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最果てに天深く  作者: 高原 景
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44

 秋は駆け去るように過ぎる。人々が、吹く風に冬の気配を感じるまで、さほど間はない。

 惣領家から星見ほしみの塔に使者が来たのは、祭礼からまだ十日も経たぬ頃であった。すでに朝夕には冬の厳しさを予感させる冷たさがあり、その日も澄んだ大気に密やかな冷気が混じっていた。

 扉を開けた秋連しゅうれんに対し、屋敷のお仕着せを身に纏った使者は恭しく頭を下げた。

かい様に、屋敷までお越しいただきたく、惣領から申しつかって参りました」

「今からかい?」

「はい。惣領はそのようにお望みです」

 秋連が背後の気配に振り向くとそこに灰が立っていた。灰の後ろで、りんが目を丸くして使者の鮮やかな衣を見つめている。

「惣領が君をお呼びだそうだ」

「はい」

 灰は静かに応えると、秋連の横を通り過ぎた。

兄様あにさま

 稟が呼ぶ。それにちらりと振り返った灰は仄かに笑んだのか、だが、俯きがちなその表情を、秋連はしかと掴めなかった。踏み出した灰の背中と、使者が一分の隙もなく無表情に頭を下げる姿が扉の向こうに僅かに見え、そして閉ざされた。

「兄様……大丈夫かなあ」

 稟が呟く。

「どうしたんだい? 何か心配なことでもあるのかい?」

「なんだか最近兄様、元気がない気がするの。何にも言わないけど、何か辛いことがあるのかなあ」

 それは秋連自身が気付いていたことでもある。何日か前、灰が夜遅くまで星見の塔に戻らなかった日がある。その日から、普段と変わらぬようでありながら、時折少年の顔を掠める思いつめた表情に彼は気付いていた。少女もそれに気付いていたのだろう。

 秋連は気を取り直すように稟に笑いかけた。

「灰はとても強い。何か辛いことがあっても、大丈夫だよ」

「そうかなあ」

「そうだよ。きっと」

 秋連の言葉に漸く稟は安心したように笑うと、大きく頷いた。

 再び、扉を見やる。何の変哲もないそれ――だが、ざわめくような予感があった。何かの始まりか、あるいは終わりの――秋連はそれから意識を逸らし、扉に背を向けた。


 執務室にいたのは峰瀬みなせただ一人だった。使者は灰を部屋に招じ入れると、恭しく一礼して去る。扉が閉ざされると、峰瀬が言った。

「突然にすまなかったな」

「いえ」

 椅子に座したまま、峰瀬は目の前の少年に問う。

「傷の具合はどうだ」

「もう、殆ど痛みもありません」

若衆わかしゅうにはそろそろ復帰できそうか」

「はい」

 淡々と交わされる会話が広い部屋に響く。峰瀬は僅かに苦笑すると首を傾げた。

「愛想が無いな」

「……同じことを少し前にも言われました」

 灰は言うと、峰瀬から視線を逸らせ俯いた。僅かに逡巡するような間があり、風が吹いたのか、窓の向こうで木々が揺れる音が耳についた。

「私がなぜ呼び出したのか、聞かぬのか?」

 峰瀬の言葉に灰が顔を上げる。

「……その前に惣領にお聞きしたいことがあります」

「何だ」

「六年前に、母を殺した男は沙羅久しゃらく惣領家に連なる者だったのですか?」

 峰瀬は僅かに目を見開く。

「正確には沙羅久惣領家を勘当された男だ。名は確か滝斗たきとといったか。しかしそれを誰から聞いた。公にはされていないことだ」

「沙羅久惣領家の聡達そうたつから聞きました」

「あの青年か」

 声は幾分苦々しかった。峰瀬は卓の引出を開けると、その中から一振りの刀を取り出す。滑らかな鞘が、しっとりと黒い。

「聡達とやらは御丁寧にこの刀をお前に渡せと言ってきた。お前の母親のものだとか」

「母の守り刀です。男はその刀で母を殺し、刀を持ったまま逃げました。なぜ、沙羅久の者が母を殺したという、そのことが俺には知らされなかったのでしょうか」

 沈黙が落ちる。小さく溜息をつくと、峰瀬は言った。

「あの事件が起きた時、君の母親を殺した男の素性は徹底して伏せられた。いかに勘当された者とはいえ、惣領家に連なる出自の者が人を殺めるなど、沙羅久では到底公に出来ぬことであったからな。男が死んだ時にも、遺体は密かに沙羅久が引き取り、警吏けいりの手にも委ねられることはなかったと聞く。男の死に様が不審に過ぎるとしても、沙羅久では彼が死んだことをむしろ幸いと考えたやもしれぬな」

