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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 白沙那はくさな帝国の東の果ては、国境地帯に接する多加羅たからであると一般的には思われているが、地図上で見れば梓魏しぎが最も東に位置することがわかる。多加羅所領よりもさらに北東部へ広がり、帝国と東方とを隔てる峻嶮な山脈に抱かれる地が梓魏所領である。純粋に面積だけで言えば、周囲の多加羅や沙羅久しゃらくよりも広い。だが、梓魏はその三分の一が森林地帯と山岳地帯であるため、実質人が生活を営む土地は周囲の二所領よりも少ないと言えるだろう。

 そして梓魏の大きな特徴の一つに寒冷の地であることが挙げられる。南西部はさほどでもないが、北東に行くほどに冬が長い。森林が大半を占め、あるいは痩せた土壌の平原が広がるその地方は農耕には適さず、秋の終わりから春にかけて深く雪に閉ざされる。人が住むには厳しい気候の土地だった。

 北限の民が住むのはその最北東部である。嘗ては今の多加羅と沙羅久に接する土地を広く支配していた彼らではあるが、白沙那帝国の台頭の後は北東部に追いやられ、一郷氏となっている。彼らの中には狩猟を中心に生活を営み、獲物を追って季節毎に土地を移り定住しない者も多い。定住する者も、豊かさとは無縁の者が殆どだった。気候の厳しさはそのまま生活に直結し、人々の人生は自然の摂理に組み込まれていた。

 もっとも、そのような実情を知る梓魏領民はさほど多くはない。よろずは目の前に集う若者達を見ながらそう思う。北東の地の厳しさは、そこに住む者にしかわからぬ。人の出入りが少なく、交易も盛んではないためそれも致し方ないのだろうが、何よりも北限の民がその地でどのように生きているかなど、梓魏領民は気にかけぬものだ。彼らにとって北限の民は郷氏として所領の一角に生きることを許された者、自らの歴史の底に沈めた異端でしかない。そして貧しい土地に生きる北限の民は、一部を除き梓魏領民と接触を持つことは殆どなかった。

 柔らかな日差しが心地よかった。このような陽光もまた、今の季節、彼の地では滅多に拝めないだろう。すでに雪に閉ざされているであろう故郷を万はぼんやりと思う。

 万がいるのは梓魏惣領家の屋敷に程近い、軍の統括本部である。街の中心部にあるその堅牢な建物は実質梓魏軍の中心だった。下級兵士の宿舎や訓練場は街の外れにあるため、普段は若い兵士が出入りすることはさほどない。だが、今は十代後半から二十代の若者達で統括本部の中広場は埋まっていた。六十人程はいようか。冬日の澄んだ冷たさも熱気に呑まれていた。

 所在無げに立ち尽くしている者、仲間同士で訪れたのか声高に喋る者、あるいはただぼんやりと待ち時間を持て余している者、だがそのどれにも共通しているのは微かな不安と、未知の領域への期待、そしてこれから自らが選ぶ道への幼くも潔癖な自負だろうか。その中で万は腕を組んでさりげなく周囲を観察していた。

「なあ、あんたはなんで軍に入ろうと思ったんだ」

 背後から突然話しかけられ、万は内心の思いが顔に出ないように気をつけながら振り返った。彼に話しかけてきたのは中肉中背、丸顔のこれといって特徴のない男だった。僅かに汗をかいているのは広場の熱気に当てられたというよりも、単に緊張しているせいのように思える。

 ……特徴はある、と即座に万は己の考えを改める。

(最年長だな)

 新たに軍への入隊を希望して集う若者達の中で、おそらく己が最も年長なのではないかと思っていた万である。だが、目の前の男は三十を超えているだろう。

「何か梓魏に役立つことをしたいと思いまして」

 万は答える。二十代後半の男にしては言うことが青臭いか、いや、これくらいならば許容範囲内だろう。加えてこの場では実直で信頼のおける男として振る舞うのが最善である。皮肉や揶揄は、万がこれから演じる人柄にはそぐわない。

「みんな俺達よりも年下だよな。俺なんか肉切り包丁以外の刃物を持ったことがない。あの連中は武術をしたことがあるのかな」

 おやおや、俺達ときたか――万はにこりと笑む。

「さあ、わかりませんけど、剣を持ったことのある者は少ないんじゃないですか? 他の所領とは違って梓魏には剣術や体術の道場はあまりありませんし」

「他の所領って……あんた知っているのかい?」

「まあ、十年程あちこちうろついてましたから」

「そうなのか? 俺なんて梓魏から出たこともないよ。せいぜい隣り街に行くくらいだ」

 男の顔が僅かに歪む。そこにあるのは落胆と、もしかすると裏切られたとでも言いたげな押し付けがましい憤りだろうか。

(悪いね、同類じゃなくて)

