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最果てに天深く  作者: 高原 景
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38

 ゆっくりと近づくもう一つの足音に、かいは顔をあげることができなかった。その灰の腕を、力強い手が掴んだ。引きずり起こすように立ち上がらされて、そこではじめて灰は丈隼たかはやを見た。正面から覗き込む真剣な表情があった。

「灰、答えてくれ。あれは、何だったんだ」

 思わず顔を伏せた灰に、なおも丈隼は静かに言う。問い詰めるでもなく、穏やかな声だった。

「お前はあの闇が命を喰らうと言っていた。あれが何なのかはじめから知っていたんだろ? なぜあんなもののことを知っているんだ。……お前は、多加羅たからで何をしているんだ?」

「何も……」

 呟くような答えに、丈隼が小さく溜息をついた。

「いいか、灰。俺はな、お前が奇妙な力を持っているのを知っていた」

 はっと灰が顔を上げる。それに丈隼は苦笑した。

「小さい頃あれだけ一緒にいて気付かないとでも思っていたのか? かのも気付いていた」

 一瞬の沈黙、そして丈隼は言った。

「お前は、怪魅師けみしなんだろう? さっきの牙蒙がもうもお前の力の一部なんじゃないのか?」

 肯うことなく、灰は視線を落とす。

「怪魅師は白沙那はくさな帝国では異端とされている。だから俺も叶も、お前が多加羅にいるのが尚更に心配だった。惣領家に怪魅師であることがばれた時にどんな目に合うか。でも、それは違ったのか。灰、多加羅惣領家はもしかしてお前の力のことを知っているのか? さっきの化け物のことをお前に伝えたのは惣領家の奴らだろう。その力でさっきの化け物を祓わせようとしたんじゃないのか?」

「丈隼、もうこの話はやめよう」

 灰は呟く。静かな丈隼の声に鋭さが籠った。

「やめるものか。紫弥しやさんを追放して、一度も手を差し伸べなかった惣領家が、なぜお前のことだけは呼び寄せる。異端の力を有する者が惣領家にいることが知られればただじゃすまないだろう。それにも関らずお前を呼び寄せたのはなぜだ? お前の力を利用するためだとしか考えられないだろう。それに、人を喰らう化け物のことを惣領家が掴んでいないはずはない。怪魅師が異端であることを逆手にとって、お前のことを脅しているんじゃないのか。無理矢理に危険なことをさせているんじゃないのか!?」

「丈隼」

 灰の声音に、丈隼はふと黙り込んだ。

「確かに、俺はあの闇を祓うために多加羅に呼ばれた。だけど、それは俺が自分自身で選んだことだ。惣領は、俺を呼び寄せる時に怪魅師としての俺を必要としていると伝えてきた。俺はそれがわかっていて、ここに来たんだ」

「なんで……!」

 言いかけた丈隼の言葉は、背後から聞こえた呻き声に遮られた。はっと三人が振り返ると、視線の先で地面に横たえられたイーリヤがもぞもぞと身じろいだ。

「イーリヤ! 気付いたのか?」

 三人は駆け寄りその顔を覗き込む。イーリヤもまたあの闇に一時とはいえ呑み込まれていたのだ。一体どのような影響が出るのか――見つめる三人の前で、イーリヤは目を開けると顔を顰めた。のろのろと手を頭に当てる。

「いっ……てえ」

「お、おい、大丈夫か!? 自分が誰だかわかるか!?」

 丈隼の言葉にイーリヤは顔を歪め、次いで灰は見やるとますます渋面になった。

「お前なあ……いきなり飛びかかるなよなあ。思いっきり頭をぶつけただろうが……」

 三人は思わず黙り込む。

「あの野郎、人のこと焼き殺すとか言いやがって……あの男はどうなったんだ?」

「……脳震盪、だな」

 イーリヤの問いには答えず、ぽつりと仁識が言った。どうやらイーリヤは男の下敷きとなって倒れこんだあの時に、頭をぶつけて気を失っていたらしい。それが幸いしたのか、それとも闇がもとより怪魅の力を有する二人を標的にしていたのか、イーリヤには何の影響も及ぼさなかったのだろう。何とはなしにほっと安堵の溜息をついた三人の顔を、イーリヤは訝しげに眺め、不機嫌そうに言った。