 薄暗い部屋の中、灰の顔は僅かに青褪めて見えた。

「君には綺麗事は言うまい。沙羅久が事件を伏せたように、多加羅でもあの一件が公になるのは避けたかった。事件が明らかとなれば、多加羅惣領家の血を引く者が來螺にいたこともまた人々の知るところとなる。それは惣領家の威信を損なうことだ。故に多加羅は沙羅久への抗議も一切行わなかった。そして沙羅久との微妙な力関係を鑑みれば、互いに口を閉ざすのが最良の道だった」

 沙羅久にとって男の存在が汚点であったように、多加羅にとって紫弥しやという存在は明らかにできぬ恥だったのだ。聡い少年は、峰瀬が言わずともそれに気付いているだろう。

「君に知らせなかったのは、そのような事情からだけではない。あの当時事実を知らせるのはあまりに酷だと思ったからだ。君自身が母親の仇とはいえ、人を殺めたことを受け止めかねていたように私には見えた。そのような時に、自分が殺した相手の素性を知るのは辛いことだろう」

「やはり、知っておられたんですね……。俺があの男を殺したことを」

 ぽつりと灰は言う。無論、峰瀬は知っていたのだ。初夏、峰瀬の使者として灰の元を訪れたげんの言葉から、峰瀬が六年前の真実を知っていることに灰自身も気付いていた。灰は目を伏せる。

「なぜ、わかったのですか?」

「男の死に様が尋常ではなかったからな。君のあの時の様子と、怪魅けみの力を目の当たりにすればだいたいの推測はついた」

 そして、その出来事が灰の優れた怪魅師けみしとしての力を峰瀬に知らしめることとなったのだ。それは少年にとってどれほどの皮肉だろうか、と峰瀬は思う。

「これが紫弥殿の物であれば、彼女の形見でもある。確かに君が持つのが筋というものだろうが……受け取るか否かは君が決めればいい」

 言うと峰瀬は刀を卓の上に置いた。それを灰は見つめる。

「母親の仇を殺めたことを悔いているか?」

 灰は答えず、目を閉じた。生々しく、男を引き裂いた瞬間が蘇る。一時預けられた警吏の宿舎の中、その小さな一室が身も凍る程に寒かったことを覚えている。片隅に蹲り、力を開放した。意識を広げ、街に潜む男の存在を捉えれば、その命を奪うのは呆気ないほどに容易かった。目も眩むほどの怒りに突き動かされ、容赦なく力をふるった。

「酷いことを聞いたな」

 峰瀬は言うと、立ち上がった。その気配に、灰が目を開く。

「もう一つ、惣領にお聞きしたいことがあります」

「聞こう」

「先の火つけの犯人の一件で、若衆に俺を助けるよう伝えた、その真意は何ですか?」

「……どうやら、不満があるようだな」

 峰瀬は灰を見据える。灰の瞳は静かに、だが鋭さを帯びて目の前の男に向けられていた。

「あの一件で、惣領は火つけの犯人が異能者であることも、聖遣使しょうけんしが裏で動いていることも掴んでおられた。それにも関わらず何も知らない彼らを敢えて巻き込むように仕向けました。なぜ、そのような危険なことをなされたのです」

「君のためだ」

「俺のため……ですか?」

「あの時、君は単独で來螺らいらに力を貸し、その怪魅の力を晒した。聖遣使が動いたのはその所業のせいであると君もわかっていると思うが?」

 言いながら峰瀬は卓をまわりこみ、少年に近づく。

「君自身、気付かなかったとは言わせぬぞ。わかっていたはずだ。聖遣使の狙いは來螺の異能……だが、多加羅惣領家に連なる者が力を貸している奇異はいやがうえにも目につく。怪魅師であることが明らかとなる危険もそれだけ増す。それは我ら惣領家にとっても致命的なことだ」

 無機質に足音が響く。

「決してその力を知られてはならぬと、私ははじめに君に言ったはずだ。若衆を君の元に行かせたのは、聖遣使の目を君から逸らせるために必要だったからだ。多加羅惣領家の者がただ一人來螺に力を貸しているのではない、若衆として動いているのだ、と。少なくとも若衆の存在は君を守る盾となる。一時しのぎの目くらましのようなものだが、何もせぬよりはましだった」

