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最果てに天深く  作者: 高原 景
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「この前は中途半端になってしまったが、今回のことをどんな風に考えているんだ?」

 須樹すぎかいに尋ねたのは、昨日のことだった。緩衝地帯で起こっている一連の出来事にどう対処するか、それを話し合うための会議の日程を伝えた灰に対しての問いである。広場で繰り広げられる若者達の鍛練を眺めながらの会話だった。

仁識にしきもこの一件は見た目ほど単純なことではないかもしれないと言っていた」

「それならば、確かにそうかもしれませんね」

「だが、仁識もそれ以上のことはわからないようだったぞ。お前は何か考えているんだろう?」

「考え、というほどのことではないんですが……」

 灰は僅かに苦笑する。

「ただ、違和感があるんです」

「違和感?」

「はい。今回の出来事は一見すると正体のわからない若者達が狼藉を働き、それが多加羅たから若衆の仕業であると考えられている、ただそれだけのことに思えます」

「実際その通りだと思うが?」

「ですが、狼藉を働いた若者達は誰一人として若衆を名乗っていません。そもそも若衆の仕業であるという噂が広まること自体が不自然だと思いませんか?」

「噂っていうのはそういうものじゃないのか? 誰かがふとした拍子に言ったことがいつの間にか広まるのはよくあることだ」

「そうかもしれません。ですが、若者達の狼藉と若衆の噂、この二つが全く別のものだったとしたらどうでしょう。俺はこの二つがもともとは別個の事象だったのではないかと考えています」

 言いながら須樹の方を振り返った灰の顔に西日が射していた。夕暮れの頃合いだった。

「多加羅若衆の狼藉という、それ自体がそもそもまやかしなのです。確かに緩衝地帯では若者達の狼藉が頻発していました。ですが、実際に被害にあったどの村でも、村人達は誰も彼ら自身で若衆と名乗ったとは言っていません。それは噂が広まった後でも同じです。須樹さんの報告の中に、村人が多加羅若衆なのか問いただした時にも若者達は答えなかったというものがありましたが、一貫して若者達は多加羅若衆だとは口にしていません。そうであれば、多加羅若衆の仕業であると噂が広まること自体がおかしい」

 淀みのない口調は、灰自身がこの一件を少なからず吟味していたことを窺わせる。迷いのないものだった。

「では、何故多加羅若衆の仕業であると考えられているのか。もしかすると村で実際に起こった狼藉ではなく、街で何時の間にか流布していた噂のせいでそう思われているのかもしれません」

「どういうことだ……?」

「そもそも村での狼藉は悪質ではあっても、人の命に関わるほどのものではありません。若者達が名乗らなかったせいもあるでしょうが、収穫期を間近に控えた閉鎖的な村から近隣の街に噂が届くのもさほど素早いものではなかったでしょう。一方街で広まった噂は、内容だけを見れば盗賊まがいの命にも関わる出来事です。ですがこの噂もさほど伝播しなかった。なぜなら、街では実際に若者の狼藉は起こらなかったからです。どれ程に人の関心をひく噂であれ、明らかに現実味がなければさほど広まらないものです。村での実際の出来事であれ、街での噂であれ、それぞれ一つであれば対処もさほど難しいことではありません。おそらく時が経てば立ち消えになるだろうことだったのでしょう」

 ですが、と続ける声音は僅かに低い。

「この別個の二つが結び付けばどうでしょうか。そもそも別であったはずの二つ、狼藉と噂が同一のものだと人が信じるのはあまりに容易いように思えます。それまでの怒りや鬱憤が溜まっているだけに、急速に若衆の狼藉であると広まったのではないでしょうか」

