61
昼から夕刻へと向かう一時だった。
灰は足を止め、眺望を見やった。星見の塔へと向かう道から見渡せば、多加羅の遥か高みに揺れる空の有様は広く深い。どう、と風にも似た音を響かせて傍らに叉駆が降り立ち実体化した。先程から木立の間を風のように駆けて大気と戯れていたが、それにも飽きたらしい。漆黒の毛並みを灰は撫でた。鼓動のかわりに手に伝わるのは、豊かな自然の息吹だった。
灰が街にいる間、叉駆は大方を多加羅の背後の山で過ごす。山に封じられた闇も今は静かに眠っている。寄り添う叉駆の体からは、木々の甘い香りが感じられた。
その存在に気付いたのは、灰よりも叉駆の方が先だった。ゆるりと銀灰の瞳を差し向ける。つられて顔を向けた灰は近付いて来る弦の姿を認めた。叉駆は目を細めると、興味が失せたように顔を背けた。
弦は灰の前で叩頭すると言った。
「惣領が若衆の決定にお許しを出されました」
「そうですか」
相変わらず、と灰は思う。峰瀬の考えは読めぬ。わざわざ弦に伝えさせるところに、何かしらの意図を感じずにはいられぬ。おそらくは、若衆が出した結論、それに結びつく意見を出したのが灰であると峰瀬は察したのだろう。透軌はそこまでのことは言うまい。
是認であると同時に警告――おそらくはそういったところなのだろう。
伝えるべきことを伝えた弦が立ち上がると踵を返した。遠ざかるその背に、灰は声をかけていた。
「お願いしたいことがあります」
弦は僅かに目を見開いて灰を振り返った。弦は灰の直属の家臣となっているが、その実灰が弦に何かを命じることは殆ど無いのだ。
弦は再び灰の前に跪いた。叉駆が僅かに首を傾げ、横眼でそれを見やる。
「何でしょう」
「須樹さんを捜していただきたい。昨日緩衝地帯に行ったまま戻らぬようなのです」
灰は言った。
冶都と仁識、その二人とともに須樹の家を訪れた。彼の父親は突然に訪れた三人の若衆に驚いたようだった。須樹はいまだに戻らぬ、そう言った父親は不審に思っている様でもなかった。大方笠盛の近くに住む親戚宅を訪れ、引き留められてでもいるのだろう、とのことである。
――今日、あいつは休みの日に当たっているのだろう?――
逆にそう尋ねてきた父親に、三人は答えることが出来なかった。今日に至るまで須樹が戻らぬのだから、そう考えても不思議ではなく、若衆で大事な会議があったことを言えば、父親も須樹が戻らぬことに不安を感じるに違いない。
冶都と仁識の顔から、須樹の身を案じていることがわかった。それでもおそらくは戻るのが遅れているだけなのだと、そう思っているだろう。だが、そうでないとしたら――灰は焦燥とともに思う。須樹の身に何かが起こったのではないか。その不安には根拠がある。
「何故多加羅に戻って来ないのか、緩衝地帯で何があったのか、それを調べてください」
「何があったか、ですか?」
「須樹さんは父親の商品を笠盛の酒場に持って行ったそうです。ですが、それ以降の消息がわからず、大事な会議がある今日になっても帰って来ていません」
「須樹殿の身に何か起こったとお考えなのですか?」
数日前、灰は須樹に己の推測を話した。緩衝地帯での出来事は何者かが謀ったことかもしれぬ、いまだに動いている者を追えば、解決に繋がる可能性がある、と。それを弦に伝える。
「もしかすると須樹さんはあやしい者の動きを掴んだのかもしれません。笠盛は緩衝地帯の中でも一、二を争う大きな街です。そのような場所ならば、多加羅を貶めようとする者達が動くには都合が良い。そしていまだに戻らぬということは……」
「相手に勘付かれた可能性があるとお考えなのですね」
