50
鍛練所を出て、四人は二手に分かれた。平民である須樹と設啓は街を下り、灰と仁識は惣領家の屋敷がある方向へと向かう。仁識は多加羅でも歴史が古く名のある貴族の出自である。その屋敷もまた地位に相応しく惣領家の屋敷に程近い街の中心にあった。
灰と仁識は暫く無言で歩いていた。凛冽と澄んだ空気に、吐く息が白く溶ける。灰は緩やかにのぼる石畳の先、そこにある惣領家の屋敷を見やった。
「惣領のお加減はどうなのですか?」不意の問いかけに、灰は仁識を振り返った。
「二十日程前にお倒れになったと聞きました。一時は意識が戻らぬほどであったとか。今は大丈夫なのですか?」
「惣領にお会いしていないので、わかりません」
「そうですか」
公には伏せられていることである。多加羅惣領である峰瀬が突然倒れたのは、二十日前の夕刻であった。今の多加羅は峰瀬の人望と手腕で辛うじて威信を保っているが、その峰瀬が倒れたとあらば、何かと対立し多加羅を目の仇にしている沙羅久にとっては付け入る好機となりかねない。それ故に峰瀬の不調は厳しく秘されていた。仁識はおそらく多加羅の政治に深く関わっている父親から聞いたのだろう。
峰瀬が倒れたのは今回が初めてではなかった。すでに三回目になろうか。医術者が力を尽くしているが、誰の目にも峰瀬の体の不調は明らかなものとなっていた。医術者がその体に巣食う病魔を特定できずにいるのだ。そして、限られた一部の者だけが、峰瀬の命を削っているのが病ではないことを知っていた。
惣領家の屋敷へと向かう灰との別れ際に、仁識はひたりと視線を灰に据えて言った。
「惣領がお倒れになったことと、若様が五日程所用で遠出なされたこととは関係があるのですか?」
灰は無言で仁識と向かい合った。仁識の表情から、彼が真に問いたかったのが何であったか、灰は気付く。
「若様が突然に西に出立されたのは、惣領がお倒れになったその夜でしたね」
「よく、知っていますね」
灰は苦笑した。対する仁識は真剣な眼差しで言う。
「また、知らずともよいことだと仰られますか?」
「いえ……」
軽くかぶりを振り、灰は静かに言った。
「知ってどうするつもりですか?」
知ることで一体何ができるというのか――僅かに目を見開き絶句した仁識に背を向けて、灰は惣領家の屋敷へと向かう。知ったところで何もできはしない――灰の怪魅の力を知ってなお拒絶することなく彼を気遣う相手への、あまりに冷たい言葉であることはわかっていた。だが灰は、立ち尽くす仁識を振り返ることはしなかった。
惣領家の屋敷を守る衛兵が頭を下げる。その前を通り過ぎ、灰は屋敷へと踏み込んだ。廊下を進めば、すれ違う屋敷勤めの者達が道を譲り恭しく頭を下げる。
すでに屋敷の者は皆灰のことを見知っている。だからと言って好奇の視線がなくなるわけではなかった。伏せた眼差しの下、密やかに向けられるものであれば尚更に、それは不快なものとして感じられる。だが、三年も経てば、それらを意識から締め出す術も身につくものである。
灰は透軌が待つ書庫へと廊下を進んで行った。歩きながら、仁識の問いについて考える。灰が五日程西の地へと遠出したのは、確かに峰瀬が倒れた日の夜だった。表向きには薬師としての知識と技術を有する彼に、その地にある珍しい薬を手に入れるよう惣領から命じられたこととなっていた。だが、真実の目的がそうではないことに、おそらく仁識は気付いているのだろう。
三年前、灰は怪魅師としての力と、多加羅に巣食う闇との対峙を仁識に見られている。その後、灰は仁識に己に託された密命も、闇がどのようなものであるかということも明かしてはいなかった。仁識が灰に問うた事は一度ならずあるが、頑として答えぬ彼に、仁識も最近では問おうとはしていなかったのだが――これまで灰が多加羅の地を遠く離れたことは一度としてなかった。今回のようなことは、灰にとっても初めてのことだったのだ。