 漸く須樹にも灰の言わんとすることが理解できた。自然と顔が強張っていた。

「では、全く別の二つが偶然に結びついて今回のような状況になったと思っているのか?」

「いえ、偶然に結びついたと考えるにはあまりにも状況は悪くなり過ぎています」

「つまり、恣意的に作られた状況であると? 意図的に狼藉と噂が結び付けられた、ということか?」

「はい」

 静かな確信を込めて灰は頷く。

「収穫を終えた村人達はおそらく農作物を売るために街を訪れるでしょう。そこではじめて街に蔓延している多加羅若衆の噂を知る。一方街衆はそれまで何の根拠もなく広まっていた噂に酷似した出来事が、実際に村で起こっていたのだと、その時点で知ることになるでしょう。村人達の怒りは明確に方向性が定まり、街衆にとっても噂は広めるだけの価値がある真実に変わる。言ってみれば、時間をかけてゆっくりと堆積した土砂が、大水によって一気に流れ出すようなものです。気付いて止めようと思っても止められるものではない……」

「なるほど。そして多加羅へと伝わる頃には、最早その二つを分かつことなどできず、そして手を打とうにも遅過ぎる状態になっている、というわけか」

「はい。若衆が対するのは、狼藉を働く正体が分からぬ若者達でも事実無根の噂でもない、多加羅若衆が狼藉を実際に働いたのだという、人々が信じる真実そのものになってしまいます」

 何故、多加羅若衆が悪し様に罵られるまで事態が悪化したのか、何故そうなる前に把握することができなかったのか――それも灰の言葉の通りであれば明解である。唐突にも思える若衆の悪評は、しかし時をかけてゆっくりと、人々に浸透した不信感や怒り、そして恐れが根底にあるのだ。そして一方では、噂がまるで地中を這う根のように張り巡らされ、人々は気付かぬうちにそれに絡め取られていたのだろう。二つが結び付いた時に溢れ出したもの、それはまさに濁流である。真偽の程など関係なく、人の心を一気に呑み込む。今更に若衆の潔白を唱えたところで、人々がそれを信じるとは思えなかった。

 全てが謀られていたのであれば、多加羅に一連の出来事が伝わる時期や、容易に動けぬ若衆の立場さえも計算の内だったのか。須樹はそう思い、慄然とする。思わず見やった灰の顔もまた厳しい。

 ――尋常ではない。

 だが、何のために――現実に起こった狼藉と街に広まった偽りの噂、この二つを同時に起こし、時間をかけて人々に浸透させた者達がいるのだと灰は言う。そして今の状況がまさにその何者かによって作り出されたもの、目的であり結果――あるいはさらなる謀への始まりであるならば、その狙いは何なのか。

「多加羅若衆の名を貶めるためとしか思えぬな。うまい手だ」

 須樹は苦々しく言った。そして全てが計算のうえに行われたのであれば、悪辣なまでに巧妙であり、驚くほどに大胆な所業である。灰もまた頷く。

「どれほどの噂が立とうとも、今多加羅若衆が実際に狼藉を行っている若者達を捕えれば、潔白を証明することができるかもしれません。ですが、おそらくすでにその段階は過ぎています。狼藉を働く若者を捜したところで、彼らはとっくに姿を消しているのだと思います」

「なぜそう思うんだ?」

「狼藉が起こった当初であれば村人達は無防備だったでしょう。ですが今では皆が警戒しています。警吏けいりが目を光らせている中で、今なお狼藉を働く者が捕まらないのはあまりに不自然です。すでに狼藉自体は起こっていないのだと思います。それにも関わらず噂だけはいまだに広がっている。それも益々ひどいものとなっています」

 取り返しがつかぬ程に――

「杞憂であれば、と思います。ですが、偶然や一過性の出来事と考えるには、奇異な点が多すぎます」

 偶然とも思える一連の出来事が、あまりにも明確に一つの方向に流れているとしか思えぬのだ。

「それが真実だとしても、どうすればいいんだ。一体誰が何のためにこんなことを仕組んだ? 何もかも手遅れなのか?」

「打つ手はあります」

 きっぱりと灰が答えた。あまりにも迷いの無い声音に、須樹は思わず灰の顔をまじまじと見つめた。

「若者達を追っても見つけ出すことはできないでしょう。ですが、街では今でも村で若衆の横暴があったという噂が広まっています。噂を広めている者がいまだにいる、ということです。その者を捕えれば、おのずと今回の出来事の背景がわかるはずです」