「なんか……お前ら、喜んでないか? 俺が酷い目に合ったってのに」

 災難ではあるにせよ太平楽に気を失っていたイーリヤの言葉に何とも言えない沈黙が落ち、取り繕うようにして丈隼が言った。

「そんなことはない。あの男のことは……もう大丈夫だ」

 丈隼に助け起こされたイーリヤは、壁際に蹲る男を見やり、目を見開いた。何かを言いかけるその先を、仁識の言葉が遮った。

「あの男は大分精神的におかしくなってたみたいだな。若様に抑え込まれた途端、あの有様だ。もう何もできはしない。自分のこともわからないみたいだからな」

 淡々と言うと、イーリヤの不審そうな表情には構わず、丈隼に視線を振り向けた。

「皆と合流して、とにかくこの地下道の出口を探そう」

「ああ、そうだな。じゃあ俺は皆をここまで呼んで来るから、待っていてくれ。大丈夫だとは思うが、男のことは頼んだぞ。松明は持って行くが、いいな?」

「ああ」

「あ、じゃあ俺も一緒に行く」

 ふらつきながらもイーリヤが丈隼の後を追う。それを見やり、灰は言った。

「丈隼」

 振り返る彼に、淡々と告げた。

「この先に、外へと繋がる場所がある。かなりの距離があるけど、皆にはもう大丈夫だと伝えてくれ」

 丈隼が灰を凝視し、そして言った。

「わかるんだな?」

「ああ」

 そうか、と言うと、丈隼はひらりと手を振って通路の先の闇へと歩いて行った。たちまち暗がりに浸された中で、灰は壁にもたれかかる。傍らで、仁識もまた無言だった。

 何も見えぬ中で、しかし灰には手に取るように辺りの様子がわかった。冷たい石壁を伝い意識の波を広げれば、その先に外気を、木々のさやぎを感じ取ることができた。うっすらと仄かな光の気配は、月のそれだろうか。

 限界まで酷使された精神は、眩暈を覚えるほど鋭敏に冴えていた。無理矢理にこじ開けたためか、意識を閉ざすことができない。とめどなく零れ落ちるように力の流出が止まらなかった。ちりちりと、蹲る男の気配を感じる。あまりに微かなそれに、きり、と胸の奥が痛んだ。

 ――俺が、消した。仕方がなかった。そうしなければ、闇の暴走は止められなかった。

 おそらく、男の精神は引き返しようもなくあの闇の内部に取り込まれていたのだと、灰にはわかる。あのまま何もしなければ、闇は仁識や丈隼へも襲いかかっただろう。だが、と彼は唇をかみしめた。あの時己は衝動のままに力をふるったのだ。何も顧みず、ただ滅することのみを考えていた。そして男の精神をも殺したのだ。それは、積み重なり築き上げられてきた人格を、一人の人間を殺すということに等しい。

 ――もっと、違うやり方があったのではないか。

 息苦しさを感じるほどに、凝る痛みがあった。胸の奥に巣食うそれを、引きずり出し、引き裂きたい思いに駆られる。痛みを感じる資格などないのだ、と灰は強く瞳を閉じた。

「若様」

 沈黙と静寂が分かち難くなるほどの時が過ぎた後、ひそりと声が響いた。仁識は何かを言いかけ、しかしふと黙る。続く声音は淡々としていた。

「私達がこの件に関わったことをまだ怒ってますか?」

 灰は虚を突かれる。

「怒って……?」

 僅かに苦笑する気配――

「気付いていないんですか。私達が協力を申し出た時、心底怒っていらっしゃるように見受けましたが」

「……」

「若様のことだ。大方私達に若様を助けるよう伝えた人物に対して怒りを感じたんでしょうが……私達はどちらにせよ、若様のことを捜すつもりでいたんですよ。若様が逃亡した犯人をそのままにしておくことはないだろうと思っていましたし、それこそ街中を見回ってでも捜し出して、一体何をしているのか洗いざらい話していただくつもりだったんです」

「なぜ……」

「私に関して言えば、若様がどのような方法で犯人を焙りだしたのか興味があったせいです。それに祭礼の一日目の朝に見たことも気になっていましたので。あの闇と若様が放った力が何だったのか……」

