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最果てに天深く  作者: 高原 景
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5

 須樹(すぎ)は言葉もなく少年を見詰めた。年は十四か十五くらいだろうか。質素な衣は見慣れた平民のものだったが、瞳の色同様に顔立ちもどこか東方の者を思わせた。頑丈なつくりの履物と背嚢から、旅の途中であるかと思われた。無造作に頭を包み、顔の片側にゆったりと流された青い布が、異国の相貌と相まって(すが)しい。

 少年は背嚢を地面におろすと、自然な動作で須樹の手を掴む。顔を近づけて傷をじっと観察する少年の隣で、ようやく悠緋(ゆうひ)が我に返った。

「なんなの、あなた」

 悠緋の声に答えたのは少年ではなかった。

兄様(あにさま)薬師(くすし)なの。どんな傷でも治しちゃうんだから」

 可愛らしい顔をした少女が少年の背後からひょっこりと顔を出し、悠緋ににっこりと笑いかけた。悠緋は毒気を抜かれて思わず黙った。

 少年は背嚢から竹筒で作られた携帯用の水入れを取り出すと、栓を抜きそっと傷の上に中身をかけた。痛みに顔を顰める須樹に、少年が落ち着いた声で言った。

「大丈夫です。傷自体は浅い」

 血が洗い流されると、思いのほか細い傷口があらわになった。指と手のひらに並行に走る二本の線は、奇妙に整然とした模様を思わせる。少年が言う通り、傷自体はさほど深くはないようだった。少年は背嚢から清潔そうな布を取り出すと、その布を傷の上に当てて圧迫した。一般的な止血の方法である。

 真剣な少年の面持ちを、須樹はまじまじと見つめた。周囲の若衆の中にはあからさまに胡散臭げな表情を浮かべている者もいる。だが、傷の治療にのみ集中しているらしい相手は、周囲の視線など気にもしていない様子だった。

 血が止まったのを確かめると、少年はさらに背嚢から小さな壺を取り出した。

「これならばおそらく傷跡も残らないと思います」

 言いながら少年は精巧なつくりの壺の蓋を開ける。掌ほどの大きさの布片に、壺の中身を垂らす。とろりとした透明の液体だった。何かの薬なのだろう。香油のような匂いがした。十分に湿らせた布を、少年は傷の上にかぶせた。ひんやりとした感触が、須樹の心をも落ち着かせるようだった。不思議と痛みまでもが減ったように須樹は思う。はじめは訝しげだった悠緋や若衆達も、いつしか少年の作業を注視していた。須樹がふと周りを見回すと、少なからぬ街の人々も足をとめて者珍しげに少年の手元を見守っていた。

 少年に連れの少女が布と包帯を差し出す。少年は素早く布で手をふくと、須樹の手のひらと、四本の指をひとまとめにしてきっちりと包帯を巻きつけた。手慣れた動きである。

「しばらくは手をあまり動かさないようにしてください」

「ありがとう」

 須樹の言葉に少年がにこりと笑んだ。悠緋は思わず少年の笑顔に目を奪われた。少年の瞳がふと悠緋に注がれた。途端に悠緋はざわりとしたものを胸の奥に感じる。まるで得体のしれない靄が蠢くようなそれ。

「それにしても、沙羅久(しゃらく)の放蕩息子があんなにまともだなんて知らなかったわ」

 慌てて視線を逸らし、わけもなく鮮やかな裳裾を整えながら悠緋は言い、せっかく整えたそれを台無しにする勢いで立ち上がった。

「私が聞いた噂ではもっと……こう、いやらしい方かと思っていたわ」

 須樹は肯定も否定もしかねて、黙り込む。まともと言うより一癖も二癖もありそうな人物に思えたが、確かに賭博や悪所通いばかりをしているという噂の沙羅久惣領家の二男は、凛々しく鋭い容貌ではあった。多分に皮肉気でもあったが。

「悠緋様、この手では馬の手綱を操るのは無理です。先にお行きください」

 須樹は包帯がまかれた手を上げてみせながら言う。

「この馬も今は人を乗せないほうがいい。俺が引いて行きますので、頭は俺が乗っていた馬をお使いください」

 後ろ脛を殴られた馬はまだどこか落ち着かない様子で足を引きずっているが、おそらくゆっくりと休ませれば大丈夫だろう。加倉(かくら)はああ、ともうう、ともつかないくぐもった声を上げて、羞恥と苛立たしさの混じった表情のまま須樹が乗っていた馬の手綱を乱暴にひいた。その様子を眉を顰めて見つめる悠緋が何か言い出す前に、侍女が彼女を馬車の中に引き入れる。須樹はほっとする。これ以上面倒なことは起こってほしくないものだ。

