第二章 現しの影
一つ、二つ……指先にしっとりと柔らかな花びらを数える。触れればそこから甘い芳香が立ち上った。花瓶に活けられた花はたった一輪、彼女の好みをよく知っている侍女の計らいだろう。大輪でありながらどこか寂しく、仄かに震えるのが己の心に添うように感じる。八つ、九つ……そこまで数えて、椎良は顔を上げた。慌ただしく近付いて来る足音が聞こえる。
小さく溜息をついて椎良は花弁に触れていた手を膝にそっと置いた。つとめて穏やかな笑みを浮かべた丁度その時、前触れもなく扉が開く音が響いた。
「椎良、今日はどんな具合かしら?」
答える間もあらばこそ、足早に近づいて来た相手に頬を撫でられる。
「まあ、どうしたのかしら。顔色が悪いようだわ。寒いんじゃないかしら?」
「そんなことないわ。十分に暖かいわよ」
「そんなこと言っても、お前は我慢強い子だもの。昔からそうだったわ」
「お母様、本当に大丈夫だから」
「いいえ。お前のことは私が誰よりも知っているんですよ。もう少し炉の火を強くさせましょうね」
侍女を呼ぶ声が響いた。それに椎良は出かけた言葉を呑み込む。顔を俯けて溜息を隠した。こうと思いこんだ母親を止めることなどできないのだと、椎良はよく知っている。それは昔から変わらず、そして父親が一年前に亡くなってからはさらに拍車がかかった。娘を気遣う母親の真心だとは思いつつも、椎良には時に息苦しくも感じられる。
「椎良、今日はお前に是非とも会いたいという方が来られているのよ」
母親の明るい言葉に、椎良は顔を上げた。その仕草に母親が慌てたように言い募った。
「ああ、いいの。お前はそのままで。無理に動いて怪我でもしたらどうするの」
椎良は内心に生じた苛立ちを押し隠し曖昧に微笑む。
視界が闇に閉ざされて既に十年、慣れ親しんだ惣領家の屋敷であれば大方は一人で動くことが出来る。彼女は最早十六の少女ではないのだ。そのことを、この母親だけは何時までも知ろうとしない。椎良が光を失ったことを嘆き悲しみ、その運命を呪い、そして娘の身に起こった不幸に涙する母親――何年経ってもそこから脱しようとしない。そこまで考え、椎良は己を戒めた。
母親が負った傷は、椎良のそれとはまた違うものなのだ。彼女がいまだ深く囚われていることを、どうして責めることが出来ようか。
「さ、こちらへ。この子が椎良ですよ」
「お噂以上にお美しい」
母親の言葉に続いて聞こえた男の声に、椎良は顔を振り向けた。
「椎良、玄士の正章殿よ。惣領がお亡くなりになられてからは、何かと助けてくれているお方ですよ」
ええ、知っているわ――椎良は思う。
「玄士様、御高名は母からいつもお伺いしています」
「一体どのようにお話しをされているのでしょうね。恐れ多いことです」
「父が亡くなってからは、玄士様が梓魏を支えておられるとか」
「私などまだ若輩でございますよ。お父上の偉大さを日々痛感するばかりです」
目の前に跪く気配がした。椎良は微動だにせぬまま、目の前にいるであろう男の姿を想像する。声は深い。年の頃はおそらく五十前後だろうか。衣擦れの音はさらさらと心地良い。上質の絹に違いない。身繕いには人一倍拘る人物なのだろう。
(それだけでお母様の評価は上がるもの)
声音から感じられる自負に軽薄さはないが、如才ない言葉に気取った響きがある。忠義の裏に隠した野心は如何程だろうか。無欲に主の家系に仕えるばかりの男とも思えなかった。
「このようにお美しい姫君を隠しておられるのはいかがなものでしょう」
声の方向が変わる。母親に話しかけているのだろう。
「でもこの子は御覧の通り……ねえ、おわかりでしょう? 人目に晒すだなんて可哀そうですもの」
「ですが、椎良様もこの部屋に籠っているよりも、もっと素晴らしい世界に踏み出す必要がありますよ」
「私が言っても聞かないのですもの。とても内向的で。私も辛いわ」
「お母上のお心は御尤もです。ですが、姫君には姫君の素晴らしい人生が御座いますよ。まだお若いものを、何もかもをお諦めになるのは勿体ないことです。私にも、姫君がお幸せになられるお手伝いさせていただきたいものです」