 三歩の距離――立ち止まった峰瀬を灰は睨みつけた。その瞳に怒りが閃く。

「だが、彼らが命を落とす危険もありました」

「君は惣領家の一員である、その重さがいまだにわかってはおらぬようだ。もはや君は來螺の者でも、森林地帯の者でもない。れっきとした我らの一族なのだ。若衆は君の仲間とはいえ、いざという時には総領家の者を守る立場にある」

「惣領は都合良く彼らを利用しただけです」

「そうだ。そして君にも責任がある。それはわかっているだろう?」

 灰の行動が全てを引き起こした。それを指摘する。

「良い機会だから言っておこう。私は今後も君を表立っては助けることはしない。だが、君が多加羅にとって必要な存在である限り、他の者を犠牲にしても君を守るつもりだ。今回の一件は無事終わった。だが、この先君の行動で人の命が奪われることもあり得ることをもっと自覚しておくべきだろうな」

 ざわざわと揺れる木々のさやぎが、どこか不穏に響いた。それは秘め事を話す人の囁きにも似て、焦燥と不安を煽る。裏腹に仄暗い室の内、研ぎ澄まされた静寂が、僅かな距離で向き合う二人の間で固く凝っていた。

「聞きたいことがそれだけならば、私の用件を言おう。君を呼び出したのは頼みがあるからだ。君にはこれからも闇を祓うために力を貸してほしい」

 暫しの沈黙の後峰瀬が言う。呼び出された用向きを予測していたのか灰の顔に驚きはなかったが、一瞬何かを耐えるような表情が過る。

「無論、山に籠る闇を全て祓うことは到底できぬ。だが、闇の欠片であれば、君の力で消すことがかなうとわかったのだ。これからは敢えて封印を解き、闇の一部を放つ。それを滅することを繰り返せば、膨れ上がり増殖し続ける闇を徐々に減らすことがかなうのではないかと思う。言霊の呪で完全に抑えこめるほどに闇を滅すれば、危険は少なくなる」

 言われた少年は、僅かに目を見張った。

「そのようなことをすれば、命を削ることになります」

 峰瀬のことである。闇を放つために封印を解き、再度言霊の呪をかけるためには、峰瀬の条斎士の力では足りぬ。おそらく命を賭しての行為となる。それも何度も繰り返せば、いつまで体がもつかもわからぬだろう。

「それは私も覚悟のうえのことだ。どの道、闇を放置すれば、遠からず封印は破れる。当然言霊を魂に刻まれている私が真先に呑み込まれることになるだろう。そして多くの人々が命を失うことになる。それを防ぐためであれば、私の命をかけることなど如何程のものか。そもそも多加羅惣領家とは、闇から人々を守るために存在しているのだ」

 例え命を落としても――迷いなく言い切った峰瀬に対し、灰は俯いた。

「その稀有な力で人を救う、それができるのは君だけだ。何を躊躇うことがある?」

 峰瀬がそう言ったのは、灰が肯わなかったせいではなかった。少年の顔に過る苦痛の影に気付いたせいである。

「あの闇は、一体何なのですか?」

「前にも言っただろう。命を喰らい増殖する、いわば邪神だ」

「祭礼の日に俺が闇を滅したあの時、闇に呑み込まれた人の魂は、まだあの中に存在していました」

 灰の言葉に峰瀬が口を閉ざす。

 ――闇に捕われた命は、消えず存在していた。貪欲に命を喰らう闇の中、おぞましいばかりのその内は、しかし不思議なほどに清浄な空間だったのだと、そう言った灰は峰瀬を見据えた。

「闇を滅するとはつまり、それらの魂を消すことに他ならない。それが命を奪うということとどう違うのか……。惣領はそれを御存知だったのではないですか?」

 闇の本質を、言っている。命を喰らい、その魂を包含する。やがて魂は混じり合い、闇に溶けるのか、それはわからぬ。闇はすでにして異界――この現とは違う条理に支配された空間なのだ。魂に封印の言霊を抱き、闇そのものと最も近い位置にいる峰瀬が、それを全く知らないなどということがあるのか。

 果たして、峰瀬は淡々と答えた。

「闇に取り込まれた命が直ちに消えるわけではないことは私も知っていた。だが、それを言ってどうなるものでもなかろう。闇に喰らわれた人は、すでにしてその時点でこの世から消えている。魂はいわばその残滓、影のようなものでしかない。仮に魂が君の言うように存在している、生きているとしても、人として再び蘇らせることは到底不可能だ」