 口には別の言葉を出す。

「昔は旅に憧れて色んな場所に行ったんですけどね、結局故郷が一番だと思ったんですよ。若気の至りだったと思います。外に出ると梓魏の良さがわかりました。両親はもういないけど、この街には幸い叔父貴がいましたから頼って来たんですよ。でも職がなかなかなくて、今回の募集は願ったりかなったりです」

「そうか。やはり梓魏が一番だよな。常々そう思うよ。俺は小さな商店をやってたんだがどうにも立ち行かなくてな、女房はせっつくし、子供はまだ小さいし、おまけに四人もいる。食い扶ちを稼がないとだめだからなあ。兵士の給金は少ないが、無いよりはましだ」

 男が言いながら笑顔になる。聊か卑屈なそれに、万も曖昧な笑みを返した。

(職にあぶれた者同士、仲良くしましょう……か)

 希望と熱意に燃える若者達の中で、場違いな居心地の悪さを感じているのだろう。万は相手の重そうな体つきを見やる。今から武術を身につけるには苦労するだろうと僅かに同情を覚えた。支え合い慰め合う仲間が欲しいのであれば、彼は明らかに人選を誤っている。

「注目!」

 広場に声が響いた。若者達がぴたりと押し黙る。静寂の中、統括本部の建物から数人の武官が歩み出して来た。中央にいる中年の男は、衣の色彩からさほど高位ではないとわかる。だが軍人特有の威圧的な雰囲気を十分に醸し出していた。

「ここに集う者達は、自ら志願して梓魏軍への入隊を希望している。我々は君達を歓迎しよう。だが、軍隊は甘い場所ではない。己の全てを捧げる覚悟の無い者は早々に立ち去ってもらいたい」

 武官は一旦言葉を区切ると、その効果を確かめるように広場をぐるりと見回した。

「立ち去る者はいないか。では、これから入隊の手続きに入る。順番に並び、質問に答えてもらう。手続きが済めば君達は梓魏軍の新兵だ。荷物を持ち直ちに訓練場へと向かいたまえ。話は以上だ」

 武官は言い終えると颯爽と身を翻し、建物の中へ消えた。残された数人の兵士が広場の奥に木の長机を並べ、そこに三人の男が座る。軍隊の中でも事務仕事を行う軍処方ぐんしょかたの者達――軍吏ぐんりという――なのだろう。入隊希望者一人一人について記すのか、紙を傍らに積み、筆を握ると顔を上げた。

「では順番に並びなさい」

 若者達は顔を見合わせると恐る恐ると言った体で、三列に整列する。万が真中の列に並ぶと、元商店主の男が慌てて後に続いた。

 列の前方から、若者の緊張した声が聞こえる。質問されるのは名前と年齢、出身とそれまでの職業、そして武術を修めた経験の有無くらいのものである。ここに集う殆どが、梓魏惣領家のあるこの街か、あるいは周辺の街や農村部の出身であり、特筆すべき経歴を持つ者もいないため、手続きはさほど時間のかかるものではなかった。

 万の番となり進み出ると、前の若者の記録を書きつけた紙を脇に押しやった軍吏が顔を上げた。義務的に万の顔を見やり、すぐに白い紙に視線を落とした。

「名前は」

「万です」

「年齢」

「二十八です」

 ふむ、と軍吏は唸る。筆がすべらかに紙の上を走る。

「出身」

「この街です」

「前職は何だ」

「職に就いていたと言えるかどうかはわかりませんが、十年程、移動商人や各地を巡回する卸屋おろしやについて帝国全土を巡っていました」

 軍吏が顔を上げる。これは義務的ではない。その反応に万は内心でにんまりとした。

「十年とは長いな。何故、梓魏軍に志願した」

「帝国各地を巡って得たものは数多くありますが、その中で最も大きいのは望郷の念と、何か意義あることに人生を捧げたいという思いでした。私にとってそれは故郷である梓魏に戻り、梓魏のために生きる、ということです」

「なるほど。武術の経験はあるか?」

「あります。移動商人や卸屋は盗賊から身を守るため護衛を雇っています。私はともに旅する間に彼らから剣術や体術を教わりました」

「実際にそれらの技術で戦った経験はあるのか?」

「五回程、襲ってきた盗賊と戦ったことがあります。いずれも撃退することができました」

 万は淀みなく答える。盗賊と剣を交えた実際の回数など最早覚えてもいない。無論、盗賊の相手をするのが最も危険な出来事だったわけでもない。

 言っていることは虚実相半ばというところだ。出自や叔父云々の話は作り事であり、人柄さえも虚偽ではあるが、全てを嘘で塗り固める必要はないのだ。むしろ己の基盤に繋がる要素がある方が望ましい。梓魏領民の万という存在は、彼自身から派生してこそ、その信憑性が高まる。

 十年間――はじめの三年程はあてもなく各地を旅し、その後に万屋よろずやとして帝国各地を巡った。商人や卸屋とともに行動したことがあるのも嘘ではない。ただし、彼自身が護衛として雇われていた、ということではあるが。

