表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最果てに天深く  作者: 高原 景
60/117

60

 透軌とうきは屋敷に戻り、真直ぐに惣領の執務室へと向かった。鍛練所に付き添った初老の男、彼に仕える家司けいしの姿は既にない。従僕だけが付き従っていた。執務室の前に立ち、透軌は背後を振り返った。

「ここで待て」

「承知致しました」

 答えた従僕を見やり、透軌は扉に向き直る。軽く叩けば、すぐに応えがあった。扉を開ける。

 執務室には峰瀬みなせと一人の老人の姿があった。玄士の一人、白玄はくげんである。手に巻き書を持った峰瀬と向き合い、何事かを話し合っていたらしい。老人は透軌の姿を見つめ、恭しく一礼した。そのまま辞そうとするのを、峰瀬の声が引き留めた。

「白玄、出る必要はない」

「ですが……」

 ちらりと透軌を見やった白玄が戸惑ったような声をあげた。

「かまわぬと言っている。透軌、何用だ?」

 峰瀬は卓の上に巻き書を置くと、透軌と向き合う。暗色の衣と対象的に青白い顔だったが、透軌を見つめる瞳には鋭い強さがある。透軌は僅かに俯いた。

「緩衝地帯で起こっていることに、若衆としてどのように対処するか、決しました」

「若衆の話し合いは今日であったな。して、結果はどうなった?」

「若衆の汚名を晴らすため動くにせよ、静観するにせよ、今はあまりに情報が少ないと考え、まずは緩衝地帯に詳しい者を選び、何が起こっているかを調べることに決しました」

「ほう……」

 峰瀬が僅かに笑みを浮かべた。

「何を調べようというのだ」

「此度の一件は、何者かが若衆を貶める明確な目的のもとに謀ったことである可能性があるとの意見が若衆で出され、その真偽のほどを確かめるために、何者が若衆の噂を広めているかを調べることといたしました」

 透軌の落ち着いた声音が、部屋に響く。それはあまりに静かに、どこか虚ろだった。

「なるほど、そしてお前自身はどうしたいと思っている」

「私は若衆頭です。若衆として決したことを行わせていただきたく、惣領にお許しいただきたいと思います」

「ならば、調べるがいい」

 透軌は父親の言葉に顔を上げた。そこに浮かんだ表情に、峰瀬は笑んだ。

「どうした。意外そうだな」

「私は若衆が動かぬことを父上がお望みだと考えていました」

「確かに、若衆が動くことは望ましくはない。特にことがここまでいたっては、下手に動いてはかえって取り返しのつかぬことになりかねない」

「では……何故……?」

「なに、それも面白いと思うからだ。透軌、私は確かに若衆には何も行動を起こさせるつもりはなかった。それでもこれからの多加羅を担う若者達がどのように考えるか、興味深くもあったのだ。もしも真実多加羅のためになる意見が出たならば、惣領として認めることも考えていた」

 言いながら、峰瀬は椅子から立ち上がると、窓の外を見つめた。その背を透軌は言葉も無く見つめる。

「多加羅若衆を貶める目的を持って……か。案外にそれは的を射ているかもしれぬな」

 呟くような声に、白玄が驚きの表情を浮かべた。

「惣領、それはまことにございますか? 由々しきことですぞ。一体何者が……」

「それがわからぬから調べるのではないか」

「よろしいのですか……?」

 透軌がひそりと問うた。

「ああ。どうせならば言い出した本人に任せればよい」

「…………」

「何者かが謀っているかもしれぬという先程の話、大方考えたのはかいだろう」

 透軌は目を見開く。峰瀬はくつくつと笑い声をあげた。心底おかしげな響きだった。

「相も変わらず何を考えているかわからぬ奴だ。灰と、若衆の中から適任者を選び、緩衝地帯での出来事の背後を調べさせてみればよかろう」

 透軌はなおも背を向ける峰瀬を凝視し、そして頭を下げた。峰瀬は硝子越しにそれを見つめた。透軌の姿は僅かに歪みを帯びて、光りを弾く硝子の上にうっすらと映る。

「承知致しました。早速に適任者を選び、緩衝地帯の調査に向かわせます」

 淡々と言葉を紡ぐと、透軌は踵を返した。

 背後に扉を閉じて、透軌は暫し立ち尽くした。執務室の外で待っていた従僕の視線を感じながら、石床を見つめる。体の芯から熱を奪うような空気よりもなお冷たく、凍えるような凝りが胸の内にあった。