「まあ、お優しいお言葉ですこと」
椎良は自分そっちのけで交わされる会話に辟易として、意識を戸外に遊ぶ風に向けた。旋風の音も、ここでは柔らかく遠い。身を切る程に冷たい風の中を歩きたいと椎良は思った。まるで羽根布団に包まれているかのような、この空間から飛び出したい。
――窒息する前に――
「ねえ、椎良、とても素敵だと思わない?」
母親の高い声に、椎良ははっと意識を引き戻された。
「ええ……」
曖昧に答える。何の話題なのか見当もつかなかったが、だからと言って何が変わるわけでもあるまい。しかし次に聞こえた正章の言葉に、椎良は内心に溜息をついた。
「私の倅も喜びます。椎良様のお美しさは皆知っていますが、誰も実際に目にしたことがないと嘆いておりますから。早速に話をいたしましょう」
「そうなさってくださいな。この子ももう少し外の世界を知るべきなんですよ。何時までも悲しみに閉じ籠っていてはいけませんもの。同年代の話し相手が出来れば少しは前向きになるかもしれませんわ」
「きっと椎良様の良いお話し相手になると思います。親馬鹿かもしれませんが、これがなかなか聡明なやつでしてね」
椎良は男の評価を改める。強欲さを隠そうともせぬのは、つまりそれが許されるからだろう。
(ああ、お父様、助けてちょうだい)
空しく呼びかける。まるで体全体で嵐から庇うように娘を守り続けた、その父親はもういない。
惣領であった父亡き後に、母親の力では到底惣領家を支えることなどできず、玄士であるこの男がその多くを取り仕切っていることを椎良とて知っている。次代の惣領が決まるまで梓魏惣領家を支えるのだという、その男の言が真実心からのものであるとは椎良には思えなかった。倅云々と聞けば尚更である。それさえもわからぬ母親が哀れでもあり、愛しくもある。
「本当に花のような姫君ですよ」
男の声に、椎良は不意に嫌悪を覚えた。見えずとも、男が己に向けているであろう視線がわかった。まるで花瓶に活けられた花を見るような、その眼差しだろう。続く母親と男の会話を、椎良は殆ど聞いていなかった。もっとも、二人とて既に椎良の存在など気にもかけていないようだったが。やがて閉ざされる扉の音が響き、椎良は再び静寂の中に取り残された。
一輪ざしに手を伸ばしかけてやめる。ただ咲き誇り匂やかであることを求められる、花は哀れなものであるかもしれぬ。
――花は、ただ生きているだけにございます。
遠い記憶の底から一人の青年の声が響いた。何時だったか、椎良が戯れに問うた時だった。花は可哀そうだと――美しくあることを求められ、美しく咲けばそれ故に刈られ、色褪せればすぐに捨てられる。人の勝手に、咲いては散る、それが哀れではないか、と。
「それでも花はただ生きているだけにございます。人の思惑など知らぬ気に、命が尽きるその時まで……それはすごいことではありませんか? あるがままに咲くからこそ、人は花を美しく感じるのかもしれません」
ぽつりと、記憶をなぞるまま青年の言葉を呟いてみる。十年経っても、忘れようもない。二つ年上の相手に、精一杯背伸びをして問うた。それに不器用な言葉を返した相手の表情までもが、見えるような気がした。
椎良は俯いた。
「命が尽きるまで……」
ほとりと、微かな気配がした。ゆっくりと手を伸ばす。指先に、小さな花びらが触れた。ひんやりと冷たい。散ってなお指先に香りを残した。
「お前も、散ってしまうのね……」
冬に咲く大輪は答えぬ。
椎良は立ち上がり、手を差し伸べてゆっくりと窓辺に向かった。
硝子に触れる。掌が冷たさに染まる。今年の初雪は早かったと聞く。梓魏の街は、まだ遠い春を待ちわびて静かに息を潜めているだろう。その静けさに少女の頃は心惹かれたものだった。
冬は嫌いではない。街の散策をしたいと言えばどうなるだろうか、とふと思った。どうせならば正章御自慢の聡明なる御子息に言ってみようか。面倒な姫だと愛想を尽かされるならば、それもよいかもしれぬ。あるいは期待に応えようと懸命になるだろうか。