灰は頷いた。須樹に対して己の考えを容易く口にすべきではなかった、と今更ながらに悔いを感じる。全て推測の域を出ぬ不確かなことであり、軽はずみに口に出すべきことではなかった。灰が話した内容故に、須樹が厄介事に巻き込まれたのであれば、それは灰の責任であり過ちだった。
「あるいは多加羅を貶めようとする者などいないのかもしれませんが、笠盛程の規模の街ならば、人が踏み込むに相応しくない場所もあるでしょう。何事かを探ろうとして踏み込んだ可能性もあります」
「緩衝地帯を調べるべきとのお考えを若衆で出されたのは、彼の身を案じたためですか?」
弦の問いに灰はただ淡く笑んだだけだった。何かを察したのか、弦はそれ以上問おうとはしなかった。灰が答えれば、弦は峰瀬に報告するだろう。それが彼の役割なのだ。峰瀬には知られたくなかった。無論、灰が弦に命じたことを峰瀬が知れば、自ずと灰の考えは見通されるだろう。弦が伝えるか否か、それは灰にはわからぬ。伝えぬよう指図するつもりはなかった。そのような立場に己はないのだと、灰は思う。
須樹の身に何が起こったのか、それはまだわからぬ。何も起こっていないのかもしれぬ。一つ確かなことは如何なる事情があろうとも、峰瀬が彼を救うために動くことはない、ということだ。例え謀略が実際にあり、それに須樹が巻き込まれたのだとしても、今回の一件は若衆に留まらず多加羅全体に関わることだ。そうであれば尚更に、一人の青年の身など顧みないだろう。
だが灰が個人で動くこともまた出来ない。それが不可能なのだと、灰は既に理解していた。己が多加羅という枠に嵌め込まれ、縛されていることに彼は気付いていた。だからこそ若衆を動かす。須樹がもしも緩衝地帯で今起こっている一連の出来事に巻き込まれたのならば、須樹を追うことはその解明にも繋がる。
己の行動、その是非を問うて迷う気持ちがないわけではなかった。思い込み、若衆を振り回すことを躊躇わないわけではない。だが、それにも増して須樹の身が案じられた。若衆として一連の出来事を調べることとなれば、少なくとも緩衝地帯で動く名目は立つ。
「承知致しました。まずは笠盛に向かい、須樹殿の足取りを追いましょう」
「それからもう一つ、お願いがあります」
「何なりと」
「俺は怪魅の力で須樹さんが無事でいるかどうか探ってみます。その間、傍で見守っていただきたい」
弦の表情が崩れる。あらわれたのは驚きだった。
謀略を巡らせる者達に勘付かれたならば、須樹の身は危険に晒されたかもしれぬ。そうでなくとも街には不文律がある。規模が大きい程に、街の裏側に集う闇は深まるのだと――表からは見えず、裏を仕切る者が必ずと言っていいほど存在するのだ。何もわからずに踏み込めば危険に巻き込まれる可能性もある。もっとも、踏み込めば命も無いと言われる來螺の裏側程に危険な場所が、この多加羅に、あるいは緩衝地帯にあるとも思えなかったが――
仮に須樹がそのような場所に踏み込んだとしても、危険な場所であると彼とて十分にわかっていた筈だ。身を守るための力もあった。その彼が戻らぬのだとすれば、それが意味することは何か。今の緩衝地帯は不穏だ。何事かに巻き込まれ、既に命を落としたのではないか。口に出さぬ灰の恐れを弦も察したようだった。
「怪魅の力でそのようなことが可能なのですか? もしや場所までも特定できるのですか?」
「細かな場所までは無理だと思いますが、おそらく、気配を追うことはできます。ただ、容易くはないうえに距離が離れているので、全ての意識をそちらに向けなければいけなくなります。そうなると、周囲のことまで気を配ることができなくなる。例えすぐそばで剣を振りかざされても気付けないと思います」
「その獣がお守りするのではないですか?」
弦の言葉に、叉駆が僅かに牙を剥き出した。牙蒙というその名の由来である牙は、禍々しく鋭い。灰はそれに苦笑した。
