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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 かいが再び目覚めた時、辺りは夜の静けさに沈んでいた。一つきり灯された硝子筒の小さな炎が、かえって周囲の暗さを感じさせる。かの丈隼たかはやの姿はなかった。

 さほど長く眠った感覚はなかったが、夢も見ない深い眠りだったのか、疲労は減っていた。傷を庇いながら体を起こし、胸から肩にかけて巻かれた包帯に軽く触れる。鈍く引き攣れるような痛みはあるが、動くことができないほどではない。

 灰は寝台からおりると立ち上がった。くらりと一瞬地面が揺れるが、ふらつくことはなかった。裸の上半身に傍らの椅子にかけてある医術者の作業衣らしきものを羽織り、幕舎の外へと出る。

 幕舎は宿営所の奥まったところにあるのか、辺りは静かだった。灰がいるのは來螺らいらの人々が寝泊まりしている場所らしく、人がいないのも頷ける。離れて見える明かりは興行のための篝火だろうか。今頃は最後の興行が華やかに行われているのだろう。

 裸足のまま暫く歩くと宿営所の端へと辿り着いた。影となったなだらかな丘が連なり、満天の星空に寂々とした月がある。さらさらと音がしそうな光だった。

 どれほどそうしていたのか、さくりと、背後で足音がした。

「ここにいたのか」

 振り返ると丈隼と叶の姿があった。叶は舞台衣装を身に纏っているのだろう、華やかな薄手の衣が夜風にたなびいた。休憩の合間に灰の具合を見に戻ったらしい。

「寝てないとだめじゃない。幕舎に戻らないと」

 言いながら叶は灰の額に触れる。その顔が顰められた。

「やっぱり、まだ熱があるわ」

「もう大丈夫だよ」

 灰が笑いながら言うと、やれやれというように叶は首を振った。丈隼はそんな二人を微笑ましげに横で見ている。

「何よ」

「いや、いいもんだなと思ったんだよ。……昔に戻ったみたいじゃないか」

 答えた丈隼の言葉には、僅かな躊躇いがあった。ふと叶は黙り込み、灰と並んで夜の景色を見つめた。

「なあ、灰。俺はまだ答えを聞いていないんだがな」

 ぽつりと掛けられた声に灰は振り返った。丈隼がまっすぐに彼を見ていた。傍らの叶は何も言わない。おそらく丈隼は全てを叶に話したのではないだろうか、と灰は思う。姉のように灰を気遣う彼女に、知らせないでおくことはおそらく丈隼にはできない。知らされない苦しみよりも、知らされることによる苦しみの方がいいのだという、それは丈隼らしい人を思う気持ちのあらわれでもある。

「來螺に戻るかどうか……」

 戻れるのだろうか、と灰は思う。戻りたいかどうか、そう問われれば迷いなく戻りたいと答える自分がいる。しかし、それを口に出すことはどうしてもできなかった。変わらぬ笑顔を向ける叶と丈隼がいるあの場所へ――だが、灰の心は既に決まっているのだ。多加羅へ来ると決めたあの時に、引き返しようもなく進む道を選んでいた。

「俺にはお前が多加羅にいて幸せだとはどうしても思えないんだ。自分で選んだって言ってたけど、何故そうまでする必要がある。お前はまだ一人で立つことも出来ない存在だろう」

「そうだな……」

「だけど、多加羅ではそれは許されないんじゃないのか? お前を受け入れない連中の中で、異端であることを秘して……その力を利用して、危険に晒す奴らとともに生きるのか?」

「それははじめから覚悟していたことだ」

 穏やかな言葉に丈隼が黙る。閃くように夜空の片隅を影が渡る。優美なその動きは梟だろうか。人には見通せぬ闇――それを透かし見る生き物だ。

「灰、私の思いも言っておくわ」

 叶の静かな声が夜気に響いた。

「あなたは絶対に、來螺に戻って来てはだめ」

「叶……」

 驚きの籠った丈隼の呼びかけに、叶は振り返らなかった。強い瞳でまっすぐに灰を見つめる。

「もうあの街にあなたの居場所はないのよ。來螺は一度出て行った人間を、再び受け入れはしない」

「……」

 叶の澄んだ声に迷いはない。灰はただ黙って聞いていた。心の中は不思議に穏やかだった。

 その時背後から落ち着いた声が掛けられた。

「叶、そろそろ舞台の時間だ」

 さいが暗がりから姿をあらわす。いつからそこにいたのだろうか。叶は頷くと、一瞬灰の腕に触れ、そして踵を返した。

「丈隼、一緒に行ってあげなさい」

 采は言うと叶の後を追うその姿を見送り、灰を振り返った。

「少し、話をしようか」


 丈隼は叶の後ろ姿を追いかけながら心中の混乱を持て余す。前を歩く叶の歩みには迷いも躊躇いもない。灰に言った言葉と同じように――

 眼前にいくつもの篝火の明かりが見えた。叶が演奏を行う幕舎は目の前である。丈隼は思わず叶に呼びかけていた。

「待ってくれ。さっきのはどういうことなんだよ」

「言った通りよ。私は灰が來螺に戻って来るのは反対、ただそれだけ」

 丈隼は叶の腕を掴むと自分の方へと振り返らせた。

「俺が言ったことを忘れたのか? あいつは怪魅師けみしであることを利用されてるんだよ。それに惣領家にも街衆にも冷淡に扱われてる。あの怪我だっておかしいじゃないか。聖遣使しょうけんしが関わってるんだぞ。異端であることがばれたら殺されるだろう」