「なるほど……」

 須樹は半ば感心し、半ば呆れながら呟いていた。

 ――俺達が回り道をして散々迷った挙句に漸く辿り着く結論、下手するとどうやっても辿り着けない結論に、灰は一足飛びに辿り着くことがある。

 それは須樹自身が設啓せっけいに言った言葉である。そもそも、灰の視点は余人とは全く違うのかもしれぬ。同じものを見ていながら、灰の瞳を通した世界は己のそれとはかけ離れたものなのかもしれない。そのように須樹が思うのはこの時が初めてではなかった。

かしらにはその考えは伝えたのか?」

「いえ、ここまでのことは言っていません。須樹さん達が調べてきたその結果を伝えただけです」

「そうか」

 半ば顔を伏せていた灰がふと小さく息をついた。

「ですが、急いだ方がいいかもしれない。もしも俺が考えている通りだとすると……」

 呟くような声音に、張り詰めた響きがあった。須樹は思わず灰の横顔を見る。

「多加羅若衆の名を貶めることであれば、若衆頭である透軌とうき様の名を貶めることに繋がる」

 風が吹き過ぎる。まるで焦燥を煽るようにゆらりと灰の髪が揺れた。

「今回の一件、狙いはおそらく多加羅惣領家です」


 須樹ははっと我に返った。一瞬物思いに捕われていた。喧噪がどっと耳元に響く。

 手もとの杯はほとんど空になっていた。店主が自慢するだけあって円やかでありながら深みのある酒である。口当りはいいが、一杯飲んだだけでも僅かに酔いを感じる。昼日中なから口にするには些か強い酒である。

「亭主! 勘定だ!」

 叫んだのは入口に近い席、散々に多加羅若衆の狼藉について吹聴していた男だった。

「はいよ!」

 威勢良く店主が答える。須樹は僅かに残っていた酒を一気に干すと、杯を卓に置いた。

「御馳走様でした。とても美味しかったです」

「そうだろう? もう一杯いくかい?」

「いただきたいんですが、実はこの後親戚の家に行くんですよ。あまり酒の匂いをさせていては小言をくらってしまいます」

「ああ、そうかい。親父さんにもよろしく伝えておくれよ」

「はい。ありがとうございました」

 にこりと笑って須樹は一礼すると、そのままさりげなく店の外へ出た。眩しい日差しに手を翳し、行き交う人の間を縫って酒場の正面の路地へと向かう。家壁に背を預け、酒場を見つめる。暫く待つと勘定を済ませたらしい男が店から出てきた。如何にも酔いのまわった足取りで歩く男の後を追って、須樹はゆっくりと道に踏み出した。男の姿を見失わぬよう目を凝らす。

 やがて酒場から十分に離れると、途端に男の歩調が速まった。機敏な足取りで、人波を器用に縫って行く。須樹もまた足を速めた。酒場では酒瓶一つ抱え込んで泥酔している様だったが、どうやらそれは見せかけだったらしい。酔いなど微塵も感じさせぬ後ろ姿である。

 やがて男が脇道に曲がる。それまでの繁華な道とは違い、細く人影も少ない。須樹は先を行く男から十分な距離を保ち、歩を進めた。下手をすれば追っていることに気付かれる危険はあったが、ここで男を見逃すことはできなかった。灰の言っていたことが正しければ、目の前の男こそが、多加羅若衆を貶め、何事かを画策している者に違いないのだ。

 土が露出した地面は湿り気を帯び、足音を吸収する。身ごなし軽く歩く男に続きながら、須樹は注意深く己が進んで来た道筋を頭に入れていた。何度か訪れたことのある街とはいえ、このように奥まで入り込んだことはない。道は分岐し迷路のような様である。迷えば大通りに戻るのにも苦労しそうだった。

 いつの間にか周囲には須樹と男以外の人影が消えていた。家々の壁が張り出し道は見通しが悪いが、須樹にはむしろそれがありがたかった。男はまだ須樹に気付いた様子はない。やがて男が立ち止まった。須樹は咄嗟に壁の窪みに身を寄せる。辺りを窺うような間の後、抑えた声が聞こえた。

