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最果てに天深く  作者: 高原 景
63/117

63

 硝子の割れる激しい音が聞こえた。続いて怒号が細い路地に満ちる。

 かいは足を止めた。足下で、じゃり、と鈍い音が響く。道に散乱しているのは薄汚れた酒場の窓硝子、そのなれのはてである。派手に割られたそこから店の中を見れば、揉み合う数人の姿が見えた。泥酔した男達が喧嘩を始めたらしい。安酒の匂いが辺りに漂う。

「嫌だねえ。おとなしく飲めんのかねえ、全く」

 のんびりと隣りでのたまった男もまた酒臭い息をしている。男は気持ち良さ気にしゃっくりを一つするとぶらぶらと遠ざかって行った。灰は見るともなしにその背を見つめ、自身も騒ぎの収まらぬ店の前を離れた。

 灰がいるのは笠盛りゅうせいの街でも場末の一帯だった。真っ当な街衆ならば足を踏み入れるのを躊躇う部類の場所だ。道行く男達もどこか荒んだ雰囲気の者が多い。裕福な者であれば身の危険を感じるかもしれぬ。灰自身はと言えば、特に人目を引くことはなかった。くすんだ色合いの外套を纏い、頭には髪を隠して緩やかに布を巻いている。幼い頃の記憶を頼りに巻いた特徴的なそれは、來螺らいら街衆の巻き方だった。來螺では頭に布を巻くのはごく一般的な姿なのである。目的は二つある。一つには己が來螺の街衆であることを示すため、そしてもう一つが己の顔を見せぬためだ。

 前者は來螺を訪れる者が、時に來螺を裏から支配する組織、耶來やらいの標的とされることに対する自衛を兼ねている。來螺街衆であることを示せば、耶來に対する牽制となる。もっともやらないよりはやった方がましだという程度であり、耶來を耶來たらしめるもの、その実態を知っていれば、一番の自衛が耶來そのもの、つまりは裏側に近付かぬことであるのがわかる。

 無論、この笠盛の街で、灰の目的は後者である。人目を引く髪色を隠すのはいつものことだが、目の上まで目深に布を被せ、顔の横にゆるりと端を垂らしているせいで、暗がりであれば顔の造作は殆ど見えぬだろう。笠盛はその地理的条件から国境地帯との商いも盛んに行われる。故に、国境地帯の風体の者も多く出入りする場所なのである。おそらく灰の姿は、商いのために国境地帯から笠盛を訪れた若者、というように人の目には映るだろう。

 灰はゆっくりと歩を進めた。道端に蹲る男を避け――眠っているのか、あるいは帰る家がないのかもしれぬ――足元も危うい酔漢の間を縫うように歩く。酔いに弛緩しながら、体が触れただけで殴り合いになるような男達である。視線を合わせぬよう心がけながら、周囲で交わされる野卑な会話に耳を澄ませた。

 どれほど歩いたのか、飲食店が連なる界隈を抜け、人家が建ち並ぶ道に出て灰は壁に凭れた。既に人々は眠りに就いているのか、窓に明かりの灯る家はなかった。

 疲れていた。夕刻から酒場や賭場を渡り歩き、既に七刻は経っているだろう。今宵は既に六軒程は酒場に入り、そこに出入りする人々の様子を探っている。形ばかり酒を飲みもするが、元来酒には酔わぬ性質らしく意識は清明だった。だがそれがかえって悪いのか、路地に満ちる臭気――まるで吐瀉物にも似た不快な悪臭を敏感に感じ取ってしまう。澄んだ空気の中でさえ、まるで纏わりつくようなそれが感じられた。あるいはそれ自体が身にしみついてしまったのかもしれぬ。

 緩衝地帯に入って既に三日が経つ。だが須樹すぎの消息どころか手掛かりの一つとて掴めてはいなかった。先に緩衝地帯に入っていたげんが灰の元に姿を現したのは一昨日である。須樹が酒場に商品を持って行き、そこで多加羅若衆の噂を吹聴する男と遭遇していたらしい、とのことだった。