そこまで考えて、椎良は小さく頭を振った。母親がそのようなことを許す筈がないのだ。椎良が失明してから、屋敷の庭を散策することさえ禁じた母親である。最近でこそ厳重に護衛をつけての散策を許すようになったが、街に出たいなどと言おうものならどのような騒ぎになるかは目に見えていた。
硝子に額をそっとつける。十年前から閉ざした瞳をうっすらと開いた。
椎良は立ち尽くす。再び瞼を閉ざし無音に佇むその姿は、祈りの淵に沈むかのようだった。
頬にひやりと冷たく溶ける感触があった。万は上空を仰ぐ。ちらちらと反転しながら舞い落ちる切片が視界を埋めた。淡雪だった。晴れ間が出れば瞬く間に溶け去るだろうそれに、万は暫し見惚れる。
号令の声が響く。新兵の訓練が始まっているのだろう。殺風景な訓練場のそこかしこに、兵士達の姿があった。遠く、上官の前に整列する新兵達の姿が見えていた。中の一人、ずんぐりとした姿は元商店主の男だろう。何とか踏ん張っているらしい、と万は思う。男はぎこちなく、それでも若者達の中で必死に体を動かしていた。それを横目に、万は足早に己の訓練の場へと向かった。
向かった先は訓練場の中に幾つかある道場の一つだった。そこでは今から万が所属する小隊の勝ち抜き試合が行われる。腕試しを目的としたそれは月に一度行われるが、新参である万は初めて参加する。勝ち抜けば上官の覚えも良くなるため、上昇志向の強い兵士にとっては己の力を示す絶好の機会となっていた。
道場に踏み込むと、既に熱気が籠っていた。兵士達も殆どが集っているようだ。
「よお、新入り。びびって逃げたのかと思ったぜ」
背後からかけられた声に万は振り返った。筋骨隆々、という表現がまさにしっくりとくる男が、腕を組んで立っていた。薄ら笑いを浮かべて万を見つめる。
「知ってるか? お前の一番はじめの対戦相手は俺だ」
「御手柔らかにお願いします」
笑んで答えた万に、男は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。男は万が入隊してから何かと絡んできた相手である。万自身は周囲との関わりを極力避けていたのだが、新兵課程を免除されたという評判がいつの間にか広まっていたらしく、それが男には気にくわなかったのだろう。
「殺さない程度に遊んでやるよ。少しは楽しませろよ。すぐに勝っちまったら面白くはないからな」
言い捨てて男は遠ざかって行った。今回の腕試しでは男が一位になるのではないかというのが大方の見込みである。男自身もそう考えているらしいことが、こちらを見下す態度に透けて見えていた。
(殺さぬ程度に……か)
内心に呟き、万は口元を歪めた。万にとってその言葉は冗談では済まぬ。実際、適度に手を抜かねば、一撃で相手の息の根を止めてしまいかねない。だがそれではまずい。
万はこの腕試しで上位に入るつもりだった。一位にまでなる必要はあるまい。しっかりとした武術の基礎と、今後も伸びるであろう素質を示せればよいのだ。新兵課程を免除されたとはいえ、万は最下級の兵卒である。兄、清夜の思惑通り計画を進めるためには、今一度軍の上層部に己の印象を刻む必要があった。
鋭い号令の声が響いた。万は他の兵士達に混ざり列に並ぶ。上官が指示を出す声を聞きながら、万はふと先程の淡雪を思った。天から地へと舞う淡雪は、散りしぶく花びらにも似ていた。儚く、脆く、短い命を生き抜く花の、一瞬の輝きを想起させる。
万は街の方角を見つめた。その先にいるであろう人を思う。何時だったか、花は哀れだと、その人が言った。それに己は何と答えたか、万にはどうしても思い出せなかった。ただ相手が浮かべた表情に目を奪われ、我ながら拙い答えだったと、思い悩んだ記憶だけがある。
飛雪、と呼びかける澄んだ声を聞いた気がした。
