58
宇麗は足早に細い廊下を歩き、突き当たりの階段を昇った。木の扉をくぐると薄暮の淡い光が窓から射していた。薄紅に雪白の冷たさを秘めて壁を染める。ふとその色彩に目を奪われた宇麗は、足を止めて壁に凭れた。腕を組む。硝子の向こう、細長く切り取られた空は、見詰めれば心さらわれる深さだった。
移ろう夕暮れを見つめながら、いつの間にか、宇麗は目まぐるしい思考に捕われていた。
夕餉の匂い、食堂には子供達が集まって食事をとっているだろう。まだ幼い彼らの食事の時間は早い。用事があることは伝えてあるので、彼女を待っていることはないだろう。だがこの建物に連れて来られたばかりの子供の中には、宇麗の姿がないと落ち着かない者もいる。子供達は宇麗を母親のように慕っている。はやく行ってやらねば、と思いながらも、宇麗は歩き出すことができなかった。
「どうした?」
声をかけられて宇麗は振り向いた。廊下の先、食堂のある方向から大柄な男がゆっくりとこちらに向かって来ていた。鍛え抜かれた分厚い体格の男である。がっちりと広い肩の上には厳つい顔がある。その見た目だけで街のごろつきも黙って道を開ける彼だが、性格は穏やかで優しい。名を黄という。
「……少し考え事をしていた。英の様子はどうだ?」
「お前に盛大に雷を落とされて、地の底まで落ち込んでいる。何もあそこまで言わなくてもよかったんじゃないのか?」
「独りよがりな功名心で連携を乱すのは大馬鹿者だ。おかげで予定が大きく狂った」
「だが、あの男達を捕える時期には来ていた。あのまま監視しても相手の正体がわからないならば、捕えた方がいいとお前自身が言っていただろう。媼のお許しも頂いていたから丁度潮時だった」
「たとえそうであっても、英のやったことは失態だ。お前もわかってるだろう。だいたい女にいい格好を見せたくて先走るなんてのは論外だ」
宇麗の容赦のない言葉に、黄はまあなあ、と呟いた。男をつけてあの場にあらわれた青年に英が短剣を突きつけた、そのせいで数日間目を光らせていた相手に監視していることを悟られてしまったのだ。宇麗にとっては腹立たしいことこのうえない。青年を捕えるのは何もあの場でなくともよかったのだ。もっと離れた場所まで青年を泳がせれば、男達に気付かれることはなかった。あの場で男達を監視していたのはほんの数人である。合図を聞いた宇麗達の到着があと少しでも遅ければ、男達には逃げられていたかもしれないのだ。
「まあ、半分は紺が悪いからね。その分は差し引いて雷を落としておいた」
「紺にはどう言ったんだ」
「自分で考えろと言ってある。無意識に男を翻弄するのはあの子の悪い癖だ。そろそろ自覚した方がいい」
そうか、と黄は言っただけだった。親のいない子供が多く集まるこの場所でも、紺の生い立ちは特殊だった。紺の扱いは全て宇麗に一任されているため、黄が口を出すことは殆どない。
黄は話の矛先を変える。
「あの青年はどうだった? 何者かわかったのか?」
「いや、まだ口を割らない。なかなか根性がありそうだ」
「褒めているように聞こえるぞ」
宇麗は鼻を鳴らす。
「肝は座っているな」
「どうやら宇麗の眼鏡にかなったらしいな。気に入ったんだろう」
「冗談はやめろ」
「すまん」
男はあっさりと謝る。宇麗は相手を腹立たしく睨みつけたが、小さく肩を竦めて視線を逸らした。黄はただ宇麗の気持ちを解そうとしているのだろう。こちらを見つめる瞳でそれがわかる。冗談めいた口調の中に、宇麗を気遣う気持ちが籠っている。そうさせるほどに深刻な表情をしていたのか、と宇麗は自嘲気味に思った。ここ数日、気が張っていたことも気付かれているに違いない。
時折、目の前の男よりも余程自分は器が小さいと実感する。今もそうだった。
宇麗は青年の面差を思い出す。実際、あの青年は肝が座っていると思う。どこか老成して大人びてもいる。まだ十代だろう青年が、容易く身につけられる雰囲気ではない。そうであるからこそ尚更に、単なる通りすがりだとは思えないのだ。だが、何も知らないと言った時のあの顔に、嘘があるとも思えない。しかも彼は宇麗の名を聞いても何ら反応を示さなかった。あるいは全てそう見せかけているだけか――
