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最果てに天深く  作者: 高原 景
64/117

64

 翌朝、設啓せっけいは他の若衆よりも一足先にねぐらを出た。日中は露店が犇めく大通りも、清涼な朝の大気に閑散としている頃合いである。

 足早に大通りを横切り、設啓は民家の間を貫く路地へと歩み入った。慣れた足取りで向かったのは入り組んだ路地の角を数度曲がった先にある比較的大きな建物だった。外から見れば単なる民家に見えるが、一部の人間にとっては馴染みの宿屋である。看板の一つも掲げていないのは、掲げる必要がないからだ。その宿屋に宿泊する者は全て卸屋おろしやであり、それ以外の者が踏み入ることは出来ない。

 設啓は木の扉を開けると中に入り込んだ。扉の向こうにはまるで来た者を阻むように卓があり、初老の男が帳簿の上に屈み込んでいた。男は下からじろりと設啓を睨み上げた。設啓は左手の甲を差し出し、その上に右手の人差し指と中指の二本を軽く触れる。男は眼球だけを動かしてそれを見ると、顎を奥にしゃくった。設啓が奥に向かうのを見届けると、男は再び帳簿に屈み込んだ。

 細い廊下を抜けると、そこは無造作に卓と椅子が並べられた一室だった。宿屋に泊まる者達が食事を取る部屋である。食堂と呼ぶにはいささか殺風景に過ぎるが、これでなかなかうまい食事を出すのだと設啓は知っていた。扉の向こうにある厨房からは美味そうな匂いがしていた。

 設啓はまだ数人しか先客のいないその部屋をぐるりと見回すと手近な椅子に座った。生憎と既にいる卸屋は知った顔ではない。設啓はゆったりと腕を組むと待つ体勢に入る。最近は若衆の活動にかかりきりになっていたせいで多加羅以外の卸屋とはさほど顔を合わせていない。だが、顔見知りの一人や二人はいるだろうと踏んでいた。今の季節は卸屋にとっては稼ぎ時である。緩衝地帯の商いの中心である笠盛りゅうせいには多くの卸屋が集っている筈だ。

 暫く待つと、次第に部屋が埋まっていく。年齢も風体もまちまちな男女が、集団で、あるいは一人で食事をとる姿をなおも設啓は見つめていた。部屋の隅で声を潜めて遣り取りをしている連中は、既に情報の交換でもしているのだろう。この宿屋は卸屋にとっては単なる宿泊施設ではない。同業者と情報を交換し、あるいは商売敵と腹の探り合いをする場でもあるのだ。

 微動だにせず部屋を眺めていた設啓は、戸口にあらわれた人影に目を止めた。寝癖なのかぼさぼさの髪をかき混ぜながら、大欠伸をしている男である。まだ年若い。設啓は思わず笑んでいた。これ程最適な人物に出会えるとは、運がいい。男は目を瞬きながら部屋に踏み込み、厨房を覗き込む。厨房から朝食が乗った盆を受け取ると座る場所を探しているのか、卓の間を歩き始めた。その視線が設啓の上で止まる。男の顔が一変した。驚き、そして何やら狼狽したような表情が掠め、そして最後にはにやりと笑む。

「よお! 設啓」

 威勢良く言うと、器用に椅子を避けて設啓の元へと歩み寄る。

「相変わらず朝が遅いな」

「卸屋が早起きだなんて法則誰が作ったんだか知らねえが、これだけは言える。朝早く起きるなんざ悪習だ」

「そんなことを言っているから出遅れるんだ」

「言ってくれるねえ」

 男は言うと、設啓の正面に腰を下ろした。早速に食べ始める。

「久しぶりじゃねえか。お利口な街衆になっちまったかと思ったぜ」

 忙しなく口にかきこみながらも、男は言った。

「生憎とそうではない」

「退屈してんだろう、どうせ。あの時俺の誘いを断らなきゃよかったんだよ」

「お前と組んだら先が知れている」

「かー、可愛くねえなあ。年長者は敬えと親父さんに教わっただろうが」

「親父は敬うべき年長者を見極めろ、と言ったんだ」

「へいへい。御立派。つまり俺は敬うには値しないわけね」

「まあ、そういうことだな」

「そんな大口叩いていいと思っているのか? 俺はお前のやばいねた掴んでんだぜ?」

 設啓は眉を上げる。男は効果的ににやりと笑おうとして、盛大にむせた。どうやら飯を口に入れ過ぎたらしい。慌てて茶器に手を伸ばす。ひとしきり胸を叩く姿を、設啓は横眼で見やった。口から先に生まれて来たような、と言われる相手である。言うことの半分は大嘘、あとの半分は女性への尽きることのない礼賛である。だがその中に時折極上の真実が含まれている。どこで仕入れてくるのか他の卸屋達では知りようもない情報を一人探り出し、それを高値で売る。まだ年若いにも関わらず、情報を主に扱う卸屋の中では五指に入る程の男である。