 蹲る男が身じろいだのか、微かに衣擦れの音が響いた。僅かに身を強張らせた灰の気配に気づいているのかいないのか、仁識は殊更に淡々と言葉を続ける。

「だが、須樹すぎ達はただ純粋に仲間を放っておけなかっただけです。あの連中は馬鹿がつくほどお人好しですからね」

「俺は、できれば皆のことは巻き込みたくなかったんです。それに、聖遣使しょうけんしが動くことまで読めなかったのは俺の落ち度です」

「先程犯人にしていた來螺が奉じた穂の原の話……やはり、術を込めたのは若様なんですね」

 どこか呆れたような響きがあった。

「若様はもう少し周りを頼った方がいい。何でも自分一人で背負いこむと、かえって事が悪くなることが往々にしてある。それにあのお人好しどもにはそんな気遣いなど無意味です。彼らは仲間が一人で苦しむのを見るくらいなら、自分達もともに苦しい思いをする方がいいと考える奇特な者ばかりなんですから」

「……なぜそこまでするんですか。そこまでしてもらうほどのものを俺は皆に返していない」

 心底不思議そうな呟きに、仁識は淡く笑んだ。もっとも暗闇の中、灰にはその表情は見えない。

「それは直接聞くんですね。だが、あるがままに人を信じる、それが彼らなんでしょう」

 仁識の言葉に、足音と話し声が重なった。若者達が漸く到着したのである。近付いて来る松明の明かりに地下道が仄かに浮かび上がった。イーリヤの興奮した声が、犯人を取り押さえた武勇伝を語っている。本人は気を失っていたのだが、まるで見ていたかのような口振りである。

「それでさ、灰が犯人に素早く飛びかかったんだよ。あまりの速さに犯人もあの奇妙な技が使えなくてさ、で、驚いた犯人が隙を見せたもんだから、丈隼と、あの……誰だっけ? とにかくあの若衆も飛びついて、それで取り押さえたんだ」

 そういうことになっているらしい。

「お前は気を失っていたがな」

 にべもない丈隼の言葉が後に続き、気を失っていても音は聞こえていたんだ、などとイーリヤが無茶なことを言う。

「丈隼が回し蹴りをして、あの若衆が投げ飛ばしたんだろ?」

 灰の隣りで仁識が憮然と呟いた。

「私は投げ技は好かぬ」

 丈隼が適当な話をでっち上げたのだろう。イーリヤが多分に誇張しているようだが、どれほど誇張しようとも、真実起こった出来事には遠く及ばないだろう。

「二人は無事なんだな?」

 須樹の言葉だった。その後に冶都やとの声が続いた。

「あの二人は何かと無謀なんだよ。やはり俺達も追うべきだったな。放っとくと何をしでかすかわからん」

「……お前にだけは言われたくないぞ」

 さらに憮然と仁識が呟いた。だが、ふと小さく笑むと、灰を振り返る。

「さて、武勇伝の主役がいつまでも隠れていては様になりませんね」

 通路へと踏み出した二人の姿に、いち早く気付いた冶都が、おおい、と手を振った。須樹もまた安堵したような表情でこちらを見ている。晴れ晴れとした若者達の視線が、まっすぐに向けられていた。

「怪我はないですか?」

「無茶ばかりしないでくださいよ。気が気じゃなかったんですから」

「心配しましたよ」

「仁識さんも大丈夫ですか?」

 口々にかけられる声は、真実二人を気遣う温かなものばかりだった。

 立ち尽くす灰の傍らを仁識が通り過ぎる。ひそりと、笑みを含んだ声が残された。

「若衆も、捨てたものじゃないでしょう」

 半身を冷やかな闇に浸したまま、灰は近付く明かりを見つめていた。温もりが辺りに広がる。裏腹に、片隅に凝る影は尚更に深く、くっきりと浮かび上がっていた。


 光が見えたのは、それからかなりの距離を歩いた後だった。

 火つけの犯人を連れての歩みである。両脇から冶都と丈隼が男の腕を掴んでいるが、男は引かれるままに足を運ぶだけで、抵抗する素振りも見せなかった。はじめこそ男を警戒していた若者達も、やがて男が無害であるとわかったらしい。無意識であるにせよ、男を男たらしめていたものが消えたことに気付いていたのかもしれない。

 地下道はいつしか土肌が露出し、大地の匂いが籠っている。水の流れに沿い、湿った足音を響かせて歩く若者達の中で、最初にその光に気付いたのは先頭を行く自警団の一人だった。

