51
仁識は椅子から立ち上がると、それまで読んでいた書物をゆっくりと閉じた。柔らかな光沢の机には、数冊の書物が整然と積まれている。壁面に大きく設えられた窓からは、うっすらと霞むような光が差し込んでいた。僅かにその光に目を細めると、仁識は踵を返した。
彼の部屋は屋敷の中でも明るい角部屋である。だが、家を継ぐ者にのみ与えられるその部屋は、彼の記憶にある限り常にくすんだ錆青磁に沈んでいるように思えた。おそらくは彼が生まれるはるか昔から変わらぬ色調なのだろう。
仁識は外套を羽織ると廊下へと出た。石床から立ち上がる冷やかさに、足音が硬質に響く。屋敷はひっそりとした静寂に沈み、人の気配も希薄だった。父親はおそらく不在、母親は気に入りの侍女とともに自室に籠っているのだろう。親と何日も顔をあわせぬことも珍しくはないのだ。
仁識が博露院をやめたのは十四の時である。はじめは顔をあわせれば息子を叱責していた父親もやがて口を閉ざした。だが、それは決して息子を許したからではなかった。親としての情愛に欠けた家を継ぐ者に対する期待が、失望と頑迷なまでの拘泥に変わっただけであり、口を閉ざしたのは諦めたからではなく、己の意に沿わぬ者への冷淡な怒り故だった。父親と息子の不和に悩んだ母親が、家族に対して心を閉ざしたのはいつだったか、すでにその頃には取り返しようもなく家族の絆は――そのようなものがあったのならば、と仁識は思う――壊れていた。
誰にも顔を合わせぬまま屋敷の外へ出ようとした仁識は、しかし静かな声に引き留められる。
「仁識様、お出掛けでございますか?」
振り返れば、祖父の代から屋敷に仕える老いた家司がひっそりと立っていた。誰もが息を潜めるような屋敷の中、この家司ばかりが不出来な跡取りに対して変わらぬ態度を取り続けている。
「ああ、公歴書館へ行ってくる」
「お気をつけくださいませ」
家司は穏やかな声音で言うと丁寧に頭を下げた。それに頷くと、仁識は足早に屋敷を後にした。
公歴書館は街の西、博露院の近くにある。博露院の付属の施設であるそこには、学問書や歴史書が保管されている。もとは博露院の学徒しか立ち入ることができなかったが、一般の人々にも公開されるようになったのは峰瀬が惣領となってからだった。仁識は若衆が休みの日には公歴書館にふらりと立ち寄ることが多い。博露院をやめ、若衆に入った当初は、張り詰めた屋敷の雰囲気から逃れるためだったが、今では彼の密かな楽しみとなっていた。
須樹と設啓が緩衝地帯へと赴いたこの日、仁識は交替で取る休みに当たっていた。戻った二人の報告を聞くために鍛練所へと赴くことにはなっていたが、それも夕刻である。昼過ぎの一時を古書に囲まれて過ごすのも悪くなかろうと思う。
――それだけではあるまい。
己の思考に仁識は頭を振る。考えても栓の無いこと、期待するのは愚かしいことだ。だが、何故か確信にも近い予感があった。必ず会うことが叶うのだと。
公歴書館は飾り気の無い四角い建物である。その入口をくぐり、見なれた回廊を突っ切ると正面に広い書庫がある。書庫に踏み入れば、高い天井に程近い窓から射す光は弱く、所々に灯された硝子筒が柔らかな光を放っていた。人影はまばらである。仁識は読みかけの歴史書を選び出すと、書棚の間を抜け、奥へと向かった。ゆっくりと歩き慣れた経路を辿る。埃の匂いと等間隔に灯される明かりの温もり、そして静寂。そこは、時の流れから切り離されているかのように彼には感じられる。そして書庫の最奥、彼が進む先に人影があった。
実に一月ぶりに見るその姿に、仁識は知らず口元を綻ばせる。どうやら予感は違えなかったようだ。
壁に直接設えられた石の長椅子に一人の娘が腰かけ、手元の書物を読んでいた。極力足音を立てぬように気をつけたつもりだったが、相手は彼の気配に気付いていたらしい。声をかける前に、彼を振り返るとにこりと笑った。その拍子に柔らかな光をともして、長い髪が揺れた。
「見よ、天河の様を」
笑いを含んだ声で囁くのに、仁識は苦笑して答える。
「名にし負う彼の都とて滅びしが」
有名な一文である。
「素晴らしいのよ。今丁度老将軍が没するところなの」
言いながら、娘は手に持つ古書をなでた。