万は思いを振り払うように頭を振ると、目を閉じて俯く。深く息を吸い集中を高める。記憶を封じ込める。意識を空虚に保つ。目の前に浮かび上がるような鮮烈な面影が遠ざかった。再び眼差しを上げた彼の顔には、最早如何なる感情もなかった。
その日、淡雪は積もることなく、幻のように束の間舞い散って、消えた。
多加羅は本格的な冬を迎えていた。周囲の所領、沙羅久や梓魏と比べれば雪の少ない多加羅だが、身を切るように冷たい強風が吹く。その日も、多加羅の街には颶風が吹き荒れていた。まるで遠く獣が鳴くような、耳を聾する風の音に街全体が呑み込まれたようである。
仁識は広場で繰り広げられる若者達の鍛練を見つめていた。鍛練着が音をたててはためく程の風の中、微動だにせず腕を組んで立つその姿に声をかける者はいない。普段から愛想のない仁識ではあるが、今はどこか張り詰めた雰囲気までも醸し出している。声などかけようものなら、どのように厳しい言葉が返ってくるかわかったものではない。
だが生憎と仁識がどれ程に不機嫌な顔をしようとも、微塵も気にせぬ奇特な人物もいるものである。その人物は広場の向こうから今まさに仁識の元に近付いて来たところだった。冶都である。
「仁識、ちょっと見てくれ」
「今は忙しい」
「何言ってる。ただ突っ立っているだけだろうが。これだよ、これ」
渋面の仁識にかまわず、冶都は腕に抱えている木剣を突き出した。
「見てくれよ。かなり傷んでる。これじゃあ打ち合った時に折れるかもしれん」
仁識は冶都の腕に抱えられた木剣を見やる。全部で八本程か、確かに酷く傷ついていた。
「新しいのとかえればいいだろうが」
「武器庫の鍵はお前が持ってるだろう。それに副頭の許可がないと中に入れん」
仁識の表情がさらに苦々しいものとなる。当然、若衆における武器の取り扱いについては仁識も把握している。物思いに捕われていたとはいえ、当たり前のことをよりにもよって冶都に指摘された、それに対する腹立たしさだった。
「わかった。鍵を渡せばいいんだろう。かえてこい」
「どうせなら一緒に来てくれ。武器庫の中がどうなっているか、俺はよくわからん」
言うと、冶都は仁識の腕を掴み引きずるようにして歩き出した。
「おい……!」
「いいから、来いよ」
問答無用に引っ張られ、仁識は観念したように言った。
「わかった! わかったから腕を離せ!」
「はじめからそう言えばいいんだよ」
言い返そうとした仁識は、振り返った冶都の表情に言葉を呑み込んだ。にっと笑った冶都の、その目が真剣なものとなっている。どうやら、木剣をかえるというのは口実らしい。若衆の前では言いづらいことでもあるということか――それが何であるかは容易に想像がつく。仁識は溜息をつくと冶都の後に続いた。
武器庫の中は、風が吹き荒れる戸外よりも幾分ましとはいえ、冷たい空気に浸されていた。
「それで、何が言いたい」
冶都と向かい合った仁識は単刀直入に問う。冶都は抱えていた木剣を壁に立て掛けると言った。
「決まっている。灰達のことだ。何か報告があったか?」
「まだだ」
「いくらなんでも遅くないか?」
「まだ緩衝地帯に入って三日だ。遅くもないだろう。そう簡単に調べがつくようなことならば、ここまで悪い事態にはなっていない」
淀みない仁識の言葉に冶都は苛立たしげに手を振った。
「そうじゃなくて、須樹のことだよ」
仁識は口を噤む。彼とて、冶都が真に問いたいことを既に察していたのだ。だが、仁識にも答えようがなかった。まだ何の報告も入っては来ないのだ。緩衝地帯で何が起こっているのか若衆として探る。そのために緩衝地帯に赴いたのは副頭の灰と設啓、そして錬徒の中から三名とそれ以外の若者が五名だった。向かった先は笠盛という商業が盛んな街である。そこならば、謀略を謀る者達にとっても格好の場所だろうと言ったのは灰だった。だが、理由がそれだけではないことを、仁識と冶都は知っている。他ならぬ灰が、緩衝地帯へと赴く前日に明かしたことだった。
須樹が、笠盛のどこかに捕われているかもしれぬと、灰は二人に告げたのだ。