「俺だ」

 程なくして聞こえたのは扉が開く音だった。

 扉が閉ざされる音が響いてもなお、須樹は壁に身を潜めていた。辺りの静寂に男の気配がないことを確認してから、注意深く歩み出す。男が入って行ったのは何の変哲もない小さな家だった。扉は裏口として使われているものだろう。窓はなかった。

 暫くその場に佇み、辺りの光景を頭に入れてから須樹は踵を返した。彼一人では如何ともし難い。緩衝地帯で起こっていることを解決するためには、ここで下手を打つわけにはいかなかった。男にはどうやら仲間がいる。彼らを捕えるにせよ、十分に態勢を整える必要があった。

 元来た道を辿り、角を曲がろうとした須樹はぎくりと足を止めた。背後に人の気配があった。咄嗟に振り返ろうとした彼の首筋にひやりとした感触が走る。

「おっと、動くなよ」

 くぐもった声だった。須樹は思わず唇をかみしめる。気が急いていたにせよ、ここまで接近されるまで気配に気付かなかったとは――己の迂闊さに腹が立つ。答えぬ彼に、背後の男はなおも言った。

「お前、何者だ。答えなければ喉を掻き切る」

 首筋に添えられた刃の銀が、僅かな陽光を弾いて鮮やかに揺れていた。

 どこかで刻むように鋭く鳥の鳴く声が聞こえた。須樹は深く息をしながら、首にあてがわれた冷たい感触に意識を集中する。目を眇めて見やるそれはおそらく短剣、それも人を殺傷するためのものというよりも、細かな手作業を用途とする部類の大きさだ。

「お前は何者だ」

 再度かけられた声は密やかだった。まるで少しでも周囲に響くのを恐れるかのようである。まだ年若さを感じさせるそれに、後をつけた男とは別人だと須樹は考える。あの男の仲間か――だが、扉が開く音はしなかった。家の中から出て来たのであれば音でわかった筈だ。背後の相手が男の仲間であるとしても、家の中にいるであろう者達はまだ気付いていないのではないか。

 後をつけた男の身軽で素早い動きを須樹は思い出す。隙がなかった。容易ならざる相手であろうことは察しがついていた。気付かれる前に何としても逃れなければならない。

「力ずくで聞き出すか?」

 動揺を悟られぬよう、腹に力を込めて須樹は言った。言葉は、静寂にまるで嘲弄するような響きさえ残した。

「さっさと答えろよ。これが目に入らないってのか」

「そんな鈍らで首を掻き切れると思うのか? 手が震えているぞ」

「馬鹿にしてんのかよ。後悔することになるぞ」

 やはり若い、と須樹は思う。挑発に相手の声音が上擦っている。おそらく先程後をつけた男であれば、やすやすと挑発に乗るようなことはしないだろう。

「正面から向き合わないのは怖いからか? 意気地のないことだな」

「黙れ」

 またも鋭い鳥の声が響いた。縄張りを侵された時に発する警戒の囀りに似ている。

「こちらを向け」

 須樹はゆっくりと相手に向き直る。相手は須樹よりも身長が低い。思った通り顔立ちも若かった。二十歳にはなっていないだろう。言われた通りに動く須樹に、相手はにやりと笑んだ。

「ふん、意気地がないのはどっちだよ。減らず口をたたかずに命乞いの一つでも……」

 須樹は最後まで言わせなかった。左手で、己の首筋に短剣をあてがう相手の手を鋭く弾く。同時に右足を大きく踏み出して、その勢いのままに相手の鳩尾に己の肘を叩きこんだ。ぐう、と奇妙にくぐもった悲鳴をあげて相手が背後に倒れ込む。それを見やり須樹は踵を返した。

 角を曲がり大通りに向かって走り出そうとした須樹は、蹈鞴を踏む。前方から走り来る数人の姿があった。何れも迷いのない足取りで一筋の道の向こうから駆けて来る。男が三人だ。

 須樹の姿に男達が足を止める。対峙は一瞬だった。

「そいつ! 捕まえて!」

 高い声が周囲に響いた。先程倒した相手かと思い、即座に否、と考える。声は女性のものだ。どこから――? 

(上からだ!)