「あなたはもう読んだのね?」
「ああ、大分前に」
「じゃあ、内容は言ってはだめよ。もう少しで読み終わるの」
朗らかな声に頷き、仁識は距離を置いて娘の隣りに腰を下ろす。再び古書に目を落とした娘の横で、仁識もまた手に持つ歴史書を開いた。紙を捲る音が微かに響く。
心地よい静寂に身を浸しながら、いつしか仁識は娘の横顔を見つめていた。笑うと笑窪の浮かぶふっくらとした頬に、一房黒髪が垂れている。無意識だろうか、優しくその黒髪をかきあげる仕草が大人びて見えた。常に笑みを絶やさぬ瞳が、今はひたむきなまでの一途さで文字を追っている。
仁識が彼女と会ったのは二年程前のことだった。二人がいる場所は書庫の最も奥であるため、滅多に人は来ない。仁識がその場所で書物を読むようになったのは、博露院に通っている面々、特に仁識のことを知っている者達と顔を合わせるのを避けるためであった。彼らが仁識のことをどのように言っているかは容易に想像がつく。何を言われたところで気になるわけではなかったが、顔を合わせるのはやはり面倒だと思ったせいである。
いつからか、時折その場所で彼同様に書物を読む娘を見かけるようになった。はじめは言葉を交わすこともなかったが、ある時先にこの場所にいた彼女が、引き返そうとした彼に声をかけたのだ。
――あなたもこの場所が好きなのね?――
以来、会えば会話を交わすようになった。もっとも申し合わせるわけでもなく、会うのはいつも偶然である。長い時には三月程も姿を見ぬこともあった。公歴書館を訪れる女性は少ないわけではない。だが、その多くは博露院の学徒か、あるいは学問に携わる職の者が殆どであった。娘はそのいずれでもないことに仁識は気付いていた。
その出で立ちから、貴族の屋敷に仕える侍女とも思えた。そう考えれば、娘が何箇月も姿を見せぬのも理解できる。貴族の中には惣領から与えられ己が治める領地と、多加羅の街の屋敷とを数箇月おきに行き来する者が多い。娘が仕えるのはそのような貴族なのかもしれなかった。いずれにせよ、娘自身は仁識のいかにも貴族然とした姿に気後れするでもなかった。
おそらく十七、八だろうか、となおも彼は娘を見つめながら考える。出会った頃からさほど容貌は変わっていないように思う。流行りの衣を身に纏い凝った形に髪を結う年頃の娘達よりも幼く見えるのは、上質な布地ながらも質素な衣と、きっちりと一つに結わえた髪型のせいかもしれぬ。だが、時折伏せる瞳に、嘗ては気付かなかった艶やかな深みがあった。
心地良い静けさばかりが辺りを満たしていた。それに、仁識は引き込まれるような感覚を覚える。時の流れからも切り離され――それはまるで器にたゆたう水のように――今、この時だけがあった。
「私の顔に何かついている?」
突然かけられた声に、仁識ははっとする。気付けば、娘が彼の顔を見つめて微笑みを浮かべていた。
「いや、真剣に読んでいるものだと思っていただけだ」
「あなたも、読んでいる時はこれ以上ないほど真剣な顔をしているわよ。眉間に皺を寄せているの、気付いていないでしょ」
仁識は思わず苦笑する。
「見られていたとは気付かなかった」
「ええ、あなたは一度も気付かなかった」
「ならば、これからは気をつけよう」
「でも、きっとあなたは気付かないと思うわ」
娘は微かに笑んだ。
「そのようなことはない。気付くさ」
言った己の言葉に、仁識は何故かどきりとした。その一瞬の惑いから目を逸らすように、手元の書物に視線を落とす。再び娘が古書に集中するのが気配でわかる。だが、仁識はいかに集中しようとも一行も読み進めることができなかった。流麗な筆記の文字が、まるで意味をなさない象形の羅列のように見える。あるいはばらけて蠢く虫のように――
器の水が零れるように、静謐な時が破れる。己の呼吸が、鼓動の一つ一つが、いやに耳についた。
意味をなす言葉などどこにも見つけられぬまま、ざわざわと渦巻くように揺れる、それに不意に苛立ちを感じる。己への苛立ち――唐突に仁識は悟っていた。今、この時に、意味をなすのはただ一つだった。ただ一つのものだけだった。
問えば、娘は答えるだろうか。
――名を、教えてはくれまいか?