 冷やかに声は響く。

「君は何でも憐れむ性質たちらしいが、すでにこの世には存在しない者を憐れみ、うつつの命を危難に晒すことは賢明ではない。それどころか愚かしいことだ。過去に失われた者達よりも、未来に生きる者を救うべきだと私は考えている」

 灰は俯く。そのまま峰瀬の横をすり抜けた。峰瀬は振り返らぬまま、灰の言葉を聞いた。

「俺は惣領の言葉を信じることはできません。真実人を守るために闇を抑えるなら、闇を滅するだけでなく、闇から人を救う方法を何故探ろうとなさらない。これまでも、歴代の惣領が闇を抑えるために人を喰わせたことがあるのは何故ですか。人を守ると言いながら、人を犠牲にして、闇を封じる力を失いかけているという事実を、帝国中枢部に秘するためなのではないのですか? 俺には、どのような名目を掲げても惣領がただ惣領家という存在を守ろうとしているようにしか聞こえない」

 その欺瞞――峰瀬はゆるりと笑むと漸く振り返る。

「所詮、俺もそのための駒でしかない」

 呟き、灰もまた峰瀬を振り返った。その手に母親の形見である刀を握り締め、言った。

「闇は滅します」

 謁見の間で、あるいは告発者を明らかにせよと求めた時に見せた超然とした表情が、そこにあった。

「ですが、俺は多加羅惣領家の一族などというものに縛られるつもりはありません。俺のせいで誰かを犠牲にするようなことは、絶対にさせない」

 何を思うのか、峰瀬はなおも笑んだままである。しかし細められた瞳は洞のように、ただ暗かった。

「なるほど。その言葉、よく覚えておこう。全ては君の行動次第だ」

 灰は一礼すると扉へと向かう。その背に峰瀬は言う。

「君には闇を祓ったことに対する礼をまだ言ってはいなかったな。何か望むことはあるか? その身を呈しての働きに報いるものを与えたい」

 冷たい余韻を残すその問いに灰は足を止め、ゆっくりと峰瀬を振り返った。

 目の前の男に求められるままに多加羅へと来た。己が成したことへの悔いと、贖いと――決して忘れてはいけないものを心に刻みながらも、灰は思う。己の成すべきことは、己で決める。今、出来ることを、ただやるだけだ。灰は唐突にせんの顔を思い出していた。そして、例え一時手を差し伸べても、構造そのものを変えねば貧困から人を救うことはできないのだと言っていた仁識にしきの言葉を――

「ならば、一つ、惣領にお願い申し上げたいことがあります」

 灰は言った。



 秋連しゅうれんは物音に目を覚ました。いつの間にか机に突っ伏して寝ていたらしく、頭を起こせば首から肩にかけて鈍い痛みがあった。どこかでかりかりと、まるで引っ掻くような音がしていた。いまだ眠りに曇った意識を晴らすように大きくのびをすると、秋連は立ち上がった。読みかけだった書物を閉じると硝子筒を手に書庫を出る。

 どれほど眠ったのか、何やら夢を見ていたらしく、物悲しく悔いばかりがわき起こる、そんな感覚があった。しかしぼんやりとした夢の欠片を思い出そうとするのは、そのように目覚めるのが、大抵忘れ得ぬ大切な人が眠りの中にあらわれた時だからだ。

 一抹の懐かしさ――夢そのものは幸福なものだったのかもしれぬ――それも、まるで吹き散らされる泡ほどの儚さで消えた。

 一階におりて漸く物音の正体を知る。小さな窓、そこにしきりにぶつかる小枝がたてる音であった。風が強いのか、動きは忙しない。

 そういえば、いつかもこんなことがあった――秋連は思う。あの時は書物に夢中になり夜半過ぎに部屋へ戻ろうとしてその話声に気付いた。祭礼の前であった。

 そして、秋連には予感があった。それに導かれるように、部屋へ向かうのとは逆に廊下を進む。厨房の横にある貯蔵庫を通り抜けて普段は施錠してある外への扉に手をかければ、それは容易く開いた。

 思った通り風が強かった。身に纏う長衣が煽られる。山の木々が大きくどよめく様は、うねる波を思わせた。秋連は硝子筒を掲げると、ゆっくりと歩を進める。裏手から角を曲がると、屋敷の前の小さな広場に出る。昼間であれば、木の間から多加羅の街が垣間見える。そこに、立ち尽くす灰の後姿があった。