いずれにせよ、それはこれから明らかにすればいい。宇麗は思考を切り替える。
「ところで、あいつらはどうだ」
ここ数日、監視していた男達について尋ねると、黄は首を振った。
「こちらもだめだ。かなり痛めつけたが一言も喋らない。もしかして事情は何も知らされていない単なる下っ端かもしれない。何にせよ、一度媼に報告した方がいいと思う」
「それならばあたしも一緒に行くよ。経過をまだお知らせしていない」
宇麗はふと黙りこんだ。その様子に男は気遣う様子を見せた。
「なあ、あの青年……」
「駁だ」
「名乗ったのか?」
「いや、名乗らないからあたしが勝手につけた」
男は片眉を器用に上げてみせる。賢明にも何も言わなかったのは、長年の付き合いで宇麗の性格をよく知っているからだろう。何せ寝食をともにして育った仲である。互いのことはよくわかっている。
「その、なんだ……駁だがな、お前がやりたくないなら、俺が尋問するが」
「いや、いい。あいつはあたしがやるよ」
宇麗は男の言葉を断ち切る。だが男は構わずに言い募った。
「お前のことだから、そうそう相手を痛めつけることはできないだろう。お前は、なかなかわかりづらいし誤解されやすいが、根は優しいやつだからな」
「……何か言い方に含みを感じるぞ。言っておくが少しは痛めつけたさ」
「だが、それ以上は無理だろう。その点俺は割り切っている」
「何度も言わせるんじゃないよ。あたしがやる。汚れ仕事ばかりをお前に押し付けるわけにはいかない。それに……駁には暴力は効かない気がするんだよ。痛みに耐える精神力がありそうだ」
青年はかなりの武術の使い手に違いない。武術に秀でているからと言って精神的にも強靭であるとは限らないが、あの青年に関して言えば心身ともに鍛えられた者の強さがある。彼が纏う潔いまでに澄んだ気配に、宇麗はそう思う。
男は諦めたのか小さく溜息をついた。僅かに苦笑して宇麗を見やる。
「やはり気に入ったんじゃないのか?」
宇麗は考えるように眼差しを伏せると、言った。
「そうかもしれないね。あいつはあたしらの仲間にもっと痛手を負わすことも出来た。もしかすると殺すこともできたかもしれない。だがそれをしなかった。相当な腕前だったが、重傷を負わせないように手加減をしたんだ。お前も手当を受けた連中を見ただろう?」
「まあな。だからといって善良な人間とは限らないだろう。俺達は人間の汚い面をよく知ってる」
「ああ、あたしらは人間の汚い面をよく知っている。それを商売にすらしている。だからこそ、駁が汚い奴だとは思えない」
一言ずつ、噛みしめるように宇麗は言うと、黄を見た。男の瞳には夕暮れの色彩と、宇麗自身の顔が映り込んでいる。宇麗には、己がまるで炎の中に溺れているように見えた。
「とにかく、あいつはあたしが受け持つ」
「お前がそこまで言うなら任せる。なんと言っても、次期家長のお言葉には逆らえんのでね」
冗談めかした言い草に、宇麗は男を睨みつけた。だがその眼差しは柔らかい。年若く女だてらに皆の上に立つ彼女を、男は何くれとなく支えてくれる。彼が無言で背後を守っているからこそ、宇麗は真直ぐに立つことが出来る。思えば、幼い頃から変わらぬ二人の立ち位置だった。
「媼の後を継ぐのはあたしじゃなくてお前でもいいんだよ。わかっているだろう」
「俺はお前の後ろにいるぐらいが丁度いい」
どうだかな、と宇麗は呟くと口調を改めた。
「あたしは駁に手加減はしないよ。これはこの街だけじゃない、緩衝地帯全体に関わる問題だ。下手をしたら緩衝地帯が喰われちまう。あたしらは何としてもそれを阻止しないといけないんだ」
まるで己に言い聞かせているかのようなその声音に、黄は何も言わなかった。急速に宵の深みを増した光の中で、宇麗の姿は紫紺の影を纏っていた。