思うまま歩き、書庫に辿り着いた灰は、扉の前に佇む人影に足を止めた。屋敷のお仕着せを纏った下男である。彼は灰の姿を認めると、おどおどと言った。
「灰様、透軌様からの御伝言でございます。透軌様は今、惣領の御寝室におられます。灰様にもそちらにお越しいただくように、とのことでございます」
「わかりました」
言って踵を返した灰に、下男が慌てふためいて言った。
「あ……お待ちください。御案内申し上げます」
「場所は知っています」
「でも……」
「ありがとうございます。でも、一人で行けますので、気にしないでください」
「いえ! そのような、私のような者に……勿体ないお言葉でございます」
しどろもどろになって頭をさげる下男をそのままに、灰は峰瀬の寝室へと向かった。峰瀬の寝室は執務室と同じ二階にある。階段を昇れば、そこには張り詰めた雰囲気が漂っていた。静寂が澱み、誰もが息を潜めているかのようである。寝室の扉を叩くと、中から聞こえてきたのは紛れもなく峰瀬の声であった。
灰は扉を開ける。部屋には寝台に身を起こした峰瀬と、その傍らに立つ透軌の姿のみがあった。灰の姿に、峰瀬が穏やかな笑みを浮かべた。頬がこけ青白いその顔に、灰はふと言葉に詰まる。
「どうした。そのようなところにおらず、ここに来なさい」
灰は頷くと毛足の長い絨毯を踏みしめて寝台へと近寄った。随所に彫刻が施されたどっしりとしたつくりの寝台の上で、白い衣を纏う峰瀬の姿は益々やつれて見えた。真朱の豪奢な敷布に、榛と常盤で刺繍された蔦の様子が、まるで峰瀬の体と命を絡め取っているかのように灰の目には映る。
「お加減はよろしいのですか?」
「ああ、医術者が煩く言うから寝てはいるが、もう政務につくに支障はない。お前が持ち帰った薬が効いたようだ」
言外に含ませた意味に、灰は目を伏せる。峰瀬は灰の返事を待たずに窓へと視線を投げた。窓から床に零れる陽光は部屋の仄暗さに混じり合い、透き通って白々と、微細な埃が音も無く舞っていた。
「透軌様、今日の話し合いの結果です」
灰は無言で遣り取りを聞いていた透軌に向き合うと、話し合いの結果を記した紙を差し出した。透軌は頷くとそれを受け取る。齢十九になる透軌は、些か線が細い。文人然とした落ち着いた容貌の青年だった。
「本日は、一月前の参志の儀で新たに加わった少年達が入る範を決定しました」
「そうか」
「それからもう一点、そちらの報告には書いていませんが、副頭の須樹と設啓が明日緩衝地帯に赴くこととなりました」
「緩衝地帯へ?」
問い返したのは透軌ではなく峰瀬だった。灰は頷く。これは透軌のみならず峰瀬にも報告すべきことである。
「はい。最近緩衝地帯で多加羅若衆の名を騙って狼藉を働く者達がいるとの噂があり、真偽の程を密かに探って参ります」
「なるほど」
峰瀬はそれだけを言うと、黙り込んだ。透軌は父親の姿を暫し見つめると、灰を振り返った。穏やかに言う。
「その件、結果がわかり次第すぐに私に知らせよ」
「はい」
「御苦労だったな。下がってよい」
透軌の言葉に一礼し、部屋を辞そうとした灰だったが、背にかけられた峰瀬の言葉に足を止めた。
「灰と少し話がしたい」
振り返ると、峰瀬が灰へと視線を向けていた。その傍らで透軌がすっと眼差しを伏せる。父親の簡潔な言葉にその意を察したのだろう。一礼すると、灰の横を通り過ぎ部屋を出て行った。背後で静かに閉ざされた扉の音を聞き、そして灰は改めて峰瀬を正面から見つめた。
「ここへ」
再び寝台に近寄る灰に何を思ったのか、峰瀬はおかしそうに笑った。