 叶は答えない。丈隼は苛立ちを感じた。

「叶はそんな中に灰を置き去りにして平気なのか? あいつがどうなってもいいのか!?」

「平気なわけないじゃない」

 呟くような声に、丈隼は息を呑んだ。叶の瞳が潤んでいた。だが涙は零れない。ただ、強く丈隼を睨みつけていた。その視線がふと落ちる。

「痛いわ。離して」

「あ……ごめん」

 丈隼は慌てて細い腕を離した。強く掴んだつもりはなかったが、白い肌がうっすらと赤くなっている。

「丈隼、私も灰に戻って来てほしい、そう思わないわけじゃないの」

「それならどうして……」

「來螺は、人を削る」

 囁くような声だった。

「そこで生きる人の心を削る。誰にも侵されたくない矜持を削る。命さえ……。私達はあの街では何かを削って、大切なものを奪われて、時には自ら捨てて、そうやって生きているの。そうしないと生きていけないの」

 丈隼はその言葉を聞く。ただ聞くことしかできなかった。

「來螺は、たくさんの人から削り取られ、奪われたものによって築かれた街なのよ。灰は確かに來螺に戻れば、今回のような目には合わない。周りの人から冷たい仕打ちを受けることもない。でもあの子は確実に何かを失うことになる。どれだけ苦しくても、自分で選択して、何かに立ち向かおうとしている、その心を自ら捨てることになるの」

 叶は顔を上げた。仄かに微笑んだ。透き通るように美しい笑顔だった。

「私は、灰にそんな思いはしてほしくない」

 丈隼には、何も言えなかった。


「傷は痛むか?」

「いえ、それほど痛みは感じません」

 采の問いに灰は答えた。采はそうか、と言うと懐から香草を取り出す。それを口に入れかけ、ふと手を止めると灰を見た。

「かまわんか?」

「いいですよ」

 香草は主に男性が好む嗜好品だ。口に含んで噛めば独特の刺激と香りがある。もっともその香りを好まない者も多く、それを慮っての采の言葉だった。采は香草を口に入れ、そして笑んだ。

「君のお母さんは香草が嫌いだった。面と向かって言われたことはなかったが、きっとやめてほしいと思っていただろうな」

「母を知っているんですね」

「ああ、私の見回りの管轄に楽都らくとが含まれていたからね。それに住んでいる家が近かったせいで、彼女が店の舞台に出る前から知っていた」

 采は昔を思い出しているのか、目を細めた。その目が灰へと向けられる。

「君は、彼女によく似ているよ」

「……そうでしょうか」

 思わず髪に手を触れていた。今は隠されていない。夜気に晒された髪は乾いて冷たかった。

「ああ、勿論外見のこともあるが、それだけじゃない。心の持ち方とでも言おうか。辛いことからも目を逸らさないでいられる強さ、そういったところが似ている」

「そうでもないと思います」

 その声音に、采は少年の顔をちらりと見やった。

「先の叶の言葉を責めないでやってほしい」

 灰は顔を上げると男を見た。

「彼女は君のことを思って言ったんだ」

「わかっています。それに俺はやはり來螺には戻れません」

「そうか」

 裸足の足が冷え、感覚がなくなっていた。それでも灰は立ち尽くす。采もまた黙って視線を遠くに投げていた。香草の香りが漂った。

「俺は辛いことからも苦しいことからも目を逸らしたつもりはありませんでした」

 不意に灰が言う。声は低く、感情を抑えつけるように静かな強さがあった。

「でもそれは違ったんです。やはり自分をどこかで守ろうとしていた。逃げ道を無意識に作って、自分にとって辛いことを見ないようにしていたんです」

 采は答えない。灰は言いながら、月を見つめた。その冷たく澄んだ光が、刃の煌めきを思わせた。その軌跡――母親を切り裂いた刃の鋭さだ。

 なぜ、母親が殺されたその記憶が曖昧だったのか。なぜ、聡達そうたつに刀を突き付けられるまで明瞭に思い出すことがなかったのか、今の灰にはその理由がわかる。あの記憶は彼にとって禁忌だった。目の前で母親を殺されたむごい光景を、幼かった彼が受け入れることができなかったせいもあろう。だがそれにも増して、思い出してはいけないと、無意識に目を逸らしていたのではないか。なぜなら、それは彼が犯した罪へと繋がる記憶でもあったのだから――

