42
喧噪と享楽が入り交じり、凝る闇は紫、時はただ灯された明かりの揺れに宿る。夜は紗に覆われたよう、その遥か上で移ろう月に人は気付かない。やがて光が全ての色彩を奪うまで、豪奢に装う者も襤褸に身を包む者も、ただ夢にたゆたう。
道を歩く若衆に、浮かれ酔う人々は一時目を奪われ、そして道を開けた。揺れ動く波にも似た群衆の間を進めば、やがて見える神殿前の広場は一際明るい。
広場を絶えず取り巻く人波もまた、彼らに目を止めてその歩みに道を譲る。
今しも歓声が沸き起こった広場では、見事な体躯の男が、桶程もあろうかという器で酒を飲み干したところだった。正面の惣領に大仰にお辞儀し踵を返した男は、広場へと踏み出してきた一団に――正確にはその先頭に立つ人物に目を奪われた。
峰瀬もまたその人物に目をとめ、鷹揚な笑顔を浮かべていた表情を引き締める。傍らで悠緋がひそりと呟いた。
「灰……」
少女の声音に籠る響きに僅かに意識を奪われ、そして改めて灰を見れば、否応もなく記憶の底に封じ込めた人の面影が重なった。少年は負った傷のせいか蒼白にも見える。晒された銀糸の髪も相まって、その姿は清冽だった。身に纏うゆったりとした衣は国境地帯のもの、白から水藍に、やがて天宵の深さに移ろう色彩が玉響に揺れ、見る者を惑わすかのようである。
灰が一礼する。傷を感じさせない滑らかな動きだった。その背後で若衆が一様に叩頭した。
「傷を負ったと聞いた。大事はないか」
「はい。儀式に参ずることができず、申し訳ございません」
「それは構わぬ。火つけの犯人を捕えたこと、見事であった。恙無く祭礼最後の日を迎えることができたのはお前のお陰だな」
「俺一人の力ではありません。來螺の人々と、ここにいる若衆の皆がいてこそ、犯人を捕えることができたのです」
交わされる会話は、静寂に包まれた広場に響く。
「闇は、祓われました。もう何も憂う必要はございません」
灰の言葉に、峰瀬は僅かに目を見開いた。込められた意味を正確に悟る。街に巣食う闇を滅したのだと、少年の言葉が告げていた。
「……一点でも闇の曇りがあれば、祭礼の華やぎも褪せる。人々が今宵を喜びのうちに迎えることができたのも、そなた達と來螺の者のお陰だ。心から礼を言おう」
言うと、立ち上がり杯を掲げる。
「私からそなた達に酒を振る舞いたい。杯を受けてくれ」
叩頭していた若衆達が驚きに顔を上げた。峰瀬の命に従い、下男達が灰と剣舞に参加した年長の若衆に杯を渡す。広場を囲む人々からも驚きのどよめきが上がった。成人に達さぬ若者が酒を飲むことがないわけではないが、このような公の場で惣領自らの言葉で酒を振る舞われることは異例だった。
「皆、立つがよい」
峰瀬の言葉に、ある者は平然と、ある者はおずおずと立ち上がる。注がれた酒と、雰囲気に誰もが魅され――そして峰瀬が高々と杯を差し上げる。
「そなた達の類まれなる勇気と洋々たる未来に」
一気に杯を干した惣領と若衆の姿に、人々から歓声がわき起こる。興奮が高揚を呼び、高揚が一瞬の幻惑にも似た陶酔に人々を引き込んでいた。
灰は、飲み下した酒の熱さと、その馥郁たる香りが体の奥底に落ち込むような感覚に惑う。引き込まれるように一瞬瞳を閉じ、再び男を見つめれば、相手もまた自分を見据えていた。
「今日は星見の塔に戻り、休め。暫し安静につとめ、傷を治すようにせよ」
その言葉に灰は一礼し、杯を下男に返すと、街の中心部に向かって広場を後にした。
迷いなくついて来る若衆の足音を背後に聞き、緩やかに上昇する道を歩く。次第に街は静けさに包まれていった。やがて最後の防壁の付近まで来れば、そこに人影はなかった。
漸く足を止め、灰は振り返る。無言で後に続いていた若者達もつられたようにその視線の先を追っていた。見下ろせば祭りは光の海に浮かぶ漁火のように、儚かった。
「終わったな……」
一人が言った。
「ああ。祭礼が終わった」
終わったのか――揺らめく幻は朝に終わる。そしてそれとともに彼らは何かを失う。安穏と享受し、あるいは無力感と安逸の中にあったもの、それが最早戻らぬことを感じ取っていた。