「そのような顔をするな。私はそれほどに具合が悪そうに見えるか」
「正直に申し上げれば、身を起こされるのもおやめになった方が良いと思います」
「薬師としての見解か?」
「はい」
峰瀬はなおも笑みを浮かべたまま、寝台の横にある椅子を指し示した。灰は無言でそれに座る。
「まずは礼を言いたい」
「……少し、手間取りました」
「弦から聞いた。難儀したようだな。私もすまないと思っている。あれ程突然に言霊の縛りが破れるとは思っていなかった」
二十日前のことである。惣領家の背後の山、そこに封印された闇が溢れ出したのだ。突然の出来事だった。峰瀬は即座に言霊の呪をかけたが全てを封じきることはできず、そして自身も一時は命が危ぶまれるほどに消耗したのである。灰は零れ落ちた闇を追ったが、常であれば街のどこかに潜む闇の欠片が、その時はまるで意思あるもののように灰の捜索の網をくぐり抜け、多加羅から遠く離れた地まで逃げたのである。
灰は弦とともに、闇の気配を追い西の地へと向かった。昼夜を問わず馬を駆っての道行きであった。それでも闇を捕え、多加羅に戻るまで五日を要した。
「逃げた闇は、まるで、意思を持っているようでした。追われていることがわかっているような……」
灰の言葉に、峰瀬は考え込むようだった。
「だが、滅したのだな」
「はい」
峰瀬は灰を見据えた。その視線の鋭さに、灰はふと息を詰めた。一瞬の視線の交錯の後、峰瀬は灰から目を逸らした。
「ならば、それでよい。下がってよいぞ。お前が言う通りまだ少し休むこととしよう」
静けさに、沈む心地の声だった。
峰瀬の元を辞した灰は、惣領家の屋敷を後にした。
星見の塔へと歩きながら、灰は冬枯れした木立の、力強く差し伸べられた枝を見上げた。澄んだ空気に木々の香りが満ちていた。惣領家の屋敷を訪れる度に感じる、しこりのように固く、冷たい感覚が漸く解ける。
大きく息を吸い、ゆっくりと道を歩きながら、灰は峰瀬が向けた視線を思い出していた。鋭い、まるで彼の心を見透かそうとするかのようなそれだった。
思い当たることがないわけではない。
何時からか、闇を追う灰を密かに監視する存在に気付いていた。弦とは違う、だがあまりにも似通った気配だった。その者が何故灰を監視するのか、その目的は容易に知れた。灰が闇と対峙するその場を目撃した者は例外なく殺せ――峰瀬が影と呼ばれる男達に下したであろう、その命令を灰は阻んだ。
構造を知り抜いた多加羅の街であれば、人の目に触れることなく闇と対峙することはさほど難しくはない。だが、今回は勝手が違った。あの場に人が居合わせたことは灰にとってもどうしようもないことだったのだ。見も知らぬ土地で、それも嵐の中、万が一にも小屋の中の人々に被害が出ぬよう、その周りに防御の網を張り巡らせての闇との対峙は、彼にとっても常ならず困難なものだった。
灰が、嵐の中小屋に居合わせた者の命を守るよう弦に命じたことを、峰瀬は影からの報告で知っている筈である。それを問いただそうともしないのは、灰の行動を是としたということか、それとも改めて言う必要もない程に瑣末なことであるのか――いずれであろうとも、言葉にせぬその空白が、埋め難く峰瀬と灰を隔てる深い溝であることは明らかだった。
三年前より今日まで、常に峰瀬と灰の間にあるのは、張り詰めた糸にも似た脆く危うい繋がりだった。意識して必要以上の関わりを持つまいとしたのは灰だけではない。峰瀬もそれは同様であろう。
そして、今更言葉に出さぬことが如何程のものか、と灰は苦く思う。口に出さぬことならば、他に幾らでもある。所詮、闇を介在としての繋がりでしかないのだ。