「あなた、旅をしているのね? どこに向かっているの?」

 悠緋の問いかけに薬師の少年は僅かに逡巡してから答えた。

多加羅(たから)へ」

「まあ、そうなの。私たちも多加羅の者なのよ。多加羅には何をしにいらっしゃるの?」

 須樹はたたみかけるように問いかける悠緋と少年の間に割り込むようにして笑顔を向けた。目の端で加倉が仏頂面で二人のやり取りを睨みつけている。

「悠緋様、とにかくはやく多加羅にお向かいください。お父上がお待ちです。悠緋様もはやくお会いになりたいでしょう」

「あら、私は今父上に腹を立てているのよ。本当は帰って来るのも嫌だったのよ。それをわざわざ迎えまで寄こしたからしょうがなく帰ることにしたの」

 悠緋はつんとした声で言うと、少年にちらりと名残惜しげな視線を残して日よけの布をおろした。ようやく進み出した馬車を見送り、須樹は思わず大きく息をついた。



「ねえ、畑に植えてあるのは何?」

「ああ、あれは金笹(きんざさ)だよ。今は緑だが秋には金色になる。この地方の特産で様々な工芸品に使われるんだ」

「畑で食べ物以外を作るの?」

「食べ物を育てている農家もあるけど、ここらは金笹農家が多いんだ。金笹は他では滅多に育たないからね。金笹と食べ物を交換したりするんだよ。それに金笹の花はおいしいお茶になるし、実は干せば上質の芳香剤になる」

 須樹は幾度目かの少女の問いかけに答える。少女は初めて乗る馬の上で、のどかに広がる田園風景を物珍しげに眺めていた。須樹の横では灰と名乗った薬師の少年がそんな少女の様子を心配そうに見ている。体重の軽い少女ならば大丈夫だろうと馬に乗せたのは須樹だったが、はじめての高い景色にも恐れないその様子には感心するしかない。

 須樹は多加羅に向かうという二人とともに、畑に挟まれた街道をゆっくりと歩いていた。口数が少ない少年とは対照的に、少女、(りん)は見るものすべてに無邪気な驚きを示した。はじめは異国からの旅人かと思っていた須樹も、話の端々から、この二人が帝国の東限にある森林地帯から来たらしいことを察していた。噂に聞くその地帯は都市と呼べるもののない辺境である。おそらくははじめて見るものばかりなのだろうことはわかったが、さすがに稟が神殿を指さし、あれは何かと尋ねた時には驚きを隠せなかった。

 帝国が奉ずる一柱の神は絶対である。どれほど小さな集落であっても必ず神殿があり、司祭がいるものなのだ。月に三度の礼拝日には、司祭が神の教えを説き、祈りをあげるのが習わしになっていた。

「さっきの出来事だが、いつからあの場所にいた?」

 少女が飽きず広大な畑に見惚れているのを横目に、須樹は灰に訪ねた。

「ちょうど須樹さんが馬から飛び降りたあたりです。馬の嘶く声がしたので……」

 須樹が思わず手を振って話をさえぎると、灰がきょとんとした顔をする。

「その、須樹さんってのと敬語はやめてくれよ。二歳しか違わないのに、えらく老けた気がする」

「でも須樹さん……須樹は老けて見えるからしょうがない」

 笑みを含んだ少年の声に須樹は憮然とする。それを面白そうに見やる少年に、須樹はおとなしげだという印象を撤回した。どうやら無口で内気な少年というわけではなさそうだ。

「あの仲裁に入った人がいただろう。あの人がいつからあの場にいたか知らないかと思って」

 灰はふと考える素振りを見せた。

「多分俺よりは先にあの場にいたと思う」

 わからないという答えを半ば確信していた須樹は、その言葉にまじまじと少年を見つめる。

「俺があの場所に行ったときにかなりきつい香の匂いがたまっていて、それがあの人の体からだったから……」

 不可解そうな須樹の顔に、灰は言葉を補う。

「匂いっていうのは風が吹けば簡単に散らされてしまうけど、空気の流れが澱むと、時が立つほどその場に沈んでたまるものなんだ。俺があの場で感じたのはそういう、沈んだ匂いだった」