そうだ、と宇麗は思う。例えあの青年が悪人でなかろうとも、緩衝地帯を守るためならば手段を選んではいられない。何者か、必ず突き止める。それに加えて男達を捕えたことで、事態は大きく動いた。男達が下っ端であるとしても、相手の尻尾を掴んだことには変わりがない。それはすなわち、男達の背後にいる者に、彼らの動きを阻もうとしている、そのことを知らしめることでもあった。悠長にしてはいられないことを、彼女はよくわかっていた。
だが、その尻尾の先、いまだに姿の見えぬ相手がちっぽけな蜥蜴なのか、それとも巨大な毒蛇なのか、まだ宇麗にもわかっていなかった。
その日鍛練所を訪れた灰は、会議室の手前の廊下で冶都に捕まった。慌ただしく近付いて来た冶都は、挨拶もそこそこに灰に尋ねた。
「なあ、本当に今日透軌様が鍛錬所に来られるのか?」
「はい」
「そうか。会議が始まるまであと一刻程だよな」
冶都は不安そうな面持ちでどこか落ち着きがない。
「どうしたんですか?」
「お前、須樹と今日会ったか?」
「いえ、まだ今日は来てないみたいで……」
「やっぱり会ってないか」
冶都は灰の言葉を途中で遮ると、落ち着かない様子で廊下を行きつ戻りつする。
「須樹さんがどうかしたんですか?」
「ああ、いや、いいんだ。もしかしてもうすぐ来るかもしれないしな」
どうやらまだ来ぬ須樹のことを気にしているらしい。
透軌が、錬徒以上の者達で行われる会議のために鍛錬所を訪れるまで、さほど間はない。若衆頭として彼が鍛錬所を訪れるのは祭礼の時以外では初めてのことであり、異例の出来事にその日の鍛練は休みとなっていた。鍛練所にいるのは会議に参加する者だけである。
そういえば、と灰もまた辺りを見回す。透軌が鍛錬所を訪れるとあり、皆既に顔を揃えている。その中で須樹の姿だけがまだ見えなかった。普段から何事につけ余裕をもって行動する須樹のこと、まだ鍛練所を訪れていないのは彼にしては珍しいことに思えた。
「何を騒いでいる」
涼しい声音に振り替えると、仁識が立っていた。
「仁識、お前須樹を見てないか?」
「いや、私は会っていない。まだ来ていないみたいだな。何か用事でもあるのか?」
「用事ってわけじゃないんだが……」
「何だ、はっきりしろ」
「……何と言えばいいか……」
冶都は言い淀み、周囲を気にする素振りを見せた。まだ時間はあるものの、会議が行われる部屋の前には、すでに錬徒が集まっている。三人は彼らから離れて廊下の突き当たりに行った。
「須樹に何かあったのか?」
仁識が静かに問う。
「いや、俺もよくわからないんだ」
「何だ、それは」
途端に呆れた表情になる仁識だったが、なおも不安そうな冶都の様子に、言い聞かせるように言葉を継いだ。
「何が気になっている。何でもいいから言ってみろ」
「実はな、須樹が緩衝地帯から戻ってないんじゃないかと思うんだ」
「……端折りすぎだ。それでは何のことかわからんぞ」
「つまりだな、昨日須樹が緩衝地帯に用事があると言うから、俺のところで雇われてる運び役の馬車に乗っけてやったんだが、どうやら昨日のうちに多加羅に戻らなかったみたいなんだ」
「確かめたのか?」
「昨日、気になって宵の刻あたりにあいつの家に行ったんだ。そしたらまだ帰ってないと言われた。時間に余裕があれば近くの村の親戚の家に寄ると須樹が言っていたとかで、引き留められて明日帰ることにしたんじゃないかと御両親は考えていた。時々あることらしい」
「じゃあ、そうなんだろう」
「須樹だぞ? 今日若衆頭も交えての大切な会議があるのに、昨日のうちに帰らないなんてことがあるか?」
「あるかもしれないだろう。昨日の夜に戻ったのかもしれんし、仮にそうでなくても朝早くに緩衝地帯を出れば、会議には間に合う」
冶都は仁識のにべもない返答に、灰の方へと縋るような視線を向けた。灰は何と答えたものかと困惑しながらも、冶都に問うた。
「何故、家まで行って確かめようと思ったんですか?」