 ――あの若者かい? 確かに来たよ。いい奴だと以前から思っていたから酒の一杯でも、とすすめたのさ。ああ、飲んでいったよ。ちと、嫌な客がいたもんで心苦しかったがね。ああいう客がいると折角の酒も不味くなっちまう。酒ってのは楽しく、幸せに飲むもんだからね――

 弦にそう語った酒場の亭主は、多加羅若衆の噂を声高に話していた男がどのような外見かは既に忘れてしまったとのことだが、男が店を出る少し前に須樹が店を出たことははっきりと覚えていた。

 ――さらに調べて参ります――

 弦はそう言い残すと雑踏に姿を消した。

 須樹は、必ずこの街にいる筈だった。ちりちりと、意識の端に須樹の存在を感じる。だが今の灰にはそれさえも己の焦りと不安が生んだ錯覚なのかと思ってしまう。簡単に手掛かりを得られるとは思ってはいなかった。だが、これ程までに手応えがないとも思っていなかったのだ。

(既に三日……)

 数日前には確かに多加羅若衆の悪評を吹聴する男がいたのだ。だが今はその影すら捕まえることが出来ない。もしや、と思う。須樹は酒場から男の後をつけたに違いない。そして男にそれを悟られ捕われたとするならば、警戒したその何者かが姿を消した可能性は高い。そうであれば、須樹を捜し出すことも、謀略を企む者達を追うことも、この上もなく困難となるだろう。そして、その推測が正しければ尚更に須樹の身が案じられた。まだ生きているにしても、捕われたのであればどのような目に遭っているか――そこまで考え灰は拳を握り締めた。急がねばならない。

 怪魅けみの力で探れば――そう思う。だが場所が悪い。明確に一人を捜し出すには、先日のように全ての意識をそちらに注がねばならなくなる。その様を他の若衆に見せるわけにもいかない。

(だが、そうとばかりも言っていられないかもしれない)

 灰は暫し壁に背を預けていたが、小さく息をつくと、再び路地へと踏み込んだ。


 路地から路地へと隈なく歩き、漸く灰がねぐらにしている小さな家へと戻ったのは深夜をとうに過ぎた刻限だった。向かったのは表通りから一筋入ったところにある古びた民家である。設啓せっけいの親戚が所有している建物であり、無人だったそこを今回緩衝地帯で調べを進めるための拠点として借り受けた。

 扉を開けて中に身を滑り込ませると、家の中は闇に沈んでいた。他の若衆は既に眠りに就いているのだろう。暗闇の向こうから軽い鼾が聞こえた。

 緩衝地帯に赴いた若衆は十名、そのうち灰を含めた五名はこの笠盛の街でそれぞれが担当する地域を決め、一日中その界隈を歩いて情報を集めている。それ以外の五名は笠盛以外の街に赴き、若衆の噂が何時頃から広まったかを調べていた。

 灰は足音を忍ばせて階段を昇った。家には部屋数がさほどあるわけではない。二階にある二部屋を副頭である灰と設啓がそれぞれ使い、一階にそれ以外の若衆が寝ている。

 部屋の扉を開けようとして、灰はふと顔を廊下の先に振り向けた。斜め向かいの部屋の扉が静かに開いた。部屋の中から漏れた仄かな明かりに、設啓の無表情な顔が浮かび上がる。低く抑えた声で設啓が問うた。

「どうだった?」

「何も掴めませんでした」

 そうか、と設啓は答える。灰の帰りを待っていたのか、設啓の声から眠っていた様子は感じられなかった。

「他の皆は?」

「これといって何も。こうなったら場所を移った方がいいかもしれんな」

「俺はもう少しこの街で探った方がいいと思います」

 設啓は腕を組むと、扉に凭れた。暫し思案する様子を見せる。

「緩衝地帯の街はここだけじゃない。他にも規模の大きな街はある」

「ですが、噂をまくのにこの街程適した場所はありません」

「そうだとしても、これだけ毎日探って何も掴めないようなら、場所を変えた方がいいだろう」

 今度は灰が黙す。設啓の言うことは尤もなのである。

「次に調べるとしたら素奈の街だろうな。今日確かめたが、あの街も比較的早くから噂が広められていたようだ」

 設啓は笠盛の街を探るのではなく、他の街に赴いて噂が出た時期やその発生源を調べている。彼曰く、笠盛には顔見知りも多くあまり派手には動けぬ、というのがその理由だった。

