと似通っていた。男の言葉の中にも出ていた通り、彼らは來螺の者のようだった。

 辺りは密やかなざわめきに満ちていた。人々は倦んだ空気を纏い、酒の臭気が凝っている。儲けを一夜の快楽につぎこむ男を求めてか、道端には幾人もの女達がしどけなく立っていた。三人の男と少女は不審の目を向けられることもなく、夜の雑踏に溶け込んでいる。賭場が連なる界隈を抜ければ、その先は夜陰に沈む道が続いている。

 灰はどうしたものかと考える。衆目のある中で男達に手を出すことが出来ないのは勿論、暗闇で不意をつかねば三人を相手にするのは無理そうだった。機会を窺いながら歩いていた灰ははっとする。灯火が途切れ、暗闇へと没する辺りで、不意に少女が動いたのだ。脱兎の如く駆け出す。

「畜生! 待ちやがれ!」

 少女を捕えていた男が叫ぶ。少女の足が男に敵うわけがなかった。あっと言う間に追いつかれ腕を掴まれた少女が身を捩る。衣が裂ける音が響いた。

「やだああ! はなしてよお!!」

 甲高い悲鳴が響く。男が少女の頬を張り飛ばした。倒れ込んだ少女を見下ろし、男が刃を構える。その時、男を見上げる少女の顔が、はじめて灰の位置から見えた。ほつれた黒髪が縁取るその顔は、昼間孤児院で話しかけて来た少女のものだった。

 男が腕を振り上げる。殺すつもりか――瞬時に灰は動いていた。

 男と少女の様子を見やる二人の横をすり抜け、刃を少女に向ける男の背中に肩から突っ込む。倒れた男を見ることもなく、灰は素早く身を翻すと地面に倒れ込んでいる少女へと向かった。腕を掴むと、抱え上げるようにして立ち上がらせる。

「走れ!!」

 言うと、灰は少女を引きずるようにして走り出した。少女の動きは、まるで人形のようにぎこちない。何が起こったのかわからぬのか、恐怖に大きく見開かれた目が焦点を失っていた。

 背後で男が何かを叫ぶ。続いて追って来るらしい足音が聞こえた。それに振り返ることもなく、灰は手近な路地へと飛び込んだ。数日間笠盛の街を歩き回り、地図も大方頭に入れている。今いる位置を考えれば、その路地が入り組んだ区画に繋がるものであろうことがわかっていた。手元を照らす灯火もなく、窓から漏れる明かりもない。星月の光も遮られ、そこは全てが青錆びた黒に染まっていた。灰は少女の腕を掴み、距離感と方向感覚だけで道を走り抜けた。

 先程は運が良かった。男と少女の遣り取りに他の者が気を取られていたせいで隙をつくことが出来た。だが走ることもままならない少女を連れてあのような者達を三人も相手にすれば不利は目に見えていた。逃げるには地の利を活かすしかない。もっとも、それは男達がこの街にさほど詳しくない、というのが前提であり、それは賭けでもあった。

 怯えきった少女の足の運びは覚束ない。夜目も効かないのか、何度も躓くのを倒れぬよう支えた。幾つもの角を曲がり、複雑に分岐した道を進むうちに、灰は漸く男達が後を追って来ていないのを確信した。うまく撒くことがことが出来たようだ。

 足を止める。振り返ると、少女が灰を睨みつけていた。灰が掴んだ腕を突っ張り、威嚇するように全身を竦ませている。

「あなた、誰。私をどうするつもり?」

「何もしはしない」

「嘘!! 腕をはなして!」

 低く、震える声で少女が叫んだ。

「來螺には戻らない! 絶対に戻らないから! 連れ戻そうとしたら舌を噛み切って死んでやる!」

 少女は腕を振り払おうと身を捩る。灰は何とか少女を落ち着かせようと、極力穏やかに言った。

「俺は來螺の者ではない。さっきの男達の仲間でもない。何もしないから、落ち着いてくれ」

 少女の白目に浮かぶ涙に気付きながらも、灰は腕をはなすことが出来なかった。腕をはなせば相手は闇雲に逃げようとするだろう。そのようなことをしてあの男達に遭遇すれば、再び助けることはかなわない。

「嫌だ! 死んでやるから! 離せ! 離せったらあ……」

 振りかぶられたもう片方の腕を、灰は反射的に掴んでいた。細い手首を引き寄せた拍子に、少女の衣が大きく捲れた。先程男と揉み合った時に裂けた袖から、夜目にも白い上腕が晒される。そこに灰の目が引き付けられた。左肩の少し下に、黒々と刻まれたものがあった。それは禍々しく、まるで幾重にも絡み合う炎のような、奇妙な形をしていた。焼印だ。

 自然と眼差しが険しくなる。彼はそれが何を意味するか知っていた。

 じっと見つめる灰の視線に気付いたのか、少女の動きが凍りついた。抗い強張っていた体が弛緩する。まるで虚脱したように、全身から力が抜けた。表情から全てが抜け落ちる。暗い瞳が地面を見つめていた。いや、地面すらも見てはいない。そこにあるのはただ虚無だった。