「今朝も須樹の御両親に会ってきたんだが、ひどく心配しておられた」
ぼそぼそと冶都が言う。須樹が笠盛へと赴いた日から既に七日が経過していた。当初はさほど心配していなかった須樹の両親も、今では不安を隠せずにいる。これほどに日数が経っても戻らぬのは明らかにおかしい。緩衝地帯の親戚の元に須樹が姿を見せなかったことも既に確認が取れていた。彼はまさに忽然と消えてしまったのだ。
「毎日、須樹の御両親に会いに行っているのか」
「ああ。何か申し訳なくてな。俺のところの運び役の馬車で乗せて行ったわけだし」
「別にそれは関係がないだろう」
「わかっているさ。でも考えてしまうんだよ。……俺でさえこんなんだから、灰は辛いだろうな……」
ぽつりと零した冶都の言葉に、仁識は答えなかった。
緩衝地帯で起こっていることについて己の推測を話した、そのせいで須樹が何かに巻き込まれた可能性があるのだと――そう語った灰の言葉は淡々としていた。だが、灰が静かな面とは裏腹に、ひどく自責の念を抱いているらしいことに二人は気付いている。普段から表情の乏しい灰だったが、数年来、毎日のように行動をともにしていればわかることも多くあるものだ。
「冶都、今は待つんだ。若様が必ず何か掴んでこられる」
半ば、己に言い聞かせるための言葉だった。
「ああ……そうだな」
言うと、冶都は一瞬泣き笑いのような表情を浮かべ、大きく息をついた。雲のように白い呼気が広がる。それに、急に寒さに気付いたかのように冶都は腕を摩った。口実とはいえ、武器庫に来た目的を思い出したのか、冶都は辺りを見回す。棚に積まれた木剣に手を伸ばすとその一本を抜き出した。それを掲げ持ちながら、冶都は仁識に笑んで見せる。
「お前も辛気臭い面をしているから、皆が怖気づいていたぞ」
「何を言っている。そのようなことはない」
一緒になって木剣を物色しながら、仁識は憮然と言い返した。
「そういうところがお前は鈍い。俺のことを鈍い鈍いと言うが、お前の方が余程だ」
「ほう……喧嘩を売っているのか。面白い。買ってやる」
「おお! いいな! 久しぶりに打ち合うか。この前は負けたが、次はそうはいかんぞ」
途端に嬉し気な顔になった冶都に、仁識は呆れたように肩を竦めた。だが、その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。仁識とて胸中の不安と焦燥を持て余していたのだ。出来れば緩衝地帯に自ら赴きたかった。だが、如何にも貴族然とした仁識の風体では密かに動くことは難しい。それに加えて灰と設啓、そして須樹が不在の鍛練所を仕切る者が必要だった。
冶都は口には出さぬ仁識の思いに気付いていたのだろう。冶都なりに仁識の鬱憤を気遣っているに違いない。
「ああ、そうだ。お前に会わせたい人がいるんだよ」
三本目の木刀を物色していた仁識は、冶都の唐突な言葉に顔を上げた。
「誰だ。若衆に入隊希望者でもいるのか?」
「お前、とことん色気がないよな。紹介したいってのは俺の親戚なんだが、お前の許嫁のことをよく知っているんだよ」
「それで何故紹介したいなどということになる。そもそも何故、お前が私の許嫁のことを知っているのだ」
仁識の声音は冷たかった。冶都は大きく身を震わせる。だが、それはどうやら仁識の声音のせいというわけではなく、単に冷え切った空気のせいであるらしい。
「それにしても寒い。早く出ようぜ。何で知ってるかって、そりゃあ親父に聞いたんだよ。親父はそういうことには詳しいからな。お前、第六公家の娘と結婚するんだろ? その親戚が第六公家で奉公しているんだよ。で、お前に是非ともどんな相手か話してほしいと頼んだんだ。そしたら、取り計らえばその娘と会うこともできるかもしれんとさ」
多加羅惣領に仕える貴族は古来よりの習慣で数をあてはめて呼ばれることが多い。貴族が代々引き継ぐ真名こそがその家をあらわす氏ではあるが、それはみだりに口に出されるものではない。他家の者が言えば、不敬とさえ取られかねないのである。長い歴史の中で数に込められた序列の意味合いは薄れたが、それでも数が小さい程に大家であることを示している。仁識自身は第四公家と呼ばれる貴族の出自である。