 尤も護衛という名称は些か上品に過ぎる。そのようなことを請け負うのは軍人崩れや傭兵崩れなどのごろつきが多い。用心棒という表現の方がしっくりくるが、敢えて護衛という言葉を選んだのである。梓魏の人々は良くも悪くも外の世界を知らない。それは梓魏軍の軍人とて同じことである。

「少し待て」

 軍吏は言うと、統括本部の建物の中へと入って行った。それを見やり、万は緊張の面持ちを装う。

「武術を教わっただなんて一言も言わなかったじゃないか」

 背後から恨みがまし気な声が聞こえる。

(ああ。聞かれなかったんでね)

 万は内心の思いなど些かも気取らせず、元商店主を振り返ると詫びるような笑みを浮かべた。元商店主は何事かをもごもごと呟き、不安そうな瞳で辺りを見回す。漸く己の人選の誤りに気付いたのだろう。最早万に話しかけようとはしなかった。もっとも、同類がいなければ己の立ち位置も定まらぬような人間であれば、この職業もそう長く続けることはできないだろう。軍隊は確かに甘くはない。それが例え帝国の辺境、安穏とした梓魏であろうともだ。

 漸く戻ってきた軍吏は、手に一枚の紙を持っていた。それを万に差し出す。

「訓練場で提示したまえ。君の経験を鑑みれば、新兵課程からはじめるのは相応しくない。まずはどれほどの武術を身につけているか確かめさせてもらうことになるが、正規の兵士として軍務につきたまえ」

 新兵ははじめから正規の兵士となるわけではない。まず半年程かけて基本的な武術や軍の規範を叩きこまれ、適性の無い者はそこでふるい落とされる。残った者だけが正規の兵士となるのだ。それらの課程を免除するという軍吏の言葉だった。

「では行きたまえ。次の者、前へ」

 万は喜びと誇らしさに顔を輝かせて――本当にそのように見えているか否かは鏡がないので確かめようもないが――頭を下げる。進み出る元商店主とすれ違いざま、小さく目礼して広場を後にした。縋るような相手の視線には気付かぬふりをしておく。

 街の外にある訓練場まで向かいながら、万は現時点での状況を見直す。概ね順調と言えるだろう。狙い通り、万の経歴を印象付けることもできた。新兵課程を免除するという異例の扱いがその証拠だ。ただ武術の経験があるだけではこのようにはいかぬ。全て清夜すがやの思惑通りに進んでいる。あとは、ただ待てばいい、という兄の言葉を信じるだけだ。やがて時が来るまでは――

 万は背後を振り返った。発作的な行動だった。静かに佇む惣領家の屋敷が、伸びる街路の先にあった。それを束の間見つめ、次の瞬間わき起こったのは後悔の念だった。万は灰色の敷石に眼差しを落とすと、屋敷に背を向けた。歩調を速める。

「この大馬鹿野郎」

 小声で己に毒づく。振り返るべきではなかったのだ。どのような気持ちになるかはわかっていたはずだ。統括本部に赴く道すがらも決して見ようとはしなかったのだ。

 廃墟になっているとでも思ったか? 腹立たしく己に問いかける。何を期待していた? 何もかもが様変わりしていれば――そうであれば安心できたのか?

(いや、違う。何もかもが変わっているのだ。同じである筈がない)

 十年前の記憶のままに、屋敷は端然と在った。だが、何一つ変わらないように見えながら、それは全く違うものなのだ、と万は思う。十年の隔たりに築かれたものが確かに在るに違いなく、彼の目にはまだその姿が見えない。ただ、それだけだ。

 そして思いを馳せたのは一人の面影だった。嘗ては鈴のように軽やかな笑い声をあげる少女だった。風に溶けそうな華奢な姿だった。椎良しいら――十年間、極力思い出さぬようにしていた相手は、今二十六歳になっている筈だ。彼女は、変わっただろうか。最後に椎良がどのような顔を己に向けていたのか、万は覚えていなかった。

 やがて時が来れば自ずとわかる。いやでも向き合うことになる。再会の時は必ず来るのだ。

 万は皮肉な笑みに口元を歪めた。再会とは、我ながら甘い感傷だと思う。光を失った彼女には、万の姿とて見えはしない。そして飛雪ひせつという男は、椎良にとって汚らわしい暗殺者でしかない。

 今は見も知らぬ他人同士、己の存在を彼女に告げる必要すらない。ただ彼女の命を守れば良いのだ。

(尻尾を出さぬよう気をつけろよ、万屋。これは危険な仕事だ)

 味方はいない。下手をすれば、己の迂闊さが敵となる。そして無意味な感傷は自らを危険に晒す要因になりかねない。

 万は再び視線を上げると、迷いのない足取りで街の外を目指した。

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