「叉駆では何かあった時に相手を殺しかねない。このような山の中で誰かに見られるとも思えませんが、何があるかわかりません。人に見られることだけは避けたいのです。お願いできますか?」
「承知致しました。何時、行うのですか?」
「今です」
灰は笑んだ。
灰が向かったのは星見の塔の背後に広がる山腹だった。木々の間を縫って暫く斜面を登ると、前方にぽかりと空いた空間が見えた。中央には大木があった。だが、その木に命の気配はない。おそらくは雷に打たれたのだろう。無残に折れた幹は風雨に晒されて白色化し、嘗ての威容も寂々と崩れつつあった。
その木の根元に灰は腰を下ろすと胡坐をかいた。続いて叉駆が傍らに寝そべると、立ち尽くす弦を見上げて低く唸った。灰はなだめるように叉駆の首筋を撫でると、弦を見やった。
「頼みます」
弦が頷くと、灰は深く息を吸って目を閉じた。ゆっくりと細く息を吐き出す。
次の瞬間、弦は空気が振動するような奇妙な感覚を覚えた。無音のそれは、しかし数百もの鈴を一斉に鳴らしたかのような不思議な余韻を残した。次いで、疾風にも似た気配が奔り抜ける。髪の一筋とて揺らすことなく、それは弦の傍らをすり抜け、一気に上空へと駆け上がって行った。
俯いた灰の瞳はしっかりと閉ざされ、呼吸は深い。瞳の藍を映したように、瞼は微かな青に染まっている。まるで眠っているように見えた。影として灰を見守り続けた年月は短くない。そのいずれの時も、灰は弦の気配を過たず捉えていた。だが、今灰はあまりに無防備に見えた。
ゆったりと地面に寝そべった叉駆の瞳が油断なく弦に向けられている。それに弦は小さく笑んだ。男が余人には決して見せぬ表情だった。
「案ずるな。お前の主は私が命にかえてもお守りする」
ひそりと囁く。それに、獣はふいと視線を逸らせた。仕様がないから認めてやるとでも言いたげな仕草だった。
弦は意識を研ぎ澄ませて辺りの気配を探りながら、灰の前に跪いた。
解き放たれた瞬間に、灰の意識は既に多加羅の上空にあった。遥か下方で弦が跪くのを感じた。叉駆が駆ける灰の意識を見つめている。灰は大気を伝い広がる怪魅の力に己の意識をのせた。地面に座る現実の感覚が遠のき、幾層にも重なりうねる自然の波に包まれていた。灰にはそれが、膨大な量の微細な粒子が揺れ動く様にも映る。
怪魅の力で離れた場所を探ったことは今までもある。だが、あくまでも現実の体から見ていたのだとわかる。いわば第二の視野だ。己の体からこれほど遠くまで意識を広げたことは一度もなかった。まるで実際に空を飛んでいるかのような感覚だった。無論、体から意識が切り離されることなどはない。灰がしようとしているのは己の怪魅の力を網のように広げ、そこから外界を感じ取ることである。体から意識が抜けだしているようにも感じるが、己の体を起点に意識の触手を伸ばしている、と言った方がいいだろう。
灰は精神を集中した。今するべきこと、それは須樹の無事を確かめることだ。地上に数多溢れる命の中で、特定の一つを見つけ出すことが出来るのか。灰にはそれが可能であるとわかっていた。だが、一つ懸念があるとすれば、それは己の怪魅の力がどこまで広げられるか、ということだ。
さらに怪魅の力を開くと、天地の間を埋める数多の存在が意識の内で弾けた。それは物質であり、命であり、水であり、風であり、全てを象る光を帯びた粒子だった。音であり、静寂であり、旋律にも似た大気の揺らぎだった。人の密やかな囁きが羽音のように重なり、幼子の小さな手が気紛れに触れた小石が、溜息のような音をたてた。どこかで稟の澄んだ笑い声が聞こえた。