「頼みがある」

「ほおお」

 男の相好が崩れた。如何にも嬉しそうなそれを設啓はぎろりと睨みつけた。

「対価は払わん。貸しがあったよな。以前多加羅でへましたのを助けてやったろう」

「俺を助けてくれたのは親父さんだろう」

「俺が口添えしなければ親父もお前を見捨てていたさ」

 男は低く唸ると設啓に恨めし気な視線を送った。

「何だよ」

宇麗うれいって知ってるか?」

「知らないわけないだろ。笠盛の女豹だ。彼女を知らないんじゃもぐりだと思われるぜ」

 それはそれは、と設啓は独りごちた。どうやら相当な人物らしい。

「その女豹と話したい。伝手をお前に頼む。お前なら可能だろう?」

「おっと、それはお断りだ」

「……返事が早いな」

「俺は鼻が効くんでね。何かやばい臭いがするぜ?」

 ひくひくとわざとらしく鼻を動かして、男は設啓の目を覗き込んだ。

「それより教えてくれよ。若衆なんて良い子の集団に入ったお前がなんでこんな場所にいるんだ?」

「俺が若衆だと話したことがあったか?」

「俺を誰だと思ってんだ」

 男がひそりと囁く。瞳の奥に過る鋭い光が、男の本質をあらわしていた。

「御立派」

 わざとらしく設啓は言うと、男に顔を近付けた。声を潜める。

「ただ伝手をつけるだけでいい。あとはこちらの問題だ」

「気に入らねえなあ」

「頼む」

 設啓の言葉に男は目を丸くした。珍しくも感情がそのまま顔に出たらしい。

「どうしたんだよ、お前がこの俺にそんな殊勝なことを言うとはな」

「下手したら人の命に関わることなんだよ」

 男はまじまじと設啓の顔を見ると、不意に前に置いた盆を横に押しやった。身を乗り出すと、設啓にだけ聞こえる声で言う。

「まじで深刻そうじゃねえか。ここでお前に会ったからまさかとは思ったが、聞いた話はがせじゃなかったのか。やっぱり相当にやばいことになってんだな。悪いことは言わん。深入りする前に身を引きな」

 設啓は訝しく眉根を寄せた。男は辺りを憚る様子である。はじめ設啓を見た時に浮かべた狼狽が、その表情にはあった。なおも男は言い募った。

「お前はあいつらの怖さを知らないんだろうが、本当にやばいんだよ。何に巻き込まれてんだか知らねえが、命が惜しけりゃこれ以上はやめとくんだ」

「何の話だ」

「何って……耶來やらいだよ! お前が下手に関わる相手じゃねえ」

 耶來――來螺らいらを裏側から支配する組織の名を、設啓は呟いた。

「何のことかさっぱりわからん。何故俺に耶來が関わってくるんだよ」

「お前、かいって奴知ってるか?」

 設啓は目を見開いた。何故、男が灰の名を口にする? 

「知ってるんだな? やばいのはそいつだ。もし知り合いならそいつとは離れるんだな。関わるとろくなことがねえぞ」

「ちょっと待ってくれ」

 設啓は慌てて男の言葉を遮った。

「何故お前が灰のことを知っている。それに耶來がどうしたんだ。さっぱりわからないぞ」

 男は設啓を見つめ、苦々しく舌打ちをした。設啓が真実何も知らぬということを悟ったのだろう。

「くそっ、余計なこと言っちまった。俺だって耶來なんて関わりたくもねえんだ」

「以前関わっていただろう」

「あれは人生最大の過ちってやつだ。あんな場所命が幾つあっても足りねえ」

「とにかく耶來がどうしたのか言ってくれ」

 暫しの沈黙の後、男は漸く頷いた。

「ああ。だが女豹に話をつけるのはなしだ。この情報を渡すので前の借りはちゃらにしてもらう」


鬼逆きさかを知っているか」

 男がおもむろに切り出したのは、盆の上の飯をきれいに平らげた後だった。どうやら話すと決めた途端に普段のふてぶてしさを取り戻したらしい。戸惑った様子はどこにもなかった。