その、闇――まるで意思を持つかのような――先程己が言った言葉を、灰は思い出す。闇と対峙した時に感じるそそけだつような感覚が蘇る。嵐の中、襲いかかって来た闇は、まるで生きた野生の獣のようだった。知能さえ感じさせて彼の怪魅の力を掻い潜り、鋭い攻撃を仕掛けてきた。それまで闇と対峙したのは五回程だが、そのいずれとも違う――そこまでを考え、灰は頭を振った。いくら考えても答えが出ぬ。何度対峙しても闇の本質は掴めぬままだ。それ程に異質な存在なのだ。
――だが、滅したのだな――
峰瀬の問いが響く。無意識に胸元に手をやり、灰は星見の塔へと向かう足を速めた。
翌日、須樹と設啓が馬を駆って多加羅の街を出たのは早朝だった。馬で駆れば、多加羅の所領と接する最も近い緩衝地帯の街までは一刻半程である。はじめは痛みすら感じる風の冷たさが、やがて火照った体に心地よく感じられる頃合いになって、二人は馬を並足にした。汗ばんだ馬の体から湯気が立ち上る。
街道の周囲は耕作地、丘陵地帯、そして森林が流れるように続く。農家がぽつりぽつりと建ち、時には放牧された羊の姿が遠く見えた。やがて幾つかの農村と街の傍らを通り過ぎる。そこそこの規模の街には中心部に壮麗な屋敷が見えた。その土地を与えられた貴族のものだろう。もっとも須樹にはその貴族が誰かまではわからなかった。おそらく仁識や冶都ならば知っていることだろう。
白沙那帝国は大きく四つの土地で構成されている。皇帝の直轄地である天聖領、皇族の傍流が治める紫聖領、皇帝直属の家臣に与えられる赤令領、そして各惣領家が治める所領である。現在、帝国内に存在する所領は十七、つまりは十七の惣領家が在るということだ。
白沙那帝国の最も東に位置する所領は三つである。国境に接する多加羅と、その北西に位置する沙羅久、そしてその二所領と森林地帯に囲まれる形で位置するのが梓魏である。
梓魏と二所領の線引きは明確である。多加羅との間には竜江と呼ばれる川が、そして沙羅久との間の丘陵地帯には古来より石垣があり、それが境界となっていた。この石垣は嘗て北東の地を支配していた北限の民と呼ばれる人々が、己が支配領域の証として築いたものであり、それがそのままに所領の線引きとして利用されていた。北限の民は今では梓魏の支配下に入り郷氏となっている。
所領の扱いは各惣領家の裁量として任されているが、多くが家臣として仕える貴族に分割して貸与している。あるいは古来よりその土地に根付く人々――例えば郷氏などに対して、賦税を条件に自治領として土地を与える場合もある。梓魏における北限の民がまさにそれであった。
多加羅でも所領の扱いは同様の措置を取っており、貴族の収入の多くは貸与された土地からの租税である。そして租税の二割五分を土地の本来の主である惣領家に納めることとなっていた。与えられる土地の豊かさは、力に直結する。故にどの土地を与えられるかは貴族にとって大きな意味を持つのである。
「そろそろ緩衝地帯だな」
須樹が言ったのはこれと言って特色の無い小さな街に辿り着いた時である。街のさらに先に広がるなだらかな丘陵、そこが長きに渡る二惣領家の不仲の象徴とも言える緩衝地帯の入口だった。
二人は街に入ると、小さな宿屋に掛け合って馬を預けた。その際幾ばくかの料金を要求され、それを更に格安に値切ったのは須樹ではなく設啓である。普段の寡黙さからは想像もつかぬ丁々発止の駆け引きに、須樹は口を挟むこともできなかった。
「すごいな」宿屋を後にして思わず言った須樹に、設啓はにこりともせずに答えた。
「卸屋の信条は口八丁手八丁だからな」
「なるほど」