始まったのだ――そして誰もが心中に呟いていた。幼い者でさえ、敏感に察していた。茫洋としたその先は見えぬまま、だが慄くような心地の底にあるのは、確かに希望と呼べるものだった。
言葉もなく街を見つめる彼らの中で、灰もまた立ち尽くしていた。心中は麻痺したように凪いでいた。だが、それがほんの一時のことであるのを知っていた。――忘れるな、と告げた声が、繰り返し響いていた。忘れるな、と呟いていた。忘れてはならない。決して目を背けてはならない――そう思っていた。
そして夜は更けていった。
最後の一夜の泡沫は夜明けまでも続き、地平に白々とした光が差す頃に漸く人々は眠りに就いた。あるいは眠ることなく朝を迎えた者もまた多いが、明るく陽が昇るほどに祭りの後は心寂しく、どこかくすんで雑然としていた。
いつにも増して災禍と狂乱に満ちたその年の祭礼も、終わってしまえば残るのはそこはかとない感興と、興奮の名残ばかりである。
火つけの犯人が神殿の司祭であったことも、その劇的な逃亡と捕縛の一幕も、祭りの華やぎが過ぎれば、人々にはどこか遠い出来事である。それは神殿にとってはむしろ幸いであったかもしれない。
峰瀬は祭礼が終わった朝に、神殿からの書状を受け取った。司祭長自らが筆を取ったらしい流麗な書体には、真実相手が何を思うかまで読み取ることはできなかったが、一連の災禍が司祭の手によって起こされたものであること、そしてそれを気付くことなく見過ごしていた己の不明を淡々と詫びていた。司祭長その人が惣領家にそのような態度を示すことこそ異例であり、今回の事の重大さを窺わせるものであった。
尤も、再び捕われた火つけの犯人は、既に異端として聖遣使に引き渡されている。男を引き取った聖遣使は聡達ではなかった。聡達の思惑は外れた。だが、聡達が法術で灰を傷つけたことが、峰瀬は気になっていた。何を意図してそのような行動に出たのか――灰が怪魅師であることに勘付いたのか。しかし、その後聡達からの接触はない。いずれにせよ、今となっては多加羅がこれ以上火つけの一件を調べることは出来ない。権限を有してはいないのだ。真実は闇に、そしてやがては忘れ去られるだろう。
街に火をつけ人を殺した男は、貧しい生まれだった。両親は苦しい生活の中、五人の子どものうち末の一人を神殿に預けた。それが男であった。せめてそこならば飢えることもあるまいという配慮であったか、しかし、その後両親が子どもに会うことは二度となかった。
子どもには異能の力があった。おそらく人には秘して、幼い頃から火を操る能力を有していた。それが異端であることを子どもは知っていた。もしかすると両親も知っていたのかもしれず、それ故に恐れ、子どもを神の御手に任せたのかもしれない。
預けられた子どもは聡明であり、勤勉だった。神殿以外に行き場所のない己の境遇を知ってもいたろう。信心深さも群を抜いており、やがて幼くして将来を嘱望されるようになる。何の後ろ盾も持たぬ貧しい子どもが、そのような立場となるのは極めて珍しく、そしてそれだけに周囲の期待も大きかった。
だが、彼は成長するとともにいつしか心の内に闇を抱える。どれほどに信心しても、どれほどに努力を積み重ねても消すことができぬ刻印、異端の力を有するというそれに追い詰められていった。なぜ神に見放された異能であるのか――おそらく力を使わず無視することで苦しみから逃れようともしただろう。だが、不幸なことに怪魅師の力とは、その優れた感応力で自然そのものの力を感じ取り、一体化するものである。どれほどに無視しようとも、人には感じられぬものを感じ取ってしまう己に、いつしか男の精神は破綻していった。
やがて男は神の存在に疑問を持つ。深い信仰は疑念に、崇拝は憎悪と紙一重の怒りに変わった。これほどに神を信じ、努力を重ねている己になぜ異端の力があるのか。神が真実坐すのであれば、異端である自分をなぜ滅することをせぬ。それとも神などおらぬのか。