 設啓は男が口にした名前に表情を引き締めた。無論、彼はその名をよく知っていた。だが、表面上は淡々とした様子を繕う。卸屋が世を渡るには、まず己の思惑や感情を悟られぬことが肝要であり、それが恐怖や不安であれば尚更にあらわにしてはいけないのだという、半ば身にしみついた習性によるものだった。

「……聞いたことはある」

「だろうな」

「だが、よくは知らない。耶來で最近頭角をあらわしてきた男だろう。確か耶來の懐刀とか何とか呼ばれているという」

「ああ、そうだ。正確に言えば、ほぼ耶來を手中に収めんとしている男だ。今じゃあ、懐刀どころの話じゃない。抜き身の刃みたいな奴だ。こいつがたまげた奴でな、魔窟の耶來で向うところ敵なしという有様だ。目的のためには手段を選ばず、抜け目のなさでも抜きん出ている。おまけに人望までありやがる。奴の周りには砂糖に群がる蟻みてえに崇拝者が集まっている。耶來ってのは、今まで特定の頭がいたわけじゃない。それを鬼逆がたった一人で牛耳ろうとしているのさ。いわば鬼逆が耶來そのものになりつつあるってことだ」

「大した奴だな。で、その鬼逆というのがどう関わってくるんだ」

「まあ、簡単に言えば、鬼逆が俺に接触してきたってことだ。二日前、笠盛に向かう街道で突然話しかけてきやがった。あいつが來螺を出て来ていること自体驚きだがな。で、伝言を頼むと抜かしやがる」

「ちょっと待て。お前は鬼逆と関わりがあるのか?」

 男は渋い表情になった。

「ああ、一時期耶來と取引をしていたんだが、その時に少しな……。あの頃は鬼逆もまだ中堅だった。二年程前の話だぜ? それが気付けばあれよあれよと言う間に大出世だ。相当に無茶をやってる筈だ」

「なるほど。それで?」

「鬼逆は俺に、笠盛の街で灰という奴に伝えてほしいことがある、と言った。はじめは俺も断ったんだが……鬼逆には、その……何かと色々あってな……」

「大方、來螺でもへまをして鬼逆に弱味でも握られているんだろう」

「……とにかく、俺は灰なんて奴は知らないと突っぱねた。そしたら鬼逆が、お前の名前を出したんだよ」

 設啓は思わず目を見開いた。悪名高い耶來でのし上がっている男など、関わったこともない。

 ――設啓という若い卸屋を知っているか? 奴も笠盛にいる。そいつに伝言を託せば灰に伝わる筈だ――

 必ず伝えろ、と最後に残して鬼逆は呆気に取られる男をそのままに何処かへ去ったという。

「俺は鬼逆が出鱈目を言っているんだと思ったよ。多分嫌がらせか何かの類だろうとな」

「そんなことをされる覚えはあるわけか」

「まあな……ってそんなことはどうでもいい! とにかくだな、お前の名前が出たから、お前が何かやばいことにでも関わっているのかと思った。だが、お前は若衆に入っている筈だし、伝言の内容もわけがわからん。もっとも、笠盛にはもともと来る予定だったからそのまま街には入ったが、正直伝言のことは殆ど忘れていたよ」

 鬼逆程の人物に必ず伝えろと言われながら、忘れていたとは彼らしい。凄腕の卸屋でありながら、時に信じられぬような初歩的な手抜かりをする男なのである。彼が卸屋の仲間内でもいまいち信用されないのはそのせいだろう。

「だが、俺があらわれた」

「ああ、そうだ。たまげたぜ。一体どういうことかと思った。しかも女豹に話をつけろという。笠盛で宇麗に接触するってのは余程のことだ。挙句の果てに人の命がかかっているというから、お前がやはり何かやばいことに首を突っ込んで、耶來と問題でも起こしたのかと思ったんだよ」