「見ろよ! 出口だ!」

 指差し叫ぶ。地下道が途切れ、柔らかな光の帯が幾筋も暗がりに差し込んでいた。払暁の、淡い光である。その中へ、吸い込まれるようにして水は流れている。

「やったああ!」

 叫んだイーリヤが真先に走り出し、若者達がその後を追った。白い光が彼らを包み込む。

 地下道の出口は苔生した大きな岩に半ば塞がれるようにしてあった。人一人が通り抜けられる隙間があり、一歩踏み出せばそこは緑が生い茂る急峻な斜面となっていた。岩の下にある空間を奔り抜けた水が、音をたてて流れ落ちている。木々が、透徹とした空気の中、伸びあがるようにして空にその枝をのべていた。涼風に揺れる葉は、冬に向けてどこかくすんだ色合いである。透かして見える空は高い。夜と朝の狭間できらきらと光がしぶき、ひんやりと冷たい大気の中に彼らはいた。

「どこだ、ここは」

 勢いよく飛び出し、そのまま斜面を滑り落ちそうになったイーリヤが、体勢を崩しながらも辺りを見回した。

「ここ、多加羅の裏手の山じゃないか? 見ろよあの川」

 若衆の一人が指さす先、斜面の下には、清流があった。地下道からの水はそこへ流れ落ちている。絶え間ない水の音が響いていた。

「多分あれは金笹きんざさ農家が農業用水に使ってる川だ。ほら、街の外を流れる川があるだろ?」

「ああ、確かに山から流れ出ている川が一本あったな」

 言いながら、足場の悪い斜面からぞろぞろと下の方へと向かった。清流のほとりに立つと、地下道の入口は下草と、ごつごつとした大きな岩に阻まれてほとんど見えない。よほど注意深く目を凝らさなければ、そこに街の下を縦横に走る地下道への入口を見つけることはできないだろう。これまで発見されなかったはずである。もっとも多加羅の裏手の山に人が踏み込むことは滅多にない。踏み込むべきではないという思いが多加羅の街衆にはある。かつて神が坐す聖地とされていた時代の名残であるかもしれない。

「大したものだ。これだと誰も気づかないだろうな」

 半ば感心したように須樹は呟くと、さて、と周囲を見回した。

「一旦山を下りて、門から街に入るしかなさそうだな」

「まだ歩くのか……」

 げんなりと呟きながらも、若者達の顔はどれも明るい。地下道から出ることがかなわぬのではないか、誰もがそう思わずにはいられなかった暗闇での一夜である。その恐怖が朝の陽光に溶けるようにして消えていった。川伝いに進む足取りも、心なしか軽い。

 灰は若者達の最後尾を、男を引き連れた丈隼と冶都とともに歩いていた。できればこのまま倒れ込みたいほどに疲れていた。

「犯人も捕えることができたし、これで剣舞つるぎまいも何とか無事できそうだな」

 冶都が目を細めながら言った。

「ええ、間に合いそうですね」

「まあ、それもあるんだが、仁識の奴が中央の舞い手をこれで務めてくれそうだからな」

 灰は僅かに首を傾げる。話の道筋がわからなかった。その表情に気付いた冶都がにやりと笑うと、声を潜めて言った。

「あいつはな、お前一人を放っておいて、犯人を見過ごしにしてまで舞い手を務める気はないと言い張ったんだよ」

「本当ですか?」

 灰の声音がはからずも非常に疑わしげなものになったのは無理もなかった。仁識の話では、彼はさほど灰の身を案じていなかったはずだ。

「あ、お前信じてないだろう。無論、俺達はお前に協力するつもりだった。だが仁識は剣舞の花形だ。何かあっては事だからな、自重するように言ったんだが、聞こうともしない。挙句、お前達が反対しようとも私は私のやりたいようにやる、なんてぬかしやがる。まるで駄々をこねるがきみたいな有様だったぞ」