だが、問いはひりつくようなもどかしさだけを残して、言葉にならぬまま消えた。今更、問うてどうするというのか……仁識は苦く思う。見詰める先で、黒々とした文字が絡まる。
――名乗らずにおきましょうよ――
言ったのは娘だった。初めて会ってから半年ばかり経った時、春の日であったかと思う。記憶の中で、高い窓から吹き込む風の、その仄かな甘みは咲き誇る花々のものであったろうか。
名乗らずにいれば、身分もなく、家柄もなく、ただ偶然に出会った者同士、時を過ごすことがかなうのだとでも言うように――娘は仁識の出自を知っていたのかもしれぬ。あるいは、名を知ってしまえば現とも思えぬ泡沫の、静寂が壊れるとでも思ったのだろうか。仁識にはわからなかった。だが、頷いた彼に一瞬見せた娘の微笑みが、なぜか忘れることができなかった。
互いに名も、年も知らぬ。
彼自身、それまで不思議と名乗ろうとは考えなかった。偶然に出会っただけの相手である。何時しか言葉を交わすようになり、話せば娘の知性と豊かな感性に驚かされもした。娘の視線は、彼を知る者が向けるそれとは違い、ただ柔らかく穏やかだった。二人、誰も知らぬこの場所で、包まれる静けさが心地良いと感じるようになったのは何時からだったか、その時には、尚更にその静けさを破ることなど考えられなかった。
――名乗っておけば良かったのかもしれぬ――
先程まで感じていた満ち足りた静寂が、不意に重く息苦しく、感じられた。その静けさに包まれ、気付けばそれに捕われている――それを破ることもできず、手を伸ばすこともできず――気付くべきではなかった、と仁識は不意に思う。このような気持ちに、気付くべきではない。
名乗っていれば、今これほどに名を知りたいと思うこともなかっただろう。また、決して名を知ってはならぬと――知るべきではないのだと、気付かされることもなかっただろう。仁識は瞳を閉じた。手の中の書物のざらついた感触ばかりが鮮明に、傍らに座る娘の気配が、柔らかく遠かった。
(馬鹿なことを……このような気持ち、一時のまやかしのようなものだ)
もとより、偶然などという不確かな巡り合わせで出会った相手である。そして互いに、知ろうと思えば相手のことを知ることがかなうのにそれをせぬのは、所詮それだけの存在でしかないということだ。あるいは素性を知ってしまえば、互いの態度が変わるのかもしれず、そうであれば、今この時はまさにまやかしなのだ。自身に言い聞かせるように、仁識はそう考えていた。
仁識は頑なに己の心から目を逸らす。その横顔を見つめる娘の視線に、彼は気付かなかった。娘はそっと目を伏せると俯く。
ゆっくりと、しかし確実に、移ろう陽の影に時は削られていった。
須樹と設啓が緩衝地帯から多加羅へと戻ったのは夕刻だった。鍛練所ではすでにその日の鍛練は終わり、若者達が家路に着く頃合いである。馬を厩に戻し、二人はまっすぐに鍛練所の三階にある副頭に与えられた部屋へと向かった。須樹達は通り過ぎしなに頭を下げる若衆達に応えながら、足早に進んで行った。建物の中へと入れば人影は殆どない。訓練が終われば若者達は速やかに鍛練所を去る。南軍の下部組織である若衆では、厳しく公私が峻別されていた。
階段を昇り、二年前から閉ざされたきりの若衆頭の部屋の手前にあるのが目指す部屋だった。副頭に与えられる部屋は会議室といった様相であり、大きな卓の周りに椅子が数脚あるだけである。若衆頭と違い、副頭が部屋に籠ることは滅多にないため、個々人に一部屋が与えられるわけではなかった。
副頭はそれぞれ三人の錬徒の上に立つ。つまりは三範を与るということだが、剣の鍛練は勿論、錬徒の指導に対する監視、範の面々の上達具合まで把握する必要がある。なおかつ少年同士の諍いが起き、錬徒の手に負えなければ副頭が調停を図ることもあるのだ。そのため常に若衆の動きに目を配り、直に彼らと接することが求められる。副頭に必要とされる能力とは、単に武術の腕だけではない。血気盛んな年頃の若者達をまとめる統率力、公平な判断を下す的確な思考力までもが必要とされるのだ。