 気配に聡い相手は、しかし振り返らなかった。街はすでに眠りにつき、見えるのは渦巻く様相の空ばかり、それも厚い雲に覆われて今宵は星月も出ていない。闇だった。

 秋連は灰の隣りに立つと言った。

「眠れないのかい?」

 問われた方は漸く顔を振り向けると、首を振った。

風問かぜといに相応しい夜だな」

「風問い?」

「古の儀式だ。風に宿る神に真偽を問い未来を尋ねる。無論、今では禁じられた邪法だ」

「風に神が宿るとして、真実答えたのでしょうか」

「さて、どうだろうな。だが、いつの時でも自然に宿る神秘に意味を与えたのは人間だった。風は、ただ吹いていただけかもしれぬ。神とは人の願望のあらわれでしかなかったのかもしれぬな」

 硝子筒の炎が、頼りなく揺れた。びょうびょうと叫ぶような風の有様である。虚空を見つめると、まるで体が浮き上がるような不安定な心地を覚える。

「何か悩みがあるのかい? 私でよければ話を聞こう」

 なぜそのようなことを言ったのか、秋連は己でもわからなかった。どこか悄然とした様子の横顔が、あまりに頼りなく見えたせいかもしれない。あるいは、朝方に惣領からの呼び出しを受けた彼が、何を言われたのか、どこか沈んだ様子だったせいかもしれず、さらに数日前から様子がおかしかったせいだったろうか。

 灰の表情が揺れた。次いで逡巡、困惑――そして怒り、それらが目まぐるしく少年の顔を彩る。

 灰はただ首を横に振った。それが、悩みがないことをあらわしているのか、それとも悩みを秋連に言わぬという意思表情なのか、問わずとも秋連にはわかった。

「言えぬか……」

 言うはずもない、と思う。これまで敢えて口を閉ざし、手を差し伸べようとしなかったのは秋連である。もっとも差し伸べたところで灰が彼を頼るとは思えないのだが――。いずれにせよ、秋連の言葉はいわば暗黙のうちに築かれた不可視の境界を揺るがすものではあった。それ故の怒りであったか――

 と、強風に押し流される雲と雲の合間に、空があらわれた。真中に月が浮いていた。底の無い湖のようにぽっかりとのぞく深淵を、しんしんと輝く月が滲むような群青に染める。

千那夜ちなやの月だな……」

 ぽつりと秋連は呟く。

千那闇ちなやみに、青群れ集いて、天深し……」

「それは?」

「母が、歌っていた歌です」

 まるで漆黒の絹を折り重ねるように、波が繰り返し寄せるように、深みを増す夜の姿だ。その暗さ故か、時に冬へと向かうその空は絶望と苦しみの象徴でもある。そうであれば千那夜とは人の心の投影、その闇に重ねられるのは、ただ心の襞に秘められた思いであるのかもしれなかった。

 秋連が灰に視線を向けたその時、またも流れる雲に空が覆われた。あえかな光が遮られる一瞬、あらわとなった少年の表情を秋連は見た。そして、再び辺りは塗り込めたような暗さに沈む。

 言葉もない彼に、灰はふと視線を向けた。硝子筒の明かりに浮かび上がるのは、普段と変わらぬ落ち着いた表情だった。

「そろそろ寝ます」

 言うと、立ち去る。

 取り残され、秋連は立ち尽くす。動揺は思わぬ強さだった。月のいたずらか、束の間垣間見た少年の表情、虚ろに蒼然としたそこにあるのは、清浄とした普段の彼からは想像もつかぬあまりに荒んだ色だった。

 怒り――それは秋連に向けられたものではなかった。容赦なく、無慈悲なまでに冷徹に、それはあくまでも少年自身に向けられていたのだと、悟る。思わぬ秋連の言葉に揺れた、己への怒りであったろうか。そして、抉られ晒されたまま血を流し続ける傷跡のような、それはおそらく苦しみではあるまいか。

(私は一体何を見ていたのだ)

 悩んでいるらしいことはわかっていた。言えぬことがあることも知っていた。だが敢えて問わず、それで良いのだと――己は知らずとも良いことなのだと、視線を逸らしていた。少年が秘める強さをも言い訳にしていたかもしれぬ。それがどれ程に危うい強さであるのか彼自身気付いていたにも関わらず、見て見ぬ振りをしたのだ。

 蛇がとぐろを巻く、その様を思わせる雲が流れる。千那夜は遠い。あまりに遠く、暗澹としていた。

 予感はすでにあった。それでもなお目を逸らし、何を守ろうとしていたのか――答えは知れていた。とうに気付いていたことである。

 不意に秋連は歩き出す。硝子筒一つでは心もとない、蠢く木々に押し包まれ闇に沈む道を進んでいた。

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