そして男は街に火をつける。その罪で、神の実在を試したのだ。神が真実己を断罪すれば人生をかけて捧げる信仰に間違いはないのだと――神に罰されて命を失うことさえ望んでいたかもしれず、その時すでに男は狂っていた。
決して語られることのない男の物語である。捕われた男がその後どうなったのか、人々が知ることはない。
車輪の軋む音が眠気を誘う。ゆっくりと流れる景色は広く、麗らかな日差しが暖かかった。葡萄色の大地は緩やかに起伏し、その向こうに見える端正な防風林が、物問うように揺れている。
叶は馬車に揺られながら、ぼんやりと遠くを見つめていた。胸に抱えた楽器を無意識に撫でる。彼女が乗る馬車は宿営所の道具を満載している。道具と道具の小さな隙間に芸能家達が思い思いに座り、うつらうつらと眠る者も多い。祭礼最後の夜は明け方まで興行を行う。皆疲れているのだ。
「叶」
呼び声に目を振り向けると、馬に跨った丈隼の姿があった。軽快に走り寄って来る。蹄の音が陽気に響いた。
「疲れてるだろう。まだかかるから、眠った方がいい」
「大丈夫よ。何だか眠るのがもったいない気がするの。景色がとても綺麗で……」
「そうだな」
言いながら丈隼も気持ち良さ気に目を細めた。祭礼が終わり早々に宿営所をたたんだ彼らは、今來螺への帰路の途上にある。祭りも終わってしまえば、遠く霞の向こうの出来事のようである。まるで夢のような、と叶は思う。
吹き過ぎる風に丈隼の鋼色の髪が揺れる。視線を前に向けたまま、丈隼が不意に言った。
「なあ、叶、來螺で生きるのが辛いか?」
「突然どうしたの?」
思わず叶は笑う。しかし見上げた顔の真剣さにその笑いを呑み込んだ。丈隼はなおも前方を見やったままだ。
「もし辛くて苦しいなら、俺が來螺から叶を連れ出すよ。どこかもっと静かで穏やかな場所……叶が幸せを感じることができる場所に、必ず俺が連れて行く。そしてそこで自由に生きるんだ」
真摯な声音だった。
「馬鹿ね……」
ぽつりと、呟くように叶が言う。それに丈隼は漸く彼女の顔を見た。
「俺は本気だ。心の底からな。どこであろうと叶を守る自信もある」
叶は空を見上げた。どこか遠く、見たこともない土地の上にも等しく広がる空である。彼女の髪を揺らした風もまた、遥か彼方まで走って行くのだろうか。
「丈隼、自由な場所なんて本当にあるのかしら」
「……」
「來螺で生きることがどんなに大変か、幼い頃から母親を見ていればわかった。芸能家が來螺から抜けるのは容易くはないわ。昔一緒に遊んだ女の子は今では裏側で体を売っている。私も、楽器を弾く手を失えば堕ちる場所はそこしかない。それでも……」
「叶」
遮ろうとする丈隼の言葉にも構わず叶は言った。
「自由っていうのは、どんな場所でも誇りを持って生きる、そういうことなんだと思うの」
「俺は叶が強いことは知っている。でも辛い思いはしてほしくないんだ」
くすりと叶は笑った。柔らかな瞳で丈隼を見つめる。
「ねえ、丈隼、あなた昔も同じこと言ったのよ。覚えてる?」
「……そうだったか?」
「そう。母が死んだ時。私答えることができなかったの。でも、今は違う。來螺で生きる自分に、少し誇りが持てる気がするの」
叶は徒な風に揺れる髪を片手で押さえた。その手を丈隼は見つめる。折れそうに細い華奢な腕、昨夜掴んだその感触を思い出していた。誰にも傷つけられることがないよう柔らかく抱き締めていたい、そう思わずにはいられなかった。――しかし脆く壊れやすく見えるその姿とは裏腹に、あまりに眩しい叶の強さである。
「私はあの街で生き抜いてみせるわ」
叶が微笑んだ。その笑顔に丈隼は目を奪われる。
「丈隼には、そんな私を見ていてほしいの。今までと変わらずに」
見つめられ、丈隼は頷いた。そして天を仰ぎ溜息をつく。
「参ったよな」
ぼやくように呟いた。
「俺としては一世一代の愛の告白だったんだがなあ」
「何て言ったの? 聞こえないわ」
丈隼は叶を見るとにっと笑んだ。
「叶と灰はよく似ているな」