二人が扉を開けると、すでにそこには灰と仁識の姿があった。須樹と設啓は、二人と向かい合う位置に腰を下ろすと、早速に切り出した。
「思った以上にひどかった」
疲労と、おそらくそれだけではない、懸念に彩られた須樹の声音である。須樹にしては珍しい感情を滲ませてのそれに、仁識は僅かに眉を上げると静かに問う。
「噂の真偽は確かめられたのか?」
「村をまわって確かめたが、幾つかの噂は本当だ。村人達に因縁をつけて怪我をさせたというものが一番多かったな。あとは祭りのために設えた祭壇を壊したというもの……だが、倉庫に蓄えた食物を火で燃やしたというのは違った。実際は蓄えていたものを荒らして倉庫から放り出した程度らしい」
「あとは素奈の街というところでも話を聞いたが」
設啓が須樹の後を続ける。
「こちらは特に被害はなかった」
「だが、噂はこちらの方がひどいものだったぞ。多加羅若衆が倉庫を燃やしたというのはむしろ街で広まった噂のようだ」
「街ではその他にも噂があったのですか?」
灰の問いかけに須樹は頷いた。
「ああ。幾つかあった。耕作用の馬を盗んだだの、街道筋にたむろして旅人を脅し金を奪っただの、果ては村の娘を勾引かそうとした、などというものもあった」
声に怒りが籠る。そのどれもが多加羅若衆の仕業と思われているのだ。
「その素奈の街、というのはどれ程の規模の街なんですか?」
これには設啓が答えた。
「だいたい三百人程が住む街だ。周囲の農村と取引をしている商店が多い。さして大規模というわけではないが、あの辺りでは羽振りが良い方だろう」
「とにかく、聞く限りひどい噂ばかりだ。緩衝地帯の人達も多加羅若衆への印象がかなり悪くなっている」
須樹はそこで僅かに躊躇い、そして言った。
「おまけに若衆頭である透軌様のことまで引き合いに出して、身分をかさに着ての横暴とまで考えられているようだ。沙羅久と比較までされていたぞ」
「なるほど……」
仁識がぽつりと呟き、その隣りでは灰が考え込むように目を伏せた。
「それともう一つ、村で聞いた話だが、若衆の横暴に対抗するため評議会に出す意見をまとめているという人もいた」
沈黙が落ちる。評議会――その言葉故だった。
緩衝地帯の実質は自治に近いが、形式上は二惣領家の支配下にある。街や村の運営は、多加羅と沙羅久の双方に一年のうち数度報告され、二惣領家への納税も義務付けられている。そして報告をまとめ、徴収した税を均等に分けて二惣領家に納める任を負うのが評議会である。
「厄介だな」
仁識が言った。
評議会とは緩衝地帯の街や村の代表者が一堂に会する場であり、まさに緩衝地帯の公の顔ともなる存在だった。形式上のこととはいえ、評議会が出す報告や言上、あるいは請願といったものは、緩衝地帯の総意であるが故に大きな意味を持つ。緩衝地帯を間に挟んで睨み合いを続ける多加羅と沙羅久にとっては無視できぬものだった。
「頭の意見を仰いだ方がいいかもしれぬ」
「頭に相談するのか?」
仁識の言葉に続いて、ぼそりと言ったのは設啓だった。それに仁識は肩を竦める。
「一応は我らの頭、だからな。それに評議会の名が出る程に話が大きくなっているのであれば、この一件は若衆だけの手には負えぬ。若衆全体で意思統一を図るためにも、頭にご出席いただいて会議の場を設けるべきだ」
「錬徒にも知らせるか?」
これには仁識は僅かに沈黙した。だが、答えは明瞭だった。
「そうだな。知らせた方がいい。どうせなら頭との話し合いの場にも参加させよう」