「つまり、あの場に来たばかりで飛び出してきたというわけではないと?」

「おそらくしばらく人に紛れて見ていたんじゃないかな」

 思わず考え込む須樹に、灰はどこか遠慮がちな声をかけた。

「あの人、沙羅久惣領家の二男だって言ってたけど……」

「ん? ああ、そうだな。沙羅久ってのは多加羅と所領が隣り合ってるんだが、昔から多加羅とは反りが合わないんだよ。まあ、あの聡達(そうたつ)ってのは沙羅久惣領家でも鼻つまみ者らしいけどな」

「でもあの人に助けられたみたいだな」

「ああ。……まったく、うちの頭にももう少し冷静になってもらわないと困る」

 灰はふと首を傾げた。

「あの剣を抜こうとした人が頭なのか? 多加羅の兵士の頭にしては……少し難があるように見えたけど」

 須樹は思わず笑った。

加倉(かくら)が多加羅南軍(なんぐん)の頭だったらえらいことだ。加倉は若衆(わかしゅう)の頭だよ。若衆ってのは正規の軍隊に入る前の若者達の集まりだ」

 いわば正規の軍に入るまでの見習いの集まりなのである。そうは言っても若衆の主だった役職に就く者は、南軍に入った後も特別に取り立てられることが多い。

「若者の集まりだがそう馬鹿にしたもんじゃない。普段は剣術の鍛練や街の見回りをしているが、戦の時は南軍の指揮下で動くからな。腕が上がり、街の治安に寄与していることを認められるようになれば、立場に応じて少しだが給金も出る。それに祭礼の剣舞の見事さは帝国の中でも知られている」

 灰はふと考えるような顔をして訊ねた。

「あの街はどちらかの所領ではないのか?」

「あそこらは二惣領家の緩衝地帯(かんしょうちたい)だからなあ。所領の線引きがしづらいから、どちらのものでもないってことになっている。それでも諍いは絶えない」

「思い切ってはっきり線引きしたほうが、面倒がないと思うけど」

 須樹は少年ににやりと笑う。

「そう思うだろ? だがそうもいかないんだ。あの街は見てわかるとおり羽振りがいい。あそこを手に入れるかどうかは惣領家にとっては大問題なんだよ。だからそうそう気軽に、はいここで線を引きましょう、というわけにはいかない。二家の力関係に影響するからな」

 灰はなるほど、と呟く。

「多加羅と沙羅久はなんでそんなに仲が悪いんだ?」

「はじめから悪かったわけじゃないさ。この二惣領家ってのはもとは兄弟みたいなものだったらしい。かつては一つの小国家を、多加羅は祭祀(さいし)(つかさ)として、沙羅久は政の司として支えていた。術者……今で言う条斎士(じょうさいし)の束ねである多加羅の軍と、兵士の束ねである沙羅久の軍は周辺諸国には脅威だったらしいからな」

「じゃあ、もしかして沙羅久の軍は北軍(ほくぐん)というのか?」

「そのとおり。ちなみにさっきの連中は沙羅久の若衆だ。若衆制度があるのも帝国では多加羅と沙羅久だけかもしれないな」

 柄にもなく講釈をたれながら須樹は灰との会話を楽しみはじめていた。この話相手は聡い。反応に無駄がなかった。

「帝国の支配下に入るとそれぞれ独立した惣領家として所領を持つようになり、東の国境を守る双璧となった……と言いたいところなんだが、そこから次第に競い合うようになり、今では顔を見れば喧嘩になるような間柄だ。もっとも、今では大分多加羅に分が悪い」

「沙羅久のほうが力が強くなっているのか」

「まあ、もともと異端の神の祭祀を司っていた多加羅は立場が弱かったからな。先々代の惣領あたりから目に見えて多加羅の力が弱くなってきているが、今は総領の峰瀬(みなせ)様の手腕と人望でもってるようなものだ」

 灰の表情がわずかに強張ったのに須樹は気づかなかった。折しも風に金笹が一斉に靡き、心がさらわれそうな音色を奏でる。稟がそれにはしゃいだ笑い声をあげた。

「その峰瀬様というのはどのような方だ?」

 ぽつりと灰が問うた。須樹は風に紛れそうなそれに振り向いた。

「そうだな。穏やかでありながら厳しい、才智に長けた方だと言われている。……俺なんかが偉そうに言うのもおこがましいけど、本当に立派な方だよ。灰も秋の祭礼にはお顔を拝見できる。それに、悠緋様とも直接言葉を交わすことができたのだから、灰は幸運だな」