卸屋というのは様々な商品の仲立ちをする者達の総称である。例えば農家から農作物を仕入れ、それを商店に卸すのが彼らだった。直接に生産者と商店が結び付く場合もあるにはあるが、信頼のできる卸屋を通した方が確実な儲けに繋がるのである。一方で卸屋は常に胡散臭い印象が付き纏う商売でもある。彼らの中には時勢を読み、人の心の裏をかいて悪辣な商売をする者もいる。また、非合法な商品――麻薬や武器、あるいは情報などを専門に流す卸屋もいるのはよく知られていることだった。
須樹は設啓の家が代々続く卸屋であることを思い出した。須樹の父親などは、商品を売るのに卸屋を通してはいない。金笹の生産者にしろ、自身の工芸品を扱う商店にしろ、父親が自分の目で確かめ、人となりが信頼できる者としか取引をしていなかった。そのせいか須樹にとっては卸屋という存在はいまいち身近には感じられぬものである。
「とりあえず、実際に被害があった農村付近まで行ってみるか?」
「そうだな。あまりあからさまに聞き込むのもまずいかもしれんが……」
言いながら二人は徒歩で街道を進んだ。一般的な平民の衣に身を包んだ二人は、傍から見れば不自然さはない。
「いつから被害が出ているんだ?」須樹の問いに設啓はふむ、と唸る。
「はっきりとはわからんが、おそらく二月程前だろうな」
「結構前からじゃないか」
「ああ」
「なぜ、今までその話が多加羅に伝わらなかったんだ? もっと早くに知っていたら被害がひどくなる前に食い止めることもできたかもしれんのに」
須樹は思わず言った。だが、設啓にその理由がわかるはずもない。設啓は答えるかわりに無言で前方を指し示した。目指す農村が丘陵の上にあった。農村は三十戸程の家々が建ち並ぶ、ごく小さなものだった。二人は村へと踏み込むと、さりげなく辺りを見回す。すでに収穫期は終わっている筈だが、村はどこか閑散として、人影が少なかった。
どうしたものか、と須樹が考え込んだその時、設啓が突然歩き出した。慌てて追いかければ、進む先には道端で話す三人の女性がいる。かしましい話声が聞こえていた。
「すみません」
設啓が女性達に話しかける。それに思わず須樹は目を見開いた。聞いたこともない愛想の良い声である。胡乱な表情で振り返った女性達に対して頭を下げた設啓は、困ったような顔で言った。
「ちょっと道を尋ねたいのですが、素奈の街にはどちらの道を行けばいいんでしょうか。道標の一つもなくて困ってるんですよ」
「ああ、あの街には村を出て右手の方角に進めばいいよ。小さな道があるからね。街道に沿って行ったらだめなんだよ。よくわからないで迷う人がいるみたいだけどね」
「ああ! そうだったんですか。てっきり左手だとばかり思っていました」
「何だい、急な用事かい?」
問うた女性がじろじろと二人の姿を見つめた。
「ええ、そうなんですよ。あ、こっちにいるのは俺の弟です。家が貧しいもんで二人で奉公に出ていたんですけど、父親が急な病で倒れちまって、すぐに帰って来いって知らせを受けているんですよ」
「ああ、そうなのかい。大変だねえ」
「医術者は命に別条はないって言うんですけど、親父がすっかり気弱になっちまって。家族全員の顔が一堂にそろうのを見たいなんて泣き出したらしくて……いつも通ってた道は遠回りなんで、こっちに来たんですけど、どうにも道がわからなくて……」
胡散臭げに二人の若者を見つめていた女性達は、途端に同情と興味の入り交じった瞳を彼らに向けた。須樹は唖然として滔々と話す設啓を見やった。驚きのあまり咄嗟に声が出なかったのがむしろ幸いだった。
(ちょっと待て、何だそれは!)
うろたえる須樹の気持ちを知ってか知らずか、設啓が女性達からは見えぬ位置で彼の背中を叩く。その顔を見れば、笑顔の中で瞳だけが笑っていない。僅かに顎で女性達を指し示し、設啓は口を閉じた。意味するところは、あとはお前が何とかしろ、とでもいったところか。
(どうしろってんだ!)