 男達の形相が変わる。

 須樹は迫る男達に背を向けると、駆け出した。再び角を曲がり、いまだに地面に倒れている若者の上を飛び越える。後をつけた男が姿を消した扉は閉ざされたまま、その前を駆け抜けようとした須樹の上に影が差した。咄嗟に上を振り仰ぎ、ぎょっとして須樹は飛び退った。そこに、鳥のように人が舞いおりた。

(な……!?)

 考える間もなく――人が鳥のように飛ぶわけもなし、扉と向かい合う家の、幾分高い位置にある窓から飛びおりただけなのだと須樹が理解したのは後のことである――目の前の相手が繰り出した拳を避ける。なおも殴りかかってくる相手は腕の振りが大きい。隙の多い動きだった。顔を狙った拳を身を屈めて掻い潜り、相手の背後に回ると振り向きざま背中に回し蹴りを放つ。容赦のないそれにつんのめった相手が、迫りつつあった三人の男にぶつかった。

 静寂が破れ、悲鳴と怒号が響いた。

 と、その時、縺れ合うようにして倒れ込んだ男達の向こうで扉が開いた。それに須樹は身を強張らせる。扉の向こうにいたのは、須樹が後をつけた痩せた男だった。男は目の前の惨状に目を見開くと、立ち尽くす須樹の方を見やった。どこか芝居めかして肩を竦め、男が言った。

「おいおい、若いの、喧嘩はよそでやってくれ」

 一瞬言葉に詰まり、内心の混乱を押し隠して須樹はぎこちなく笑んだ。

「ああ……」

 何とか言葉を絞り出す。思考が麻痺していた。だが、はっきりしていることは三つだ。まず、須樹を襲った者達は、酒場から後をつけた男の仲間ではない。次に、前者であれ後者であれ、どちらも今の須樹にとっては望ましからぬ相手であることは間違いない。そして目下のところ一番の問題は、大通りに出る道が彼らの向こうにあるということだった。

(どうする……)

 須樹は拳を握り締める。道に倒れ込んでいた男達が立ち上がっていた。だが奇妙なことに男達は須樹に向かってこなかった。須樹と扉を開けた男をちらちらと交互に見やっている。まるでどちらに手を出すべきか迷うように――

 張りつめた一瞬の後、先に反応したのは須樹ではなく、扉を押さえる男だった。笑みすら浮かべていた顔が一変する。鋭く舌打ちをすると音をたてて扉を閉めた。

「扉を破るんだよ! 捕まえな!」

 鋭い声が周囲に響いた。またも上からだ。だが、先程の声とは違う。

 男達が閉められたばかりの扉にかじりつく。扉の向こうで何事か叫ぶ声が聞こえる。鍵をかけたのか、開かぬ扉に大柄な一人が体ごとぶつかった。木の軋む音が響いた。

 須樹はじわりと背後に下がった。その目の前にまたも人がおりたった。女だ。背が高い。短く刈り上げた髪が、光のせいか紅に見えた。続いてさらに数人が道におりたつ。今まさに破られようとしている扉の、その向かいの家の窓からだった。

 さらに一歩、後ずさった須樹に、紅の髪の人影が振り返る。くっきりと吊りあがった眦だった。炯として鋭い瞳が須樹を見据えた。朱唇が薄く開く。

「あいつもだ」

 女の声が妙に甘やかに響く。次の瞬間、呪縛から解き放たれたように、須樹は身を翻すと一散に駆け出していた。

「逃がすんじゃないよ!」

 須樹の背を追うように声が響く。

 真直ぐに伸びる道を、須樹は全速力で駆けた。この先がどこに続くのかは分からない。だが元来た道を戻るのは論外だった。何者かは分からぬ。だが、人に短剣を突き付け、問答無用で襲いかかる輩が尋常でないことは明らかだ。酒場で多加羅若衆の噂を吹聴していたあの男の仲間ではない、あるいは敵対している者達だとしても、そのことが何らの保証にもならないのはわかっていた。

 今下手に緩衝地帯で若衆だと名乗れば、どんな目に合うかわからない――朝に聞いた言葉を思い出し、さらに足を速める。

 背後から迫る足音が、高く、低く、反響していた。

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