 灰は掴んでいた少女の腕をはなした。外套を脱ぐと、立ち尽くす少女の体に触れぬよう気をつけながら、肩を包み込むようにそっと纏わせた。少女の顔を覗き込む。

「大丈夫だ。傷つけるようなことはしない。來螺に連れて行くようなこともしない。あの男達から助けたかっただけだ」

 少女は震える手で外套を握り締め、体に引き付ける。

「あの孤児院の者だろう? ちゃんと送り届けるから安心してくれ」

 弾かれたように少女が顔を上げた。

「だめ! 孤児院には戻れない」

「何故だ。あそこに住んでいるのではないのか?」

「だめなの……だって、知られた……あの場所にいることを知られた……もう戻れないよ。あいつは必ずまた来る」

「さっきの男か」

「うん。あいつ……絶対私を捕まえに来る。孤児院のみんなにも迷惑をかけられない」

 ぽつりと少女は呟くと、益々身を縮めた。灰は迷う。孤児院に連れて戻るのが良いのか、彼自身にもわからない。少女が言うとおりあの男が再び姿をあらわさぬ、という確証はないのだ。男が発した言葉、そして腕に刻まれた印のことを考えれば、少女の懸念は当然とも思えた。

「わかった。孤児院には連れて行かない。俺はこの街の者ではないが、寝泊まりしている場所がある。そこに暫く匿うから、あの男達が再び姿をあらわさないか確かめよう」

 おずおずと少女は顔を上げた。目を細め、灰を見つめる。漸く暗さに目が慣れてきたのか、灰の面立ちがわかったのだろう。驚きを浮かべた。

「昼間のお兄さん?」

「ああ」

「本当に來螺の人じゃないの? だって、その格好……」

「俺は來螺の者ではない。髪色が目立つから隠すために布を巻いているだけだ」

「どうして、助けてくれたの?」

「あのような場に行きあったら放ってはおけない」

「じゃあどうして匿ってくれるなんて言うの?」

「ここで君を放り出して、またあの男達に見つかったらどうする」

 少女は黙り込む。灰の言葉をそのまま信じたとは思えなかったが、怯えの下で必死に考えを巡らしているだろうことがわかった。

「お兄さん、さっき私の腕の印を見てたよね。あれ、何か知ってる?」

 灰は僅かに言葉に詰まったものの、正直に頷いた。

「ああ、知っている」

「…………」

「あれは耶來やらいが裏側の一員につけるものだろう? 縄張りによって様々な模様があると聞いたことがある。」

「……一員なんかじゃないわ」

 少女が呟いた。

「あいつはこの印を打つ時、私に言ったの。お前は俺の家畜だ。役に立たなければすぐに処分する単なる商品だって」

 握りしめる拳が細かく震えていた。かける言葉もなく、灰はただ少女を見つめる。少女はくしゃりと顔を歪めた。

「私……必死に逃げたの……來螺から。ねえ、知ってる? 裏側から逃げた人間の末路は必ず死なんだよ。どこまでも耶來が追って来る。どこまでも……」

 少女は全ての感情を削ぎ落したかのように無表情になる。だが虚ろでありながら、夜気に零れる落ちる程に少女が抱えるもの、それは恐怖だった。内に巣食うそれが、まるで食い荒らすように彼女を侵食していくのを灰は感じ取る。

「あの男達が孤児院に君を捜しに来たのか?」

「……わからない……。孤児院で火事が起こって、私、怖くて怖くて……庭に出たの……そしたら、突然あいつがあらわれて……」

 それきり少女は口を噤んだ。灰もまた黙す。少女が一人で耐えているのだと、正気すら奪おうとするかのような感情を抑えようとしているのだと、わかった。どれ程そうしていたのか、少女は細く息を吐き出すと真直ぐに灰を見上げた。虚ろだった瞳に、僅かに力が戻っている。

「私、來螺の裏側にいたのよ。耶來に飼われていたの。お兄さん、それを知っても私を助けてくれるの?」

「ああ」

 灰は頷いた。言葉少ない灰の応えに少女は何を思うのか、ふと目を瞬かせた。ぎこちなく、握り締めた手から力を抜く。白く強張った指はまだ微かに震えていたが、声に迷いはなかった。

「……私、お兄さんを信じる。私の名前はこん。紺色の紺。お兄さんは?」

「灰だ」

「お兄さんのところで匿って」

 灰は頷いた。

「これから俺が寝泊まりしている場所に連れて行くが、歩けるか?」

「大丈夫」

 きゅっと唇を噛みしめて少女は言った。灰はゆっくりと歩き出す。後に続く少女の様子に気を配りながら複雑な路地を抜けて行った。

「……お兄さん、ありがとう」

 少女が呟いたのは、歩き始めて暫く経った後だった。

「蛇に捕まったら、きっと私殺されていた」

 灰は息を呑み、振り返る。突然足を止めた灰に、少女が怪訝そうな眼差しを向けた。

「あの男は、蛇というのか?」

「みんながそう呼んでいるだけ。本当の名前は知らないわ。腕に蛇みたいな刺青をしているの。それに本当に蛇みたいな奴。私の焼印、あいつの刺青と同じ形をしてるの」

 炎のように見えたが、蛇が幾重にもとぐろを巻く様をあらわしたものだったのだ。

「そうか……」

 それだけを言うと、灰は再び足を進めた。鼓動が大きく跳ねていた。

 ――蛇に気を付けろ――

 あの男が『蛇』ということか。知らず拳を握り締めていた。

 まだ見えぬ、だが確かに何かが繋がったのだと、灰は感じていた。背後に響く少女の足音程に頼りなく、覚束ない。だが複雑に絡み合う事象の、その綻びを掴んだという微かな手応えがあった。

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