それは奔流に巻き込まれる様に似ていた。己の意識すら呑み込まれそうになる。灰は己の意識を守るように、周囲に網を張り巡らす。それに弾かれて彼を呑み込まんとしていた荒波のようなうねりが遠ざかった。その間にも多加羅の街は背後に遠ざかる。意識の網はいまや幾つもの村や街の上空を奔り抜け、遠く広がる田園風景をも捉えていた。田園を通り越せば、緩衝地帯である。
流れる地表にぽつりぽつりと光が見えた。街道を行く人の姿だ。光の筋を残して駆けるのは子供のようだった。
さっと視界を横切った鳥が何であったかまではわからなかった。風切羽が空気を打つ音が鋭く響いた。果たして鳥は灰の気配に気づいたように旋回すると、さらに上空へと羽ばたいていった。掻き混ぜられた大気が渦を巻く。
時の流れは瞬く程の一瞬のようにも、粘りつくように緩慢な永劫にも感じられた。
漸く緩衝地帯の上空に至った時、灰は己の怪魅の力が弱まったのを感じた。目的のみを目がけて広げた力の網は薄く引き伸ばされ、僅かな揺らぎにも吹き散らされそうなほどに希薄になっている。
――あと、少し――
思うままにさらに先へと伸ばす。と、周囲の光景がぼやけた。まずい、と思う。限界に達したのか、己の意思とは裏腹に怪魅の力が収縮しようとしている。
――まだだ――
念じる。さらに視界が狭まる。引き戻そうとする本能と、なおも先に進めようとする意思との狭間で、灰はぎりぎりまで精神を開放した。須樹を象る光を探る。ただそれだけを目指す。不意に負荷が消えた。大気を切り裂き、人波を突き抜け、幾重にも連なる障壁――家壁だろうか――をすり抜けて灰はたった一つの光の元へと奔っていた。一瞬大地の密やかな温もりを感じ、視界が開けた。光、と見えたものは一人の姿を形作った。暗闇の中だろうか、石壁に凭れて座り込んでいるように見えた。須樹だ。
灰の意識が須樹の元へと届いたその時、須樹が顔を上げた。その視線が確かに灰を捕えた――と、思った瞬間、灰の意識が弾けた。
全てが白一色に塗り潰される。一点に収束し、叩きつけられるようにして灰の意識は己の体に戻っていた。精神が粉々に砕かれたかのような衝撃だった。苦痛など感じる筈もなく、だが酷使された精神が引き絞られた弓弦のように軋んでいる。
大きく息をはくと、それは僅かに震えを帯びていた。
「……様、灰様!」
耳元で不意に声が響いた。聴覚に次いで、体の感覚が戻る。弦が灰の肩に手を置いて顔を覗き込んでいた。灰は顔を上げる。
「大丈夫です」
自分の声が遠い。体と意識に齟齬がある。奇妙な浮遊感は、呼吸を繰り返すうちに収まった。ふと灰は顔を顰めて唇を触った。指先に赤い。怪魅の力を開放している間に、口の中を切っていたらしい。金っぽい血の味がしていた。痛覚すらも切り離されていたのだ。
「俺は、どうなっていましたか?」
ぽつりと問うた灰に、弦は迷うような素振りを見せた。言葉を選ぶような間の後、弦はごく短く答えた。
「お苦しそうでいらした」
確かに無理をした、と灰は思う。余人に見せたいものでもない。あのように怪魅の力を使えば、己の身を守ることすらままならぬ。それは灰にとって恐怖ですらあった。無防備に過ぎる。
――ならば何故、弦に託した――
ひそりと囁く内心の声だった。
――彼しかおらぬからだ――
灰の怪魅の力を知り、なおかつ彼の身を守るに違いない者は弦しかいない。
――都合の良いことだな。普段は信じようとせぬものを――
灰は小さく頭を振った。埒もない思考を押し込めると、弦を見上げた。男の顔は普段と変わらず、こちらを見つめている。だが、その表情が僅かに強張っているようだった。
「須樹殿は御無事なのですか?」
「彼は生きています。おそらくは笠盛のどこか……地下の一室にいます」
「誰かに捕われているということでしょうか」