「なるほどな。事情はわかった。それで、灰への伝言というのは何だ」

 設啓の問いに男はすぐには答えなかった。手の中で空の茶器を弄びながら、設啓を見やった。設啓は男の表情に僅かに身構える。

「なあ、その灰というのは何者だ?」

「知り合いだ」

「耶來なのか?」

「違う。灰のことはいいからさっさと伝言を言え」

 男はおもむろに茶器を卓に置いた。ことり、と響くその音が奇妙に浮いて聞こえた。

「俺は考えたんだ。あの鬼逆が……耶來の主となりつつあるあの鬼逆が、わざわざ伝言を託す相手、それはどんな奴だろうか、とな」

 設啓はまじまじと男を見やった。男が何を考えているのか読み取ると苦い表情で溜息をつく。

「鬼逆の弱みでも握ったつもりか?」

「卸屋の勘が騒ぐんだよ。このねたは見過ごしには出来ないってな」

「耶來はもうこりごりなんだろうが」

「ああ。だが何故鬼逆が耶來で昇り詰めたか、その理由は奴には失うものが何もなかったからだ。家族も友人も奴にはいない。ただあるのは敵か味方か、それだけだ。その奴が気にかける相手がいたとはな。まあ、その灰ってのも単に敵か味方か、という存在なのかもしれんが、違ったらこいつは面白い。もしかすると極上の情報じゃないか?」

「鬼逆に殺されるぞ」

 男は僅かに怯んだようだった。当て推量に言っただけだったが、どうやら男にとっても鬼逆は相当に恐ろしい相手らしい。それならばいらぬ興味など抱かねばよいものを、と設啓は呆れる。

「言っておくが、俺は灰を知ってはいるが、その鬼逆とやらと灰の関係は知らん。知りたければ自分で調べるんだな。まあ、精々殺されないように気を付けろ」

「何だよ。役に立たん奴だな」

 往生際悪くぶつぶつ呟く。設啓は鼻を鳴らすと腕を組んだ。

「で、伝言は?」

「ああ、わかったよ。言えばいいんだろ」

 男の表情が引き締まる。さらに設啓の方に顔を寄せると、声を潜めた。囁きは禍々しく響いた。



 灰が雑踏で設啓に呼び止められたのは昼下がりのことだった。

 笠盛でも最も大きな市場が開かれる路上で、灰は常に無く忙しない足取りで近付いて来る設啓を見やった。何時如何なる時でも取り乱すことのない設啓にしては珍しく、表情が強張っている。

「どうしたんですか?」

 設啓は答えず無言で灰の腕を掴むと人波を縫って歩き出した。露店が犇めく通りは混みあい、漫ろ歩く人々の間を足早に進むのは骨が折れる。半ば引きずられるようにして灰は雑踏を抜けた。漸く露店が連なる界隈を抜けて、二人は人気のない路地に入った。そこで設啓は灰に向き直ると、ぼそりと言った。

「正直に答えてほしい」

 低いその声音に、灰は眉根を寄せた。その反応をじっと見やり、設啓は腕を組んだ。

「鬼逆……この名を知っているか」

 灰は僅かに目を見張った。鮮やかに深い天空を映しだしたようなその瞳は、単純に驚きをあらわしているようだった。灰の答えは聞かずともわかった。設啓は苦々しく溜息をついた。

「知っているんだな。まさか本当に耶來の懐刀と知り合いとはな」

「ああ、そういえば鬼逆さんはそんな風にも呼ばれていましたね」

 穏やかに灰が答える。それに設啓は、不覚にも思わず地面に突っ伏しそうになった。何かがずれているのではないか、と目の前の相手をまじまじと見やった。鬼逆――名前を聞いただけで震え上がる、そのような存在なのだ。だが、灰はまるで旧知の友人の名を思いがけず聞いたかのような反応である。のほほんと――設啓には灰の表情はそう見える――灰は問うた。

「どうかしたんですか?」

「鬼逆からお前に伝言だそうだ」

 灰がすっと目を細めた。それに設啓の表情もまた引き締まる。

「蛇に気を付けろ、と」


 灰と設啓は一旦ねぐらへと戻った。道端で物騒な話をするわけにいかなかったからである。改めて灰が使っている部屋で向い合い、設啓は卸屋から聞いた話を語った。

「今朝俺は卸屋が溜まり場にしている宿屋へ行った。そこならば宇麗に話を通せる奴に会えると踏んだからだ。実際、丁度いい卸屋と遭遇した。そいつは情報を扱う凄腕なんだが、どうも様子がおかしかった」

 男ははじめから設啓を見て戸惑う様子だった。

「そいつならば宇麗への接触も可能だろうから伝手を頼んだ。人の命にも関わることだと言ってな。そうしたら何を思ったのかいきなりやばいことから手を引けと言い出した」

 卸屋の不審な態度、そして耶來という言葉を口にした件を灰に伝える。

 設啓はうろたえた男の様子を思い出す。場数を踏み、それなりの修羅場も経験してきただろう男が見せたそれには、真実の怯えがあった。設啓とて耶來の恐ろしさは話に聞いて知っているが、実際に接すればまた違うということか。