再び渋面になった仁識は話を断ち切るように木剣を抱え上げた。
「その古い木剣は混ぜるなよ。隅に置いておけ」
「わかってるよ。あ、待てよ。もう行くのかよ。話はまだ終わってないぞ」
尚も言い募る冶都に、仁識は向き直る。
「許嫁のことなら、お前には関係ない。許嫁に会いたいとも思わぬ」
「なんでだ。相手のことを知れるんだぞ? 知りたくないのか?」
「別段知りたくはないな」
「結婚するのが嫌なのか? 嫌ならはっきりそう言えよ。そんな態度じゃあ、相手も可哀そうじゃないか」
「嫌かどうかなど関係はない。前も言ったが、私のことに必要以上に首を突っ込むな。いらぬお節介だ」
言い捨てて背を向けた仁識に、冶都は声を投げる。
「やっぱり嫌なんじゃないか? それ程嫌なら何で唯々諾々と従っているんだよ。博露院を飛び出してまで若衆に来たくせに、お前らしくない」
仁識は立ち止る。何か言い返そうと思い、だが何も言葉が出なかった。
「……嫌な奴だ」
ぽつりと呟く。声は、冶都には届かなかっただろう。仁識は振り返らぬまま、その場を後にした。冶都はまだ何か言っているらしい。それを聞きたくはなかった。痛いところを突かれた気がしていた。
許嫁は幼い頃から親同士が決めていたことだ。それを今更どうこう言うつもりはない。結婚という過程が必要であるならば、敢えてそれに逆らう必要性を感じない。もとより利潤を優先しての結婚である。許嫁がどのような人物であるのか知ってどうなるというのか、と仁識は思う。大仰に騒ぐ冶都の言の方が彼には馴染めぬものなのだ。
(別に、嫌だなどとは思っていない)
そう考え、仁識は顔を顰めた。ちり、と引き攣れるように、胸の奥を逆なでする感情があった。
「私らしくない、か」
ぽつりと呟くと仁識は小さく笑んでいた。皮肉に歪んだ笑みであることは己でわかっていた。胸の奥に巣食うその感情が、初めて感じるものではないと彼は気付いていた。親の定めた結婚、それが何だと言うのだ。それしきのこと抗う程のことでもないのだと、大したことではないのだと、そう言い聞かせながらまるで塗り込めるようにして隠していたものがある。それが今あらわになっていた。
冶都の何気ない一言、何も見ていぬようでありながら、時に彼は鋭い。あるいは無意識なのか、仁識が敢えて目を逸らしていたものを無造作に突き付ける。
「お前は時々、本当に嫌な奴だ」
呟きは密やかだった。冶都の言葉は腹立たしく、怒りすら感じる。何故放っておいてくれないのか、と思う。そしてむしょうに可笑しくも感じていた。おそらく冶都は仁識を元気づけようと思って許嫁の話を出したのだろう。やはり鈍い、と思う。これでは逆効果ではないか。
須樹ならばあのように直截には言わない。触れてほしくないのだと察すれば尋ねようともせぬだろう。灰に関して言えば、冶都や須樹のようにこの話題に関心を持つかも疑わしい。突き放すわけではない。だがどこか距離を置いて接する灰の態度は、必要以上に己に近付けようとさせぬ、その彼自身の在り様と表裏一体なのだ。
仁識は広場に戻ると、木剣を地面に置いた。そのうち冶都も戻って来るだろう。どうせならば冶都が言ったように一手勝負してもいいだろう。少しは気が晴れるかもしれぬ。
須樹がいなくなって七日、灰が緩衝地帯に赴いて三日、彼らの姿のない鍛練所は何時にも増して閑散と、広く見えた。
第二章「現しの影」、開始です。一気に更新、どこまでいけるでしょうか。
仁識についてはなかなか書ききれず……本筋とは関係ないエピソードをうまく入れることが出来ず、少しやり残した感があります。彼ははじめ想定していたよりまっすぐで正義感の強い人物になりましたが、言うことがいちいちきつくて皮肉っぽくて……書き手的にはとても楽しいです。
では、次もすぐに更新……できるかな??