「それにしても大変だねえ。お父さんには長い間会ってないのかい?」
「え……」突然話しかけられた須樹は、顔を引きつらせた。
「……ええ、そうなんです。ずっと帰れなかったもので……今回もこんな突然に……」
しどろもどろに言うと、女性達は益々同情を込めた視線を須樹に向ける。どうやら突然の親の病に動揺している気の毒な青年と映っているらしい。須樹のいかにも爽やかな人好きのする見た目も影響しているのだろう、というのは横で見ていた設啓が思ったことである。
(ああ、もうどうにでもなれ)
須樹は開き直ると、精一杯不安そうな顔を作った。
「最近でも、緩衝地帯で時々変な奴らが暴れてるって聞いてて、家族に何かあったらどうしようかと思ってたんです」
言いながら目を伏せた。
「素奈の辺りでも出たって聞いて……」
「ああ! あいつらのことね! そうなんだよ、ひどい奴らでね」
「そうそう! 素奈だけじゃないよ。この農村にも来たんだよ!」
「えっ……それは本当ですか?」
人間、開き直れば存外に何でもできるものである。須樹の心底驚いたような声に、三人の女性が大きく頷いた。
「一月程前だったかね、もうやりたい放題さ。この村の若者も三人程怪我させられてね、一人は腕を骨折だよ」
「そうそう。多加羅の若衆も地におちたもんだね。今までも沙羅久の連中と何かといやあ騒動を起こしていたけど、まさか住民にまでつっかかるなんてね、ひどいもんだよ」
須樹と設啓は素早く顔を見合わせる。
「多加羅の若衆だったんですか!? 知らなかったですよ」
「おや、知らないのかい? ここだけじゃないんだよ。隣りの村もね、今年の祭礼の祭壇を壊されて、村人皆がもうかんかんさ」
女性の一人が声を潜めるようにして言った。
「私ら沙羅久よりも多加羅に良い印象を持ってたのにねえ。聞けば若衆の頭ってのは、次の惣領になるお方らしいじゃないか。この緩衝地帯を自分のものだとでも勘違いしてるんじゃないかね」
「呆れた話だよ。まったく」
「これじゃあ、多加羅の先行きも知れてるねえ。次の惣領がそんな方だったらね」
「まだ沙羅久の方がましだよ」
須樹は思わず言う。
「あの……本当に多加羅の若衆なんですか?」
「ああ、そうだよ。どこかの村では自分らでそう名乗ったっていう噂を聞いたからね。頭の身分が高いからってたかを括ってんのさ。私らが何も言えないと思ってるんだよ、きっと」
「でも私らも黙ってはいないよ。今日もね、村長達で話し合ってるんだよ。このまま泣き寝入りなんてできっこない」
「多加羅に申し入れか何かをするんですか?」
「いや、今年の評議会でね意見を出すつもりなんだよ。その意見をまとめているのさ」
「……その若衆というのはどんな奴らでした?」
思わず尋ねた須樹に、一人の女性がふと怪訝そうな表情になった。
「なんだい、あんた、どうしてそんなことを知りたがるのさ? えらく拘るね。まさかあんた多加羅から来たのかい?」
咄嗟に言葉に詰まった須樹にかわり、設啓が口を挟む。
「俺たち、多加羅所領内の街で奉公しているんですよ。まさか若衆がそんなことするなんて、信じられませんねえ。本当にがっかりですよ」
さりげなく女性の注意を引くと、俄かにすまなそうな表情を作った。
「すみません。もう行かないと。今日の夕刻までには戻らないとだめなんですよ」
「ああ、そうだったね。お父さんが待ってるんだよね」
「気をおつけよ。もしも多加羅の若衆に会ったら逃げるんだよ。無事な姿をお父さんに見せておあげ」
「ええ。そうします。ありがとうございました」
二人は神妙に頷き女性達に頭を下げると、足早に村の出口へと向かった。そのまま、女性達に示された右手の道を進む。村が見えなくなるまで歩き、須樹は漸く大きく息を吐き出した。立ち止まり設啓を睨みつける。
「お前なあ……無茶苦茶だぞ!」
「話を聞き出すなら、まず同情を引くのが一番いい」
先程の愛想の良さなど欠片も感じさせない顔で、設啓はぼそりと言った。須樹は僅かに力の抜けた声で呟く。
「しかも俺が弟か」
「俺の方が年上に見える。うまくいっただろう」
それは須樹も認めざるを得なかった。多加羅若衆の者であることを気付かれずうまく村人から話を聞き出すにはどうしたらよいか、須樹自身が思案していたのである。やり方はともかくとして、成功と言えるだろう。
「ここら一帯の村と、それから素奈の街でも話を聞いてみよう」
設啓は言うとさっさと歩きだす。その背に須樹は溜息まじりに言った。
「次はどんな話を持ち出して同情を引く気だ? まさか同じ話をするわけじゃないだろうな」
「心配するな。あと十通りは考えがある。お前こそ、さっきみたいにがっついて気付かれるようなことをするなよ」
「……」
もはや何を言う気も失せて、須樹は設啓の後を追った。
読み返して本当にじれったい展開だな、と思っている書き手です。第一部と違い、かなり一人一人に焦点を当てているので、展開が遅いです。「魄、落つる」の方でさくさく書いているのもあって、こちらのスローペースぶりにびっくり。(いや、書いている本人が言うことではないですが……)どうか、のんびりお付き合いください。
なにはともあれ、今後ともよろしくお願いいたします!