「いえ、やはりもう数日は笠盛に集中しましょう」

「何か笠盛に拘る理由でもあるのか?」

 さりげなく、しかし僅かに硬質な響きを帯びた設啓の問いだった。

「あの会議のあたりから須樹が行方知れずだよな。それと関係があるのか?」

 灰は素早く設啓の顔を見やる。視線の交錯は一瞬だったが、暗がりに暗示的な余韻を残した。須樹が緩衝地帯から戻らぬという噂は、若衆の中で何時の間にか広まっていた。普段から若者達に慕われる須樹である。彼の身を案じる声も多く聞かれる。だが、緩衝地帯での一連の出来事と、須樹の不在を結びつける者はいなかったのだ。

 灰は迷った末に心を決める。設啓は知るべきだろう。何より彼の協力が必要だ。

「まだはっきりとはわかりませんが、この街で、若衆を嵌めようとしている者達に須樹さんが捕われている可能性があります」

 沈黙が落ちた。

「そういうことか……やはりな」

 設啓がぼそりと呟いた。懸念が当たったとでも言うところか、僅かに苦い響きを残す。

「この前の会議での発言の意味がやっとわかった。須樹を助けるためにあんなことを言ったのか」

「……」

「忠告しておくが、今後はあのようなことはしない方がいい。あれはまずかった。俺達がどのような立場か考えれば、動かないという結論が一番だった」

「そうであっても、何かあった時に須樹さんを守ることが出来るのは若衆だけです」

透軌とうき様はどうなんだ。真実を秘するべきとも思えん」

 灰が笑んだ。設啓は目を細める。半ば影に沈む相手の、その笑みは捉え所がない。

「悪いとは思っています。あの場での結論を阻んだことも……。ですが透軌様は惣領の意を汲んでおられた。仕様のないこととはいえ、それでは須樹さんは切り捨てられるだけです」

 なおも腕を組んだまま設啓は灰を凝視した。何を思うのかふと息をつく。

「そこまで言うなら暫くは笠盛を探ろう。俺も明日からは街の探索に加わる」

「少し方法を変えた方がいいかもしれません。噂を広めていた者達は既に身を潜めている可能性があります。ただ街を回るだけでは何も掴めないかもしれない」

「……それでは埒があかんな。どうする気だ」

「設啓さんはこの街に詳しいと聞きました」

「ああ、まあな」

「それならば、この街を取り仕切る者が誰か、知りませんか? その人物ならば今緩衝地帯で起こっていることについて詳しい情報を持っているかもしれない」

「街の代表者は有力商家が持ち回りで担っているが……聞いて何かがわかるとも思えんぞ」

「いえ、表の代表者ではありません。裏から情報と人を握る、そのような人物です」

 設啓が腕を解く。あくまでも無表情を保つその顔に、僅かではあるが面白そうな色が過った。

「裏から……か。知らんでもない」

「誰なんですか?」

卸屋おろしやさ。笠盛を牛耳っているのは、おうなと呼ばれる卸屋だ」

「卸屋……」

「ああ。まあ、この街だけじゃないがな。緩衝地帯を実質裏から支配しているのは卸屋の連中だ。多加羅や沙羅久の卸屋からも独立して独自の連携を築いている。あいつらの中に入り込むのは簡単じゃない」

「媼に話を聞けば何か手掛かりが得られるかもしれません。設啓さんの家は卸屋ですよね。伝手はありませんか?」

「伝手か……。媼はこの街だけじゃなく緩衝地帯の中でも力が強い。数人いる元締めの一人とも言われている。そうそう会えはしない。媼の下で動いている奴にまずは話をつけた方がいいかもしれん」