「私と灰が?」
「そうだ。二人とも鈍さでは張るよな」
「どういう意味?」
「いいや、いいんだ。じゃ、俺前の方に行くから」
ひらりと手を振って遠ざかる丈隼の姿を見送り、叶は馬車の縁に背を預けた。顔を俯ける。そこにはまるで泣き笑いのような表情が浮かんでいた。
「本当に馬鹿なんだから。灰ほど鈍くないわよ」
呟きは車輪の音に紛れた。吹き過ぎる風は不思議と優しかった。彼方に遠ざかる多加羅の街は、もう、どこにも見えない。
男は昼間近に目覚めた。常に夜明けとともに起きる男には滅多にないことである。昨夜普段は飲まぬ酒を一人飲んだせいかもしれない。
いささかだるさの残る体に苦笑し、階下から聞こえる物音に耳を澄ませた。どうやら妻はすでに起き出し、しきりに動き回っているらしい。彼よりもよほど遅くに眠っただろうに、活発なものである。無論、それは結婚した当初から変わらぬ。彼の妻はいつも生気に溢れているのだ。
ゆっくりと階下におりると、卓の上にはあっさりとした食事があった。置き去りになっていた杯を見て、彼が珍しく酒を飲んだことに気付いたのだろう。胃に負担をかけぬものばかりである。
「起きたのね。よく眠れた?」
厨房から顔を出した妻が朗らかに言う。
「ああ、すっかり寝過ごしてしまったね」
「珍しく飲んだからよ、きっと。一人で飲まないでどうせなら街に繰り出せば良かったのに」
「いやいや、どうにも人いきれが苦手でね」
他愛無い会話を交わしながら男は椅子に座る。毎年祭礼を殊の外楽しみにしている妻は、深夜まで街に出て祭りの一時を満喫したに違いないが、その顔に疲れはなかった。
男は野菜の煮付けを口に運ぶ。まろやかにやさしい味付けだった。
「そういえば」
言いながら妻が彼の正面に座った。にこにこと笑いながら言う。
「昨日、今年の夏頃惣領家に来られた若様を見たのよ」
「ああ、何といったかな……」
「灰様ですよ。道すがら垣間見えたんだけど、何て言うか……まるで仙境の人のような雰囲気で、不思議な子だったのよ」
「それは……」
「何?」
「いいや、何でもないよ」
それはまたこの多加羅では生き辛いことであろうな――男は言葉を呑み込むと、妻が差し出した熱い茶に手を伸ばした。
「それでね、その灰様と一緒に須樹もいたのよ。何だか隆として立派に見えちゃって」
突然出た息子の名に男は目を瞬いた。
「剣舞も見事だったわね。いつの間にか大きくなったものね」
「ああ、今年の剣舞は良かったな」
男は頷く。息子が舞うようになってからは、剣舞だけは欠かさず見ている。
「そういえば須樹はどうしたのだ」
「あの子なら早朝から鍛練所に行ったわよ。錬徒になると何かと忙しいみたいね」
「そうか」
茶を口に含めば仄かに苦く、そして甘かった。暫し黙り、男はぽつりと言う。
「そろそろ弟子を取ろうかと思うんだ」
あら、と妻は言うと、驚いた様子もなく楽しげに言葉を続けた。
「じゃあ斜め向かいの末っ子なんてどうかしら。あの子、おとなしいけれど手先も器用だしとても頑張り屋なのよ。あそこの奥さんもこの子は職人向きだ、なんて言っていたから、頼んでみようかしらね」
「あの子ならば工芸家に向いているだろうな」
男も微笑むと、茶器を持つ自分の手を見つめた。長年金笹を触り続けた手肌は荒く硬い。節くれ立ったその手が、男には誇りだった。彼の息子もまた、誇れる何かを見つけたのだろうか。まっすぐに己を見返した瞳を思い出していた。そこに迷いはなかった。とうとう答えを出したのだと思い、微かな寂しさと密やかな誇らしさを彼は感じる。
そして、何も問わず――息子に後を継いでほしいと願っていた男の思いも、それに応えるか否か悩んでいた息子の姿も――ただ黙って見つめていた妻に、感謝の念を覚えていた。揺るぎなく寛容なその瞳を見つめ、彼は言う。
「なあ、あの子は……須樹は、いい男になったな」
言えば、妻はにっこりと笑う。
「そりゃあそうですよ。あなたと私の子供ですもの」
満ち足りた沈黙に包まれて、流れる時もまたまどろむようであった。