「耶來?」

「ああ、そうだ。あいつはどうやら一時期耶來とも取引をしていたらしい。だが、さすがに奴の手に余ったみたいでな、深入りする前に手を引いたようだ。とにかく、問い詰めてみたら、どうやら鬼逆があいつに接触したらしいんだ。そしてお前への伝言を託した」

 灰は訝しく首を傾げたが、設啓の言葉を遮ることはしなかった。

「灰という名前の奴に伝言を伝えるように、とあいつは鬼逆に頼まれたと言うんだ。そして俺の名前も出されたらしい。俺に伝えればお前にも伝わる、とな」

「その伝言が、蛇に気を付けろ……ですか」

「ああ。もっともあいつは半信半疑だったらしい。笠盛にははじめからから来る予定だったから来たが、まさか本当に俺と会うとは思わなかったと言っていた。大方鬼逆の悪ふざけか嫌がらせだろうと考えていたみたいだが、それはないだろうな」

「鬼逆さんは悪ふざけや嫌がらせで動く人ではありませんからね」

「……よく知っているみたいだな」

「それほど知っているわけではないですよ。会ったのも数える程です」

「來螺にいた頃の知り合い、ということか?」

 八歳までを來螺で過ごした灰ならば、どこかで鬼逆と繋がりがあってもおかしくはない。だが灰は首を振った。

「いえ、俺は來螺の表……自警団に属していたので、子供の頃に耶來と接触したことはありません。鬼逆さんとは一年半程前に少し」

 それ以上を灰は言わなかった。設啓も敢えて問わぬまま、話を進める。

「まあ、いいさ。とにかく鬼逆はお前が緩衝地帯にいることを知っていた、ということだな。そしてお前に伝言を届けるよう、奴を使った。奴にしてみればいい迷惑だったろうが。それにしても何故お前の動きを知っているんだ? しかも俺の名を出したということは、俺が卸屋に関係があることも、奴の知り合いだということも知っていたということだ」

「天楼の鷹」

 灰はぽつりと言った。折しも窓の下を走り抜けていく子供達の笑い声に、それは紛れる。

「何だって?」

「鬼逆さんのもう一つの呼び名です。天から見下ろすように、全てを見通す。彼が耶來で認められているのは、膨大な情報網を持っているせいでもあります」

 だが情報は持っているだけでは意味がない。己が利とするために使いこなしてはじめて、それは武器となるのだ。

「だが何故鬼逆は奴を伝言役にしたんだ? 下手したら伝わらない可能性もある。どうせなら直接お前に言えばいいだろう」

「多分、鬼逆さん自身が緩衝地帯に出て来ていることを人に知られたくない事情があるんでしょうね。笠盛の外で声をかけた、ということは街には入れぬ理由があったのかもしれませんし、表だって動くには障りがあったのかもしれません。そう考えると、その卸屋の人は弱味を握られているのかもしれません。鬼逆さんにとっては口外する心配のない相手だということです」

「確かにな……」

 男のうろたえた様子から、他の者に鬼逆の存在や伝言のことをばらしたら殺す、ぐらいのことは言われていたのかもしれなかった。

「……蛇に気を付けろ……」

 灰はゆっくりと呟いた。

「意味がわかるか?」

「いえ、言葉そのものの意味はわかりません」

 言いながら灰は眼差しを伏せた。焦点を結ばぬ瞳が深く染まる。今では設啓にもそれが、灰が考えにふける時の癖であることがわかっていた。辛抱強く待つと、灰は呟くように言葉を紡いだ。

「俺が笠盛に入り密かに動いていることを鬼逆さんが知った……そうだとして、今緩衝地帯で起こっていることが、どこかで耶來と関係しているのだとすれば、言葉を伝えようとした意味はわかります。緩衝地帯で起こっている出来事の裏には、耶來の存在があるのかもしれません。そうでないとしても、俺達が追っているのは思った以上に危険な相手だということなんでしょう」

「まさか……耶來が來螺を出るなんてことがあるのか? しかも白沙那はくさな帝国内で動くなど、聞いたこともないぞ」

「はい。それを確かめるためにも急がなければなりません」

 灰は言った。

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