「わかりません。俺がわかったのは、小さな一室、暗闇の中にいる、ということだけでした」
笠盛は小さな街ではない。須樹を探し出すのは容易ではあるまい。だが、須樹は生きている。今はそれさえわかれば十分だった。
「須樹さんを捜してください」
「わかりました」
弦は頷いた。だが、なおも立ち上がろうとせぬ。灰を見つめる表情に、案ずる色があった。それを灰は意外に思う。弦は灰に対する時、常に感情の一切を削ぎ落したような態度で接する。内心の思いを悟らせることは滅多になかった。
灰は言った。
「行ってください」
「星見の塔までお送りします」
「俺は少し休めば大丈夫です。叉駆もいる。須樹さんのことを頼みます」
弦は逡巡するようだったが、漸く頷くと立ち上がった。
木立の向こうに遠ざかる弦の姿を見送り、灰は傍らに蹲る叉駆の頭を撫でた。温かな波を感じる。叉駆を象るそれが、まるで灰を癒すように指先から沁み渡る。それが錯覚でないことを灰は知っていた。体の奥で、渦巻くような力が生じる。叉駆の力を与えられたのだ。
「ありがとう」
囁くと、叉駆は目を細めた。嘗て神と呼ばれた存在は叉駆のようなものだったのかもしれぬ、と――そう言ったのは峰瀬だった。灰も然りと思う。隔絶した命の、その頑なな殻すらも透かして柔らかに力を分け与えることは、人には到底無理なことだった。
灰は彼方へと視線を投げる。そこに宵の兆しを見つけた。この場に来たのはまだ夕刻になる前だった。怪魅の力を開放したのは束の間のことと思っていた。だが、思いの外時間が経っていたらしい。それもおそらく一刻以上だ。感覚と現実の乖離に今更ながらに気付き、驚きを感じる。
灰が怪魅の力を開放していた間、ずっと弦は灰の傍らで微動だにせず、彼を守っていたのだろう。そう思うと、僅かな居心地の悪さを感じた。彼が灰に従うのは峰瀬の命があってこそだ。その彼に命令を下すことに灰はいまだ抵抗があった。だが、若衆も緩衝地帯で動くとはいえ、出来ることは限られている。須樹を見つけ出す。緩衝地帯で暗躍する者達がいるならば、その正体を暴く。そのためには弦の力が必要だった。弦ならば必ず何かを掴んでくるだろう。
――信じようとせぬものを――
再び呟く声があった。嘲笑う響きである。
――信じるか否かは問題ではない――
灰は思う。この多加羅で秘することの多い灰にとって、弦こそが最も彼を知る人物であることは間違いない。影であることを是とし、惣領家を守ることに命をかける弦であればこそ、灰も己の身を預けることが出来たのだ。そこに信頼関係など、そも必要のないものなのだ。
――本当にそうか?――
ひそりと、響いた声から灰は意識を逸らした。
星見の塔にはやく帰らねば、と思う。それでもまだ動く気になれなかった。
灰は木の幹に背を預け、空を仰いだ。宵の藍は水底に似ている。小波だつ水面を通して見るように掴みがたい。見通せぬ底に何かがあるのだろうか。あるいはただ空虚なのだろうか。
見えぬこと、それは恐ろしくもあり、時に何かしら許しにも似ている。見通せぬことも、見ようとせぬことも許容して、ただ深くある。
灰は衣の下から首にかけている玉を引き出した。縒り糸に連ねたそれは六つ、それぞれはさほど大きくもない。光沢があるように見えるが、実際にはただ引き込まれるように黒いだけだ。硬質でありながら、まるで雫のように捉えどころなく柔らかくも見える。六つは握り締めればすっぽりと拳に収まった。
灰は膝を抱え込むとそこに半ば顔を埋めた。多加羅の街並みが静かに暮れようとしていた。
今回で第一章が終わります。次からは第二章「現しの影」(「うつしのかげ」と読みます。)がはじまります。
今後ともよろしくお願いいたします!