「それは……?」

「媼の後を継ぐと考えられている人物だ。女だと聞いたことがある。確か名前は……宇麗うれいといったかな」

 宇麗、と灰は呟く。

「だが若衆が緩衝地帯で動いているのは極秘だ。どうするつもりだ? まさか馬鹿正直に若衆だと名乗るつもりじゃあるまいな」

「まさか」

 灰は可笑しそうに笑う。それに設啓は目を瞬いた。だが次の瞬間には灰の表情から笑みは消える。瞳が細められ、そこに鋭さが籠った。危うい冷たささえ孕んで、強く設啓を見据えた。

「口実は考えておきます。その宇麗という人と接触するにはどうしたらいいですか?」

「接触は、俺がまずしてみよう。卸屋としてならば話が通るかもしれん」

「わかりました」

 灰は小さく頷いた。

「じゃあ、明日な」

 言って部屋に戻ろうとした設啓は灰に呼び止められる。振り返ると、灰は僅かに躊躇う素振りを見せた。ひそりと言う。

「笠盛の卸屋に接触することは透軌様には伏せていただけませんか?」

 設啓は目を見開く。咄嗟に言葉が出なかった。

「その宇麗という人物と接触できれば、その後のことは俺一人で動きたいと思っています」

「……そんな勝手ができるとでも思っているのか?」

「卸屋から情報を得ること自体、俺達の立場では許されぬことです。若衆が緩衝地帯の裏に接触するのはまずい。透軌様に報告すれば、到底許しは出ません」

 設啓は益々言葉に詰まる。確かに灰が言う通りだった。何故それに気付かずに卸屋への伝手を易々と引き受けたのか、普段の設啓からすれば考えられぬことだ。

「ですが、今は時間がない。須樹さんが捕えられているのだとすれば、危険に晒されているということです。手段を選んでいる場合ではありません」

 答えぬ設啓に、頼みます、と一言残して灰は部屋の中へと姿を消した。


 暫く凝然と立ち尽くし、設啓は漸く部屋へと入る。小さな部屋は長年人が住んでいなかったせいで埃っぽく、寒々としていた。一つ灯した蝋燭の火が頼りなく揺れている。設啓は古びた寝台に腰を下ろした。無意識に腕を組むと灰の言葉の意味を考えていた。

(はじめからそういう狙いだったということか)

 考えるにつれ、灰の意図が浮き上がるように見えてきた。若衆は動かぬ、それが最善の結論であると知りながら、会議の場で敢えて違う意見を出した。それも全て須樹の消息を探るための布石だったのだ。若衆として緩衝地帯で動く名目が立てば灰にとっては良かったのだろう。時間がないのだと言った言葉には、真実切迫した響きがあった。

 そして先程の灰の言葉――透軌には言うなと求めたそれが、引っかかっていた。緩衝地帯で調べた結果は当然若衆頭に知らせる。それを考えれば別段深読みする必要はないのかもしれぬが、もしや己に課せられた役割に灰は気付いているのだろうか。彼は先程何と言っていた? 会議の場で、結論を阻んだ、と明言した。つまりは知っていたのだ。はじめから結論が決まっていたことを――あるいは透軌が望む結論へと導くため、設啓が動かぬべきという意見を出したことを。

(まさか、考え過ぎだ)

 そう思うそばから、疑念がわき起こる。灰の行動を監視し逐一報告せよと、それは灰が副頭になった時に玄士の一人である絡玄らくげんから父親を通じて出された指示だった。設啓にはさほど意味のあることとも思えなかったが、忠実にその役目は果たしてきた。これまで灰の行動や言動には人一倍注意を払ってきたつもりだ。だがここ数日の間に、まるで幻惑されるようにそれまでの灰への印象が翻っている。