 采は問うた。

「君は、母親の命を奪った相手を、その力で殺したのか?」

 灰は男を見る。ただまっすぐに――そして言う。

「はい。俺が殺しました」

「そうか」

 采の声は淡々としていた。灰の力のことを知って、もしやと考えていたのだろう。男の尋常ではない死に様を――その亡骸を実際に目にしていたのかもしれない。

「俺はあの男を殺してからずっと、怪魅けみの力を使うことを恐れていました。また取り返しのつかないことをしてしまうんじゃないかと怖かったんです。でもそうやって逃げていても、この力で人を殺してしまった事実は消えないんです」

 まるで刻印のように、決して消えることはない。

「丈隼からだいたいの事情は聞いた。君が多加羅に呼ばれた理由も」

 灰は思わず采を見やる。それに、采は僅かに笑った。

「あいつを責めてくれるなよ。私が無理矢理に言わせたのだからな。他の者は知らぬ。他言はせぬと誓おう。だが、聞かせてくれ。なぜ君は辛い道を選ぼうとするのだ。なぜ多加羅に来たのか、聞かせてはくれまいか?」

「多加羅に呼ばれた時、怪魅師としての俺が必要だと言われて、それを拒めばずっとこの力から逃げ続けることになるんじゃないかと……それだけはだめだと思ったんです。でも……やはり俺はどこかでまだ逃げていて、目を逸らしていました」

 羽織る白い衣が頼りなげに揺れた。それが少年の心をあらわしているように采の目には映る。

「君はそうやって、ずっと過去に犯した罪を抱え続けていくつもりなのか?」

 問いはただ言葉の羅列でしかなく、しかし発すればたちどころに消しようもなく心に刻まれる。

「罪を犯す者は多い。だが、その誰もが君のように向き合うわけじゃない。向き合わずとも誰も責めない場合もある」

 例えば戦時のように、人が人を殺すことが必要とされることさえある。そして、例えば大切な存在を奪われた者が復讐をしたとして、それを正しいことだと信じる人々とているだろう。

 だが、少年が頷くことはない。采はもどかしさを覚えた。人は己を守ろうとするものだ。辛いことから自らを遠ざけようとするものなのだ。それは弱さかもしれないが、強さでもある。そうして築かれる生こそが人の在り方なのだ。

「君がそうやって罪を抱え続けても誰も救われはしない。君自身もだ。過ぎた過去を……過ちを忘れろと私には言えないが、抱え続けることに意味があるのか? 君が罪悪感からそうせずにはいられないだけならば、やめた方がいい」

「そして自分自身も見失うんですか?」

 問いに問いで返され、采は言葉に詰まる。向けられる瞳は静かに張りつめ、湖の水面を透かし見た時のような深さを感じさせた。烈しい炎を思わせた紫弥とは違う、その瞳だった。

「確かに罪悪感なのかもしれない。そうやって結局逃げているだけかもしれません。でも俺があのことを忘れたとしても、それで終わるわけじゃないと思います。ただ俺の一部になるだけです。知らないうちに、人を殺した自分も、その罪を忘れてしまった自分も、自分を許してしまった自分も、消えずに一部になってしまうだけです」

 人は変わるものだ。無意識にせよ、意識的にせよ。そして灰は言う。そのように自分自身気付かぬうちに変わってしまうのが嫌なのだと、どれほど辛いことであっても目を凝らし、己で己を見続けたいのだと――滾るように激しい少年のさがに、この時はじめて采は気付く。静けさのうちに秘められたそれに、幼さはなかった。

 そして自らの罪を購い続けるのか――問うことはもはやできなかった。

 空を見上げれば、問えない言葉と、やるせない思いばかりが胸中に渦巻いていた。

 冬が近い。遥かな高みは日を追うごとに深みを増し、夜は次第に長くなる。人は冬へと向かうその夜空を千那夜ちなやと呼ぶ。波にさらわれるように気付けば季節は巡り、広大なその循環の中で人はあまりに小さい。

「こんな所にいたんですか」

 威勢よく響いた声に静寂が破られた。振り返った二人に向かって、走り寄ってくるイーリヤの姿があった。

「幕舎に行ったけどいないし、どうしたかと思ったよ」

 灰に向かってにっと笑いかける。

「どうしたのだ」

「若衆の連中が来てるんですよ」

「若衆が? なぜだ」

「灰を迎えに来たって言ってました」

 黙って遣り取りを聞いていた灰は思わず目を見開いた。

「お前、何て顔してんだよ」

 イーリヤが笑う。肩を叩こうとして白々とした包帯に気づき、気まずげに手を握った。

「イーリヤ、若衆を応接用の幕舎に通しておいてくれ」

「はい。じゃあな、灰」

 駆け去っていくイーリヤから灰へと、采は視線を移す。

「多加羅へと、帰るんだな?」

「はい」

 答えに迷いはなかった。

「ならば衣を用意させよう。その格好ではいかんだろう。幕舎に戻っていてくれ」

 頷き歩きだした灰に、采は声をかけずにはいられなかった。

「良い仲間を持ったな」

 振り返った灰は一瞬言葉に詰まり、そして笑んだ。

「はい」

 少年が采にはじめて見せた笑顔であり、十四歳という年相応の表情だった。遠ざかる灰の後ろ姿を見送って、采もまた踵を返した。

 もう一話、と思いましたが、眠さに負けました。明日出来れば……。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!

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