 灰は思わず前方を歩く仁識の背を見た。疲労を感じさせぬ身軽な歩みで、歩きづらい岩場を下っている。

「冶都、声がでかいぞ」

 少し前を歩いていた須樹が、振り返ると呆れたように言った。奇妙に顔が歪んでいるのは笑いを堪えているせいなのか、その瞳はどこか楽しげだ。

「げ……聞こえたかな」

 無論、先を行く仁識に、である。森閑として澄んだ山の大気に、冶都の声はよく通る。

「聞こえただろうな。駄々をこねるがきとは……後で覚悟しておいた方がいい。仁識は怒らせると怖いぞ」

「いや、聞こえていないだろう。聞こえていたなら、いつものようにすぐさま厭味の一つでも言うはずだ」

 往生際悪く冶都は言い募る。

「……俺が言われた立場なら、この場合恥ずかしくて振り返ることもできんと思うぞ」

 丈隼が冷静に呟けば、おもむろに須樹が頷いた。

「俺はさすがに仁識に同情するぞ」

「おい、二人して何なんだよ」

 情けない冶都の声音に、須樹と丈隼が笑い声をあげる。それに驚いたのか、茂みから山吹色の鳥が飛び立った。灰は柔らかに響く笑い声を聞きながら、ふと仁識の言葉を思い出していた。

 ――若衆も、捨てたものじゃないでしょう――

 すとんと、胸の奥にその言葉が落ちる。なぜ、自分のためにそこまでするのかと問うた灰に、仁識は答えなかった。だが、答える言葉がなかったのかもしれぬ。理由などなく、ただ手を差し伸べずにはいられなかったのだろう。

 人と人は重なり合うようでありながら相容れない。隔絶して孤独である。だが、あるがままに相手を信じる、そんな関係もあるのだと仁識は言ったのだ。何を選び、如何に行動するか、どのように人と対し、信じるか――そこに投影されるのは相手から与えられる何かではなく、自身が望み、掴み取る信条であり、生き様である。そしてそれはおそらく己という存在を象るものとなる。

 思うままに歩けば、漸く山の麓に辿り着いていた。なだらかな斜面をくだり、木々の間を抜けると、そこは広々とした金笹きんざさの畑に面している。大方の刈り入れがすんだ畑は豊かな土壌を晒し、左手には端然とした多加羅の街が聳えている。川は畑に沿うようにして滔々と流れ、小高い丘の向こうに消えていた。その手前には來螺の幕舎が、移ろう光を映して佇んでいる。

「街だ……」

「やったな……」

 安堵のあまり虚脱したように若者達が呟いた。

 灰もまた、広い景色を見つめる。風が渡っていた。まだ地平線に程近い太陽は奇妙なほど熱を感じさせず、静かに滾っていた。東の空は渦巻くように薄紅と碧が混ざりあい、ところどころ透けるような琥珀に染まっていた。はじまりの色彩でありながら、秘められた夜を思わせる。

 果てしない空の移ろいの前に立ち尽くしていた灰は、ふと震えるように揺れる微かな気配に気付いた。感覚は冴えていながら、鈍麻したように体がついていかず、僅かに反響を残すその気配がしかとは掴めなかった。振り返れば、鬱蒼とした木立があるばかりだ。

 その奥に何かが、と思う間もなく空を奔ったものがあった。咄嗟に身をよじる。だが、空間を穿ち切り裂いたそれは、右胸を掠め、肩を抉っていた。

 血がしぶいた。それが血であることを、鮮やかな色彩で知る。不思議と痛みはなく、焼け付くような熱さを感じた。咄嗟に手で押さえれば、指の間から紅が零れ落ちる。零れ落ち、赤茶けた大地に沁み込むのをぼんやりと見ていた。出血が多い、と思い、太い血管が傷つけられたのか、と奇妙に冷静に考える。彼の名前だろうか。叫ぶ声が、遠く聞こえた。視界がないで、地面が揺れたように思った。

 刃と化した空気、それを放った存在が、まだ木立の向こうにいるのがわかった。言霊の余韻が、淡く揺れていた。その姿を求めて顔をあげようとしてかなわず、灰は訝しく思う。誰かの手が支えるようにして腕を掴んでいた。耳元で話しかけられているのに、その声はやはり遠い。

 声を出そうとすれば、息の合間に掠れたような音しか出なかった。それでも必死に言葉を紡ぐ。

「気を……つけて……あいつが、いる」

 目の前が暗くなる。腕をあげようとしてかなわず、流れ落ちる血に真赤に染まった手が、だらりと力無く地面におちていた。

 伝えなければ、という思いばかりがあった。そしてその名を呟き、自分の体がなすすべもなく倒れ込んだことにも気付かぬまま、灰の意識は闇に閉ざされた。

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