 ――設啓はああいう灰は見たことがなかったか――

 そう言ったのは須樹だった。その言葉の意味が今になって漸くわかる。なるほど、と思う。絡玄が警戒するだけの何かがあったということか。

 設啓は一つ唸ると、火を吹き消した。暗闇の中、湿気た臭いのする布団に潜り込む。何にせよ、まずは明日どのように動くか考えるのが先決だ。

(何を馬鹿な事を……当然すぐに報告をするべきだ)

 小さく囁く己の声があった。だが設啓は冷静に呟く内心の声から意識を逸らす。絡玄に、そして透軌に灰の行動を伝えるか否かは後で決めればよい。むしろ灰の行動を見届けた後に報告した方が望ましいかもしれぬ。灰がどのような人間であるのか、この一件はそれを測る格好の機会であり、絡玄にとっては良きにつけ悪しきにつけ実りの多いものになるだろう。当然、設啓に対する絡玄の評価も上がる。それはすなわち絡玄の庇護を受ける多加羅の卸屋にとっても都合がいい。

 そう思いながらも設啓は気付いていた。他ならぬ自分自身が、これから灰がどのように動くか、それを知りたいと思っているのだ。その思考自体がそれまでの設啓からすれば考えられぬことではあったが、彼は密かにこの状況を楽しみに感じ始めていた。

 人を見極め、その欲を測り、己の才覚一つで世を渡る卸屋としての感覚であったかもしれぬ。

 眠りは遠く、なかなか訪れなかった。静かに夜は更けていった。



 彼らの行動には一つの規範がある。それが、暗闇の中で須樹が第一に学んだことだった。

 まず中心となっているのは宇麗、あの女だ。須樹と直接に言葉を交わすのは彼女と決まっていた。それ以外の者は食事や水を須樹のもとに運びはするが、決して言葉を交わそうとはしなかった。ためしに話しかけたこともあったが、まるで答えはなく、物体でも見るような視線を返されただけだった。

 その食事について言えば、どうやら一定の間隔で持って来ているわけではなさそうだった。頻繁に持って来る時もあれば、もう食事を与えるのはやめたのかと思う程に長い間持って来ぬこともある。仮に食事時間が一定であれば時間の流れが掴めたかもしれぬが、あまりに不定期なそれに一体何日が経過しているかもわからなくなっていた。おそらく相手は意図してそのように仕向けているのだろう。

 食事が二度済む度に、用を足すため捕われている部屋の近くにある厠へと連れて行かれるが、同様にそれが時間の経過を掴むのに役立つわけではない。わかったのは須樹が捕われているのが、どうやら地下らしい、というそれだけである。廊下に窓はなく、ぽつりぽつりと灯された炎が煤けた色合いの石壁を浮かび上がらせていた。部屋を出されるその僅かな時に逃げようかと考えたこともあったが、細い廊下で前後を屈強な男達に挟まれ剣をつきつけられた状態では、それも無理だと諦めるしかなかった。

 そしてあとはひたすら暗闇である。

 このようにして、完全に支配下にあるのだと、全てが相手の手の内にあるのだと知らしめるのが宇麗の狙いのように思えた。まるで鎖に繋がれ飼育される犬さながらに生かされているのだ、と須樹は思う。誇り高い人間ならば屈辱を感じ、いっそのこと痛めつけられた方がましだと考えるかもしれぬ。少なくとも、苦痛に耐え一方的に加えられる暴虐に抗おうとする意志そのものが、己を支えるよすがとなるだろう。

 宇麗ははじめこそ拳をふるいはしたものの、それ以降は須樹に苦痛を与えることはなかった。ただ一言問うのだ。お前は何者だ、と。須樹が何を言おうとも、宇麗が口にするのはその言葉だけだった。