「とにかく評議会にまで意見が出されては、ことは二惣領家にまで及ぶものとなってしまう。多加羅若衆の潔白を証明せねばならんが……どうすればよいのか。だいたい何故これほどまで深刻になる前に話が伝わらなかったんだ」
「手っ取り早いのは狼藉を働いている奴らを捜し出すことじゃないか? そうすれば噂が嘘っぱちだということがわかる」
設啓の言葉である。それに須樹が反論する。
「だが、緩衝地帯には手を出せん」
「手を拱いていては、さらに厄介な事態になるだけだ」
「それも含め、ここで話していても埒はあかぬ。頭とも話し合って、惣領にも御報告申し上げるべきだろうな」
あくまでも冷静な仁識の言葉だった。須樹は黙って遣り取りを聞いている――或いは己の思考に沈みこんでいるらしい灰に視線を向けると、問うた。
「灰、何か気になることがあるのか?」
灰が眼差しを上げる。その瞳が鋭さを帯びていた。
「須樹さん、村で狼藉を働いた者達は自分達を若衆だと、村人達に直接名乗ったのですか?」
「ああ……そう聞いているが……」
答えながら、須樹はふと眉を顰めた。記憶を探るように目を眇め、設啓を見やる。
「いや、違ったか? 村の人は直接聞いたとは言っていなかったな」
「そういえば、そうだな」
――若衆だと名乗ったという噂を聞いた――
一つ目の村の女性はこう言っていたのではなかったか。その後訪れた村でも、直接に若者達が若衆であると名乗ったと言った者は一人もいなかったことに気付く。
「五つ目の村では若者達の狼藉の場に居合わせた者の話を聞くことができたが、若者の一団に何者かを問い質したが、答えはなかったと言っていた」
「最近でも若者達の狼藉は続いているのですか?」
「いや、ひどかったのは二月から一月程前までで、それ以降、今日まわった村では被害は出ていない。だが、街の噂によれば最近でもどこぞで被害が出たらしい」
「街で若者の集団が狼藉を働いた、ということはなかったのですね?」
「ああ、今日行ったのは素奈というところだけだが、被害が出ているのは農村ばかりのようだな。他の街で実際の被害が出たという話はそういえば聞かなかった。……灰、それが重要なのか?」
須樹が尋ねれば、灰は僅かに迷う素振りを見せた。仁識も無言で灰の言葉を待つ。暫しの沈黙の後、何事かを言いかけた灰だったが、唐突に響いた扉を叩く音に口を閉ざした。
「何だ」
須樹の声に扉を開けたのは、若衆の一人である。
「どうした?」
まだ十五歳程だろうか、副頭四人の注目を集めて俄かに居住いを正すと、その視線が灰へと向けられた。
「灰様にお会いしたいという者が来ていまして……」
「灰様! 大変なんだ!」
若衆の言葉を遮って声が響く。若衆を押しのけて部屋に入って来た姿に灰が目を見開いた。声はまだ幾分幼い。彼を案内した若衆よりもおそらく年は下か、だが、それを感じさせぬ程に容貌は大人びて鋭かった。
「すぐ慈恵院に来てくれよ! 静星が!」
言いながら苦し気に顔を歪めた。駆けて来たのか、肩で大きく息をついている。灰が立ち上がり扉へと向かった。
「泉、何があった」
「よくわからない。でも急に胸を押さえて苦しそうにしだして、さっき俺が慈恵院を出た時には意識がなかった」
「わかった、すぐに行く」
答えた灰は素早く部屋の中を振り返る。
「慈恵院に行ってきます。先程の件、頭には話をしておきますので」
言うと、答えを待たずに少年、泉の後に続いて部屋を飛び出した。若衆の少年があたふたと礼をして扉を閉める。
「忙しいことだな」
取り残された体の三人の中で、最初に口を開いたのは設啓だった。
「今の子供……もしかして……」
思わず呟いた須樹に、仁識が目をやる。
「ああ、三年前のあの少年だな」
「そうか……あの時の……」
「とにかく、緩衝地帯の件は一度話し合ってから動いた方が良さそうだな。若様からの連絡を待とう」