「悠緋様?」

「ああ、名前は名乗らなかったか。さっきの姫君が惣領家の御息女であられる悠緋様だ」

 少年は驚いたようだった。

「あの人が……」

「ああ、意外だろ? 気が強い姫君だからなあ。今は条斎士の修行のために緩衝地帯にある聖漣院(しょうれんいん)に行っておられるが、今回は惣領から急に帰るよう言われたらしい」

 灰はそれ以上問わず、無言で足を進めた。

 丈高い緑のうねりが突然途切れ、前方遠くに古色蒼然とした街並が広がった。歴史ある多加羅の街である。白を基調とした石壁に黒の甍の家々が、多加羅の街の背後を守るように鎮座する山の緑に映えて美しかった。街の周りを囲む城壁は、一体いつの時代に築かれたのか、時の中で次第に朽ちながらもなお街と外界を厳然と隔てている。多加羅へと続く街道の周りにも家々が建ち、何を売っているのか小さな露店までもが見えた。

 歩みを止め、街を見渡していた灰が不意に訊ねた。

「なぜ悠緋様が多加羅にお戻りになるか、須樹は聞いているか?」

 須樹はその声にふと違和感を覚えて灰を振り返った。灰の瞳はなおも凍りついたように街を見つめる。そこに浮かぶ感情を須樹は掴みかね、躊躇いながらも答えた。

「なんでも悠緋様の従兄弟にあたる方が多加羅に来られるらしい」

「従兄弟……」

 まるで耳障りな言葉を聞いたかのように灰の眉が顰められた。

「ああ。惣領の異母妹であられる方の息子だそうだ」

 須樹は控えめに言う。先代惣領の妾腹の血筋であるその人物が来ることは、公にはされていなかったが、今や公然の秘密となっていた。惣領の決定であるそれに声高に反対をする者はあまりいなかったが、それでも口さがない連中はまだ見ぬ人物への批判に余念がない。

 須樹はあからさまな誹謗中傷を快くは思わなかったが、問題の人物に対してはさほどの感慨はなかった。彼にとってそのような惣領家のことはあまりに遠い、己とは関わりのない世界のことだったのである。

「悠緋様はその従兄弟をあまり歓迎されてはいないようだ」

 少年が言いながら浮かべた笑みは、鋭い陰りを含んでいた。ますます強まる違和感に、須樹は少年を見やった。安易に人を寄せ付けない鋭さが少年の藍の瞳にこもる。まるで睨みつけるように街を見ながら何を思うのか、灰は苛立たしげにため息をもらした。

「そろそろ出てきたらどうです?」

 発された声ははっきりと硬かった。須樹はそれが自分に向けられたものではないことに咄嗟に気づく。間をおかずして横手の金笹畑の中から一人の男があらわれた。須樹はぎょっとする。これ程近くに人がいたというのに、気配すら感じなかった。しかも、男は金笹の中を音すらたてずに歩いて来る。金笹は葉を大きく広げて育つため、ある程度の間隔をあけて植えられているが、その中を物音一つ立てずに歩くことは至難の業である。まるで野生の獣のような男の身ごなしである。常人ではない。

 男は須樹の様子には頓着せず、灰の前で深く叩頭した。

「お気を悪くされたでしょうが、お許しを。灰様の身に何事かあっては大事、惣領からもしっかりとお守りするよう仰せつかっております」

「俺は密かに付け回されるのが何より嫌なんです」

 灰は苦々しく言った。

 馬の背からぶらさがるようにして降りた稟が、しゃがみこんで男の顔を覗き込む。

「あ、やっぱり(げん)様だわ」

「稟様もお変わりなく、何よりでございます」

 律儀に答えるその姿を見ながら、一体弦の中で稟はどのように位置づけられているのか、と灰は思う。柳角(りゅうかく)の養い子として主に連なる者ととらえているのだろうか。少なくとも彼にとっては稟も頭を下げる対象らしい。

「なあ灰、これってどういう……」

 置き去りにされた体の須樹が面くらったような声を上げる。弦は無表情な瞳を須樹に向け、戸惑って立ちつくすその姿に、僅かではあるが顔を顰めたようだった。

「惣領家の御方のお名前を呼び捨てとは、不敬にもほどがあるぞ」

「惣領家……?」

「灰様のお母上は惣領の御妹君の紫弥(しや)様であらせられる」

 須樹が茫然と灰へと顔を向ける。その視線に灰の顔が僅かに歪んだ。

「……本当なのか?」

「ああ……」

 灰は気まずそうに頷いた。須樹は思わず稟を見やる。聞いた話では妾腹の血筋だというその人物に妹はいなかったはずだ。

「とにかく、惣領がお待ちです。この先は私がご案内いたしましょう」

 弦の言葉に灰は無表情に頷き、なおも驚きに目を見張っている須樹を振り返った。何事かを言いかけ、しかし視線を迷わせて口を閉ざす。その眼差しが須樹の包帯に包まれた手へと向けられた。