絡玄らくげんを私のところへ」

 命じる声は低かった。短く答える声を聞き、透軌は己の部屋へと向かった。



 白玄は青年の背が扉の向こうに消えてから、峰瀬を振り返った。男はなおも窓の外を見つめている。半ば壁に凭れ、物思いにふける様である。

「惣領、どういうおつもりですか」

「どう、とは?」

「緩衝地帯の件は既に影達に調べさせているではありませんか。何故わざわざ若衆に調べさせるようなことをなさるのです」

「面白そうだからだ」

「御冗談を……」

「冗談ではないさ」

 峰瀬の声音に、笑いの名残は微塵もなかった。

「若衆には動かぬよう命じる、そのようにお考えではなかったのですか?」

「そうするつもりだったが、気が変わった」

「先程も仰られていましたが、緩衝地帯の出来事が若衆を貶めるために謀られたことであるというのは……」

「まだ確証はないが、おそらくはその通りだろうな。影達の報告からそうではないかと思っていた」

 白玄は主を凝視した。

「……それならば、尚更に若衆が動くのはまずいのではないのですか。それに若衆が動くことにさほど意味があるとも思えません」

「そうかもしれぬな。だが、灰が敢えて若衆を動かすよう仕向けた、というからな。何か魂胆があるのかもしれぬ。自由にさせてみるのもよいだろう」

「……灰様の御意見だから認める、と?」

 白玄の声音に、ふと峰瀬が笑んだ。それはどこか暗い笑みだった。

「そう、とも言えるかもしれぬ。へまをすれば責を問わねばならぬがな」

「ですが、それでは……」

 ふと白玄は顔を歪めた。

「あなたは、厳しいお方だ……」

「灰には寝たふりをそろそろやめてほしいだけだ。言っておくが、あれは大人しげに真面目な顔をしているが、大抵のことから目を逸らして己の力の半分も出さずに逃げているだけだ」

「灰様のことではございません」

 峰瀬がふと口を噤んだ。

「私が申し上げているのは透軌様のことです。あれでは、透軌様がどのようなお気持ちになるか」

 白玄は峰瀬を見つめた。硝子に映る峰瀬の顔はその半分が解けるように外界の光に滲んでいる。表情は動かず、恬淡として見えた。諦め――? それだけではない、と白玄は思う。諦めだけであれば、むしろその方がよい。

 白玄は続く言葉を呑み込んだ。言ってはならぬのだと、どこかで戒める己の声が聞こえていた。三年前に灰が多加羅に来てからの惣領家を、白玄は間近に見てきたのだ。その中で気付くことは多々ある。例えば、峰瀬と透軌、この父子の在り様もその一つだった。

「惣領、透軌様に闇のことをお伝えにはならないのですか」

 出た言葉は、白玄自身にも予期せぬものだった。峰瀬を見れば、彼もまた驚いたようだった。

「どうした。突然に」

「お答えいただけませぬか」

「透軌にはまだあれのことを伝えるには早い」

「ですが、次期惣領である透軌様は知るべきではありませんか?」

「白玄」

 まるで諭すように、峰瀬が呼びかける。

「案ずることはない。時期が来れば透軌には知らせる。どのみち、知らせねばならぬのだからな。私の命が尽きる前に、言霊を透軌に託さねばならぬ」

 白玄はふと息をついた。だが、次の峰瀬の言葉に顔を強張らせる。

「だが、万が一の場合に備える必要はあるかもしれぬな」

「つまり……?」

「人柱が必要かもしれぬ。封印が弱まっている」

 ひそりと峰瀬は言った。人柱、その忌まわしい響きに、白玄は慄然とする。彼はその言葉が意味することを知っていた。それは嘗て峰瀬の父親が闇を押さえるために、行ったことである。