「仁識、灰が何を気にしていたかわかるか?」
須樹の問いかけに仁識は僅かに首を傾げた。彼が考える時に見せる癖である。妙に邪気が無く見えるから曲者なのだが、灰同様、仁識もまた須樹にははかりようもない思考を巡らす人物である。仁識ならば灰が言いかけたことが何かわかるかと思ったのだが、彼はあっさりと首を振った。
「いや、わからぬ。もしかして今回の件、見かけとは違う裏があるのかもしれぬが、こればかりは若様の口から聞いた方が良さそうだな。どうせならば話し合いの場で言ってもらった方が手間も省ける」
あれだけの情報で、今回の一件の裏が読めるのだろうか――そもそも裏があるのか。だが須樹はただ頷くだけで何も言わなかった。言わぬ程度には、須樹は灰と仁識のことを知っていた。彼らが何かを感じたということは、ことはさほど単純ではないのかもしれぬ。
「これ以上話し合うこともないな。私は帰らせてもらう」
仁識は素早く外套を羽織ると言った。部屋を出て行くその背を見送り、須樹もまた席を立った。
「俺達も帰ろう」
その言葉に頷き去りかけた設啓が、ふと立ち止まると須樹を振り返った。
「いつもああなのか?」
「何がだ?」
「灰様さ」
須樹は僅かに苦笑する。思えば設啓と灰が会話を交わしている姿を見たことは殆どない。別の範だったせいもあり、二人はさほど互いのことは知らないのだろう。特に設啓にしてみれば、普段は物静かで穏やかな灰が先程見せた表情は初めて見たものに違いない。思考を巡らせている時の灰は、近寄り難いほどの雰囲気を醸し出す。先程もまたそうだったかと思い出していた。
「ああ、設啓はああいう灰を見たことはなかったか。俺達が回り道をして散々迷った挙句に漸く辿り着く結論、下手するとどうやっても辿り着けない結論に、灰は一足飛びに辿り着くことがある。あの思考には毎度驚かされる。仁識でさえも一目置いているくらいだからな。話し合いの場では面白いことが聞けるかもしれん」
「よくはわからんが、単なる惣領家のお飾りではない、ということか」
設啓の言葉に須樹は眼差しを険しくした。
「どういうことだ?」
「そういう見方もあるということだ」
「お前がそう思っている、ということか?」
「俺だけではない」
言って設啓は部屋を出て行った。取り残されて須樹は立ち尽くす。胸中に生じたのは、戸惑いだった。他ならぬ設啓の言葉故のそれである。設啓が副頭に選ばれたのは、それだけ彼が人望のある証であり、須樹自身も設啓の手腕や判断力には信頼を置いていた。その彼が、灰に対してあのような思いを抱いていたのか、と思う。
(安易だったか)
苦く考える。灰が副頭になったことは概ね皆に受け入れられていると思っていた。だが、それは楽観的に過ぎたのか。多くが灰を受け入れている。だが、それは灰自身の能力を認めた者ばかりではなかったのかもしれぬ。単なるお飾り、能力が無いにも関わらず惣領家の者であるが故の特別待遇と思う者も、思った以上にいるのかもしれぬ。それは悪意ではなくとも、常に灰に纏わりつく偏見のあらわれである。
三年――それだけの歳月を経ても、消えぬものがあるのだ。それに須樹はもどかしさを覚える。
そしてもどかしさの根底には、灰自身に対する思いもあった。皆が灰を見ぬだけではない。灰自身も己を皆には見せぬのだ。冶都などは灰のそのような態度を無欲と評したことがあるが、須樹にはそれだけとは思えなかった。驚く程に優れた能力、それを有しながら灰には欠けたものがある。しかしそれが何なのか、須樹にもしかとはわからなかった。
須樹は小さく頭を振ると、外套を羽織った。緩衝地帯で何が起こっているのかを突き止め、多加羅若衆の潔白を証明する。今はそれだけを考えるべきだろう。
明かりを灯していない部屋は何時しか薄暗く、窓から差し込む残照の角度が深まっていた。