「明日、包帯を変えることを忘れないで」

「あ、ああ……」

「稟を馬に乗せてくれてありがとう」

 それだけを言うと灰は街へと歩き出した。その後を弾む足取りで稟が追う。咄嗟に須樹はその背に声をかけようとしたが、出たのはかすれたうめき声だった。一体何を言えるというのだ。今までの無礼への詫びか、自分の立場を明かさなかった相手への責めの言葉か、それとも――励ましか?

 須樹の逡巡を跳ね返すように、少年は躊躇いもせずにまっすぐに街へと向かって行った。

 


 多加羅惣領家の屋敷は街の中心より奥まった位置にある。街を見下ろすように幾分高台にあるそれを取り囲むようにして、惣領家に仕える家臣の邸宅が連なり、さらに外に広がって人々の生活が営まれていた。まるで身分の序列をあらわすように、高い壁が街をいくつかに仕切っている。街を俯瞰すればまるで年輪のように見えるかもしれないそれは、戦において外側の城壁が破られた時のための防壁だった。ところどころに設けられた大きな門は、そのような緊急時でなければ閉じられることはない。

 灰はいくつかの防壁の門をくぐり抜け、緩やかな登り道を辿って惣領家の屋敷へとたどり着いた。惣領家の門を守る兵士は灰と稟の質素な平民服に鋭い視線を走らせたが、弦の一瞥で何も言わずに三人を通した。

 屋敷は近くで見れば、戦いの砦にもなりうる堅牢なものだったが、濡れたように光る黒い甍と白壁に精緻にほどこされた彫刻がいかにも壮麗だった。屋敷の内はどこかひんやりと薄暗く、埃ひとつなく磨き抜かれた大理石の床に足音が反響する。

 時たますれ違う侍女や下男には目もくれずに、弦は物慣れた様子で複雑に分岐する廊下を歩き、一つの扉の前に灰と稟を誘った。大きな扉だった。弦はそれを開くと無言で灰を中に通す。

「こちらでしばらくお待ちください」

 部屋は賓客を迎えるものなのだろうか、華麗であり、重厚だった。奥にはさらに小さな扉までもがある。

「後ほど惣領は接見の間にて灰様とお会いになられます。準備をお世話申し上げる下男が参りますので、何かございましたらその者にお言いつけください」

「このような格好では惣領にお会いするのにふさわしくないですか?」

 どこか皮肉気に言う少年に、弦はいいえ、と首を振る。

「惣領だけならばそのようなことはお気になさりません。されど、接見の間では多加羅に仕える面々も揃うとのこと。惣領は灰様をその場で皆に御紹介なさるおつもりです」

 それ以上のことは言わない弦に灰は俯いた。弦の言葉が一体何を意味するのか、床を睨みつけながら灰は考える。肉親としての白々しく仰々しい出迎えを期待していたわけではない。しかし、まさか居並ぶ家臣の前で対面することになるとは考えていなかった。

 弦は口を開けて部屋を見回している稟に声をかけた。

「稟様は私とともに来てください」

「え?」

 少女は戸惑ったように振り返る。その瞳が不安そうに揺れ、灰へと向けられた。

「どこへ?」

「稟様は別の場所でお待ちいただきます」

 鋭く問う灰に弦は言った。灰は部屋へと視線を巡らす。どれほどの客を迎えたかもわからない華麗な部屋は、錆びついたようにざらりとした冷たい感覚を呼び起こすばかりだった。

「稟、この人と一緒に行って。俺は大事な用事があるから、その間待っていてほしいんだ。できるね?」

 稟はきゅっと唇を引き結ぶと大きく頷いた。

「大丈夫だから」

 灰は笑んでみせた。やはり不安なのか、しがみついてくる稟の頭をなでながら、灰はもう一度心の中で呟く。――大丈夫だ。

 ようやく多加羅に主人公が到着しました。

 物語自体はのろのろと亀の歩みですが、コンスタントに投稿していきたいと思います。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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