わざわざ確かめるほどに気になったのは何故か、その問いに冶都は答えた。
「あいつを馬車に乗せて行った運び役が言うには、緩衝地帯の街で須樹を下ろす時に、十五の刻にその場所にいれば多加羅までまた乗せると伝えたらしいんだ。須樹はそれに『ありがとうございます』と言っていたらしい」
「だから、それが何だと言うんだ」
「須樹はお節介焼きで人一倍他人を気遣う奴だろう? もしも帰りに馬車に乗るつもりがなければ、はっきりそう言ったと思うんだ。曖昧なことを言って相手に気を使わせないために、乗らないなら乗らないと言ったと思わないか?」
灰と仁識は思わず顔を見合わせた。常に自らのことよりも他人を気に掛ける須樹の性格を考えれば、それはもっともにも思えた。
「ありがとうと言ったのは、馬車に乗るつもりだったと……?」
「ああ、俺はそう思った。だから帰ってきた運び役の話を聞いて、須樹が帰りに馬車に乗らなかったというのが気になったんだ。で、一応家まで確かめに行った」
「御両親が言うように親戚に引き留められたのかもしれないだろう」
「そうだといいが、須樹は今日まだ来ていない。もしかして緩衝地帯から戻っていないのかもしれない。心配なんだよ」
仁識がふと溜息をついた。須樹と冶都は幼馴染のような間柄である。須樹が人並み外れて落ち着いているのは、良くも悪くも感情と行動が直結している冶都を抑えてきたせいだろう、と仁識などは思っている。阿吽の呼吸とでも言うような、他人には割り込めぬ親密さがあるのだ。だが、これはいくら何でも冶都の気にし過ぎに思えた。
「いいか、須樹は子供じゃない。緩衝地帯から昨日戻らなかったからと言って、どうしてお前がそんなに気にするんだ?」
「緩衝地帯によく出入りしている家人が言うには、今の緩衝地帯は何かと物騒らしいんだ。もしかして厄介事にでも巻き込まれたのかもしれない」
冶都は、真実心の底から心配しているのだろう。強張った表情で言い募った。
「お前ならあり得るが、須樹がそういう下手を踏むとは思えない。例え巻き込まれたとしてもあいつは仮にも若衆の副頭だ。うまく切り抜けるだろう」
理路整然と言った仁識の横で、灰はふと眉根を寄せた。仁識の言うことの方がもっともなのだが、ちりちりと焙られるような嫌な予感を覚えていた。
「須樹さんは緩衝地帯のどの街に行ったんですか?」
灰の問いに、冶都は振り返った。
「笠盛だ」
緩衝地帯の中でも最も商業が盛んな規模の大きい街である。
「とにかく、会議まで間もない。もうすぐ来るだろう」
仁識の言葉に、冶都は不承不承といった様子で頷いた。あと半刻程で会議が始まる。会議室には大方の錬徒が入っている。扉をくぐる設啓の姿もあった。会議室では多くの者が既に席についていた。細長い机の周り、若衆頭が座る中央の上座と、その左右に二人ずつ副頭が座り、そして錬徒達が下座に連なる。
若衆頭――将来の惣領家を担う者の訪れに、部屋に集う若者達の顔には緊張が漲っていた。なお硬い表情のまま冶都は灰達と別れ、下座に向かった。仁識は設啓の隣りに、灰はその向かいに座る。
冶都がちらちらと入口に目をやっているのを見ながら、灰は得体の知れない感覚に戸惑いを覚えていた。部屋に籠る張り詰めた空気に引きずられているのかとも思う。だが、それとも微妙に違う。不安は焦燥を伴っていた。何か大事なことを見落としているような、もどかしさがあった。
不安な心地に誘われるように、普段は閉じている感覚が広がる。灰は目を閉じて深く息を吸った。風に翻弄される枯葉一枚、それすらも感じ取る精妙な意識の網がゆっくりと縮まる。再び閉ざされる寸前に、遠く轍の響きを感じた。馬車は鍛練所へと向かっている。透軌だ。残る空席は若衆頭ともう一人だけだ。
四半刻の後、透軌が鍛練所に到着し、緩衝地帯で現在起こっている出来事――多加羅若衆を名乗る者達の狼藉について如何に対処すべきか、それを話し合う異例の会議が行われた。
だが、その場に須樹の姿はなかった。刻限を過ぎても、彼はあらわれなかった。