 人の命に言霊の欠片を刻み、闇に与える。人は生きながら闇に喰われ、その身に刻まれた言霊で闇を縛るのだ。人柱とはつまり、闇を抑えるための生贄だった。先代惣領の時には、はじめは囚人を、その次は浮浪者を使った。最後は行くあてのない孤児だった。先代惣領が闇に命を与えることに何ら躊躇わなくなった頃には、人柱の数は既に十人を超えていた。次第に歯止めを失っていく主の姿を白玄は傍らで見ていたのだ。その時の無力感を、今また彼は感じる。

「惣領、どうかそれだけは……。灰様のお力で今一度闇を滅すれば、透軌様が継承なさるまで言霊で封じることもかないましょう」

「白玄、もう私の体がもたぬのだ。あと一度封印を解けば、再び闇を封じることはかなわぬだろう。仮に封じることがかなおうとも、私の命が尽きるかもしれぬ。そうなっては透軌に言霊を継承させることすら不可能になってしまうのだ」

 白玄は峰瀬の青褪めた顔を見つめた。何を気弱な、と言いかけて、その言葉は喉の奥で消える。峰瀬の言葉が真実を告げているのだと悟ったが故だった。

「ですが……一体誰を人柱にするというのですか……」

 峰瀬がゆるりと顔を白玄に振り向けた。そこには如何なる感情も浮かんではいなかった。迷いないその顔に、白玄は言葉を失う。不意に白玄は疲労を感じた。年を取ったのだ、と思う。あまりにも年老いた。そして、あまりにも多くを見過ぎたのだ。白玄は峰瀬から視線を逸らせた。答えを聞くことを心が拒絶する。出た声は己でも情けないほどに弱々しかった。

「申し訳ございませんが、本日は下がらせていただきたく思います」

「許す」

 白玄は一礼すると、執務室を後にした。

 峰瀬は老人の小さな背中を見つめ、顔を背けた。扉の閉じる音が無機質に響いた。



 透軌の部屋は三階にある。窓からは屋敷の前に伸びる大通りが見渡せた。今、道を行く人はいない。門を守る衛兵の姿だけがある。それがまるで風景に嵌め込まれた物のように彼には思えた。実際、彼にとって衛兵は風景の一つに過ぎなかった。たまたま衛兵の交替の場を目にして、そこにいるのが確かに人であるのだとわかったのは、まだ幼い頃だった。それを覚えているのは、傍らに母親の姿があったせいかもしれぬ、と彼は思う。その頃は彼の母親もまださほど心を病んではいなかった。稚い息子とともに屋敷の庭を散策することができる時もあったのだ。

彼女が自ら命を絶ったのは、彼が九歳になった頃だった。

 軽く叩かれた扉に、透軌は応える。間を置かずして、男が歩み入って来た。玄士の一人、絡玄である。恭しく一礼する絡玄に、透軌は言った。

「呼び立ててすまない。若衆の会議の結果を知らせておこうと思ってね。若衆では緩衝地帯で何が起こっているか、密かに情報を集めて調べることに決した」

「そうでございますか」

 透軌の言葉がどれ程意外なものであったにせよ、洛玄の表情に変化はなかった。

「父上に申し上げたところ、決した通りに動く許可をいただいた」

「……それはまことで?」

 はじめて声音に驚きが滲む。絡玄が透軌を前にして示す態度は常に一定だった。透軌は仮面にも似たその一角が崩れたことに対して僅かな喜悦を感じた。だが、その歪な感情の中には打ち消し難い苦さもあった。