 食事の不定期さとは裏腹に、宇麗が須樹のもとを訪れるのは等間隔のようだった。そのためか、時間の感覚さえもなく暗闇の中で蹲っていると、何時の間にか宇麗の訪れを刻むように数えている自分に気付く。寄る辺なく己の輪郭さえ不確かな中で、宇麗という存在のみがよすがとなるような、全てが彼女を中心に感じられるような、それは不思議な感覚だった。それこそが連中の狙いなのだと気付いても、何時しか彼女の次の訪れを待っている。暗闇から逃れられるかもしれぬという期待が一つ一つ潰え、やがては己の意地さえも保てぬ程に追い詰めらた時、宇麗の存在だけが暗闇から逃れる唯一の希望のようにさえ感じるのかもしれなかった。

(そろそろか……)

 ぼんやりと思う。その思考に応えるように、閂の外される音が響いた。壁に凭れて床に座ったまま、須樹は扉を開けて入ってきた姿に視線を向ける。硝子筒の炎が眩しかった。宇麗は須樹を見下ろすと、言った。

「お前は何者だ?」

 それに須樹は薄く笑う。苦笑だった。ただその一言だけをどうやら己は待ちわびていたらしい。相手の思惑通りというわけだ。

 須樹の笑いが奇異に映ったのか、宇麗の表情が僅かに動く。それをちらりと見やり、須樹は顔を背けた。ここまで意地を張って守ろうとしているのが何なのか、それがわからなくなる。若衆であると明かせば良いのかもしれぬ。あらぬ噂をたてる男がいた。だから後をつけたのだと、そう言えば宇麗は納得するかもしれぬ。だが、もし彼女が多加羅若衆にとって危険な存在ならばどうする? 思考はいつもそこで途切れる。

「お前は何者だ?」

 ゆっくりと、再び宇麗が問うた。そこに常にはない響きを聞いたように思い、須樹は視線を巡らせる。そして不意に悟っていた。

「あんたにも……守りたいものがあるんだな」

 直観のままに言った言葉が宇麗に与えたものは大きかった。厳しく須樹を見据える瞳が揺らぐ。奇妙な一瞬だった。それは共感、と呼べるものだったかもしれぬ。宇麗の顔が僅かに歪んだ。それに須樹はさらに苦笑を深めた。これでは、まるでこちらが相手を追いつめているようではないか。

「昔、一夜暗闇の中に閉じ込められたことがあった」

 ぽつりと須樹は言った。実際にはさほど昔ではない。三年前の秋、祭礼の時だった。その記憶は鮮やかに禍々しい炎と、冷たく深い水と、煌めく朝の光とともにあった。

「辺りを照らす炎も持たず、出口もわからず、手探りで進むしかなかった」

 何故、今このようなことを言うのか須樹自身わからぬ。わからぬまま、ゆっくりと語っていた。

「もう出ることが出来ないのではないかと何度も思った。不思議だが、叫び出しそうに不安なのに、そのうち、そんな感情もどこか他人事に思えるようになる。体の疲れも麻痺したように感じるんだ。それなのに、昔親に言った一言や、忘れていた記憶の断片を思い出したりする。その時自分がどう感じていたかも……」

 須樹は口を噤んだ。あの時闇の中で語ったことを、地下道を出てから誰一人として口に出そうとはしなかった。まるで暗黙の了解のように、口に出さぬのだと、互いにわかっていたのだ。あの闇の中でしか口に出せぬことだった。

「それで、どうなった」

 須樹は宇麗の囁きに顔を上げた。あの問い以外の言葉を聞くのは久しぶりだった。

「外に出れたよ」

 それだけを言うと須樹は微笑んだ。宇麗はそうか、と呟くように言うと、最早問おうとはせずに静かに扉の向こうに姿を消した。

 闇が落ちた。それに包まれ、須樹は気付く。三年前の地下道の暗闇は、どうやら記憶の中だけにあるのではないらしい。胸の奥だろうか、思考の根底だろうか、静かに脈打ち、息づいている。それを温かく感じるのは、彼らの存在のせいだろう。あの時闇の中をともに歩いた仲間との記憶があるからこそ――

 その彼らが必ず己を捜している筈だと、須樹は確信していた。須樹は闇を見据える。彼を捜しているだろう者達のもとに戻るのだと、須樹はその時強く心に決めていた。

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