「若衆としては動かぬが得策、透軌様にもそのような結論となさるよう申し上げました。何故、若衆で異なる結果となったのでしょうか」

 透軌の喜悦はすぐに消える。

「灰だよ。緩衝地帯での出来事が、若衆を貶めるために何者かによって謀られたことである可能性があると彼が言ったのだ。動く動かぬ以前にそれを調べるべきだと。最終的には副頭も灰の意見に倣った。あの場で若衆として動かぬという決定を出すことは、最早出来なかった」

 推測、そう前置きしながら、灰はあっさりと透軌の結論を阻んだのだ。それを思い出す。ただ淡々と言葉を紡いでいるようでいながら、何時の間にかあの場にいる全ての者が灰の話に聞き入っていた。透軌ですら何時の間にか、緩衝地帯での出来事が何者かに仕組まれたことなのだと、半ば信じていたのだ。そのことに気付いた時に生じた感情を、透軌は名付けることができない。屈辱だろうか。単純な驚きかもしれぬ。否、それよりもさらに激しく、どこか引き攣れる痛みを伴っていた。

 灰は、あのように話す者だったろうか、と透軌は惑う。若衆の副頭に彼を指名したのは絡玄の進言によるものだった。身近に置くのは監視するため、要職に任じたのはその能力を見極めるためだと。絡玄の意を受けた若衆から、灰の動向についての報告も逐一受けている。灰に気をつけるべきだと、そう言った絡玄に、はじめは何をそこまで気にする必要があるのだ、と透軌は思ったものだ。だが今では透軌にとって灰の存在は、不可解な焦燥を煽る小さな棘となっていた。

 思い返せば、三年前に灰が多加羅に来てから、従兄弟同士といえどもまともに言葉を交わしたこともない。灰が若衆副頭となってからは、諸連絡を透軌に伝えるのは彼の役目となっているが、それはあくまでも事務的なものでしかなく、会話と呼べるほどのものではなかった。

 透軌はひそりと呟いた。

「絡玄、私にはわからぬのだよ。若衆は真実私のもとにあるのか?」

「勿論でございます。報告を聞いても、若衆の中で透軌様は真の主として慕われておいでです。若衆頭は透軌様、あなたです。未来の多加羅を担うお方です」

 透軌はうっすらと笑んだ。絡玄が心の底から言っているのは知っていた。絡玄にとって透軌の力が如何程のものかはさして大きな問題ではないのだ。透軌が次代の多加羅惣領である、それが彼にとっては最も重要なことであり、そうであるからこそ透軌を支え力となるのだ。

 ――私はわかっている――

 透軌は突き放すように乾いた心地で思う。己の限界、己の弱さ、多加羅を継ぐ者として父にはるかに及ばぬ己の全てを彼は自覚していた。なればこそ、目の前の男を恃む。届かぬ先に手を延ばす手段として、歩むことのかなわぬ道を進む伝手として――そのようにして己は生きるのだと、それしか生きる術がないのだと、既に知っていた。

「緩衝地帯では、若衆の中から適任者を選び、灰を中心に動くこととなる」

 透軌は言った。絡玄は言外の意味を汲んだのか、頷いた。

「では、何があろうとも余さず伝えるよう、設啓せっけいに命じておきましょう。灰様がどのような思惑を有していようとも、我らには明らかとなるでしょう」

「絡玄、彼は灰の意見に倣ったのだ。信用できるのだろうね」

「設啓は卸屋おろしやです。卸屋は裏切りません。それが己に利あることであれば尚更に、忠義を尽くす筈です」

「己が利潤のための忠義か……」

「はい。卸屋とはそういった者達なのです。利益こそが彼らには意味ある唯一のものなのです。くだらぬ輩とはいえ、そういった意味では信用することが出来ます」

「設啓から報告があれば、私にも知らせてくれ。どうやら灰は私に全てを明かすわけではないようだ」

 透軌の言葉に、絡玄は肯った。

 透軌は窓の外を見やる。衛兵が変わらず直立している。そろそろ昼の交替の時間の筈だった。絡玄と話している間に交替したのかもしれぬ。だが、それが先程と同じ人物なのか透軌にはわからなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